2012年1月26日 (木)

<総記録社会>というユートピア…『一般意志2.0』

 本書『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 』はルソーの<一般意志>に触発された本。でも東浩紀さんの主張する<一般意志2.0>を担保するものはルソーではなく、むしろスコット・ペイジの方かもしれない。ペイジは民主主義そのものにとって重要な、大衆の示す属性?に重大な事実を発見したからだ。

 それが本書で紹介されている「多様性予測定理」「群衆は平均を超える法則」の2つ。

 タイトルのルソー、フロイト、グーグルにそれぞれ重要な意味があるけど、民主主義だけではなく社会一般あるいは世界そのものにとって重要なのはスコット・ペイジの発見かもしれない。ペイジの理論はある意味で大衆論や大衆という概念そのものにケリをつけた可能性もある。

           
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

著:東 浩紀
参考価格:¥1,890
価格:¥1,890

   

 ペイジ(の訳)のいう「衆愚」が正確な予測を生みだすというのはどういうことなのか? ペイジが属するサンタフェ研究所や複雑系では金融の予期理論なども研究されていて、本書『一般意志2.0』のなかでも<予測市場>などが紹介されている。特別な知識がない一般的な人々でも(つまり専門家でなくても)ある方法である特定の世界の予測ができるというもの。(投資の世界ではある程度知られているかもしれないがサンタフェ研究所では株価の予測システムなどとして成果を生んでいる。日本でも新日鉄の溶鉱炉の制御システムから生まれた金融の予測システム、日立のヘッジファンド向けシステムなどがある)

           
「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき

翻訳:水谷 淳
参考価格:¥2,520
価格:¥2,520

   

 極端にいうと少数のプロより多数のアマチュアの方が正しいというもの。最高の英知だと自負している科学者が原発事故を想定できず、地球物理学者が太平洋は広いから津波は拡散して10メートル以上の高さにはならないと理論的に判断し、これらが現在の福島原発事故の原因になっている事態は、歴史的、経験的な事実として日本の各地に記録されている20、30メートルの津波が来たという事実データと比べてコッケイ…。複雑な理論やスパコンによる計算が根本的に意味を成さない、それどころか致命的な陥穽を含む可能性を311は証明してしまっともいえる。他方、人々の生活の環境に刻まれた記憶=データは十分に大災害をヘッジできる可能性があった…。

 東さんが<総記録社会>と呼ぶ近未来?の社会はリアル。部分限定ならすでに現実だし、個人がみんな自分の総カルテみたいなものを総背番号とともにもつようになるのかもしれない。プライバシーの問題とか監視社会だという指摘はあるけれど、そこからの離脱が自由ならOKではないか?と思う。刑務所の外と中のどちらが刑務所かとかディニーランドの外と中のどちらがディズニー的かという指摘はボードリヤールみたいに以前からあった。ただそれがリアルになってきたということ。そこへの参加と離脱という選択が自由ならばそれでいいのでは…ということで究極はやはり自由の問題かもしれない。

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 ステキな一般意志がいっぱい…です!

▲Stairway to Heaven
書評:東浩紀『一般意志2.0』
ひとびとはこの枠組のなかで、宗教的・政治的・文化的な共同体を自由につくることができる。だがそこには、ひとつ大事な原則がある。どのような共同体も、本人の意思で自由に退出できることだ。

▲Living Well Is the Best Revenge
東浩紀『一般意志2.0』http://tomkins.exblog.jp/tb/17552265
「一般意志2.0」がユートピアにつながるか、ディストピアへの道であるかについてはひとまず措くこととしよう。東は本書で「未来の夢」を語ろうとする。ペシミズムに毒された現在にあって、議論の内容はともかく、東の姿勢に私は強い共感を覚えるのだ。

▲サブカル波動関数論
一般意志のネットワーク表現@一般意志2.0
しかしこのTwitterや2chに代表されるようなネット上の膨大な量の呟きから、クリアな一般意志2.0を抽出し可視化する方法を、既に科学は知っている。認知科学と人文工学の境界領域において現在活発に研究が進められている、大量テキスト解釈の研究成果がそれである。

▲読書手帖
『一般意志2.0』東浩紀・著
しかし、私は独創的なアイデアで綴られたこの「エッセイ」をワクワクしながら読みました。これまで「民主主義」や「政治」「国家」について、こんなふうに「夢」をもって考えたことはありませんでした。想像を超える現実に打ちのめされた2011年だったからこそ、想像力豊かに未来を語る1冊に惹かれたのかもしれません。

▲on the ground
哲学的想像力の滞留――東浩紀『一般意志2.0』
本書の立場をより一般的な文脈に接続するなら、情報技術を通じて未組織大衆による利益政治の規律を可能にしようとするものだと言える。したがってそれは、流動性が高まった現代社会における利害伝達経路の再編を図ろうとする「ステークホルダー・デモクラシー」の一部として解釈することもできる。

▲yamachanblog
一般意志2.0と新しい政治メディア(東浩紀と津田大介)
「一般意志」を言語で説明しようとするのが思想であるならば、それを言語ではなく絵や音楽で表現するのが芸術なのかもしれないと思いました。

▲takadat tumblr.
Quote December 08, 2009 88 notes
ニコ動の疑似同期は,みんなが勝手にバラバラに喋っていると,それがなぜか時間を共有しているように感じられる.twitterもみんながひとりごとをバラバラ喋っているのだけれども,なんか議論しているみたいに感じられる.このフィクション感がルソーの一般意志と近い.フィクションとしての議論空間,フィクションとしての集合知.

▲FERMAT
一般意志2.0はなぜ「夢想」から始まるのか。
だから、アメリカでは、このまま、マスメディア2.0の到来を言祝ぐところまで行ってしまうのではないかと思うし、その時、東が夢想する「一般意志2.0」は、アメリカ(あるいはカリフォルニア)でこそ、あっさり実現してしまうのかもしれない(その時は、「トクヴィル2.0」とでも言っていいと思うけど)。
ちょうど、ジュネーブ出身のルソーの記した一般意志(1.0)が、フランス革命という場で現実化したように。

▲憧憬と原景
東浩紀氏の「一般意思2.0」(第7回) 無意識を可視化する装置
ネットという無名性の中で展開される赤裸々な人間の欲望を「生のかたち」で引き出すことが、果たして本当に「一般意思」といえるのだろうか。

▲NEOACA BLOG
東浩紀『一般意志2.0(5月号)』(『本』連載)を読む
危ういと感じる根源は、おそらく、東浩紀の人間観にあるのだと思う。極論すれば、「オタクがオタクのままでいられる社会システムを作る」というのが「人間が未成熟なままでいい」と受け取られるからだと思う。そして、「そういった未成熟な人間=動物を管理・支配する」というのが環境管理に思える。

▲独解、吉本さん
『一般意志2.0』…市場の要素としての<一般意志>?!
アルチュセールならば重層的決定の成果だ。現代思想が流行した頃の言葉でならば<構造>であり、それに対して<一般意志>は<ノイズ>といえる。重層的決定を全体意志とするならば、<一般意志>は吉本隆明のいう重層的非決定とオーバーラップするものだ。

▲ねぼけログ
対話の限界と、その先にある新しい民主主義@『一般意志2.0』
実践的・具体的なイメージを刺激する内容で、非常に面白く読了しました。『動物化するポストモダン』から10年が経ち、東の社会に対するスタンスもまたアップデートされている。本書を通してそれを読み取ることができるように思います。そこも読み所のひとつではないでしょうか。

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2011年12月31日 (土)

96、97年ピーク以降下落し続ける理由…『デフレの正体』

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●全数調査データによる圧倒的な事実!

 2011年の元旦、日本のこれからを考える経済番組で希望や可能性を語れる論者として紹介されたのが著者のマスメディア初登場。バブル崩壊後は大部分の論者が政治や社会を批判するばかり、そうでなければ意義不明の御用学者…という情況の中での新鮮な登場。日本全国ほとんどの自治体を歩いて回った著者の説得力ある主張にメディアが注目したのでしょう。現場からの見解であり、参照するデータも全数調査でもれがない全国規模のデータばかり。何らかの理論や先入観による言説ではなく全国の現場を直接見て、全国規模で長期スパンのデータとつき合せて考えられたのが本書の内容です。

           
デフレの正体  経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

著:藻谷 浩介
参考価格:¥760
価格:¥760

   

 本書のベースになっているデータの特徴は以下

  ・ソースはネットで公開されているものだけ
  ・全国調査のものだけ
  ・数値は絶対値のものだけ
  ・スパンは長期のものだけ

 『デフレの正体』で扱われている数値は全数調査のものばかりで調査対象の漏れがありません。全国を範囲とし対象となるもの全てが把握されている数字です。マーケテイングという名目で限られた範囲しか調査していないものとも根本的に違います。しかも変化率や対前年度比などの相対的な数値ではなく、個別の絶対数を長期にわたって把握したもの。それは事実を見るという一点にフォーカスしたスタンスのものです。
 統計値といいながら率(確率・変化率)しか見ない近視眼的な評価は除外されています。統計の本来の意味は揺るぎない絶対値を把握することであってスパンを限ったナントカ率で思考停止に陥ることではないからです。

 20年間も景気が浮上しないという事実から、基本的に既存の経済のあり方が通用しなくなってきていることを念頭に現行?の経済学にも否定的です。まず現実を把握する…そこからノンジャンルで思索している著者は長期スパンで全国規模のある変化があることを発見…それが「人口の波」です。

●96、97年をピークにすべてが下降へ

 経済産業省の商業統計をはじめ、書籍・雑誌の売上、貨物総輸送量、旅客輸送量、ビールの販売量、1日あたりのタンパク質の摂取量や水道使用量…など多くの統計から導き出された共通の傾向があります。96、97年をピークに減少しはじめたという事実です。これこそが「人口の波」に影響されて変動する経済をはじめとした変化の現れでした。コンドラチェフの波以上にリアルなのは確か。

 小泉竹中路線の構造改革で格差が拡大した!という批判がよくあります。経済的に期待されたトリクルダウン効果がなかったのが原因ですが。そのいちばん大きな要因が「人口の波」だったのを著者はデータから読み取りました。私見では97年橋本内閣による消費税増税が、ようやくバブル崩壊から回復しそうだった景気の芽をつぶしてしまった事実はとても大きいと思いますが、もっと根源的な原因が「人口の波」だったのです。

 著者がマクロ理論に対して挑発的なスタンスなのは確かですが、ツラレた人間が多いものも確か。本書に対する「経済学的には、誤りだらけの本です」という経済学信奉者からの批判は、逆に経済学(その信奉者にとっての)が誤りだらけだということを証明してしまっているかもしれません(バブル崩壊以降の失われた20年間のあいだ無力だった言説(経済学?をはじめ)は無能無効であることは否定しにくいもの。すべてが日銀や政府だけの責任であるわけもなく、そういう状況下でまず的確な現状認識を示した本書は貴重です)。少なくともそれは私が知ってる経済学(剰余価値や限界効用といった価値を追究する学問)とは違います。本書のようにフィールドワークによって現実を直視した見解と、帳簿と簿価は普遍かつ不変だと思い込んで三面等価理論やマクロ経済学を教条としてしまっている立場と、どちらを一般の読者は評価するでしょう。50万部を超えて売れ続ける本書が照らし出すのは不況の現況や原因だけではなく、ネットで顕在化するイタイ言説や歪んだ認識の多さでもあるのかもしれません。

●理論ではなく現実をみる人たち(当たり前だけど)

 『デフレの正体』の特徴は繰り返しますがデータが全数調査、全国規模、長期間の変化というもの。全国規模で大きく長い変化を反映したものだといえるでしょう。
 本書が提起した「人口の波」の問題と関連する経済学上の考察が「世代会計」。この「世代会計」に基づいた本が『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木)です。 重要なのは基本となる公的なデータ。そのデータを作る官僚の立場にいた著者の『ワケありな日本経済ー消費税が活力を奪う本当の理由』(武田知弘)は大企業の莫大な社内留保金についても言及している唯一の経済書かもしれません。日本のバブルとアメリカの関係など興味深い見解もあります。
 以上の3冊はバブル崩壊以降の日本の社会・経済をめぐる状態について現実を直視した必読の本。ナゼだか3名とも経済学者ではありませんが…。

 経済の大きな動因ともなる政治的なファクターも含めてグローバルなレベルから日本と世界を俯瞰しているのが『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫、萱野稔人)。イラク戦争がドルをめぐる戦いだったこと、日経平均株価がアメリカに左右される理由などラジカルな見解が続き、また3.11へ臨んだ日本人の姿勢に世界に冠たるものになる可能性だどが類推できる内容になっています。

 『デフレの正体』をはじめ以上は理論ではなく現実を直視するためには必読の4冊です。豊富なデータを読むだけでもためになります。また数値だらけのような読みにくさもありません。
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スルドイ書評で人気のweb「404 Blog Not Found」のコメントが「人口の波」などについても参考になります。

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2011年2月12日 (土)

<家族>と<地域>のギャップ!?

「朝まで生テレビ」(2月4日放送)で「国民の2つの義務」として「納税の義務」と「国を守る義務」が問われました。ホリエモンが国を守る義務はないと発言し、紛糾?するなかで国会議員が発言。

齋藤健さん(自民党議員)が国を守る義務や大切さを説くために「家族があり、そして地域があり…」と個人(の存在)から空間的に領域を広げていく(遠隔化する)形で(たぶんパトリオシズム的に)国家と領土について(守る必要性を)語ろうとしました。

これに対して東浩紀さん「家族と地域の間には飛躍がある…」と指摘。家族と地域は同一に語れないということでしょう。これは番組内で唯一の本質的な価値がある発言でした。

地域をベースにしたパトリオシズム的な発想は左翼的?な反発も少なく“ご近所”や身近なコミュニティとオーバーラップさせて推しやすいもの。ローカルな自然やエコとのカップリング、地産地消などの経済的なテーマともリンクしやすく、政治的にも地方や分権のトレンドと合致します。また日本のように国土のほぼ全域が居住可能な環境では説得力をもちやすいイデオロギー?でしょう。だからこそ逆によく考えることが必要なのが地域の延長に国家があるような発想です。自治の最小単位でもある“隣組”が戦前の日本のファシズムを支えたという認識は無視できるワケではありません。{以前NHKの討論番組でただ独り宇野常寛さんがこのことに触れていましたが…}{2人の人間が出会えばそれだけで権力が生じることを論証(予期理論)した宮台真司さんの指摘はファシズムなどの根源も押さえていて重要です}

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●家族と地縁は同質?ではない

 地域での関係性と家族の関係性は全く違うもので、地縁と家族(血縁)という関係は同一の論理で語れるものではなく、『共同幻想論』はこの<同一の論理で語れない>ことそのものを日本における国家論の前提とする認識です。(無理矢理同一の論理で語ろうとするのはファシズムや強権のタネでしかありません)

 <同一の論理で語れない>ということの解の第一歩は、<複数の論理の錯合>として把握することでしょう。

 共同幻想論は歴史や資本論におけるアジア的(生産様式)という概念に日本においては<複数の論理の錯合>を見出して探究し、アフリカ的段階はその前段階であり基礎ともなる自然環境における関係性を解いています。

  わが初期国家の専制的首長たちは、
  大規模な灌漑工事や、運河の開削工事をやる代わりに、
  共同観念に属するすべてのものに、
  大規模で複合された<観念の運河>を
  掘りすすめざるをえなかった。
  …
  そこには、
  現実の<アジア>的特性は存在しないかのようにみえるが、
  共同幻想の<アジア>的特性は存在したのだ、…
(*『共同幻想論』から考える

 

 家族と民族の関係はグラデーションであっても家族と地域は簡単に連関するものではありません。大澤真幸さんが血縁からの離脱が国家の始まりだと共同幻想論から読み取ったように、地域というフレームそのものが家族や民族のベースにあるものとは乖離していて、その度合いそのものが進歩の度合いにも比例します。逆にいえば土地への関与の強さや執着は原始的な度合い比例するもので、アフリカ的段階では土地そのものでもある自然環境への対応を関係性に照応させる観念の在り方が考察されてます。

  吉本にとっては、国家の最小限の条件は、
  共同幻想が、直接(血縁的)関係から独立に現れること、
  である。
(*共同幻想論大(澤)?解説.2



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思想地図β vol.1

編集:東 浩紀
参考価格:¥2,415
価格:¥2,415

   

『思想地図βvol2』ではホリエモンも登場するようです。今回の朝生TV関係の突っ込んだ話が読めるかもしれません。

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2011年1月13日 (木)

<弟のため>か<家のため>か?

「家族への忠誠」か「普遍的な正義」か?

「マイケル・サンデル 白熱教室を語る」(NHKで放送した番組)によると人気の白熱教室、東大での講義でサンデルが苛立ったという対話があります。それは弟の殺人をめぐってのものです。

 弟が殺人を犯したら、あなたはどうするか?

…というサンデルの問いには「家族への忠誠」「普遍的な正義」か?という根本的な問題意識があります。ところが「普遍的な正義」を主張したのはたった一人で、他はすべて「家族への忠誠」からの答弁でした。

      -       -       -

<弟のため>と<家のため>と

 弟を匿ったり、通報したり、自首させたりといくつかバリエーションがあっても、これらはすべて親和的関係からの判断で「家族への忠誠」からの答弁です。理由は<弟のため>。家という親和的関係からの弟に肯定的な判断ということです。
 しかし同じ親和的関係からの判断でも<家のため>というものもあり、これは文字どおり<弟のため>ではない判断になります。弟という個人ではなく家という共同体の利害を優先した考えで、時には弟を追放するような判断もなされます。共同体(家)から個人(弟)を追放するという、弟(個人)に否定的な(共同体の)判断です。

 同じ親和的関係からの判断でも<弟のため>と<家のため>ではまったく意味が違うものになります。肯定的であるか否定的であるか、真逆の判断が同じ親和的な関係からなされることがあるわけです。
 <家のため>に弟が追放される場合、弟は家という共同体から否定(追放)されるために流浪するか別の共同体に帰属していくようになることが予期されます。つまり別の世界や共同体がクローズアップされてくることになります。

 弟を肯定するのでも否定するのでも判断の根拠は(主体は)どちらも親和的関係である<家>です。サンデルが求めているのは<普遍的な哲学からの正義>であって「家族への忠誠」と呼ぶ(家からの)判断ではありません。

 <家>は個人に対して近接的なものであり親和的関係(対幻想)の(生成する)場所です。あるいは対幻想から最初に生成する共同体が家だともいえます。しかし<家>による判断が必ず個人を尊重する(個人のための)ものとは限りません。家の利害に反すると判断されれば、その個人(家族)を追放することもあります。犯罪や財産の分配をめぐって家と個人が相反するトラブルは頻繁に起こっているというのが現実でしょう。

「普遍的な正義」からのジャッジはあるか?

 サンデルが知りたかった“普遍的な哲学からの正義”によるジャッジを主張したのはたった一人の女性。サンデルが“普遍的な哲学(立場)からの正義”と主張しているものは何なのでしょうか? (ある意味でこの女性の立場(の半分)はかつて巫女と呼ばれるものがとってきたものと同じだともいえますが。)

 サンデルが求めている普遍的な原理による正義はあるのでしょうか?

 サンデルのいう<普遍>とはフォイエルバッハ的な意味での<神>であるかもしれませんし、コミュニタリアンであるサンデルは不可視なレベルで(神のように)<普遍>を設定しているのかもしれません。本当?の意味で<普遍>をいうならばカント的な<公共>であるはずで、コミュニタリアンとしては、そのスタンスはとれないのではないかという?もあります。簡単にいえば本当?の普遍というものはないからです。

 たとえば平和(戦争反対)は普遍的希求のようですが、現実には絶対に平和を求める主張は圧倒的な少数派であるという事実があります。
 歴史的な事実として、たとえば第二次世界大戦で戦争に反対した勢力は2、3だけで、大部分の政治、思想、宗教のグループは自国の戦争に賛成しました。世界各国の社会党(社民主義)はすべてそれぞれ自国の戦争に賛成し自国の勝利を求めました。全世界でそれぞれ自国の戦争に反対したのは共産党だけで、日本でいえば戦争に反対したグループのひとつは共産党(コミンテルンつまり共産主義インターナショナル参加政党)、それから大本教(出口王仁三郎)などのごく一部の宗教、そしてCOOP(生活協同組合)となります。
 絶対平和を唱えるカント的な立場には現実的な根拠はありません。むしろ実現し得ないからこそ平和を希求するところにカントの意義があるのでしょう。

 {(<普遍的な正義>には根拠がない)という根拠}しかないというのが論理的な事実だと思います。だからこそ、あえて普遍的(な正義?)であろうとするのがサンデルの立場?なのかもしれません…。

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2011年1月10日 (月)

白熱教室・トロッコ・ミメーシス

ポリス・遠野物語・国家

『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』が評判になってます。ひさしぶりに読み応えのある1冊かもしれません。メインは大澤真幸さんと宮台真司さんの対談。内容はミメーシスをキーワードに共同体や正義について。白熱教室で人気のサンデル教授へのラジカルな評価があったり…。なかなか見つからない現代の問題のあらゆる解のヒントがありそうな内容です。特にミメーシスは恋愛から友だち、仲間、ヒーロー、サブカル、オタク…いろいろな問題のメインとなるテーマだと思います。それに吉本さんの共同幻想論や対幻想(ミメーシスの要件)と照応させると驚くほど一致することが多く、その点でも面白く読めそうです。

           
大澤真幸THINKING「O」第8号

著:宮台 真司 , 他
参考価格:¥1,050
価格:¥1,050

   

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ダイヤローグ・・・

 サンデル教授の白熱教室で行われているのは対話。教員と学生の対話で進める授業形式で「ソクラテス方式」と呼ばれているギリシャ(のスコラ)哲学の時代から続くダイアローグ=<対話>。これを日本語に訳した(直した)のが<弁証法>ですが、誰もそうは思いそうにないところに、難解な専門用語で構築された日本の専門家=プロ(フェッサー)の立場の特徴があるかもしれません。

デッドロック・・・

 「トロッコ問題」(番組内では路面電車)は…トロッコのブレーキが壊れてしまい停止できない。線路を直進すれば線路上で作業している5人が死ぬ。待避線へ入ればそこで作業している1人が死ぬ。どちらを選ぶべきか…というもの。これはどちらに行っても死者が出るデッドロックであり、ポスモダで流行ったダブルバインド(ベイトソン発の柄谷・浅田による)といわれる設定の、論理的な限界を示した問題です。正義や倫理に論理的な限界を突きつけることによって何かを顕在化しようとするもの。でも、別の言い方をすれば論理的にしか意味が無い問題でもあります。(柄谷行人さんはあらゆる論理的な限界を考察しつつ、最後にカントの<公共>に行きつきました。カントの<公共>は現実(利害)の規定を受けません。それは<他界>と同じ観念の冪乗化したものであり、現実へ還元できるルートを見つけることができません。そこには現実からのジャンプがあり、現実に依拠しながら現実には還元できないものとして顕在化したカントなりのU/TOPIEな概念なのだと考えられます。<公共>概念はカントにおける<他界>(論)だと考えることができるものです。)

ミメーシス・・・

 塩狩峠や打坂地蔵尊で知られている事故のように身を挺して列車やバスを止めた人たちがいたり、宗教的に倫理的に論理的限界など超越してしまっているケースは少なくはなく、論理的な限界というものは現実にはそれほど意味が無いかもしれません。「卓越者であれば超えられる程度の壁」と宮台さんが『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』P24で指摘するとおりです。また『権力の予期理論』でアローの社会選択理論などに触れながらもそれを重要視していないスタンスが示しているものはそういった現実を踏まえているからでしょう。彼はミメーシスや近接性に解を求めようとしているのであり、それは現実的でしかも唯一の解である可能性は大きいと考えられます。少なくとも現実に実効性のある解はこの範疇にしか無いハズ。論理的な問題の効能はその主張者の自己発現になっているという程度のことに過ぎない例がネットや一般的な状況では少なくなく、酷ければ“論理”そのものが神と化している信仰に過ぎないし、信仰がなければ何もできない病に過ぎない例もあるでしょう。

 「神は、いません」というあるキリスト教の牧師の話を聞いたことがあります。たぶんその牧師は神がいないことを知っていて、そのうえでなお神がいると信仰している…のだろうと思いました。そこにはミメーシスを起こしそうな何かがあります。シーシュポスの神話にミメーシスしたら最強かも…などと思えるようになったのはいつ頃からだったか。

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2010年12月26日 (日)

了解の予期から権力…

           
システムの社会理論―宮台真司初期思考集成

編集:現代位相研究所
参考価格:¥3,465
価格:¥3,465

   

宮台真司さんの理論(<了解>を媒介にした)や吉本隆明さんの理論(幻想論=上部構造論)を参考に権力の簡単な説明をしてみます。

  AはBにプレゼントしようとする…

という状況で何が生じるか?

Aには「Bにプレゼントしよう」という気持ちがあり、Bが何も知らない現段階ではBがそれを受けとるかどうかはAには解りません。

この時、Aを拘束する判断が生じます。それはBの対応が未知であるからです。

Bが「受けとる」か「受けとらない」かは、Aには予期できません。

受けとってくれればウレシイし、受けとってくれなければ気まずくなる。Aは自ら意図したプレゼントによって自らがワクにはめられてしまいます。

しかも、この未知の可能性(Bが受けとるかどうか)は現段階ではA自身が想像するものであって、Bそのものの意志とは何も関係ありません。

つまりAは自分で描くBの対応像によって自縛されるワケです。そして、Aは事実上Bに関係なくB像によって左右され、支配される立場に置かれてしまいます。

どこにも支配の意図はなく支配者であろうとする者もいないのに、Aは拘束され支配されてしまいます。Aは自ら支配されていくことになります。
Aの「プレゼントしよう」という意志と意図された行動が自らが拘束される発端となるワケです。

ここに支配者なき支配がはじまると考えられます。

誰も権力者などいないのに権力が充満する状況。つまり、現在の状況?(情報自由論by東浩紀さん)が生まれるワケです。

       -       -       -

宮台真司さんは『権力/何が東欧改革を可能にしたか』(91年)という社会学の論文の中でその2年前に刊行した『権力の予期理論』(89年)の手法を応用し「草の根の権力」といった「正統な権力」を成立せしめるファクターについて説明しています。

  「どんな人間同士でも、2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」

と「草の根の権力」について喚起し、

  「国家権力や企業などの組織権力のような、強力で組織に裏打ちされた権力も、
  実はそうした草の根の権力を、独特の技術を用いて選別し、集約した上で、安定化
  させたものなのだ」

と「正統な権力」について説明しています。

これを読んで咄嗟に思い浮かべたのが埴谷雄高をはじめとするいくつかのファシズム論。ファシズム論は究極の権力論でありナチスやスターリンはもとよりポルポトから現代の官僚の権力を保障する制度まで分析できる可能性を持っています。身近なところではワンマン社長の存立する理由から家族における父性・父権まで説明することもできるでしょう。

それらを含めて“力の場”を構成するものを微分すれば支配‐被支配、権力‐被権力といった2項に収斂すると考えられます。そればかりかフロイトにおける対幻想から吉本さんにおける幻想論まで、この2項というファクターは基本単位でもあります。宮台さんはそれを社会システムを構成する最少単位として抽出し、その機能関係から解き明かすことを試みているワケです。

「2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」と宮台さんが指摘するとおり、政治や企業といった「正統な権力」からコギャルとオヤジの関係までを透徹して認識する権力論。「2人」であり「出会い」であればそれは吉本さんの対幻想論マルクス『経済学・哲学草稿』でいう男と女の関係も同じ…。そこには「悪魔の理論」とも呼ばれるらしいルーマンを含めて、宮台真司さんの方法の可能性を探る楽しみもあるでしょう。

(1997/9/10~12/20,2010/12/26)

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2010年10月24日 (日)

「一週間de資本論」&「超訳『資本論』」

好評?だったらしいNHKの「一週間de資本論」。講師はマルクスオタクの的場昭弘さん。ワープアや世界不況、金融破綻からマルクス本ブーム?資本論ブームといわれだした中でそのブレークのキッカケの一つが的場さんの本「超訳『資本論』」。資本論のガイドや入門書はいくつもでているけど「超訳『資本論』」は偏りのない解釈と現実の具体例を多く反映させたことで注目されました。さらに重要なのは、ここなりにプッシュすると世界経済の混乱の解決の可能性を世界そのものに見出そうとしているのがこの本。個別国家の解消とEU全体の統合を目指してきたジャック・アタリが「一週間de資本論」のオープニングとエピローグに登場したのも同じ理由です。

「経済とはモノを媒介にした人間関係だ」と経済学の講義を受けてきた自分にとって「超訳『資本論』」の「資本主義とは、人間関係である」という指摘は親近感があって反経済反資本主義という流行や新たな信仰のなかでますます新鮮な感じがしたりします。

さらには<すべての関係は意識である>と資本主義からサブカルや恋愛までも射程している吉本隆明さんの幻想論上部構造論=共同幻想論の進化版?だという事実は、いまこそ納得できる感じも。
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●現在を「知る」ためという一点で書かれた本。「知った」後は…どーするか、が問題?

 最近の書店の隠れヒットがマルクス本。本書はニューアカブームの仕掛人(『構造と力』のプロデューサー)でもあった今村仁司『マルクス入門』とともに評判の入門書だ。いかなる解釈も解釈者の能力やTPOに規定される(党派的な限界でしかない)が、本書は分かりやすく現在の状況をも反映したものになっている。現実の具体例を多く反映させた資本論の後半(の記述の仕方に)にウエイトを置いているからだ。

 ワーキングプアはずっとワーキングプアでしかないことが示されているが、絶対窮乏化論がこんなにカンタンに示せるコトを評価すべきだろう。専門用語の羅列は識者の自己満足でしかないし、タームの理解を独占しているかのように見せかけることによる脆弱な立場の維持でしかない。ホントに理解していればどんな難しいコトでも誰にでも理解できるように簡明に表現することができる。プロという立場を保身するための専門用語は必須ではないハズだ。

 現象を語り事実を修飾する文化の特徴そのままにさまざまなコトバが生み出されるが、マテリアルでテクノロジカルな事実は、たいがいシンプルで誰にとってもリアルだ。
 たとえば失われた10年以降のコギャル、少年犯罪、ひきこもり、ニート…これらのどこがどのように問題なのか? 問題の側面は語る者によってさまざまだが、最終的に解決すべきコトは一つに収斂するハズで、それは経済的な問題だ。ずっとサヨクが訴えてきた単純明快なテーマであり、最初で最後の問題が、コレだ。

 いよいよオカシクなってきた社会や経済を目の当たりにして、ニート対策のような政策で対応しようとする対症療法はいくら積み上げても最終的な解決にはならない。

 本書は何気なく、しかし本気で、その最終解決への認識の糸口を提供しようとしている。それが階級闘争への自覚だ。「今という時代を知るために読む。この一点だけで読みます」と『資本論』紹介を目的とした本書のスタンスが表明されている…しかも、その『資本論』は「階級闘争の書です」…なのだ。

 資本主義のシステムや価値の形態を語ること(のみ)で現実とのマテリアルな接触を回避し逃避してきた各種分析理論は、ケインズ理論のように政権与党によって現実に駆使され成長し鍛錬されてきた理論とは違って、ただタームを列挙する言葉遊びそのままに呆られるタイミングを待つだけになっている。
 リアルに泥まみれになれない、科学を自称する○○理論などとも違って、本書は正統サヨクのセントラルドグマである剰余価値説あるいは労働価値説を簡明に解説し生産(労働)の価値と交換(市場)の価値のギャップが隠蔽されるところに問題があることを示唆している。

 リアルで説得力があるのが…資本主義が国家を超える独占を形成し、そういったグローバリズムの世界的な拡大が、やがて大きな変化を意外に早く招くかも…という指摘。それらを支える基本認識こそ「資本主義とは、人間関係である」というグレート?な断定が圧巻だ。
 真っ当なサヨクの認識ツールの登場となるか? 本書にはさまざまな読まれ方、利用方法が期待されるだろう。

(2008/06/21)
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超訳『資本論』 (祥伝社新書 111)

著:的場 昭弘
参考価格:¥882
価格:¥882

   

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2010年10月12日 (火)

「一週間de資本論」&資本論はテキトーか?

昨日は「一週間de資本論」の再々放送があったとか…

  マルクスは、シャトーマルゴーといった高級ワインを日頃飲んでいる人なんです

マルクスが日頃から馬術、拳銃、ワインなどオタク的な趣味の人だったことを的場さんが披露。森永さんの「マルクスっていい人ですねえ」の一言が印象的でした。恋愛で決闘したことやお手伝いに隠し子を産ませたことは披露されませんでしたが…。さらにワインについて言及すると資本論の理論が崩壊するから、というようなことをマルクス自身が示唆していた?こともコメントされました。

ココなりのタネあかしをすると、資本論が理論として成立する範囲内で理論化した…というのが資本論の基本的なスタンスになります。これは理論や思想の評価水準、表象の仕方がTPOで異なることを考察した『ドイツ・イデオロギー』や、マルクスの歴史観そのものでありスタンスです。また資本論の諸概念の一刀両断的な措定はエンゲルスの働きだったと思われますが、資本主義のモデリングには効果的だったかもしれません。

物質的な基盤の発展ではなく、それにともなう文化や言語や思想や感性の変遷そのものがマルクスの興味であるのはマルクス自身が述べています。

       -       -       -

マルクスがお気に入りのワインや、森永さんが集め続けて10万個にもなったミニカー、一体で10数億円もする村上隆さんのフィギュアなどは特殊商品であり、そういった特殊商品はマルクスが理論化を回避?したということみたいですが…。いちばんの特殊商品である貨幣については、その価値が追究されているのは資本論だけかもしれません

不足に備えての用意だった商品のストックから、やがて何にでも交換できる商品としての貨幣が登場します。この解釈はアダム・スミスからのものですが『ハイ・イメージ論』でその解説がされています。

このアダム・スミス的な認識の延長からは、貨幣は<価値の予期>であるという定義が可能です。あるいは商品の予期としての貨幣が措定できます。

商品が足りなくなる無くなってしまうことへのヘッジとして商品がストックされ、時間的な問題が解決します。さらにはストックの交換可能性を空間的に無限遠に広げるものとしての商品の抽象化=貨幣の産出・生成が考えられます

番組では(解釈の一つとして)資本論では特殊な商品である金が貨幣になったと解説されます。そもそも金に価値が見出された由来そのものがあらゆる商品のヘッジだったはずです。

ヘッジファンドがグローバルマネーのコアであることは確かですが、そこにメガトレンドを見いだせるかどうかを問われるのが現在でしょう。何かを見出すとはもちろん認識力であり思考能力です。

       -       -       -

マルクスをめぐる評価はいろいろありますが、もっとも基本的な評価は『資本論』の資本主義分析は的確かどうか?というもの。具体的には労働価値説や剰余価値説の問題、資本主義の限界と共産主義という解決?の問題などいろいろあります。

労働価値説や剰余価値説を否定するのに援用されるのが効用価値説ですが、主観的であり数値化、客観化が困難です。そもそも生産のコストを数値化しようとする労働価値や剰余価値と消費と享受の実相を測ろうとする効用価値は比較可能なものではありません

生産と消費における価値のカップリングが資本主義全体における価値であって、労働価値と効用価値を別々に取り上げ対立するかのように考えるほうがオカシイのです。

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2010年10月 8日 (金)

「一週間de資本論」&ジャック・アタリ

NHK「一週間de資本論」のオープニングがジャック・アタリでした。フランスの経済学者として紹介され「Jacques Attali 『Karl Marx』」の著作の映像とともに彼のコメントから番組はスタートします。(『Karl Marx』は伝記?)(*再放送はいつだろう…)


  マルクスの考えが今ほど的確である時はない

  マルクスを読まなければ21世紀は理解できない


アタリは左翼ミッテラン政権の大統領顧問を務め、右翼サルコジ政権でもアタリ委員会を主宰。ミッテラン時代からEU統合のイデオローグとして活躍し欧州復興銀行総裁などを歴任。現在はプラネットファイナンスの代表としてマイクロファイナンスソーシャル活動の立役者。資本主義分析ではすべてを情報に換算し、その<交通>から社会を考察するなど先駆的なマルキストでフランス最高の知性ともいわています。

最終回にもジャック・アタリが登場します。今度は「フランスの思想家」と紹介され、仏語版の『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』をもったインタビュアーにアタリが答える映像で、彼は問題の提起と解決への希望を示していています。


 ― あなたは著書の中で将来破局が訪れると述べていますね?

 破局を避けるのも突き進むのも私たち次第です。
 どんなに困難でも今から回避する方法はあります。
 そのためには世界の市場を正しいバランスに保たなければなりません。
 市場のグローバル化とともに
 民主主義政治もグローバル化しなければならないのです。

 ― 資本主義は生き残ることができますか?

 秩序がなければ資本主義は崩壊してしまいます。
 資本主義がグローバル化したとき世界政府がなければ生き残ることはできません。
 現在の資本主義は不平等を増しています。
 誰もそれを改善していないのです。

           
21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

翻訳:林 昌宏
参考価格:¥2,520
価格:¥2,520

   

       -       -       -

           
一週間 de 資本論

著:的場 昭弘
参考価格:¥1,050
価格:¥1,050

   

番組「一週間de資本論」は「通称マルクスオタク」と自称する的場昭弘さんをメインコメンテーターに毎回ゲストを迎えて討論。全4回シリーズとしてマルクスの『資本論』の現代の資本主義への認識が的確であるかどうかを巡って議論されていきます。的場さんの著書「超訳『資本論』」にも資本主義が国家を超える独占を形成しつつあグローバル化にこそ解決の契機を見出そうとするスタンスがあり、アタリとの根本的な共通項になっているようです。もともと『資本論』は経済学への批判であり副題は「経済学批判」です。その意味するところは深く大きいといえそうです。


  第1回「資本の誕生」
     ゲスト 森永卓郎 (経済アナリスト・獨協大学教授)

  第2回「労働力という商品」
     ゲスト 湯浅誠 (NPO 法人自立生活サポートセンター・もやい 事務局次長)

  第3回「恐慌のメカニズム」
     ゲスト 浜矩子 (同志社大学大学院教授)

  第4回「歴史から未来を読み解く」
     ゲスト 田中直毅 (国際公共政策研究センター理事長)

           
超訳『資本論』 (祥伝社新書 111)

著:的場 昭弘
参考価格:¥882
価格:¥882

   

       -       -       -

 アタリは今回の金融危機をめぐりグローバルマネーへの規制を主張していますが、この点ではドイツの代表的な論者やアメリカのガルブレイスからは批判もされています。市場を規制してはならないということです。合成の誤謬という面から考えても、市場は関連する他の市場や無数の共同性(体)との間でコーディネーションの失敗を産出する契機ですが、それは市場そのもののせいではありません。市場や共同体の参加者、構成員の自律的責任に帰する問題が市場で露呈するにすぎないからです。この意味ではサンデルのように「正義」を語る意味はあるでしょう。

 サンデルの「白熱教室」を「機能主義!」と切って捨てた人がいますが、それはそのとおりで、だからこそ議論し続ける必要があることも確かでしょう。欧米哲学やあらゆる論理は単に機能(主義)にすぎませんが、ツールやギアはそうやって使われることに価値があり、そういう思想や理念があることも確かです。それを上手に使いこなすことこそ人間が目指すことでしょう。(使われちゃうと悲劇ですが)

 立場を超えて納得できるマルクスの言葉に“人間は解決できる問題しか提起しない…”というものがありますが、この楽観性はマルクスをよく読んでいるグローバリストやネオコン、ネオリベの人たちからこそ感じることがあります。最近ではジジェクのような共産主義のエバンゲリスト?もポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』ゲバラのような楽観主義を語っていたりして元気ですね。

           
ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)

翻訳:栗原 百代
参考価格:¥945
価格:¥945

   

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2010年6月22日 (火)

経済にとってバブルとはなにか?

歴史的にはチューリップバブルから始まって、いまだにバブル(経済)というものの本質は明解にはされていません。欲望の結果だという指摘はありますが、すくなくとも経済問題として解明されるべきだと考えるとき、その解析は充分ではありません。<欲望を欲望する>というラカンの解釈は的確ですが、それが共同性(市場)を形成する過程では全く別の説明が必要です。個人の感情をどんなに積み重ねても共同性には成り得ません。世界や歴史は無数の人生を束ねたものではなく、<世界>や<歴史>としてそこにあるものだからです。たしかに象徴界はそれを通底する可能性を持っています。しかし象徴界が象徴界であるためには想像界と排他的でなければならないのです。この不可逆性と不可塑性をどう把握するかが認識の可能性と不可知との分水嶺になっています。

同じことはお金=貨幣にいえます。お金に対する人間の姿勢は基本的にバブル的だといっていいものがあります。可能性への欲望…それだけにむしろお金への分析がバブルを知る手がかりになるかもしれません。

   今回のクラッシュの本質は何かっていうと、

   レバレッジかけてた部分が、
   結局、正常範囲に戻ったっていうだけ…

        『新・資本論 僕はお金の正体がわかった』(P15,16)

…というホリエモンのシンプルな指摘がクールです。

           
新・資本論 僕はお金の正体がわかった (宝島社新書)

著:堀江 貴文
参考価格:¥680
価格:¥680

   

●バブルとは何だったか…?

 これと同じことを指摘したのは90年バブルの頃にその崩壊とその影響について書いていた吉本隆明だけ。海外では今回の金融危機に際してジョージ・ソロスヘッジファンドを中心に同じような指摘をしてます。大ざっぱにいえば吉本もソロスもバブルは実体経済が金融経済のレバレッジによって数倍まで膨らんだものであるとし、解決はそれがただ凹むことであることを示唆してます。

 数倍に膨らんだのだから、数分の一に凹めばオワリ…つまり元に戻るだけ…なのです。
 具体的には2分の1から4分の1程度まで凹めばバランスし、それ以上の恐慌はない…というもので、これも吉本もソロスも同じ指摘をしてます。

 90年初頭のバブル崩壊以来地価が下落し続けている実態から考えると、今回の金融危機では欧米よりダメージが少なかったように見える日本ですが、まだバランスしていないというか底を打っていないと考えられます。それほどもともとのバブル(73年プラザ合意以降の上げ底)が大きかったといえるワケです。さらには、かつて長銀や三和銀行が指摘したように64年の東京オリンピック以降アメリカの2倍もの設備投資が続いたという調査があります。GDPがアメリカの半分ほどなのに設備投資だけはアメリカの2倍という状態が長く続いたのです。サラリーマンの給料は低いままGDPだけは世界2位まで上昇したカラクリは、この程度のものなのでしょうか…。

 73年のプラザ合意(対ドルで円が240円から120円へ)により約1年で日本の財は倍増しました。この延長に登場するのがバブル経済。ところで1年で倍加したものがあれば2、3年で減少するものがあっても異常ではありません。問題はそのボラティリティに耐えるだけの柔軟性があるかどうかであって、金融やましてや改革(小泉竹中路線)やグローバリズムが問題なのではないのです。情報と分析、対策と一連の対応がスピーディであれば何の問題もないのですが、官僚や自民党、経済界首脳の危機意識の欠如と自己保身、それらをソフトに現実化してしまう決定過程の不透明さと不明な責任の所在…が問題なのでしょう。

●レバレッジのもとは拡大再生産…?

 そもそも経済が<拡大再生産>という前提に立っている理由そのものからしてバブルの可能性がビルトインされていることになります。<再生産>が<拡大>するという部分そのものがレバレッジの起点であると考えられ、当たり前のことですが、<拡大>させているものそのものがレバレッジそのものなのです。
 その代表的なもの=拡大の要因が利益や利子であり、(剰余)価値と呼ばれるものそのものでしょう。マルクスはその基点を商品を存在せしめる<労働>そのものに求めました。それは剰余価値として労働生産物に内在し、現在ではその価値が線形代数のようには算出できません。生産過程の合理化で投下された労働(時間)や資源が高効率でべき乗化し産出がバタフライ効果のように膨張するためです。当然のことですが労働価値を否定するのに援用される限界効用説では本質的にバブルにタッチすることはできません。

●銀行にお金を預けていはいけない…!

 銀行には自己資本率が8%以上という規制(海外取引もする場合)があります。つまり自己資金の10倍以上のレバレッジが認められている事業なのです。レバレッジで成り立っているのが銀行なのです。しかも顧客は自分のお金を銀行に預金しているのに、銀行からお金を借りる場合は利子を払っています。詐欺師やヤクザもここまでヒドイ詐欺はしないのではないか…とさえ思えます。なぜ自分のお金を使うのに利子を払う必要があるのか…?

 FXや金融デリバティブにおいてレバレッジがいけないという批判がありますが、銀行の基礎にあるレバレッジが批判されたことはありません。そもそも投資家はリスクを覚悟していますが、銀行はリスクも取らないし責任も問われない信じられないような気楽な事業なのです。合法的な悪そのもの? 利子をとらないイスラム金融が資本主義を悪と見なす根拠もこの利子にあります。

 まず銀行そのものがレバレッジによって成り立っている事実を誰も問題にしないのはナゼか…?

 勝間和代さんの大ブレークは『お金は銀行に預けるな』からですが、ホリエモンも勝間さんも、そして苫米地さんフリー経済学入門も、皆、同じことを言っているのが面白い。それは<銀行にお金を預けていはいけない>ということです。

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