<家族>と<地域>のギャップ!?
「朝まで生テレビ」(2月4日放送)で「国民の2つの義務」として「納税の義務」と「国を守る義務」が問われました。ホリエモンが国を守る義務はないと発言し、紛糾?するなかで国会議員が発言。
齋藤健さん(自民党議員)が国を守る義務や大切さを説くために「家族があり、そして地域があり…」と個人(の存在)から空間的に領域を広げていく(遠隔化する)形で(たぶんパトリオシズム的に)国家と領土について(守る必要性を)語ろうとしました。
これに対して東浩紀さんが「家族と地域の間には飛躍がある…」と指摘。家族と地域は同一に語れないということでしょう。これは番組内で唯一の本質的な価値がある発言でした。
地域をベースにしたパトリオシズム的な発想は左翼的?な反発も少なく“ご近所”や身近なコミュニティとオーバーラップさせて推しやすいもの。ローカルな自然やエコとのカップリング、地産地消などの経済的なテーマともリンクしやすく、政治的にも地方や分権のトレンドと合致します。また日本のように国土のほぼ全域が居住可能な環境では説得力をもちやすいイデオロギー?でしょう。だからこそ逆によく考えることが必要なのが地域の延長に国家があるような発想です。自治の最小単位でもある“隣組”が戦前の日本のファシズムを支えたという認識は無視できるワケではありません。{以前NHKの討論番組でただ独り宇野常寛さんがこのことに触れていましたが…}{2人の人間が出会えばそれだけで権力が生じることを論証(予期理論)した宮台真司さんの指摘はファシズムなどの根源も押さえていて重要です}
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●家族と地縁は同質?ではない
地域での関係性と家族の関係性は全く違うもので、地縁と家族(血縁)という関係は同一の論理で語れるものではなく、『共同幻想論』はこの<同一の論理で語れない>ことそのものを日本における国家論の前提とする認識です。(無理矢理同一の論理で語ろうとするのはファシズムや強権のタネでしかありません)
<同一の論理で語れない>ということの解の第一歩は、<複数の論理の錯合>として把握することでしょう。
共同幻想論は歴史や資本論におけるアジア的(生産様式)という概念に日本においては<複数の論理の錯合>を見出して探究し、アフリカ的段階はその前段階であり基礎ともなる自然環境における関係性を解いています。
わが初期国家の専制的首長たちは、
大規模な灌漑工事や、運河の開削工事をやる代わりに、
共同観念に属するすべてのものに、
大規模で複合された<観念の運河>を
掘りすすめざるをえなかった。
…
そこには、
現実の<アジア>的特性は存在しないかのようにみえるが、
共同幻想の<アジア>的特性は存在したのだ、…(*『共同幻想論』から考える)
家族と民族の関係はグラデーションであっても家族と地域は簡単に連関するものではありません。大澤真幸さんが血縁からの離脱が国家の始まりだと共同幻想論から読み取ったように、地域というフレームそのものが家族や民族のベースにあるものとは乖離していて、その度合いそのものが進歩の度合いにも比例します。逆にいえば土地への関与の強さや執着は原始的な度合い比例するもので、アフリカ的段階では土地そのものでもある自然環境への対応を関係性に照応させる観念の在り方が考察されてます。
吉本にとっては、国家の最小限の条件は、
共同幻想が、直接(血縁的)関係から独立に現れること、
である。(*共同幻想論大(澤)?解説.2)
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思想地図β vol.1
編集:東 浩紀
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『思想地図βvol2』ではホリエモンも登場するようです。今回の朝生TV関係の突っ込んだ話が読めるかもしれません。
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