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2010年5月21日 (金)

システム論批判?から

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■『IC№47』斎藤環さんのシステム論批判から

斎藤環さんが『Inter Communication』に連載していた企画「メディアは存在しない 6」の №47掲載分は「三囚人のシステム理論は可能か?」(関連記事)というもの。あのルーマンの社会システム論へのラジカルな批判です。それは同時に批判する観点そのもののラジカルな検証が即座に可能なほどの、スリリングなテキストになっています。

システム論への疑問の1つに人間の主体性はドコにあるのか?という哲学をはじめ諸学のブラックホールのような問題点があります。もちろん人間の心そのものを探求してきたラカン派には「黄金数」のような擬似的な解答可能性を見出したものはありますが、それが解答そのものではないというコトでは、同じでしょう。

そういったところに見出される共通する問題点は、認識における基本的な空間性の混同があります。認識が不可避にもつ幻想性と現実の空間性との関係がごちゃ混ぜになっているという混乱ですね。

ところで、このルーマン=システム論への批判は、日本では最初の本格的なラカン紹介のテキストだった『構造と力』とオーバーラップする面もある、原則的な観点からされてます。それだけに、このルーマン批判はより広い方面で応用が利く、逆にいうとラカンの適用範囲を広げられる可能性のあるものです。

ただし、そこにこそラジカルなラカン批判(=斎藤批判)も成立する可能性もあるのではないでしょうか。

ホンとかなあ?っと。
以下、ちょっとだけ。


   われわれがコミュニケートしあっているかのように見えるのは、
   単なる偶然でなければ、何らかの転移関係がそこにあるからに過ぎない。

                        『Inter Communication №47』(P147)

もちろんコミュニケーションが偶然であるハズはないですね。むしろ「そこにあるからに過ぎない」「転移関係」だけを頼りに成り立っているのがコミュニケーションの本質。だから偶然でしかないような危うい認識こそがコミュニケーションの本質かもしれません。マテリアルな前提としてはミラーニューロンなどさまざまな検証がススんでますが。コミュニケーションという心的現象と分かちがたく、また心的現象そのものであるかのような錯誤を招いているほどのムズカシイ現象は、そんなカンタンに答が出るワケではないかもしれません。


   オートポイエーシス理論の特異性を一言で言うなら、
   有機体がそのシステムの境界を「システムそれ自体の作動によって産出する」
   という局面を記述可能にした点にあるとされる。

                        『Inter Communication №47』(P148)

これはオートポイエーシス(関連記事)が並のどんな理論とも違う自己生成の理論だというものですが、同時に、システムの全体性そのものが自己言及そのものであるというスグれた指摘ですね。


   外部からの入力を内部から見ると、
   起源が不明な撹乱として理解されるという。

                        『Inter Communication №47』(P148)

ここでノイズ理論やカオス理論の援用が可能であるかのような印象を受けますが、それこそが情報理論をはじめとする科学が絶対に人間そのものを描けない理由を隠蔽してしまっている可能性があります。ラカン派ではこの「撹乱」を「黄金数」と認識評価するかもしれませんが、これは<アバタもエクボ>という問題。それは心的現象論における感情などの領域の問題です。

*「『IC№47』斎藤さんのシステム論批判だ! 2004/1/8」を加筆変更しました。
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