<弟のため>か<家のため>か?
「マイケル・サンデル 白熱教室を語る」(NHKで放送した番組)によると人気の白熱教室、東大での講義でサンデルが苛立ったという対話があります。それは弟の殺人をめぐってのものです。
弟が殺人を犯したら、あなたはどうするか?
…というサンデルの問いには「家族への忠誠」か「普遍的な正義」か?という根本的な問題意識があります。ところが「普遍的な正義」を主張したのはたった一人で、他はすべて「家族への忠誠」からの答弁でした。
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●<弟のため>と<家のため>と
弟を匿ったり、通報したり、自首させたりといくつかバリエーションがあっても、これらはすべて親和的関係からの判断で「家族への忠誠」からの答弁です。理由は<弟のため>。家という親和的関係からの弟に肯定的な判断ということです。
しかし同じ親和的関係からの判断でも<家のため>というものもあり、これは文字どおり<弟のため>ではない判断になります。弟という個人ではなく家という共同体の利害を優先した考えで、時には弟を追放するような判断もなされます。共同体(家)から個人(弟)を追放するという、弟(個人)に否定的な(共同体の)判断です。
同じ親和的関係からの判断でも<弟のため>と<家のため>ではまったく意味が違うものになります。肯定的であるか否定的であるか、真逆の判断が同じ親和的な関係からなされることがあるわけです。
<家のため>に弟が追放される場合、弟は家という共同体から否定(追放)されるために流浪するか別の共同体に帰属していくようになることが予期されます。つまり別の世界や共同体がクローズアップされてくることになります。
弟を肯定するのでも否定するのでも判断の根拠は(主体は)どちらも親和的関係である<家>です。サンデルが求めているのは<普遍的な哲学からの正義>であって「家族への忠誠」と呼ぶ(家からの)判断ではありません。
<家>は個人に対して近接的なものであり親和的関係(対幻想)の(生成する)場所です。あるいは対幻想から最初に生成する共同体が家だともいえます。しかし<家>による判断が必ず個人を尊重する(個人のための)ものとは限りません。家の利害に反すると判断されれば、その個人(家族)を追放することもあります。犯罪や財産の分配をめぐって家と個人が相反するトラブルは頻繁に起こっているというのが現実でしょう。
●「普遍的な正義」からのジャッジはあるか?
サンデルが知りたかった“普遍的な哲学からの正義”によるジャッジを主張したのはたった一人の女性。サンデルが“普遍的な哲学(立場)からの正義”と主張しているものは何なのでしょうか? (ある意味でこの女性の立場(の半分)はかつて巫女と呼ばれるものがとってきたものと同じだともいえますが。)
サンデルが求めている普遍的な原理による正義はあるのでしょうか?
サンデルのいう<普遍>とはフォイエルバッハ的な意味での<神>であるかもしれませんし、コミュニタリアンであるサンデルは不可視なレベルで(神のように)<普遍>を設定しているのかもしれません。本当?の意味で<普遍>をいうならばカント的な<公共>であるはずで、コミュニタリアンとしては、そのスタンスはとれないのではないかという?もあります。簡単にいえば本当?の普遍というものはないからです。
たとえば平和(戦争反対)は普遍的希求のようですが、現実には絶対に平和を求める主張は圧倒的な少数派であるという事実があります。
歴史的な事実として、たとえば第二次世界大戦で戦争に反対した勢力は2、3だけで、大部分の政治、思想、宗教のグループは自国の戦争に賛成しました。世界各国の社会党(社民主義)はすべてそれぞれ自国の戦争に賛成し自国の勝利を求めました。全世界でそれぞれ自国の戦争に反対したのは共産党だけで、日本でいえば戦争に反対したグループのひとつは共産党(コミンテルンつまり共産主義インターナショナル参加政党)、それから大本教(出口王仁三郎)などのごく一部の宗教、そしてCOOP(生活協同組合)となります。
絶対平和を唱えるカント的な立場には現実的な根拠はありません。むしろ実現し得ないからこそ平和を希求するところにカントの意義があるのでしょう。
{(<普遍的な正義>には根拠がない)という根拠}しかないというのが論理的な事実だと思います。だからこそ、あえて普遍的(な正義?)であろうとするのがサンデルの立場?なのかもしれません…。
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