2012年7月20日 (金)

アメリカ(人)のダブルスタンダードの理由は?

橘玲さんは『(日本人)』で、アメリカ人がTPOによって異なるスタンスをとることを紹介してます。ローカルルールとグローバルスタンダードの使い分けです。それはダブルスタンダードでもあるでしょう。

アメリカ人が相対(一対一)で発揮する傲慢なその態度は、ローカルルールによるもの。しかし、アメリカ人が3人以上の多様な人種間で発揮する態度は、グローバルスタンダードによるもの。

 ローカルな自分を基準にした自己チューなエゴは、まるで子供のようなものかもしれません…他方、グローバルには、ある基準を設けて自らも他者もそれへの帰依が要求されるもの…。

 1人のアメリカ人がTPOの違いによって2つの異なるスタンスを示す…その理由は何なのか?
 ある意味で、多重人格でもあるかのように、異なる態度を使い分けるアメリカ人…。
 ほとんどの人が、このアメリカ(人)の態度に戸惑うのかもしれません。(TPPをはじめ国際紛争などでも、多くの場面で、これらのアメリカの姿勢はわかりにくいものがあり、また時には明白に間違ってもいます。ベトナム戦争では戦争を開始したマクナマランが戦後に間違いを認め、イラク戦争では戦争をはじめたラムズヘルドが終結前に間違いを認め辞任しています…

●アメリカは狂っている?

 この異なる2つの態度について、どう対応するか、まとめて語ったようなコメントをTVで見たことがあります。現防衛大臣の森本敏さんが、以前朝生TVで“アメリカは狂っているが、ついて行かなければならない”と発言してました。ボクが興味をもったのは、“アメリカは狂っている”という指摘。(アメリカについて行かなければならない…というのは以前から共産党が激しく批判していた対米従属そのもの。日米軍事同盟といいながらも地位協定によって主従関係である以上、日本には自立した決定権がありません。これについては共産党のオリジナルな見解からはじまった対米従属論がいまやスタンダードになって左右の別なく広く認知されています

 問題は“アメリカは狂っている”の中身。いったいアメリカの何が狂ってるのでしょうか?
 あるいは狂っていなくても、日本サイドがそれを理解できないために“狂ってる”と感じるのでしょうか?

 世界最大の国家が狂っていたら、それは大変なことです…。
 アメリカのドコが狂っているのか? ナニが狂ってると思わせる原因なのか?
 自分がアメリカに興味をもったのは、これがキッカケでした。

 (祖父が仕事でアメリカ視察に行こうとしたらアメリカから断れたことがあるそうです。以前は“太平洋戦争の兵役経験者はアメリカに入国できない”という決まりがあったらしく、確実にある種の人々の間では戦後が続いていたということなのでしょう

●狂って見えるワケは?

 アメリカがどう狂っているか、なぜそう見えるか?…は、とても難しい問題…ですが、アメリカが狂っているという中身は別として、ひとつのヒントがありそうです。

 自己チューで子供のような態度と、グローバルを基準にした、マイケル・サンデル白熱教室のテーマになるような…普遍的な正義を主張する…態度。この2つの態度の違いを考えていて、ある理論を思い出しました。吉本隆明さんの思想です。特に政治や国家を扱った共同幻想論が関係ありそうな気がしました。

 相対の態度というのは、文字通り相対(一対一)の場合の態度で、これは吉本理論では<対幻想>と呼ばれるもの。3人以上の場合というのは<共同幻想>と呼ばれるもの。前者は親しい間柄に特有のもので、後者は公的な関係でのもの。前者は自己チューで自己認知を求めるようなスタンスが主であり、後者は公や共同体のために自己規制したりボランティアなど負担をおうものです。
 意外なことに、吉本隆明さんの理論では、アメリカのダブルスタンダードを理解するのがそれほど難しくはないような気がしました。

●日本の問題としては…?

 アメリカが2つのスタンスを使い分けているらしいことは解ります。
 あらゆる人種と言語、祖国や母国ベースでは対立する民族や宗教さえ混在し、一緒に暮らしています。この常態化したコンフリクトのなかで生まれたのが、ダブルスタンダードあるいは2つの立場を使い分けることではないでしょうか。

 誰でも自らのローカルなコミュニティーでは自己チューで、差別的(人種などの)な発言などもジョークレベルならば許される。しかし、多種多様な人々が出会う公的(あるいはグローバル)な場所では“普遍的な正義”が主張され、誰もがそれを本気で尊守する…。

 

シアトルは全米で唯一の白人とネイティブが一緒につくった街だそうですが、マリファナの扱いやネイティブの権利など自由や個人の裁量権が大きく、また親日的な街でもあるようです。死刑をめぐっても州ごとにまったく違う憲法をもっているアメリカ。日本の対外的な態度、そのアメリカに対するスタンスなどは、これらアメリカの特徴と比べてどのようなイメージ、あるいは“価値”を体現しているのでしょうか?



           
(日本人)

著:橘 玲
参考価格:¥1,680
価格:¥1,680

   

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2011年12月31日 (土)

96、97年ピーク以降下落し続ける理由…『デフレの正体』

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●全数調査データによる圧倒的な事実!

 2011年の元旦、日本のこれからを考える経済番組で希望や可能性を語れる論者として紹介されたのが著者のマスメディア初登場。バブル崩壊後は大部分の論者が政治や社会を批判するばかり、そうでなければ意義不明の御用学者…という情況の中での新鮮な登場。日本全国ほとんどの自治体を歩いて回った著者の説得力ある主張にメディアが注目したのでしょう。現場からの見解であり、参照するデータも全数調査でもれがない全国規模のデータばかり。何らかの理論や先入観による言説ではなく全国の現場を直接見て、全国規模で長期スパンのデータとつき合せて考えられたのが本書の内容です。

           
デフレの正体  経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

著:藻谷 浩介
参考価格:¥760
価格:¥760

   

 本書のベースになっているデータの特徴は以下

  ・ソースはネットで公開されているものだけ
  ・全国調査のものだけ
  ・数値は絶対値のものだけ
  ・スパンは長期のものだけ

 『デフレの正体』で扱われている数値は全数調査のものばかりで調査対象の漏れがありません。全国を範囲とし対象となるもの全てが把握されている数字です。マーケテイングという名目で限られた範囲しか調査していないものとも根本的に違います。しかも変化率や対前年度比などの相対的な数値ではなく、個別の絶対数を長期にわたって把握したもの。それは事実を見るという一点にフォーカスしたスタンスのものです。
 統計値といいながら率(確率・変化率)しか見ない近視眼的な評価は除外されています。統計の本来の意味は揺るぎない絶対値を把握することであってスパンを限ったナントカ率で思考停止に陥ることではないからです。

 20年間も景気が浮上しないという事実から、基本的に既存の経済のあり方が通用しなくなってきていることを念頭に現行?の経済学にも否定的です。まず現実を把握する…そこからノンジャンルで思索している著者は長期スパンで全国規模のある変化があることを発見…それが「人口の波」です。

●96、97年をピークにすべてが下降へ

 経済産業省の商業統計をはじめ、書籍・雑誌の売上、貨物総輸送量、旅客輸送量、ビールの販売量、1日あたりのタンパク質の摂取量や水道使用量…など多くの統計から導き出された共通の傾向があります。96、97年をピークに減少しはじめたという事実です。これこそが「人口の波」に影響されて変動する経済をはじめとした変化の現れでした。コンドラチェフの波以上にリアルなのは確か。

 小泉竹中路線の構造改革で格差が拡大した!という批判がよくあります。経済的に期待されたトリクルダウン効果がなかったのが原因ですが。そのいちばん大きな要因が「人口の波」だったのを著者はデータから読み取りました。私見では97年橋本内閣による消費税増税が、ようやくバブル崩壊から回復しそうだった景気の芽をつぶしてしまった事実はとても大きいと思いますが、もっと根源的な原因が「人口の波」だったのです。

 著者がマクロ理論に対して挑発的なスタンスなのは確かですが、ツラレた人間が多いものも確か。本書に対する「経済学的には、誤りだらけの本です」という経済学信奉者からの批判は、逆に経済学(その信奉者にとっての)が誤りだらけだということを証明してしまっているかもしれません(バブル崩壊以降の失われた20年間のあいだ無力だった言説(経済学?をはじめ)は無能無効であることは否定しにくいもの。すべてが日銀や政府だけの責任であるわけもなく、そういう状況下でまず的確な現状認識を示した本書は貴重です)。少なくともそれは私が知ってる経済学(剰余価値や限界効用といった価値を追究する学問)とは違います。本書のようにフィールドワークによって現実を直視した見解と、帳簿と簿価は普遍かつ不変だと思い込んで三面等価理論やマクロ経済学を教条としてしまっている立場と、どちらを一般の読者は評価するでしょう。50万部を超えて売れ続ける本書が照らし出すのは不況の現況や原因だけではなく、ネットで顕在化するイタイ言説や歪んだ認識の多さでもあるのかもしれません。

●理論ではなく現実をみる人たち(当たり前だけど)

 『デフレの正体』の特徴は繰り返しますがデータが全数調査、全国規模、長期間の変化というもの。全国規模で大きく長い変化を反映したものだといえるでしょう。
 本書が提起した「人口の波」の問題と関連する経済学上の考察が「世代会計」。この「世代会計」に基づいた本が『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木)です。 重要なのは基本となる公的なデータ。そのデータを作る官僚の立場にいた著者の『ワケありな日本経済ー消費税が活力を奪う本当の理由』(武田知弘)は大企業の莫大な社内留保金についても言及している唯一の経済書かもしれません。日本のバブルとアメリカの関係など興味深い見解もあります。
 以上の3冊はバブル崩壊以降の日本の社会・経済をめぐる状態について現実を直視した必読の本。ナゼだか3名とも経済学者ではありませんが…。

 経済の大きな動因ともなる政治的なファクターも含めてグローバルなレベルから日本と世界を俯瞰しているのが『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫、萱野稔人)。イラク戦争がドルをめぐる戦いだったこと、日経平均株価がアメリカに左右される理由などラジカルな見解が続き、また3.11へ臨んだ日本人の姿勢に世界に冠たるものになる可能性だどが類推できる内容になっています。

 『デフレの正体』をはじめ以上は理論ではなく現実を直視するためには必読の4冊です。豊富なデータを読むだけでもためになります。また数値だらけのような読みにくさもありません。
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スルドイ書評で人気のweb「404 Blog Not Found」のコメントが「人口の波」などについても参考になります。

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2010年12月26日 (日)

了解の予期から権力…

           
システムの社会理論―宮台真司初期思考集成

編集:現代位相研究所
参考価格:¥3,465
価格:¥3,465

   

宮台真司さんの理論(<了解>を媒介にした)や吉本隆明さんの理論(幻想論=上部構造論)を参考に権力の簡単な説明をしてみます。

  AはBにプレゼントしようとする…

という状況で何が生じるか?

Aには「Bにプレゼントしよう」という気持ちがあり、Bが何も知らない現段階ではBがそれを受けとるかどうかはAには解りません。

この時、Aを拘束する判断が生じます。それはBの対応が未知であるからです。

Bが「受けとる」か「受けとらない」かは、Aには予期できません。

受けとってくれればウレシイし、受けとってくれなければ気まずくなる。Aは自ら意図したプレゼントによって自らがワクにはめられてしまいます。

しかも、この未知の可能性(Bが受けとるかどうか)は現段階ではA自身が想像するものであって、Bそのものの意志とは何も関係ありません。

つまりAは自分で描くBの対応像によって自縛されるワケです。そして、Aは事実上Bに関係なくB像によって左右され、支配される立場に置かれてしまいます。

どこにも支配の意図はなく支配者であろうとする者もいないのに、Aは拘束され支配されてしまいます。Aは自ら支配されていくことになります。
Aの「プレゼントしよう」という意志と意図された行動が自らが拘束される発端となるワケです。

ここに支配者なき支配がはじまると考えられます。

誰も権力者などいないのに権力が充満する状況。つまり、現在の状況?(情報自由論by東浩紀さん)が生まれるワケです。

       -       -       -

宮台真司さんは『権力/何が東欧改革を可能にしたか』(91年)という社会学の論文の中でその2年前に刊行した『権力の予期理論』(89年)の手法を応用し「草の根の権力」といった「正統な権力」を成立せしめるファクターについて説明しています。

  「どんな人間同士でも、2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」

と「草の根の権力」について喚起し、

  「国家権力や企業などの組織権力のような、強力で組織に裏打ちされた権力も、
  実はそうした草の根の権力を、独特の技術を用いて選別し、集約した上で、安定化
  させたものなのだ」

と「正統な権力」について説明しています。

これを読んで咄嗟に思い浮かべたのが埴谷雄高をはじめとするいくつかのファシズム論。ファシズム論は究極の権力論でありナチスやスターリンはもとよりポルポトから現代の官僚の権力を保障する制度まで分析できる可能性を持っています。身近なところではワンマン社長の存立する理由から家族における父性・父権まで説明することもできるでしょう。

それらを含めて“力の場”を構成するものを微分すれば支配‐被支配、権力‐被権力といった2項に収斂すると考えられます。そればかりかフロイトにおける対幻想から吉本さんにおける幻想論まで、この2項というファクターは基本単位でもあります。宮台さんはそれを社会システムを構成する最少単位として抽出し、その機能関係から解き明かすことを試みているワケです。

「2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」と宮台さんが指摘するとおり、政治や企業といった「正統な権力」からコギャルとオヤジの関係までを透徹して認識する権力論。「2人」であり「出会い」であればそれは吉本さんの対幻想論マルクス『経済学・哲学草稿』でいう男と女の関係も同じ…。そこには「悪魔の理論」とも呼ばれるらしいルーマンを含めて、宮台真司さんの方法の可能性を探る楽しみもあるでしょう。

(1997/9/10~12/20,2010/12/26)

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2010年10月24日 (日)

「一週間de資本論」&「超訳『資本論』」

好評?だったらしいNHKの「一週間de資本論」。講師はマルクスオタクの的場昭弘さん。ワープアや世界不況、金融破綻からマルクス本ブーム?資本論ブームといわれだした中でそのブレークのキッカケの一つが的場さんの本「超訳『資本論』」。資本論のガイドや入門書はいくつもでているけど「超訳『資本論』」は偏りのない解釈と現実の具体例を多く反映させたことで注目されました。さらに重要なのは、ここなりにプッシュすると世界経済の混乱の解決の可能性を世界そのものに見出そうとしているのがこの本。個別国家の解消とEU全体の統合を目指してきたジャック・アタリが「一週間de資本論」のオープニングとエピローグに登場したのも同じ理由です。

「経済とはモノを媒介にした人間関係だ」と経済学の講義を受けてきた自分にとって「超訳『資本論』」の「資本主義とは、人間関係である」という指摘は親近感があって反経済反資本主義という流行や新たな信仰のなかでますます新鮮な感じがしたりします。

さらには<すべての関係は意識である>と資本主義からサブカルや恋愛までも射程している吉本隆明さんの幻想論上部構造論=共同幻想論の進化版?だという事実は、いまこそ納得できる感じも。
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●現在を「知る」ためという一点で書かれた本。「知った」後は…どーするか、が問題?

 最近の書店の隠れヒットがマルクス本。本書はニューアカブームの仕掛人(『構造と力』のプロデューサー)でもあった今村仁司『マルクス入門』とともに評判の入門書だ。いかなる解釈も解釈者の能力やTPOに規定される(党派的な限界でしかない)が、本書は分かりやすく現在の状況をも反映したものになっている。現実の具体例を多く反映させた資本論の後半(の記述の仕方に)にウエイトを置いているからだ。

 ワーキングプアはずっとワーキングプアでしかないことが示されているが、絶対窮乏化論がこんなにカンタンに示せるコトを評価すべきだろう。専門用語の羅列は識者の自己満足でしかないし、タームの理解を独占しているかのように見せかけることによる脆弱な立場の維持でしかない。ホントに理解していればどんな難しいコトでも誰にでも理解できるように簡明に表現することができる。プロという立場を保身するための専門用語は必須ではないハズだ。

 現象を語り事実を修飾する文化の特徴そのままにさまざまなコトバが生み出されるが、マテリアルでテクノロジカルな事実は、たいがいシンプルで誰にとってもリアルだ。
 たとえば失われた10年以降のコギャル、少年犯罪、ひきこもり、ニート…これらのどこがどのように問題なのか? 問題の側面は語る者によってさまざまだが、最終的に解決すべきコトは一つに収斂するハズで、それは経済的な問題だ。ずっとサヨクが訴えてきた単純明快なテーマであり、最初で最後の問題が、コレだ。

 いよいよオカシクなってきた社会や経済を目の当たりにして、ニート対策のような政策で対応しようとする対症療法はいくら積み上げても最終的な解決にはならない。

 本書は何気なく、しかし本気で、その最終解決への認識の糸口を提供しようとしている。それが階級闘争への自覚だ。「今という時代を知るために読む。この一点だけで読みます」と『資本論』紹介を目的とした本書のスタンスが表明されている…しかも、その『資本論』は「階級闘争の書です」…なのだ。

 資本主義のシステムや価値の形態を語ること(のみ)で現実とのマテリアルな接触を回避し逃避してきた各種分析理論は、ケインズ理論のように政権与党によって現実に駆使され成長し鍛錬されてきた理論とは違って、ただタームを列挙する言葉遊びそのままに呆られるタイミングを待つだけになっている。
 リアルに泥まみれになれない、科学を自称する○○理論などとも違って、本書は正統サヨクのセントラルドグマである剰余価値説あるいは労働価値説を簡明に解説し生産(労働)の価値と交換(市場)の価値のギャップが隠蔽されるところに問題があることを示唆している。

 リアルで説得力があるのが…資本主義が国家を超える独占を形成し、そういったグローバリズムの世界的な拡大が、やがて大きな変化を意外に早く招くかも…という指摘。それらを支える基本認識こそ「資本主義とは、人間関係である」というグレート?な断定が圧巻だ。
 真っ当なサヨクの認識ツールの登場となるか? 本書にはさまざまな読まれ方、利用方法が期待されるだろう。

(2008/06/21)
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超訳『資本論』 (祥伝社新書 111)

著:的場 昭弘
参考価格:¥882
価格:¥882

   

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2010年10月12日 (火)

「一週間de資本論」&資本論はテキトーか?

昨日は「一週間de資本論」の再々放送があったとか…

  マルクスは、シャトーマルゴーといった高級ワインを日頃飲んでいる人なんです

マルクスが日頃から馬術、拳銃、ワインなどオタク的な趣味の人だったことを的場さんが披露。森永さんの「マルクスっていい人ですねえ」の一言が印象的でした。恋愛で決闘したことやお手伝いに隠し子を産ませたことは披露されませんでしたが…。さらにワインについて言及すると資本論の理論が崩壊するから、というようなことをマルクス自身が示唆していた?こともコメントされました。

ココなりのタネあかしをすると、資本論が理論として成立する範囲内で理論化した…というのが資本論の基本的なスタンスになります。これは理論や思想の評価水準、表象の仕方がTPOで異なることを考察した『ドイツ・イデオロギー』や、マルクスの歴史観そのものでありスタンスです。また資本論の諸概念の一刀両断的な措定はエンゲルスの働きだったと思われますが、資本主義のモデリングには効果的だったかもしれません。

物質的な基盤の発展ではなく、それにともなう文化や言語や思想や感性の変遷そのものがマルクスの興味であるのはマルクス自身が述べています。

       -       -       -

マルクスがお気に入りのワインや、森永さんが集め続けて10万個にもなったミニカー、一体で10数億円もする村上隆さんのフィギュアなどは特殊商品であり、そういった特殊商品はマルクスが理論化を回避?したということみたいですが…。いちばんの特殊商品である貨幣については、その価値が追究されているのは資本論だけかもしれません

不足に備えての用意だった商品のストックから、やがて何にでも交換できる商品としての貨幣が登場します。この解釈はアダム・スミスからのものですが『ハイ・イメージ論』でその解説がされています。

このアダム・スミス的な認識の延長からは、貨幣は<価値の予期>であるという定義が可能です。あるいは商品の予期としての貨幣が措定できます。

商品が足りなくなる無くなってしまうことへのヘッジとして商品がストックされ、時間的な問題が解決します。さらにはストックの交換可能性を空間的に無限遠に広げるものとしての商品の抽象化=貨幣の産出・生成が考えられます

番組では(解釈の一つとして)資本論では特殊な商品である金が貨幣になったと解説されます。そもそも金に価値が見出された由来そのものがあらゆる商品のヘッジだったはずです。

ヘッジファンドがグローバルマネーのコアであることは確かですが、そこにメガトレンドを見いだせるかどうかを問われるのが現在でしょう。何かを見出すとはもちろん認識力であり思考能力です。

       -       -       -

マルクスをめぐる評価はいろいろありますが、もっとも基本的な評価は『資本論』の資本主義分析は的確かどうか?というもの。具体的には労働価値説や剰余価値説の問題、資本主義の限界と共産主義という解決?の問題などいろいろあります。

労働価値説や剰余価値説を否定するのに援用されるのが効用価値説ですが、主観的であり数値化、客観化が困難です。そもそも生産のコストを数値化しようとする労働価値や剰余価値と消費と享受の実相を測ろうとする効用価値は比較可能なものではありません

生産と消費における価値のカップリングが資本主義全体における価値であって、労働価値と効用価値を別々に取り上げ対立するかのように考えるほうがオカシイのです。

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2010年10月 8日 (金)

「一週間de資本論」&ジャック・アタリ

NHK「一週間de資本論」のオープニングがジャック・アタリでした。フランスの経済学者として紹介され「Jacques Attali 『Karl Marx』」の著作の映像とともに彼のコメントから番組はスタートします。(『Karl Marx』は伝記?)(*再放送はいつだろう…)


  マルクスの考えが今ほど的確である時はない

  マルクスを読まなければ21世紀は理解できない


アタリは左翼ミッテラン政権の大統領顧問を務め、右翼サルコジ政権でもアタリ委員会を主宰。ミッテラン時代からEU統合のイデオローグとして活躍し欧州復興銀行総裁などを歴任。現在はプラネットファイナンスの代表としてマイクロファイナンスソーシャル活動の立役者。資本主義分析ではすべてを情報に換算し、その<交通>から社会を考察するなど先駆的なマルキストでフランス最高の知性ともいわています。

最終回にもジャック・アタリが登場します。今度は「フランスの思想家」と紹介され、仏語版の『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』をもったインタビュアーにアタリが答える映像で、彼は問題の提起と解決への希望を示していています。


 ― あなたは著書の中で将来破局が訪れると述べていますね?

 破局を避けるのも突き進むのも私たち次第です。
 どんなに困難でも今から回避する方法はあります。
 そのためには世界の市場を正しいバランスに保たなければなりません。
 市場のグローバル化とともに
 民主主義政治もグローバル化しなければならないのです。

 ― 資本主義は生き残ることができますか?

 秩序がなければ資本主義は崩壊してしまいます。
 資本主義がグローバル化したとき世界政府がなければ生き残ることはできません。
 現在の資本主義は不平等を増しています。
 誰もそれを改善していないのです。

           
21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

翻訳:林 昌宏
参考価格:¥2,520
価格:¥2,520

   

       -       -       -

           
一週間 de 資本論

著:的場 昭弘
参考価格:¥1,050
価格:¥1,050

   

番組「一週間de資本論」は「通称マルクスオタク」と自称する的場昭弘さんをメインコメンテーターに毎回ゲストを迎えて討論。全4回シリーズとしてマルクスの『資本論』の現代の資本主義への認識が的確であるかどうかを巡って議論されていきます。的場さんの著書「超訳『資本論』」にも資本主義が国家を超える独占を形成しつつあグローバル化にこそ解決の契機を見出そうとするスタンスがあり、アタリとの根本的な共通項になっているようです。もともと『資本論』は経済学への批判であり副題は「経済学批判」です。その意味するところは深く大きいといえそうです。


  第1回「資本の誕生」
     ゲスト 森永卓郎 (経済アナリスト・獨協大学教授)

  第2回「労働力という商品」
     ゲスト 湯浅誠 (NPO 法人自立生活サポートセンター・もやい 事務局次長)

  第3回「恐慌のメカニズム」
     ゲスト 浜矩子 (同志社大学大学院教授)

  第4回「歴史から未来を読み解く」
     ゲスト 田中直毅 (国際公共政策研究センター理事長)

           
超訳『資本論』 (祥伝社新書 111)

著:的場 昭弘
参考価格:¥882
価格:¥882

   

       -       -       -

 アタリは今回の金融危機をめぐりグローバルマネーへの規制を主張していますが、この点ではドイツの代表的な論者やアメリカのガルブレイスからは批判もされています。市場を規制してはならないということです。合成の誤謬という面から考えても、市場は関連する他の市場や無数の共同性(体)との間でコーディネーションの失敗を産出する契機ですが、それは市場そのもののせいではありません。市場や共同体の参加者、構成員の自律的責任に帰する問題が市場で露呈するにすぎないからです。この意味ではサンデルのように「正義」を語る意味はあるでしょう。

 サンデルの「白熱教室」を「機能主義!」と切って捨てた人がいますが、それはそのとおりで、だからこそ議論し続ける必要があることも確かでしょう。欧米哲学やあらゆる論理は単に機能(主義)にすぎませんが、ツールやギアはそうやって使われることに価値があり、そういう思想や理念があることも確かです。それを上手に使いこなすことこそ人間が目指すことでしょう。(使われちゃうと悲劇ですが)

 立場を超えて納得できるマルクスの言葉に“人間は解決できる問題しか提起しない…”というものがありますが、この楽観性はマルクスをよく読んでいるグローバリストやネオコン、ネオリベの人たちからこそ感じることがあります。最近ではジジェクのような共産主義のエバンゲリスト?もポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』ゲバラのような楽観主義を語っていたりして元気ですね。

           
ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)

翻訳:栗原 百代
参考価格:¥945
価格:¥945

   

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2010年6月22日 (火)

経済にとってバブルとはなにか?

歴史的にはチューリップバブルから始まって、いまだにバブル(経済)というものの本質は明解にはされていません。欲望の結果だという指摘はありますが、すくなくとも経済問題として解明されるべきだと考えるとき、その解析は充分ではありません。<欲望を欲望する>というラカンの解釈は的確ですが、それが共同性(市場)を形成する過程では全く別の説明が必要です。個人の感情をどんなに積み重ねても共同性には成り得ません。世界や歴史は無数の人生を束ねたものではなく、<世界>や<歴史>としてそこにあるものだからです。たしかに象徴界はそれを通底する可能性を持っています。しかし象徴界が象徴界であるためには想像界と排他的でなければならないのです。この不可逆性と不可塑性をどう把握するかが認識の可能性と不可知との分水嶺になっています。

同じことはお金=貨幣にいえます。お金に対する人間の姿勢は基本的にバブル的だといっていいものがあります。可能性への欲望…それだけにむしろお金への分析がバブルを知る手がかりになるかもしれません。

   今回のクラッシュの本質は何かっていうと、

   レバレッジかけてた部分が、
   結局、正常範囲に戻ったっていうだけ…

        『新・資本論 僕はお金の正体がわかった』(P15,16)

…というホリエモンのシンプルな指摘がクールです。

           
新・資本論 僕はお金の正体がわかった (宝島社新書)

著:堀江 貴文
参考価格:¥680
価格:¥680

   

●バブルとは何だったか…?

 これと同じことを指摘したのは90年バブルの頃にその崩壊とその影響について書いていた吉本隆明だけ。海外では今回の金融危機に際してジョージ・ソロスヘッジファンドを中心に同じような指摘をしてます。大ざっぱにいえば吉本もソロスもバブルは実体経済が金融経済のレバレッジによって数倍まで膨らんだものであるとし、解決はそれがただ凹むことであることを示唆してます。

 数倍に膨らんだのだから、数分の一に凹めばオワリ…つまり元に戻るだけ…なのです。
 具体的には2分の1から4分の1程度まで凹めばバランスし、それ以上の恐慌はない…というもので、これも吉本もソロスも同じ指摘をしてます。

 90年初頭のバブル崩壊以来地価が下落し続けている実態から考えると、今回の金融危機では欧米よりダメージが少なかったように見える日本ですが、まだバランスしていないというか底を打っていないと考えられます。それほどもともとのバブル(73年プラザ合意以降の上げ底)が大きかったといえるワケです。さらには、かつて長銀や三和銀行が指摘したように64年の東京オリンピック以降アメリカの2倍もの設備投資が続いたという調査があります。GDPがアメリカの半分ほどなのに設備投資だけはアメリカの2倍という状態が長く続いたのです。サラリーマンの給料は低いままGDPだけは世界2位まで上昇したカラクリは、この程度のものなのでしょうか…。

 73年のプラザ合意(対ドルで円が240円から120円へ)により約1年で日本の財は倍増しました。この延長に登場するのがバブル経済。ところで1年で倍加したものがあれば2、3年で減少するものがあっても異常ではありません。問題はそのボラティリティに耐えるだけの柔軟性があるかどうかであって、金融やましてや改革(小泉竹中路線)やグローバリズムが問題なのではないのです。情報と分析、対策と一連の対応がスピーディであれば何の問題もないのですが、官僚や自民党、経済界首脳の危機意識の欠如と自己保身、それらをソフトに現実化してしまう決定過程の不透明さと不明な責任の所在…が問題なのでしょう。

●レバレッジのもとは拡大再生産…?

 そもそも経済が<拡大再生産>という前提に立っている理由そのものからしてバブルの可能性がビルトインされていることになります。<再生産>が<拡大>するという部分そのものがレバレッジの起点であると考えられ、当たり前のことですが、<拡大>させているものそのものがレバレッジそのものなのです。
 その代表的なもの=拡大の要因が利益や利子であり、(剰余)価値と呼ばれるものそのものでしょう。マルクスはその基点を商品を存在せしめる<労働>そのものに求めました。それは剰余価値として労働生産物に内在し、現在ではその価値が線形代数のようには算出できません。生産過程の合理化で投下された労働(時間)や資源が高効率でべき乗化し産出がバタフライ効果のように膨張するためです。当然のことですが労働価値を否定するのに援用される限界効用説では本質的にバブルにタッチすることはできません。

●銀行にお金を預けていはいけない…!

 銀行には自己資本率が8%以上という規制(海外取引もする場合)があります。つまり自己資金の10倍以上のレバレッジが認められている事業なのです。レバレッジで成り立っているのが銀行なのです。しかも顧客は自分のお金を銀行に預金しているのに、銀行からお金を借りる場合は利子を払っています。詐欺師やヤクザもここまでヒドイ詐欺はしないのではないか…とさえ思えます。なぜ自分のお金を使うのに利子を払う必要があるのか…?

 FXや金融デリバティブにおいてレバレッジがいけないという批判がありますが、銀行の基礎にあるレバレッジが批判されたことはありません。そもそも投資家はリスクを覚悟していますが、銀行はリスクも取らないし責任も問われない信じられないような気楽な事業なのです。合法的な悪そのもの? 利子をとらないイスラム金融が資本主義を悪と見なす根拠もこの利子にあります。

 まず銀行そのものがレバレッジによって成り立っている事実を誰も問題にしないのはナゼか…?

 勝間和代さんの大ブレークは『お金は銀行に預けるな』からですが、ホリエモンも勝間さんも、そして苫米地さんフリー経済学入門も、皆、同じことを言っているのが面白い。それは<銀行にお金を預けていはいけない>ということです。

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2010年5月21日 (金)

三囚人のシステム理論は可能か?

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■「三囚人のシステム理論は可能か?」から

『Inter Communication』に連載されていた企画「メディアは存在しない 6」の№47掲載分「三囚人のシステム理論は可能か?」を参考に。

前回指摘したようにテキスト全般が刺激的でいろいろ面白いですが、今回はメインになっているトコを....。

ここで斎藤さんは「時間と行為について、ラカンが導入したゲーム理論のエピソード」を紹介し、間主観性の成立は主体の有限性によって可能であり、その主体の有限性は時間によって規定されている、ということを論理的に証明しています。

それが三囚人のエピソードというやつで、斎藤さんがそこで問うているのは「三囚人のシステム論は可能か?」という表題になっている問題ですね。かなりショーゲキだと思います。ラカンのエピソードに基づいてルーマンの社会システム論を批判するというものです。

「三囚人のエピソード」のゲーム内容は、単純化すると、自分の情報を知ることができたら解放される、というものです。

三囚人のエピソードを少し抽象化すると....

   3人がそれぞれ1個ずつの情報を持っている。
   本人は自分の情報を知ることができない。
   他の2人の情報から自分の情報を推測しなければならない。
   コミュニケーションは禁止されている。
   情報は全部で5個ある。内訳は白情報が3個、黒情報が2個。
   誰もこの情報の内訳を知ることはできない。
   つまり世界の内容を知ることはできない....

哲学的?に解すると....

   人間はそれぞれ情報を持っているが、
   自分ではそれを知ることができない。
   他者の情報を知ることはできるが、
   世界像を知ることができない。

   だから、人は他者の情報を知り、
   そこから推測して、
   自分の情報と世界の情報を知る。

....などというコトが考えられますが、これはあくまで静態的な、論理だけで展開される世界のことだと限定づけられます。

斎藤さんは大胆にも、ダイナミックに、この世界設定に行動を見出し、それによって解を得てしまいます。3人がそれぞれ他の2人の情報だけではなく行動をもチェックして、それで自分の情報を推測するということを、斎藤さんは見逃さなかったワケです。たとえ誰も行動しなくても、そこに「行動しない」という行動の意味を見出しています。

斎藤さんは、その理由として「あらゆる判断は、本質的に一つの行為である」(P151)とラカンによる指摘を引用しています。もちろんラカンが指摘するまでもなく、それは真理でしょう。認識が分節化する以前の乳幼児では想うコトと行動するコトが未分化。幻想も現実も分別はつきません。デジャブもそういった心的状態のフラッシュバックだし、多くの精神病も同じです。それは戦後最大の思想家と呼ばれる吉本隆明さんの心的現象論による徹底した射程と根本的な考察においても当然のことですね。

この三囚人の論理だけの世界から行動を見い出したコトはスゴイですが、「行動しない」という行動から情報を見い出さざるを得なかった閉塞した世界における認識の特徴として「せき立て」という切羽詰った心理状態(*「三人の囚人の話」 と 「せき立て」)をフォーカスした点もユニークで、そこには大きな可能性があります。

この動態的な認識を持ち込んだ斎藤さんのオリジナル?な、実効性のある批評は、アニメ批評でも駆使されたもの。それは宮崎アニメの擁護というスタンスでしたが、宮崎アニメに「運動」を見出したのは当たり前のものを発見したスゴサがあります。

ところで、ワタシは、世界を実際に動かしているような現象にも、同様な指摘が出来ることを示しちゃいたいとも考えます。それが確率過程期待論です。金融工学としてノーベル賞をいくつも受賞した理論でもあるけど、それは何よりもまず人間の心理を要因とした統計上の確率論です。もちろん人間と同様の心理が無い動物には関係も無いでしょうし、逆に人間に関してであれば、7つの海を支配した帝国権力も数日で敗北させるほどの力ともなる、ある種ポストモダンな力でもあります。どこまでも、人間の心的現象がすべての原点であり動因であることを証明した理論でもありますね。

*「「三囚人のシステム理論は可能か?」から 2004/1/25」を加筆変更しました。
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システム論批判?から

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■『IC№47』斎藤環さんのシステム論批判から

斎藤環さんが『Inter Communication』に連載していた企画「メディアは存在しない 6」の №47掲載分は「三囚人のシステム理論は可能か?」(関連記事)というもの。あのルーマンの社会システム論へのラジカルな批判です。それは同時に批判する観点そのもののラジカルな検証が即座に可能なほどの、スリリングなテキストになっています。

システム論への疑問の1つに人間の主体性はドコにあるのか?という哲学をはじめ諸学のブラックホールのような問題点があります。もちろん人間の心そのものを探求してきたラカン派には「黄金数」のような擬似的な解答可能性を見出したものはありますが、それが解答そのものではないというコトでは、同じでしょう。

そういったところに見出される共通する問題点は、認識における基本的な空間性の混同があります。認識が不可避にもつ幻想性と現実の空間性との関係がごちゃ混ぜになっているという混乱ですね。

ところで、このルーマン=システム論への批判は、日本では最初の本格的なラカン紹介のテキストだった『構造と力』とオーバーラップする面もある、原則的な観点からされてます。それだけに、このルーマン批判はより広い方面で応用が利く、逆にいうとラカンの適用範囲を広げられる可能性のあるものです。

ただし、そこにこそラジカルなラカン批判(=斎藤批判)も成立する可能性もあるのではないでしょうか。

ホンとかなあ?っと。
以下、ちょっとだけ。


   われわれがコミュニケートしあっているかのように見えるのは、
   単なる偶然でなければ、何らかの転移関係がそこにあるからに過ぎない。

                        『Inter Communication №47』(P147)

もちろんコミュニケーションが偶然であるハズはないですね。むしろ「そこにあるからに過ぎない」「転移関係」だけを頼りに成り立っているのがコミュニケーションの本質。だから偶然でしかないような危うい認識こそがコミュニケーションの本質かもしれません。マテリアルな前提としてはミラーニューロンなどさまざまな検証がススんでますが。コミュニケーションという心的現象と分かちがたく、また心的現象そのものであるかのような錯誤を招いているほどのムズカシイ現象は、そんなカンタンに答が出るワケではないかもしれません。


   オートポイエーシス理論の特異性を一言で言うなら、
   有機体がそのシステムの境界を「システムそれ自体の作動によって産出する」
   という局面を記述可能にした点にあるとされる。

                        『Inter Communication №47』(P148)

これはオートポイエーシス(関連記事)が並のどんな理論とも違う自己生成の理論だというものですが、同時に、システムの全体性そのものが自己言及そのものであるというスグれた指摘ですね。


   外部からの入力を内部から見ると、
   起源が不明な撹乱として理解されるという。

                        『Inter Communication №47』(P148)

ここでノイズ理論やカオス理論の援用が可能であるかのような印象を受けますが、それこそが情報理論をはじめとする科学が絶対に人間そのものを描けない理由を隠蔽してしまっている可能性があります。ラカン派ではこの「撹乱」を「黄金数」と認識評価するかもしれませんが、これは<アバタもエクボ>という問題。それは心的現象論における感情などの領域の問題です。

*「『IC№47』斎藤さんのシステム論批判だ! 2004/1/8」を加筆変更しました。
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2009年12月31日 (木)

2010年テーマは<ソブリン・リスク>!

●お気軽にいくです、ハイ

 ヘッジファンドの2010年のテーマは「ソブリン・リスク」だということでいよいよ大変です、きっと。かつて世界のいろんなところで革命家?たちが国家のヘタレぶりと危機を叫びましたが、とうとう革命家の敵でもある世界帝国主義のメタルリキッド風超時空間型機能的動態?であるヘッジファンド自身が国家の危機を指摘するようになったのだ…ということですか。ふ~んある意味感動~かも。(^o^)

 ところで、このソブリン・リスクの具体的な対象は日本ではないでしょうか?…というか日本なのです、たぶん。一応長く続いたソフトファシズム状態から政権交代がありましたが、『日本流ファシズムのススメ。』なんていう主張をする人たちもでてきたし、2010年はまたまた新しいコンフリクトなんでしょうか。

 まあ、そのうち、国家なんてディズニーランド化して、SCに吸収されちゃうらしいから、どーでもいいんだけど。でもSCも赤字に転落しましたね。バブル崩壊以降地方では地価の下落が二桁台なんて珍しくないかもしれないし、バイトからフリーの身分のギャラの低下も10分の1は珍しくなく、仕事のコストは100分の1にもなってます。トヨタが全生産を40%絞るとか、赤字国債が史上サイコーだとか、どーでもいいですが、莫大な社内留保金はこういう時に使うんじゃないのかな?と思いますが。でなけりゃ、いつ使うんでしょう、大企業の社内留保金計230兆円は…。大企業がここで出血サービスすれば、それで生き抜くことができた人は、一生涯その企業のファンになるだろうし。でも、それもよくないのかな…。

 ところで、日本でソブリン・リスクをトータルに捉えた本に、タイトルもズバリ?な『日本の難点』という本があります。宮台社会学全開のようですが、彼の私塾用のテキストがベースのようで、講義なら面白そうだけど、盛りだくさんゆえに行間が飛んでるような理解のし難さがあるかもしれません。でも『日本流ファシズムのススメ。』と読み比べても、たしかに難点や危機がビシバシわかってしまう本かもしれないです。著者のリスクも含めて。(^^;)

●オススメな再放送。テーマはソブリン・リスク!?

「第14回「“危機後”の世界経済は?~ニッポン 大転換への課題~」」

の再放送が2010年1月3日(日)16:00~にあります。

 実際にヘッジファンドやグローバリストが何をどう認識してるか、彼らは日本をどう評価してるか、2010年以降に日本をどう取り扱っていこうとしてるのか…という情報を提供してくれるのがヘッジファンド情報の第一人者である草野(草野グローバルフロンティア代表)さん。また世代間の再分配がなければ日本はもうダメ(80~90年代のバブルの頃から一部では予測されてましたが)だという冨山(経営共創基盤代表取締役)さんのシリアスなマシンガントークもイイです。下落がはじまったユーロですが、EUに明るいく武者(武者リサーチ)さんのコメントや、いまやこれさえ悪く言っていればKY的にOKというカワイソーな〝構造改革〟の現場で指揮を執ってきた大田(政策研究大学院大学副学長)さん。

 3日16時から再放送があるのでオススメです。

 なんだかナンパな書き方だったかなあ。もうお気楽以外に生きていく哲学をもってない自分としては、自然なんだけどお。(^^ゞ

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