2010年6月22日 (火)

経済にとってバブルとはなにか?

歴史的にはチューリップバブルから始まって、いまだにバブル(経済)というものの本質は明解にはされていません。欲望の結果だという指摘はありますが、すくなくとも経済問題として解明されるべきだと考えるとき、その解析は充分ではありません。<欲望を欲望する>というラカンの解釈は的確ですが、それが共同性(市場)を形成する過程では全く別の説明が必要です。個人の感情をどんなに積み重ねても共同性には成り得ません。世界や歴史は無数の人生を束ねたものではなく、<世界>や<歴史>としてそこにあるものだからです。たしかに象徴界はそれを通底する可能性を持っています。しかし象徴界が象徴界であるためには想像界と排他的でなければならないのです。この不可逆性と不可塑性をどう把握するかが認識の可能性と不可知との分水嶺になっています。

同じことはお金=貨幣にいえます。お金に対する人間の姿勢は基本的にバブル的だといっていいものがあります。可能性への欲望…それだけにむしろお金への分析がバブルを知る手がかりになるかもしれません。

   今回のクラッシュの本質は何かっていうと、

   レバレッジかけてた部分が、
   結局、正常範囲に戻ったっていうだけ…

        『新・資本論 僕はお金の正体がわかった』(P15,16)

…というホリエモンのシンプルな指摘がクールです。

           
新・資本論 僕はお金の正体がわかった (宝島社新書)

著:堀江 貴文
参考価格:¥680
価格:¥680

   

●バブルとは何だったか…?

 これと同じことを指摘したのは90年バブルの頃にその崩壊とその影響について書いていた吉本隆明だけ。海外では今回の金融危機に際してジョージ・ソロスヘッジファンドを中心に同じような指摘をしてます。大ざっぱにいえば吉本もソロスもバブルは実体経済が金融経済のレバレッジによって数倍まで膨らんだものであるとし、解決はそれがただ凹むことであることを示唆してます。

 数倍に膨らんだのだから、数分の一に凹めばオワリ…つまり元に戻るだけ…なのです。
 具体的には2分の1から4分の1程度まで凹めばバランスし、それ以上の恐慌はない…というもので、これも吉本もソロスも同じ指摘をしてます。

 90年初頭のバブル崩壊以来地価が下落し続けている実態から考えると、今回の金融危機では欧米よりダメージが少なかったように見える日本ですが、まだバランスしていないというか底を打っていないと考えられます。それほどもともとのバブル(73年プラザ合意以降の上げ底)が大きかったといえるワケです。さらには、かつて長銀や三和銀行が指摘したように64年の東京オリンピック以降アメリカの2倍もの設備投資が続いたという調査があります。GDPがアメリカの半分ほどなのに設備投資だけはアメリカの2倍という状態が長く続いたのです。サラリーマンの給料は低いままGDPだけは世界2位まで上昇したカラクリは、この程度のものなのでしょうか…。

 73年のプラザ合意(対ドルで円が240円から120円へ)により約1年で日本の財は倍増しました。この延長に登場するのがバブル経済。ところで1年で倍加したものがあれば2、3年で減少するものがあっても異常ではありません。問題はそのボラティリティに耐えるだけの柔軟性があるかどうかであって、金融やましてや改革(小泉竹中路線)やグローバリズムが問題なのではないのです。情報と分析、対策と一連の対応がスピーディであれば何の問題もないのですが、官僚や自民党、経済界首脳の危機意識の欠如と自己保身、それらをソフトに現実化してしまう決定過程の不透明さと不明な責任の所在…が問題なのでしょう。

●レバレッジのもとは拡大再生産…?

 そもそも経済が<拡大再生産>という前提に立っている理由そのものからしてバブルの可能性がビルトインされていることになります。<再生産>が<拡大>するという部分そのものがレバレッジの起点であると考えられ、当たり前のことですが、<拡大>させているものそのものがレバレッジそのものなのです。
 その代表的なもの=拡大の要因が利益や利子であり、(剰余)価値と呼ばれるものそのものでしょう。マルクスはその基点を商品を存在せしめる<労働>そのものに求めました。それは剰余価値として労働生産物に内在し、現在ではその価値が線形代数のようには算出できません。生産過程の合理化で投下された労働(時間)や資源が高効率でべき乗化し産出がバタフライ効果のように膨張するためです。当然のことですが労働価値を否定するのに援用される限界効用説では本質的にバブルにタッチすることはできません。

●銀行にお金を預けていはいけない…!

 銀行には自己資本率が8%以上という規制(海外取引もする場合)があります。つまり自己資金の10倍以上のレバレッジが認められている事業なのです。レバレッジで成り立っているのが銀行なのです。しかも顧客は自分のお金を銀行に預金しているのに、銀行からお金を借りる場合は利子を払っています。詐欺師やヤクザもここまでヒドイ詐欺はしないのではないか…とさえ思えます。なぜ自分のお金を使うのに利子を払う必要があるのか…?

 FXや金融デリバティブにおいてレバレッジがいけないという批判がありますが、銀行の基礎にあるレバレッジが批判されたことはありません。そもそも投資家はリスクを覚悟していますが、銀行はリスクも取らないし責任も問われない信じられないような気楽な事業なのです。合法的な悪そのもの? 利子をとらないイスラム金融が資本主義を悪と見なす根拠もこの利子にあります。

 まず銀行そのものがレバレッジによって成り立っている事実を誰も問題にしないのはナゼか…?

 勝間和代さんの大ブレークは『お金は銀行に預けるな』からですが、ホリエモンも勝間さんも、そして苫米地さんフリー経済学入門も、皆、同じことを言っているのが面白い。それは<銀行にお金を預けていはいけない>ということです。

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2009年5月16日 (土)

<資本主義>の限界?2

 ここのところのNYでもTYOでもダウや日経平均の上昇を見ると100年に1度といわれた今回の金融→経済危機も収束か?とも思ってしまいますが。どーなんでしょー?
 ガイドナー氏なども金融危機の再現はないだろうという見解に至ったようですが。あとは実体経済の成長率ダウンの覚悟さえできればOKなんでしょーか?
 まるでバベルの塔みたいな都市ドバイでも地価の下落率は日本のバブル崩壊と比べれば圧倒的に少なく8割程度。逆にいかに日本のバブルとその崩壊は大きな落差をともなったのか、ということが顕わになってきます。この「落差」には大きな謎と恐ろしい事実があるようですが…。『なぜ世界は不況に陥ったのか』にはそんな恐ろし~日本の経済の歪んだ構造が指摘されていて、かつダウナー?な状態が長期にわたって続く可能性がテイネイに説明されてます…「失われた10年」の原因の説明としていまだに包括的な実証研究はHayashi-Prescottぐらいといわれる「林=プレスコットの議論」の説明があります。必読ですね!

●経済危機の規模は?
今回の経済危機は、数値的にいえば経済規模が1/4にまで縮小すれば、そこで終わりという観測はあります。日本のバブル崩壊後の地価の下落、特に都市圏以外の地方の地価の下落率は1/100、1/200あるいはそれ以上だったところもありましたが。逆にいえば、日本のバブル経済はそれほど無理矢理に膨らませていたワケで、まさしくバブルそのものだったワケです。それがもとに戻るのは歓迎すべきことであって、その逆ではありません。バブル崩壊や経済危機ほど、まるでデフォルトであるかのように存在したイレギュラーを正すチャンスでしょう。そこでこれを好機として捉えたのが改革派の登場でした。

アメリカのGDPの7割以上が消費関連ですが、そもそもG7という先進国の条件は選択消費がGDPの半数を超えている状態の国家です。選択消費は生活必需そのものではないので選択しなければ(消費しなければ)、それはそれで済んでしまう消費です。つまりこの選択消費をしなくても生きていくには関係ない…というものである可能性は大きいのです。バブルとは如実にそういう経済状態を示していました。通勤に使う自動車がランボルギーニである必要はない…ただ単にそういうことでしょう。仕入値50円のネクタイピンやカフスを2000円や5000円や1万円で買って身につける必要もありません。それは嗜好の問題であり、かつ購入可能な経済状態に自分があるかどうかの問題です。

●ソロスの<矛盾>の示すものは?
自分の行為を「投資ではない投機だ」と述べ、「すべてを市場へ」と主張しながら「市場は規制せよ」ともいうジョージ・ソロスの一見支離滅裂な姿勢と言い分は何なのか? まあ、自分は得したい儲けたいと思っているのに外資をハゲタカ呼ばわりしたりホリエモンを罵ったりするのが日本のメジャーかもしれないので、ソロス程度の滅茶苦茶な言い分はしょーがないかもしれませんが。w

でも、そこには大きなヒントがあります。ソロスは個人の中に2つの位相を持っている、あるいは個人が持っている2つの位相を躊躇なく表現することができるのがソロスなのだ、ともいえます。これはユダヤ人同胞の財産を没収するような(耐えがたい)仕事に就いて自らの生きる道を切り開いてきた親の姿を間近にしてこその経験の結果なのだろうと思います。ある意味で(宗教的いえば)自分の原罪や間違いを直視できるからこその達観?であり認識なのかもしれません。

●75%凹めばオワリ!?
ソロスの予想でもヘッジファンドの総資産は1/4に縮小するだろうということ、選択消費論による1/2~1/4の縮小と併せて考えても、世界経済の縮小は最大で1/4程度、つまり75%程度のマイナスではないか?…と考えることができます。

世界の実体経済が6~7000兆円といわれ、グローバル・マネーの合計が2~3京円といわれています。6京とか8京だのという計算があるようですがファンズ・オブ・ファンズの冪上性を捨象すると2~3京円というのが適当だと考えられます。そうであれば実体経済の3~4倍程度のマネーが出回っているということであり、これは特に多すぎるワケではありません。たとえば、これは住宅や自動車など5000万円相当の実体経済の財を所有している人が2億円のマネーを所得(生涯賃金)として得ると考えると全く普通のことであることが分かります。

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池田blog「資本主義の失敗」で指摘されている「個別には合理的行動の集計が社会的に過剰なリスクをもたらす」という状態は資本主義の矛盾ですが同時に動因であり、資本主義そのものであるような気がします。またバブルも必然で「グリーン革命」で次のバブルを「環境」だとする指摘は少なくない同じ意見がありそうです。排出権などを証券としてトレードする資本主義の何でもアリ的なスゴサと、それを臆面もなく国家戦略とするアメリカのようなアタマのイイ国家…心配なのは日本のザマですね…。

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2009年5月 8日 (金)

<資本主義>の限界?

 何種類もの経済原論の講義を受けたところで経済や資本主義はわからないシロモノ…。
 学生になった頃の不思議?な疑問は〝経済学を習ったら金持ちになるんだろ?〟だったり、教授を見ても〝ビンボウそうだな?〟というショックのよーな、そーでないよーな、真理を見たよーな…そんなもんでした。w

 ところで長い間、資本主義の限界はどんなところにあるのか? 具体的にどんな現象が資本主義の限界を示しているのか? と考えてきましたが、バブル経済やマネーゲームは資本主義の特徴そのものであって、それが限界的な現象だとは思えません。暴力革命でさえ資本主義の歪の必然から生まれたものであって、革命そのものが資本主義の限界を示している…というのとはちょっと違う気がします。この辺がマルクスでもニーチェでもムヅカシイところなのでしょう。あるいは弁証法というもののムズカシカシサなのかもしれません。

 

   もしバブルや恐慌が資本主義の限界ならば、
    どうしてその後も資本主義は続いているのか?

    もし資本主義が間違っているならば、
    社会主義独裁体制はナゼ崩壊して資本主義に戻ったのか?

 

 「個別には合理的行動の集計が社会的に過剰なリスクをもたらす」という池田blog「資本主義の失敗」の指摘に象徴されるように〝個人にとっては合理的〟なことが〝社会にとってはリスク〟というのはよくあることだと思います。そしてそれが繰り返されているというのもよくあることでしょう。(たとえば犯罪。個人のオーダーとそれに対する他者あるいは社会によるその全面否定という関係が犯罪の根本的な定義であるはずです。)

 経済(学)関係でいちばん疑問だったのはそういうところです。

 剰余価値のムズカシサや、労働価値への疑問はありますが、考えてみればよくわかることでした。労働に投入された時間を価値のスケールにするのは限界効用からみて説得力がないですが、現代社会が時間で労賃を計算しているのも事実ですし、またボタン一つで生産ラインが稼働する現在は投下される労働に対して冪上化した生産(量)があるワケで、単一の時間性では労働の価値を測れません…というのもますます普遍化する事実です。
 それでも、これらは計算できる事象でしかなく、いかに複雑になろうとも数値把握が可能な可算的な現象です。ジャック・アタリが現在の社会と経済を情報から検討したスタンスでも、それは変わっていません。
 しかしノーベル賞を10数人も受賞しているアメリカの金融工学のありさまくらい理論や特に数値表現への適合性?などというものに意味や価値があるのか考えさせられたものはありません。ノーベル賞受賞者2名が代表だったLTCMの破綻とひきこもりだったBNF氏の150万円→170億円という投資の結果など、統一して説明できる理論があるのでしょうか?w

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2009年4月17日 (金)

<失われた10年>の消費者は?

<失われた10年>とはまさしく失った人たちの物語であって、全員の物語ではなかった…。世界が不況の現在でも、世界でベンツほか超高級車が売り上げを伸ばし、日本でも1億円以上の投資マンションが人気で、アウディの売り上げも伸びています。はずれたのはクルーグマンだのリフレ派だのプロ?の予想や期待であって、確信(犯)的?なパンピー=消費者には致命的なショックはまだ顕在化していません。『下流社会 新たな階層集団の出現』「両極化」といった現象は確かでありながら、だからこそ消費を継続している人たちも相当数いて、90年バブル時よりランボルギーニの数が増えていたりする東京ミッドタウンあたりを眺めても…一律な判断はできないことを示唆しています。もちろんそれらは多くても3、4割程度の人たちだけでしょうが。これは90年バブル前後でいえば年収800万円以上の人たちの消費は伸び続けているという事実があり、逆に『新・階層消費の時代―所得格差の拡大とその影響』では800万円以下は下層(階級)化することが85年時点で予測されていたという事実があります。

90年代初頭のバブル崩壊後94年に『新ぜいたく主義宣言』という本が出ました。<失われた10年>に関する考察では(経済(学)関係を別にすれば)消費者にリアリティがあるものとして貴重な探究です。バブル崩壊しちゃったけど積極的な消費は止まらないだろう…という内容で、3割の人が「クオリティ確信派」として消費し続けているという調査と今後消費し続けるだろうという予測でした。これは当たりました。まだインターネットもなく一部の人たち(コアは数万人?)がパソコン通信をしていただけの時代にこれだけの予期を可能にした調査検討というものもスゴイなとも思います。

 

  高度大衆社会に対応した「リーズナブルな」ぜいたく、
  そして、真の「こころの満足」が達成されるぜいたく、
  さらに環境問題をはじめ、「地球的制約」を与件として組み込んだ、
  「新しいぜいたく」の探求となるに違いない。

  いわば、「新しいぜいたく」の体系的追求が
  産業社会の生き延びる道にほかならないのである。

 

執筆したのは電通総研。さすが広告屋さんのコトバ。消費者との接点にいるだけにズバリ当たっていました…。

 

「バブルの理由?2」で書いたようにバブルが構造化している先進国では消費者が決定権をもっています。しかしそれは自覚がないために<重層的非決定>なかたちの決定権であり、ヘーゲル的な意志ではなく、超高度資本主義=消費資本主義的な膨大な商品アイテム数のように散逸(冪上化)したかたちで発現します。ポスモダ論議?でいわれてきたオタクや若者をとらえて〝象徴界が機能し(て)ない〟ということの本質は、こういうことではないでしょうか?

本来的に{<買う>か?<買わない>か?}という受動態でしかない消費者の意志の発現が決定権をもつことはH・ルフェーブルらが70年代(たとえば『都市革命』)から指摘していました。しかし決定(権)=権力は生産サイドにあるという発想と認識は経済(学)でも政治でも長く続いてきています。

 

池田blog「「失われた10年」から学ぶべきこと」に経済学者も混乱する「失われた10年」への評価(特にどう脱却したかについて)がコンパクトにまとめられています。

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2009年4月16日 (木)

<消費者省>という革命!?

   PL法から15年。
   消費者の国であるアメリカやEUからの要望で、
   20年以上も経て、
   とうとう消費者庁の設置が決定されました。
   行政のウエイトが
   生産者から消費者へシフトすることになるでしょうか…。

●郵政民営化以上の成果?

 使用者側の過失を要件としない無過失責任のPL法。製造業者にとってはキビシイ法律ですが行政はPL法委員会でその取扱いを骨抜きにすることで対応してきました。しかし今回の消費者庁(省?)設置決定は郵政民営化につづく改革の成果でしょう。
 郵政民営化も道路公団改革も中途半端な面では逆効果が生じ、またそこが改革批判のターゲットになりました。
 長年続いている後継者の不在による簡易郵便局の閉鎖が改革のせいにされたり、業務譲渡を不動産譲渡と間違われて入札が不当に安いとされたり、わずかな改革さえ情報の非対称性につけこんだ攻撃にさらされています。
 でも大事なのは端緒をつけたこと。強力にぶち上げた改革がないがしろにされる場面で小泉首相は「端緒をつけたんだから」と自己満足していましたが、それは政治家の哲学というだけではなく、革命でもない限りこの程度の進展速度が限度ということなのかもしれません…。

●成長戦略は消費者メインから!?

 <消費者省>が消費者問題を担当するのは当然ですが、それだけなら当然ながらイノベーションにはなりません。
 選択消費がGDPの半分を超える超高度資本主義=先進国で求められているのは<消費>が占める経済上のウエイトの再検討・再把握です。
 経済的にみて製造部門に比して利益が薄いサービス部門の問題があります。しかもこのサービス部門こそ消費に直結するものであり最もイノベーションが必要でしょう。インターネットの完全な一般化とともに、ラジカルな再考・再構築?が求められます。まず通信(の開放)や著作権といった問題の根本的な改革がないと具体的な〝次の展開〟がはじまりません。

 ある意味<消費者省>の責務は巨大だともいえます。
 極論すれば、今後の成長戦略を担うような官庁でなければいけないワケです。

 幾何的な産業発展の時代から、次のサービス部門の最初のブレークとしての金融経済は文字通りバブルとしてブレークしてしまいました。
 ファイナンスが信用そのものであるように、これは社会や共同体、国家といった人間関係を前提としたあるいは結果とした問題です。具現化したものとしては<税>や<ファイナンス>の問題(国家や政府の問題)ですが、これらとパラレルに生起しているあらゆる現象(事件ほか)との照応なしにすすむ認識は何であれ説得力を失っていくでしょう。その代表が経済(学)である可能性は低くありません。

   なぜレクサスは売れないのか?
   なぜ1日で100名も自殺者がいるのか?
   なぜ下流社会という認識が問題(反発されたのか)になるのか?

 ニート、ひきこもりから派遣切りまで問題はいくらでもあります…。

 

池田blog「成長戦略とは何か」で…

「成長戦略」にとってもっとも重要なのは、政府が特定の部門を成長産業とみなして補助金をばらまくことではなく、競争を促進して創造的破壊を促進することなのだ。

と指摘されています。<消費者省>はその担い手になる可能性はあるのでしょうか?

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2009年4月 8日 (水)

<知らない>から貧乏!

地方の貧困層である農村に通信会社BRAC NETは無線通信のインターネットを設置していきます。配布される装置はWiMAXのデータ通信カードを取り付けたパソコン。目的はまず、貧困解消。

     貧困の原因は情報格差である

村人はネットで都会で売られている自分たちの野菜の値段を知ります。村に来る仲買人の買い取り価格の数倍以上。村人は値段を上げるよう交渉したり、自分たちで都会へ売りに行き、大きな利益を出せるようになるでしょう。〝情報の非対称性〟を理解した村人たちの改革がはじまります…。

NHKスペシャル<沸騰都市>でやっていたのが「ダッカ “奇跡”を呼ぶ融資」

〝情報の非対称性〟の解消に挑むのは22Fの超高層ビルを本部に持つ世界最大のNGOでBRAC。貧困層が多い農村にはその銀行部門BRAC BANKが融資しています。

 BRACの創始者はファズル・ハサン・アベッド
 スタッフ11万人
 融資件数10万件以上

アベッド氏は言います。

「貧しい人は自力で成長すると信じている」

それに

「政府も誰も助けてはくれない」

BRACの経営するデパートでは農村で作ったファッション物を売っています。価格は一般の3倍ほど。それでもよく売れます。いまやBRACはファッションブランドでもあるからです。その利益は貧困解消を目指し年に500億円を貧困層へ融資しているBRACを支えています。返済率は99.5%、利子(支払い配当?)は15%ですが債務者5名で一組の連帯責任になっているので双方に安心感があり、安定して継続的な融資が行われるようになっています。

政府国家の援助に期待せず(事実上拒否?)、利子を取ることなく、農村と都会のスラム街の最貧困層の自立を促すのが目的。救済とか援助ではなく自立を促すというニュアンスがポイント。この貧困層の経済的活動をメインにバングラデシュのGDP6%成長が5年間も維持されているからです。人件費は中国の3分の1。

国内では情報の非対称性をネットで解消しながら貧困層の成長を促し、対外的には人件費の非対称性を武器に輸出を促進…消費国家である先進国だけではなくイスラム圏という広大な市場をもターゲットにさらなる成長が見込まれるバングラデシュとダッカ。

もともと海外から資金が入っていなかったダッカでは金融危機の影響がなし。イスラム圏全般でもダメージは資本主義国ほど大きくなく、イスラム金融(銀行)も自信を深めています。

胸を張るイスラム圏の事業家たち…

世界15億人のイスラムを相手に我々は進みます
マネーゲームは終わりだ…


   ロシアが中東に接近
   オイルマネーをロシアへ

   シンガポールはドバイへの投資を促進
   イスタンブールはイランへの輸出が増加
   テヘランに大型ファッションビル計画
   アフリカの投資家がドバイへ進出
   ダッカからリビアなどへ労働者を

      -       -       -

ところで非イスラム圏の中国、インド、ロシア、アメリカ、日本ほかの人口の合計はイスラム人口を大きく超えます。これら中国も含めて資本主義と市場を基本とする世界でいちばん重要なのは言論と情報の自由です。

貧困の原因は情報格差でもありますが、池田blog「情報の非対称性にともなうエージェンシー問題」で示されているように今回の金融危機でも情報(の問題)は大きなファクター(orトリガー)となっています。

そして、この情報(の価値)に関していちばん根本的な問題は著作権が財産権とされてしまっている大きな弊害についてです。「著作権は他人が自分の著作を利用して新しい表現を行なう自由を侵害する権利である」と指摘する『ハイエク 知識社会の自由主義』『ヤバいぜっ!デジタル日本―ハイブリッド・スタイルのススメ』でクローズアップされている問題です。これはコピーの問題とともにインターネットの今後を左右する大きな問題でしょう。

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2009年4月 6日 (月)

マイクロソフトが売れた理由

●値段は10分の1

 かつて先行するDR-DOS(デジタルリサーチ社のOS)を追い落としてビル・ゲイツ(MS社)がMD-DOSの売り込みに成功した理由はカンタン。
 「値段はDR社の10分の1でいいですよ。」というゲイツの売り込みがあったから。
 こうしてビル・ゲイツは正々堂々とその市場で独占的な地位を築いたわけですね。

 まもなく日本でもDR-DOSは数か月で駆逐され、MS-DOSの独壇場となり今に至ります。たしかDR-DOSはVer6くらいまで出たと思いますが、すでにMD-DOSの圧倒的優位は変わらず、MS社がPCのOSを独占的に占めました。

●使いやすさ&コラボ

 次のWindowsでも同じ。
 〝窓〟をもち、マウスで操作するOSやシェルは他にもありました。日本でもJustウインドウやダイナウインドウなどはある意味先行していて世界初のスクロールバーがあったりしました。そのダイナウインドウを日本で購入して持ち帰ったのがMS社の研究員。その後発売されたMS-Windowsにはスクロールバーがつき、操作性が断然よくなって普及開始。 Windows3.1からPCのハードの圧倒的な性能向上もあってWindows95がブレイク。時代はWindowsへとシフトしました。ウインテルといわれたマイクロソフトとインテルの蜜月がPCを進化させ、それをベースにインターネットもスタートします。

●internetは政府の強力なバックアップ

 バブルの頃、通信ではNECと富士通の技術者用だったパソコン通信(電話回線)が一般向けに商用となりインターネットに先行していました。まもなくNTTが医療関係のデータ(レントゲン写真やカルテ)通信を企画し、それを知ったアメリカのゴア副大統領は国家安全保障会議の承認のもと国防省のコンピュータ通信回線とプロトコルをインターネットとして一般向けに開放することを決定します。NTTの計画を知って半年後にはアメリカはインターネットの基本回線を「情報ハイウエイ」として発表したわけです。このスピード、国防省の協力、国家安全保障会議におけるネットとプロトコルのバッククップ…。

 そしてネットが要求したのが通信の性能向上。ブラウザーのモザイクが当初から画像に対応していたために画像の転送スピードが問題でした。また日本では(特にNEC)はアルファベットの倍の情報量をもつ2バイトコードである日本語(文字)の表示のためにPCの性能アップに迫られました。そのためPCではないワープロ機という日本独自の発展もあり、家電企業とPC企業が激しい競争となり600万円のワープロはわずかの間に20万円程度になり、その後「1台売るごとに赤字が増える」過当競争を経てワープロはアプリ化してPCにリプレースされていきます。

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 MS社の勝利は「ライバルの10分の1の値段」から始まり、技術の発展と、ハードウエア企業との協力を経て進んできています。ゲイツ氏ひとりでアフリカ諸国のGDP合計に相当する財産を所有しているらしいですが、スタートは大学生のガレージ企業でした。それを世界の覇者にしたのはコストと技術で市場の競争に勝ったことです。ところで『ハイエク 知識 社会の自由主義 (PHP新書)』の「イノベーションに法則はない」でも指摘されていますがスティーブ・ジョブズの成功は「ほとんどまぐれ当たりであり」「画期的な技術でもない」ことが示されています。嫌われるほどの個人的なこだわり?でプロデュースされたのでiPodは売れたのかもしれません。

 一般的にはMS社のように何の変哲もない正攻法が市場で勝利するのでしょう。

 ところで世界不況で外需に頼れず、内需にシフトするしかない日本ですが、そのまだ将来があると思われている内需の代表?でもあるWeb関連やIT関連はまとも?なのでしょうか? そこには〝情報の非対称性〟などがまだまだあって本来のIT産業やネットの価値が発揮されていない可能性もあるのではないでしょうか?

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2009年4月 2日 (木)

マネーを独占?する国家

池田blog「ポラニー的不安」のコメントに面白いのがありました。

私は、経済は素人ですが、管理通貨制の下でのデフレをうまく説明するには、はじめに金本位制と管理通貨制の類似性を指摘しなければならないと思う。そして、過剰生産の問題にまで遡行する必要があると考えます。

そこでまず…金本位制と管理通貨制の類似性と限界とか…などと考えてみました。

金本位制は国家の独り善がり・・・

 金本位制は経済が国際化してるのに〝一国でやっていける〟と考える独り善がりな体制。イギリスの利上げで投機資金がロンドンへ移動してニューヨークの株価が崩壊してはじまった1929年の世界不況は金本位制への大きなノンでしょう。もちろん経済が国際化していなければ金本位制でもいいのかもしれませんが、それでも〝金(財)の獲得〟という帝国主義的な萌芽はあり得るし、世界各国がいつまでも個別の閉鎖系であるハズはないですね。

管理通貨体制は市場が命・・・

 管理通貨体制は国際間のバランスを図るためのものでしょうが、通貨の価値を保証するための経済力として国内経済(市場)の健全性?を前提とするので国家の責任と市場の役割は大きくなります。管理通貨体制下でこそ市場は健全でないと、そして国家は民主主義体制でないとオカシクなります。経済と政治の両方が民主主義でなければ正常な市場はあり得ないからです。つまり通貨を保証する国家の市場と政治に関する責任は重大であり、だからこそあらゆるジャンルへの安易な国家介入は慎まなければいけなくなるワケです。

金本位制と管理通貨体制の共通点は・・・

 金本位制と管理通貨体制の絶対的な共通点は、どちらも通貨の発行が国家一極に委ねられているということ。これがどちらの通貨体制にとってもある限界を規定していると考えられます。それは<国家がマネーを独占>しているということです。
 グローバル経済やマネーへの悪罵は世界中で散見しますが、それはマネーを独占的に発行している国家(中央銀行)そのものへの批判として再把握されなければいけません。国家が〝マネーは独占するが、マネーの責任は無い〟というような無責任な態度なら、マネーそのものへの信頼が毀損します。
 これは市場で利益をあげられないで赤字になり借入資金の返済不能からおこる金融危機とは違う危機です。国家そのものの信用危機です。現在、本当に見極めなければならないのは、100年に一度の危機が金融市場や実体経済の失敗による危機なのか、マネーの発行権を独占する国家への信用危機なのか、ということではないでしょうか?
 責任を全うしようとする国家が公的資金をジャブジャブ使うのはある意味で当然です。しかしそれは国家が税金を払っている国民に対して膨大な負債を負うことを意味します。当然ですが国家へのチェックは厳しくなります。情報公開もオンブズマンも当たり前のことに過ぎないでしょう。官僚や公務員のあらゆる情報開示と国民による罷免権の強化があっていいハズだと考えられます。

       -       -       - 

 貨幣論はいろいろありますが、国家が貨幣を発行(を独占)する本質的な理由はただ一つでしょう。共同体構成員の共同体への信用を象徴すること、です。そしてこの象徴=貨幣(とその支払い)をどう扱うか、どう扱われるか、で、その共同体と構成員の関係が計られ、それを見てお互いのあり方を再帰的に自己修正していくためのシステム…と考えることができます。国家にとって貨幣の発行とその還流である税は、国民にとってそれこそ信用の供給と返済なのではないでしょうか。100%の信頼というものがあるとすれば…。

 民主党の小沢氏は消費税施行以前から消費税に積極的でした。それは小沢氏に国家と国民と税に関する哲学があるからです。

   国民が国家に全幅の信頼を置いていたら
   税率は100%でいいはずだ

…と消費税に関して発言したことがあります。

 このくらいの哲学を政治家は持つべきですね。

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2009年3月31日 (火)

不況はリアルか?

昨日3月30日坂巻ファンドの坂巻氏がCNBCの番組内でホント?のことを言ってしまった。

  まわりに何か買わなくなった人います?
  買えなくて、困ってる人とかいます?

くわしくは覚えてないが驚いたことだけ憶えてる。
言っちゃったよ、言っちゃった…。

  今、買い時ですよ、株は。
  欧米なんて政府がどんどんおカネを出している。
  経済が立ち直ったらインフレですよ。
  今持ってる財なんて価値が6割かそんくらいになってしまう。
  イヤでしょ、そんなの。
  だから、今こそ株を買わなきゃ。

藤巻ファンドの藤巻さんも同じですが、不動産価格が下落し金利が安い今こそ不動産を担保にして資金を投資せよ、と主張しています。

ただ問題はそんな余裕資金がない人の方が多いだろうし、今後予想される実体経済の長期的な低迷は将来への希望や期待を萎えさせるでしょう。90年代のバブルを体験した人には<成功体験>があり、不安や悲観にならない閾値が高く、その点では安定度の高い心理をキープできるだろうし将来を楽観できるかもしれませんが。団塊ジュニア以降のバブル体験(成功体験)がない人間はシリアスな現状をシリアスに認識しちゃう可能性は高いでしょうね。

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 こういったファンドの誘惑やすでに公的資金の返済の目途をつけてしまったゴールドマンサックスのようなポジションとスタンスを可能にしているものは何か?…

 先進国あるいはG7参加国の共通項としてGDPの半分以上が選択消費だという経済社会の構造は、選択消費をしなければGDPは半分以下に縮小することを意味しています。これは同時にバブル崩壊のショックを吸収するアブソーバーでもあって、GDPの半分がバッファとして機能しうる可能性は大きいハズです。実際今回の経済危機に際してそれなりに素早い対応をG7各国がみせているのは<GDP半分>相当の余裕というかバッファがあるからと考えられます。日本でも大企業16社で33兆円の留保金。資本金10億円以上の大企業であれば総計230兆円も留保金があります。さらに国民の預金資産は1500兆円ともいわれています。

 これらは何を意味しているのか?

 バブル(の可能性)が構造として経済に組み込まれた社会経済では、バブルは10年単程度の循環現象として発現していく構造なのだろう…という認識のほうがリアルだと考えれます。

 膨大な量の…社内留保金? 余裕資金? 過剰流動性? アメリカ国債?

 結局これらの管理運用が問題なのであって、すでに構造としての<経済>や<資本><資産>がどうであるかは、しだいにスポイルされていく問題であるのかもしれません。確実なのはすでにバブルは経済構造に組み込まれ構造化してる、ということではないでしょうか。

 その時に本来の意味で<蕩尽>と<贈与>が説得力を持ち、過去とは違った意味でやはり経済にも祭祀の面は小さくなく、<祭政一致>の発現としても、モノを媒介にしながらも人間の心(理)が顕在化する一瞬なのではないかと思います。

 原始共同体では、その共同体構成員(民衆)の生命は王に一任されていますが、それと対称的に王の命も豊穣の約束と疫病の忌避を条件に民衆に一任されています。この<王と民衆>の等価(命の等価交換)な関係は何事もない日常では生贄(王もしくは民衆の命の代理的象徴)として祭られます。この生贄の象徴の度合いが強くなりやがて記号や儀式といった<形態>そのものに抽象化あるいは昇華していくレベルは時代の変遷と進歩の表象そのものです。この原始共同体のレベルを〝歴史外〟として対象化しなかったヘーゲルは単なる〝思念されただけの論理〟に終わりましたが、思念の環界を思索した、つまり思念をアフォードするものを対象化した思索は多種多様(精神分析、認知科学をはじめあらゆる認識の対象としてのあらゆる環境を探究する科学…経済学も含む)に現在進行形です。

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池田blog「シリコンバレーの「核の冬」 の指摘。

マルクスもケインズもシュンペーターも、資本主義が拡大するとともに収穫は逓減し、長期停滞がやってくると予 言した。その予言はこれまでのところ外れたようにみえるが、今回の経済危機はもしかすると、先進国では資本主義の鞘が取り尽くされ、長期停滞に入る前兆か もしれない。

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基本的には長期停滞に入る気がしますが。そこからの脱出は莫大な資本が蕩尽的に贈与されたりすることかもしれません。ありえないか…。願望しちゃいますね。

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2009年3月30日 (月)

<不況>と<不安>が生むもの

『ハイエク 知識社会の自由主義 』のP29・30で「意図せざる結果」というカール・メンガーの重要な認識を池田氏が紹介しています。

…「有機的」な起源をもつ社会現象は国民の個人的努力、すなわち個人的利益を追求する努力の意図されないで合成された結果として現れるという特徴をもっている。

 資本主義が発達し、市場経済下で大量生産・大量消費が日常となる時、さまざまな社会の動向や政治や経済の諸々の決定はどこでどのように生成するのか?…。
 たとえばアルチュセールは「資本論」を数学的な認識から再読し、さまざまな階層や立場からの「決定」が膨大に交錯し積分する結果として社会はあるのだという認識にたどり着き、<重層的決定>と表現しました。ある意味で金融工学がさまざまな変数(ある経済官庁の経済指数算定プログラムは変数が2000以上ある)から解を得ようとするように、現在のこの一瞬である特異点を形成しているのはさまざまな「意図」の錯合だということでしょう。

 しかし、これはメンガー的にいえば、現実はむしろこの「意図」の背理?で「意図せざる結果」ではないかと思われます。また超高度資本主義あるいは消費資本主義ではGDPの半分以上が選択消費ですが、消費者=大衆のひとりひとりが明確な意思をもって生活を営んでいるワケでもないので、その大衆の<決定>ではなく<非決定>という態度の重層こそが社会を形成しているといえます。ここではマルクス主義的な構造による決定論も主体は合理的だと根拠なく設定している一般的な経済学的な決定論も無効です。その情況を吉本隆明は<重層的非決定>と表現しました。そこから導かれるものは「意図せざる結果」でしょう。

 現在の世界の情勢をこの「意図せざる結果」から見れば、その<重層的非決定>からして、世界不況・経済危機のトリガーはともかく〝犯人〟は特定できないということが考えられます。この特定できないところに<不安>の根源もあり、またそれゆえに<不安>は増幅もされます。
 この<不安>を解消するために〝自動的〟に<何か>が代入されます。これは人間の心理的な防衛機制であり、意識せずに常時機能している心的な現象です。<非決定>領域に<何か>が代入され、とりあえず<決定>として仮構されます。
 たとえば吉本隆明がヘーゲルからマルクスへと引き継がれてきたと考えた観念の運動としても、これは一つの作用であり結果です。ヘーゲルは<王>は<ひとり>だったが、やがて<全員>が<王>になるというような歴史の進歩を考えましたが、<王>の定義が単一なところにその限界があり、マルクスはおそらくこの<王>をもっと自由にひとりひとりの<市民>が自己定義できると考えたと思われます。<市民>の<自由>というのはこの<何か>を選択する自由を根拠にしていると考えられます。その物質的な基盤としての経済構造をモデリングし解析したのが「資本論」でしょう。

 近隣に〝市〟が立ち、経済的な状況に変動が及び始める時に、その〝市〟の影響領域との境界付近に〝物の怪や鬼〟の伝説が生じます。この民俗学や文化人類学的な出来事こそ、経済変動による不安を<何か>で埋めようとする観念の行為にほかなりません。吉本隆明はその心理的な根拠をフロイトなどを援用しながら解き明かしました。その成果が柳田国夫や古事記をサンプルにした共同幻想論です。またその心理的な根拠を探究したものが心的現象論ですが、フロイトをベースにハイデガー、ベルグソン、フッサール、ポンティ、サルトルなどを参照しながら展開され、言語化以前と非言語認識(感覚による)の発生や統御をベースに解析され考察される世界はマルクスの基本認識と照応しながら現代の資本主義(の階程)における人間の考察へと進展していきます…。

 

池田blog「ポラニー的不安」で、こういう状況で必ず登場する「市場」批判や「資本主義」批判に関して「安定と成長のトレードオフを無視し、対案を示さない」批判者の自己矛盾を鋭く突いてます。一般的に自己保身意識が強い分だけ他者批判をし国家や宗教(あるいは〝常識〟〝みんながいっている〟)といった<他者が関与しない(できない)>ものを錦の旗にした主張が出てきます。ヒキョーな遠吠えともいうべきものでしょう。

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