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2010年5月21日 (金)

三囚人のシステム理論は可能か?

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■「三囚人のシステム理論は可能か?」から

『Inter Communication』に連載されていた企画「メディアは存在しない 6」の№47掲載分「三囚人のシステム理論は可能か?」を参考に。

前回指摘したようにテキスト全般が刺激的でいろいろ面白いですが、今回はメインになっているトコを....。

ここで斎藤さんは「時間と行為について、ラカンが導入したゲーム理論のエピソード」を紹介し、間主観性の成立は主体の有限性によって可能であり、その主体の有限性は時間によって規定されている、ということを論理的に証明しています。

それが三囚人のエピソードというやつで、斎藤さんがそこで問うているのは「三囚人のシステム論は可能か?」という表題になっている問題ですね。かなりショーゲキだと思います。ラカンのエピソードに基づいてルーマンの社会システム論を批判するというものです。

「三囚人のエピソード」のゲーム内容は、単純化すると、自分の情報を知ることができたら解放される、というものです。

三囚人のエピソードを少し抽象化すると....

   3人がそれぞれ1個ずつの情報を持っている。
   本人は自分の情報を知ることができない。
   他の2人の情報から自分の情報を推測しなければならない。
   コミュニケーションは禁止されている。
   情報は全部で5個ある。内訳は白情報が3個、黒情報が2個。
   誰もこの情報の内訳を知ることはできない。
   つまり世界の内容を知ることはできない....

哲学的?に解すると....

   人間はそれぞれ情報を持っているが、
   自分ではそれを知ることができない。
   他者の情報を知ることはできるが、
   世界像を知ることができない。

   だから、人は他者の情報を知り、
   そこから推測して、
   自分の情報と世界の情報を知る。

....などというコトが考えられますが、これはあくまで静態的な、論理だけで展開される世界のことだと限定づけられます。

斎藤さんは大胆にも、ダイナミックに、この世界設定に行動を見出し、それによって解を得てしまいます。3人がそれぞれ他の2人の情報だけではなく行動をもチェックして、それで自分の情報を推測するということを、斎藤さんは見逃さなかったワケです。たとえ誰も行動しなくても、そこに「行動しない」という行動の意味を見出しています。

斎藤さんは、その理由として「あらゆる判断は、本質的に一つの行為である」(P151)とラカンによる指摘を引用しています。もちろんラカンが指摘するまでもなく、それは真理でしょう。認識が分節化する以前の乳幼児では想うコトと行動するコトが未分化。幻想も現実も分別はつきません。デジャブもそういった心的状態のフラッシュバックだし、多くの精神病も同じです。それは戦後最大の思想家と呼ばれる吉本隆明さんの心的現象論による徹底した射程と根本的な考察においても当然のことですね。

この三囚人の論理だけの世界から行動を見い出したコトはスゴイですが、「行動しない」という行動から情報を見い出さざるを得なかった閉塞した世界における認識の特徴として「せき立て」という切羽詰った心理状態(*「三人の囚人の話」 と 「せき立て」)をフォーカスした点もユニークで、そこには大きな可能性があります。

この動態的な認識を持ち込んだ斎藤さんのオリジナル?な、実効性のある批評は、アニメ批評でも駆使されたもの。それは宮崎アニメの擁護というスタンスでしたが、宮崎アニメに「運動」を見出したのは当たり前のものを発見したスゴサがあります。

ところで、ワタシは、世界を実際に動かしているような現象にも、同様な指摘が出来ることを示しちゃいたいとも考えます。それが確率過程期待論です。金融工学としてノーベル賞をいくつも受賞した理論でもあるけど、それは何よりもまず人間の心理を要因とした統計上の確率論です。もちろん人間と同様の心理が無い動物には関係も無いでしょうし、逆に人間に関してであれば、7つの海を支配した帝国権力も数日で敗北させるほどの力ともなる、ある種ポストモダンな力でもあります。どこまでも、人間の心的現象がすべての原点であり動因であることを証明した理論でもありますね。

*「「三囚人のシステム理論は可能か?」から 2004/1/25」を加筆変更しました。
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システム論批判?から

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■『IC№47』斎藤環さんのシステム論批判から

斎藤環さんが『Inter Communication』に連載していた企画「メディアは存在しない 6」の №47掲載分は「三囚人のシステム理論は可能か?」(関連記事)というもの。あのルーマンの社会システム論へのラジカルな批判です。それは同時に批判する観点そのもののラジカルな検証が即座に可能なほどの、スリリングなテキストになっています。

システム論への疑問の1つに人間の主体性はドコにあるのか?という哲学をはじめ諸学のブラックホールのような問題点があります。もちろん人間の心そのものを探求してきたラカン派には「黄金数」のような擬似的な解答可能性を見出したものはありますが、それが解答そのものではないというコトでは、同じでしょう。

そういったところに見出される共通する問題点は、認識における基本的な空間性の混同があります。認識が不可避にもつ幻想性と現実の空間性との関係がごちゃ混ぜになっているという混乱ですね。

ところで、このルーマン=システム論への批判は、日本では最初の本格的なラカン紹介のテキストだった『構造と力』とオーバーラップする面もある、原則的な観点からされてます。それだけに、このルーマン批判はより広い方面で応用が利く、逆にいうとラカンの適用範囲を広げられる可能性のあるものです。

ただし、そこにこそラジカルなラカン批判(=斎藤批判)も成立する可能性もあるのではないでしょうか。

ホンとかなあ?っと。
以下、ちょっとだけ。


   われわれがコミュニケートしあっているかのように見えるのは、
   単なる偶然でなければ、何らかの転移関係がそこにあるからに過ぎない。

                        『Inter Communication №47』(P147)

もちろんコミュニケーションが偶然であるハズはないですね。むしろ「そこにあるからに過ぎない」「転移関係」だけを頼りに成り立っているのがコミュニケーションの本質。だから偶然でしかないような危うい認識こそがコミュニケーションの本質かもしれません。マテリアルな前提としてはミラーニューロンなどさまざまな検証がススんでますが。コミュニケーションという心的現象と分かちがたく、また心的現象そのものであるかのような錯誤を招いているほどのムズカシイ現象は、そんなカンタンに答が出るワケではないかもしれません。


   オートポイエーシス理論の特異性を一言で言うなら、
   有機体がそのシステムの境界を「システムそれ自体の作動によって産出する」
   という局面を記述可能にした点にあるとされる。

                        『Inter Communication №47』(P148)

これはオートポイエーシス(関連記事)が並のどんな理論とも違う自己生成の理論だというものですが、同時に、システムの全体性そのものが自己言及そのものであるというスグれた指摘ですね。


   外部からの入力を内部から見ると、
   起源が不明な撹乱として理解されるという。

                        『Inter Communication №47』(P148)

ここでノイズ理論やカオス理論の援用が可能であるかのような印象を受けますが、それこそが情報理論をはじめとする科学が絶対に人間そのものを描けない理由を隠蔽してしまっている可能性があります。ラカン派ではこの「撹乱」を「黄金数」と認識評価するかもしれませんが、これは<アバタもエクボ>という問題。それは心的現象論における感情などの領域の問題です。

*「『IC№47』斎藤さんのシステム論批判だ! 2004/1/8」を加筆変更しました。
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