2011年2月12日 (土)

<家族>と<地域>のギャップ!?

「朝まで生テレビ」(2月4日放送)で「国民の2つの義務」として「納税の義務」と「国を守る義務」が問われました。ホリエモンが国を守る義務はないと発言し、紛糾?するなかで国会議員が発言。

齋藤健さん(自民党議員)が国を守る義務や大切さを説くために「家族があり、そして地域があり…」と個人(の存在)から空間的に領域を広げていく(遠隔化する)形で(たぶんパトリオシズム的に)国家と領土について(守る必要性を)語ろうとしました。

これに対して東浩紀さん「家族と地域の間には飛躍がある…」と指摘。家族と地域は同一に語れないということでしょう。これは番組内で唯一の本質的な価値がある発言でした。

地域をベースにしたパトリオシズム的な発想は左翼的?な反発も少なく“ご近所”や身近なコミュニティとオーバーラップさせて推しやすいもの。ローカルな自然やエコとのカップリング、地産地消などの経済的なテーマともリンクしやすく、政治的にも地方や分権のトレンドと合致します。また日本のように国土のほぼ全域が居住可能な環境では説得力をもちやすいイデオロギー?でしょう。だからこそ逆によく考えることが必要なのが地域の延長に国家があるような発想です。自治の最小単位でもある“隣組”が戦前の日本のファシズムを支えたという認識は無視できるワケではありません。{以前NHKの討論番組でただ独り宇野常寛さんがこのことに触れていましたが…}{2人の人間が出会えばそれだけで権力が生じることを論証(予期理論)した宮台真司さんの指摘はファシズムなどの根源も押さえていて重要です}

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●家族と地縁は同質?ではない

 地域での関係性と家族の関係性は全く違うもので、地縁と家族(血縁)という関係は同一の論理で語れるものではなく、『共同幻想論』はこの<同一の論理で語れない>ことそのものを日本における国家論の前提とする認識です。(無理矢理同一の論理で語ろうとするのはファシズムや強権のタネでしかありません)

 <同一の論理で語れない>ということの解の第一歩は、<複数の論理の錯合>として把握することでしょう。

 共同幻想論は歴史や資本論におけるアジア的(生産様式)という概念に日本においては<複数の論理の錯合>を見出して探究し、アフリカ的段階はその前段階であり基礎ともなる自然環境における関係性を解いています。

  わが初期国家の専制的首長たちは、
  大規模な灌漑工事や、運河の開削工事をやる代わりに、
  共同観念に属するすべてのものに、
  大規模で複合された<観念の運河>を
  掘りすすめざるをえなかった。
  …
  そこには、
  現実の<アジア>的特性は存在しないかのようにみえるが、
  共同幻想の<アジア>的特性は存在したのだ、…
(*『共同幻想論』から考える

 

 家族と民族の関係はグラデーションであっても家族と地域は簡単に連関するものではありません。大澤真幸さんが血縁からの離脱が国家の始まりだと共同幻想論から読み取ったように、地域というフレームそのものが家族や民族のベースにあるものとは乖離していて、その度合いそのものが進歩の度合いにも比例します。逆にいえば土地への関与の強さや執着は原始的な度合い比例するもので、アフリカ的段階では土地そのものでもある自然環境への対応を関係性に照応させる観念の在り方が考察されてます。

  吉本にとっては、国家の最小限の条件は、
  共同幻想が、直接(血縁的)関係から独立に現れること、
  である。
(*共同幻想論大(澤)?解説.2



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思想地図β vol.1

編集:東 浩紀
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『思想地図βvol2』ではホリエモンも登場するようです。今回の朝生TV関係の突っ込んだ話が読めるかもしれません。

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2011年1月13日 (木)

<弟のため>か<家のため>か?

「家族への忠誠」か「普遍的な正義」か?

「マイケル・サンデル 白熱教室を語る」(NHKで放送した番組)によると人気の白熱教室、東大での講義でサンデルが苛立ったという対話があります。それは弟の殺人をめぐってのものです。

 弟が殺人を犯したら、あなたはどうするか?

…というサンデルの問いには「家族への忠誠」「普遍的な正義」か?という根本的な問題意識があります。ところが「普遍的な正義」を主張したのはたった一人で、他はすべて「家族への忠誠」からの答弁でした。

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<弟のため>と<家のため>と

 弟を匿ったり、通報したり、自首させたりといくつかバリエーションがあっても、これらはすべて親和的関係からの判断で「家族への忠誠」からの答弁です。理由は<弟のため>。家という親和的関係からの弟に肯定的な判断ということです。
 しかし同じ親和的関係からの判断でも<家のため>というものもあり、これは文字どおり<弟のため>ではない判断になります。弟という個人ではなく家という共同体の利害を優先した考えで、時には弟を追放するような判断もなされます。共同体(家)から個人(弟)を追放するという、弟(個人)に否定的な(共同体の)判断です。

 同じ親和的関係からの判断でも<弟のため>と<家のため>ではまったく意味が違うものになります。肯定的であるか否定的であるか、真逆の判断が同じ親和的な関係からなされることがあるわけです。
 <家のため>に弟が追放される場合、弟は家という共同体から否定(追放)されるために流浪するか別の共同体に帰属していくようになることが予期されます。つまり別の世界や共同体がクローズアップされてくることになります。

 弟を肯定するのでも否定するのでも判断の根拠は(主体は)どちらも親和的関係である<家>です。サンデルが求めているのは<普遍的な哲学からの正義>であって「家族への忠誠」と呼ぶ(家からの)判断ではありません。

 <家>は個人に対して近接的なものであり親和的関係(対幻想)の(生成する)場所です。あるいは対幻想から最初に生成する共同体が家だともいえます。しかし<家>による判断が必ず個人を尊重する(個人のための)ものとは限りません。家の利害に反すると判断されれば、その個人(家族)を追放することもあります。犯罪や財産の分配をめぐって家と個人が相反するトラブルは頻繁に起こっているというのが現実でしょう。

「普遍的な正義」からのジャッジはあるか?

 サンデルが知りたかった“普遍的な哲学からの正義”によるジャッジを主張したのはたった一人の女性。サンデルが“普遍的な哲学(立場)からの正義”と主張しているものは何なのでしょうか? (ある意味でこの女性の立場(の半分)はかつて巫女と呼ばれるものがとってきたものと同じだともいえますが。)

 サンデルが求めている普遍的な原理による正義はあるのでしょうか?

 サンデルのいう<普遍>とはフォイエルバッハ的な意味での<神>であるかもしれませんし、コミュニタリアンであるサンデルは不可視なレベルで(神のように)<普遍>を設定しているのかもしれません。本当?の意味で<普遍>をいうならばカント的な<公共>であるはずで、コミュニタリアンとしては、そのスタンスはとれないのではないかという?もあります。簡単にいえば本当?の普遍というものはないからです。

 たとえば平和(戦争反対)は普遍的希求のようですが、現実には絶対に平和を求める主張は圧倒的な少数派であるという事実があります。
 歴史的な事実として、たとえば第二次世界大戦で戦争に反対した勢力は2、3だけで、大部分の政治、思想、宗教のグループは自国の戦争に賛成しました。世界各国の社会党(社民主義)はすべてそれぞれ自国の戦争に賛成し自国の勝利を求めました。全世界でそれぞれ自国の戦争に反対したのは共産党だけで、日本でいえば戦争に反対したグループのひとつは共産党(コミンテルンつまり共産主義インターナショナル参加政党)、それから大本教(出口王仁三郎)などのごく一部の宗教、そしてCOOP(生活協同組合)となります。
 絶対平和を唱えるカント的な立場には現実的な根拠はありません。むしろ実現し得ないからこそ平和を希求するところにカントの意義があるのでしょう。

 {(<普遍的な正義>には根拠がない)という根拠}しかないというのが論理的な事実だと思います。だからこそ、あえて普遍的(な正義?)であろうとするのがサンデルの立場?なのかもしれません…。

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2011年1月10日 (月)

白熱教室・トロッコ・ミメーシス

ポリス・遠野物語・国家

『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』が評判になってます。ひさしぶりに読み応えのある1冊かもしれません。メインは大澤真幸さんと宮台真司さんの対談。内容はミメーシスをキーワードに共同体や正義について。白熱教室で人気のサンデル教授へのラジカルな評価があったり…。なかなか見つからない現代の問題のあらゆる解のヒントがありそうな内容です。特にミメーシスは恋愛から友だち、仲間、ヒーロー、サブカル、オタク…いろいろな問題のメインとなるテーマだと思います。それに吉本さんの共同幻想論や対幻想(ミメーシスの要件)と照応させると驚くほど一致することが多く、その点でも面白く読めそうです。

           
大澤真幸THINKING「O」第8号

著:宮台 真司 , 他
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ダイヤローグ・・・

 サンデル教授の白熱教室で行われているのは対話。教員と学生の対話で進める授業形式で「ソクラテス方式」と呼ばれているギリシャ(のスコラ)哲学の時代から続くダイアローグ=<対話>。これを日本語に訳した(直した)のが<弁証法>ですが、誰もそうは思いそうにないところに、難解な専門用語で構築された日本の専門家=プロ(フェッサー)の立場の特徴があるかもしれません。

デッドロック・・・

 「トロッコ問題」(番組内では路面電車)は…トロッコのブレーキが壊れてしまい停止できない。線路を直進すれば線路上で作業している5人が死ぬ。待避線へ入ればそこで作業している1人が死ぬ。どちらを選ぶべきか…というもの。これはどちらに行っても死者が出るデッドロックであり、ポスモダで流行ったダブルバインド(ベイトソン発の柄谷・浅田による)といわれる設定の、論理的な限界を示した問題です。正義や倫理に論理的な限界を突きつけることによって何かを顕在化しようとするもの。でも、別の言い方をすれば論理的にしか意味が無い問題でもあります。(柄谷行人さんはあらゆる論理的な限界を考察しつつ、最後にカントの<公共>に行きつきました。カントの<公共>は現実(利害)の規定を受けません。それは<他界>と同じ観念の冪乗化したものであり、現実へ還元できるルートを見つけることができません。そこには現実からのジャンプがあり、現実に依拠しながら現実には還元できないものとして顕在化したカントなりのU/TOPIEな概念なのだと考えられます。<公共>概念はカントにおける<他界>(論)だと考えることができるものです。)

ミメーシス・・・

 塩狩峠や打坂地蔵尊で知られている事故のように身を挺して列車やバスを止めた人たちがいたり、宗教的に倫理的に論理的限界など超越してしまっているケースは少なくはなく、論理的な限界というものは現実にはそれほど意味が無いかもしれません。「卓越者であれば超えられる程度の壁」と宮台さんが『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』P24で指摘するとおりです。また『権力の予期理論』でアローの社会選択理論などに触れながらもそれを重要視していないスタンスが示しているものはそういった現実を踏まえているからでしょう。彼はミメーシスや近接性に解を求めようとしているのであり、それは現実的でしかも唯一の解である可能性は大きいと考えられます。少なくとも現実に実効性のある解はこの範疇にしか無いハズ。論理的な問題の効能はその主張者の自己発現になっているという程度のことに過ぎない例がネットや一般的な状況では少なくなく、酷ければ“論理”そのものが神と化している信仰に過ぎないし、信仰がなければ何もできない病に過ぎない例もあるでしょう。

 「神は、いません」というあるキリスト教の牧師の話を聞いたことがあります。たぶんその牧師は神がいないことを知っていて、そのうえでなお神がいると信仰している…のだろうと思いました。そこにはミメーシスを起こしそうな何かがあります。シーシュポスの神話にミメーシスしたら最強かも…などと思えるようになったのはいつ頃からだったか。

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2009年7月18日 (土)

マルクスブームいろいろ

●自分の<マルクス>は…

『資本論』を読み通すのは大変です!! しかも理解できたかどうかとなると絶無かもしれません!? 自分も半端に理解するよりテッテー的に理解したいと思い『経哲』『ドイデ』を読みました! マンガの資本論や資本論のガイドはたくさんありますが、そういうのを一度読み通してみるのもいいかもしれませんネ。何となくでも全体のイメージがつかめればイイかも。

ちょっとツッコミいれれば…『資本論』は壮大な体系ですが、そもそも労働価値説がバグってきたように、当時のイギリスあるいはロンドンの資本主義への分析としてはOKでも、普遍的な意味では時代や歴史の制約から免れていないと思われます。

ちょっとボケると…絶対に面白いのは『資本論』の前段階であったハズの『経済学批判要綱』の「序説」や「序言」の方でしょう! それから「ブリュメール一八日」とか「パリコミューン」関係の指摘はリアルで現在の日本にとってもイタイものだし。

それから…将来理想的な社会が実現しても…<クレバーとおバカ>、<美人とブス>の違い…といった価値観の違いは残る…ので、どうしたものか…と書籍に書いていたマルクス系の教授がいました。
ついでに…金持ちの価値観では食事は味わうもの>だが、貧乏人の価値観では食事は<空腹を満たす>ものだ…この違いは何か? どこからくる価値観の違いなのか?…といった問題提起を示したり…。弁証法でいう価値の量質転化なんでしょうが…。

前衛芸術なんてロバのしっぽで描いたもの…といった史上最大の社会主義帝国連邦の書記長サマが昔いたらしいですが…完全にハズしてるワケでもないような気もします。ちなみに〝デザインは資本主義的悪〟みたいに見なしていたその帝国の首都モスクワで初のデザイン展を開催したのは当時のセゾングループの堤清二さんだった、と思います。商人はエライですね、と。

●マルクスをめぐる、ズバリ

池田blog「マルクス・ブーム」の以下のような指摘はズバリですね!
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このごろ都内の本屋に「マルクス・コーナー」が目につく。『資本論』が、去年の4倍も売れているという。この週刊東洋経済の特集で識者が推薦している本も、『資本論』が多い。たしかに今でも、資本主義の本質をもっとも深いレベルで明らかにした古典だろう。少なくともこれを読まないで「ネオリベ」を罵倒したり「階級闘争」をあおったりするのは、物笑いのたねになるだけだ。
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●リアルなマルクスとか…

 面白かったのが平田清明氏自身が薦めていたジャックアタリ『情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具』。アタリは〝EU最高の知性〟と呼ばれていますが、ミッテラン左翼政権の顧問だったころは〝フランス最高のマルクス主義者〟だったような気がします。左翼政権の顧問を務め、ヨーロッパ復興開発銀行総裁、今は右翼?サルコジ政権でアタリ委員会の長を務めてますが、その有効性や予見は注目に値しますね。最近は近著の『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』も結構読まれていて評判みたいです。プラネットファイナンスの会長として全世界レベルで起業や貧困問題へのファイナンスも行っています。

 『資本論』はハードなので『経済哲学草稿』程度のものを解るまで繰り返し読むのもとっても役に立つかも。恋愛から宗教、国家までわかるとともに、市民社会の変遷が歴史であることがわかります。「資本主義と市民社会」で指摘されていますが「市民社会」の変遷を分析するにはもっとも有効な認識方法だと思います。信者が神格化する神や宗教がこれほど木っ端みじんにバラされちゃう認識方法というのもオソロシイもので、それだけに反発する人も多いのかもしれません。

 市民社会の根拠でありながら市民社会の価値観と対立するのが市民社会の構造である物質的な基盤と経済的カテゴリー…なので、働くの面白くないしとか思っていても、働くとそれだけで社会が変わっていくという事実もあります。それを自覚させるのが本来は社会の仕組みやガバナンスの役目なんですが、官僚が自分優先で自己保身に走り、既得権を保持しようとすると、日本をはじめ、世界のダメさに示唆されるもろもろのザマになっちゃうワケでしょう…。階層の固定化からはじまって。

●面白そうな、マルクス本

『情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具』

『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』

『アメリカ後の世界』

『フォイエルバッハ論』

『経済学・哲学草稿』

『「新訳」ドイツ・イデオロギー』

『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日/経済学批判要綱「序説」「資本制生産に先行する諸形態」/経済学批判「序言」/資本論第一巻初版第一章 (マルクス・コレクション)』

『マルクスを超えるマルクス―『経済学批判要綱』研究』

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2009年2月18日 (水)

卵のコトバ

村上春樹さんのエルサレム文学賞受賞のコメントはGoodでした! 一言でいうとやっぱり〝勇気〟なんでしょか。作家の特権でもあるでしょうね。ホントにペンや言葉は強いんですよ。春樹ワールドの気に入った言葉を集めて始めたのがWebのキッカケだったのを思い出して引っ張り出してみました。以下…

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「私には何もないわ。」
「失くさずにすむ。」

『1973年のピンボール』からクールなハルキワールドしてるコトバ。ゲーデル的決定不能性がポイントになってる典型的な例ですね。これをトートロジーと受けとめる感性の人とはGood-bye!…するのがドーナツ的宇宙のイデオロギーですよん。言葉の展開(論理)を決定不能性に追い込むことによって何を表現してるか? クールで、文学的哲学的芸術的(つまり意味がないとゆーこと)な修辞ではニヒルとか虚無的とかなんとかカッコつけた感じでしょーが、実際の意味はゼーンゼーン違います。言葉(非現実)の決定不能性を明らかにすることで現実(非言葉)をフォーカスし、まず、その現実の全面肯定からスタートすることを表明してるんですね。どっても前向きですよ、コレ。現実やマテリアルな状況、そういったTPOからスタートしなくて、いったいどっからはじめられるんでショーねえ。印象や観念といった色メガネや先入観とかレッテルや夢想からフリーな、とても力強い現実の肯定から起動するタフな人生観・世界観を見出したいですね、こーゆーコトバに。

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「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

村上春樹の原点にしてスタート、『風の歌を聴け』の最初の1行の言葉。学生に頃に知り合った作家が僕に向かって言った、ということになってます。もちろん、ホントにハルキワールドのコンセプトですね、これは。テキストで表現しようとしてる本人がそのテキストの不完全性を最初に自覚(自らの表現能力も含めて)しながら、しかもその不完全性に対しても絶望しないことをそれそのものにおいて同時に表現しているというある種見事なテキスト表現です。自己言及であり自己充足であり、絶対矛盾の自己同一てな感じ。ニヒルなよーでいて、実はもっとあたたかいものを持ちながら、でもあくまでクールに言い放ってみせるとこは、スタイリッシュでカッコイイもんです。この言葉がどんなシーンで使えるかより、この言葉を使えることが目的になっちゃうよーな魅力があって、不意に思わずつぶやいたりしそーな気がします。(^^;)

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「遠くから見れば、」と僕は海老を呑み込みながら言った。
「大抵のものは綺麗に見える。」

いきなり哲学ちっく。とゆーかそのものですね。ココのポリシーでもありましょー。友人と2人で翻訳事務所を営む「僕」が事務所の女の子に「ねえ、少し相談していいかしら?」と食事に誘われ、「本当に寂しくないの?」という14回目のクエスチョンを最期にそれぞれが帰途につくまでの会話の柱となるお言葉がコレ。女の子の14回の?にこめられた2回の「寂しくないの?」と1回の「恋人はいるの?」の質問ににじむ想いと、それを、あくまで遠ざける「僕」のスタンス。でも、単に遠ざけるんじゃなくて自分の関係性を含めて遠隔対称化するところに、哲学が見えるのがさすが春樹ワールドです。『1973年のピンボール』を読んだ時、最初にノックアウトされた言葉でした。

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「殆んど誰とも友だちになんかなれない。」
それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。

誰とも友だちになれないんなら、まあ、セイシュンの悩み風だけど、それがライフ・スタイルで、しかもドストエフスキーが予言したことで、自分がそれを実証した、みたいなこの展開にはオドロキました。こりゃ、哲学者の言葉じゃんねえ、と思ったもんです。誰とも友だちになれないクラさを、僕が固めたってゆー強固な自己確認でそれこそ固めちゃうスゴサ。力強い暗さだったりしますね、もう、こりゃ。ニーチェかあ? 『1973年のピンボール』のお言葉。どんな時使えるかなあ?

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ハヴ・ア・ナイス・ゲーム/良きゲームを祈る。

『1973年のピンボール』(村上春樹)の言葉。<ピンボール研究書「ボーナス・ライト」の序文・・・>として書かれてます。まあ、この人はこーゆー作(策)が好きですねえ。傘さしてエンパイアステートビルから飛び降りたり。グッバイの代わりに使いたい気がちょっとします。こーゆー言葉は、誰に対してでも使ってあげたい。ゴッド・ブレス・ユア・ヘッドって使ったら怒った人がいたなあ。昔のこと。アハハハ

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(「クールな、お言葉」1997.12~.)より

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卵のプレゼンス

 最初にWebをはじめたのが村上春樹作品を自由に語りたかったからで、今回のエルサレム文学賞受章で初心?に戻りデジャブのようなものを楽しむことができました。件の感想は…

 今回のエルサレム文学賞受賞のスピーチは、
 はじめて踏み出したような一歩に見えました。
 自分のジャンルの外へ、
 自分の方法でもって初めて歩み出た、という…。

 <小説家という嘘の紡ぎ手>から<ライターという事実の記述>へのシフトとチャレンジは「アンダーグラウンド」でトライされましたが、今回は具体的な行動としての一歩だと思います。これからも別に何かしてくれというワケじゃありませんけど。

 以前に読んだ雑誌か本で、村上春樹さんのコメントで印象に残っているのが学生運動の時代の人であることをたずねられた時のコメント。〝心情的には支持できても人と組むのがイヤだし、デモで手をつないだりするのもイヤだ〟というようなコトを言っていたと思います。何かすごく共感できて、同じ感覚の人がいるんだ! とちょっとウレシクなったのを憶えてます。

 

 1979年  『風の歌を聴け』
 1980年  『1973年のピンボール』
 1982年  『羊をめぐる冒険』

 呆れるほどリピートして浸ったのがこの3部作。形容に数字を使うクールさとそのリアリティ。社会の原形みたいに3名だけといっていい登場人物。僕と鼠と女の子。独白がダイアローグになっているような不思議な言葉と文章。
 何よりも、内容ではなく、文体そのものがこれほど魅力をもった作品はいままでなかったような気さえします。世界的にも安部公房以来の日本文学のプレゼンスだと思います。当初日本では、村上春樹作品への激しい批判がありました。村上龍作品も同様で、表現の世界では新しいものが生まれつつあったんですね。高橋源一郎の登場も衝撃だったし。10年かけて文体を変えた柴田翔のような純文学の重鎮もいますが、村上春樹の3部作は当時コピーライターご用達でした。仕事で『羊のレストラン』を書いている高橋丁未子さんのところへ取材に行ったり、村上春樹さん本人はメキシコへ行っていた期間で直接取材できなくて残念でしたが…いくつか想い出があります。八重洲ブックセンターで見かけたステンコートとコッパンのご本人はまるで<村上春樹>でした。当然だけど。w

池田blog「壁と卵」で今回の件を知りました。池田氏のコメントでありましたが、村上春樹さんのプレゼンスは日本の誇りですね。

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