« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月16日 (土)

<資本主義>の限界?2

 ここのところのNYでもTYOでもダウや日経平均の上昇を見ると100年に1度といわれた今回の金融→経済危機も収束か?とも思ってしまいますが。どーなんでしょー?
 ガイドナー氏なども金融危機の再現はないだろうという見解に至ったようですが。あとは実体経済の成長率ダウンの覚悟さえできればOKなんでしょーか?
 まるでバベルの塔みたいな都市ドバイでも地価の下落率は日本のバブル崩壊と比べれば圧倒的に少なく8割程度。逆にいかに日本のバブルとその崩壊は大きな落差をともなったのか、ということが顕わになってきます。この「落差」には大きな謎と恐ろしい事実があるようですが…。『なぜ世界は不況に陥ったのか』にはそんな恐ろし~日本の経済の歪んだ構造が指摘されていて、かつダウナー?な状態が長期にわたって続く可能性がテイネイに説明されてます…「失われた10年」の原因の説明としていまだに包括的な実証研究はHayashi-Prescottぐらいといわれる「林=プレスコットの議論」の説明があります。必読ですね!

●経済危機の規模は?
今回の経済危機は、数値的にいえば経済規模が1/4にまで縮小すれば、そこで終わりという観測はあります。日本のバブル崩壊後の地価の下落、特に都市圏以外の地方の地価の下落率は1/100、1/200あるいはそれ以上だったところもありましたが。逆にいえば、日本のバブル経済はそれほど無理矢理に膨らませていたワケで、まさしくバブルそのものだったワケです。それがもとに戻るのは歓迎すべきことであって、その逆ではありません。バブル崩壊や経済危機ほど、まるでデフォルトであるかのように存在したイレギュラーを正すチャンスでしょう。そこでこれを好機として捉えたのが改革派の登場でした。

アメリカのGDPの7割以上が消費関連ですが、そもそもG7という先進国の条件は選択消費がGDPの半数を超えている状態の国家です。選択消費は生活必需そのものではないので選択しなければ(消費しなければ)、それはそれで済んでしまう消費です。つまりこの選択消費をしなくても生きていくには関係ない…というものである可能性は大きいのです。バブルとは如実にそういう経済状態を示していました。通勤に使う自動車がランボルギーニである必要はない…ただ単にそういうことでしょう。仕入値50円のネクタイピンやカフスを2000円や5000円や1万円で買って身につける必要もありません。それは嗜好の問題であり、かつ購入可能な経済状態に自分があるかどうかの問題です。

●ソロスの<矛盾>の示すものは?
自分の行為を「投資ではない投機だ」と述べ、「すべてを市場へ」と主張しながら「市場は規制せよ」ともいうジョージ・ソロスの一見支離滅裂な姿勢と言い分は何なのか? まあ、自分は得したい儲けたいと思っているのに外資をハゲタカ呼ばわりしたりホリエモンを罵ったりするのが日本のメジャーかもしれないので、ソロス程度の滅茶苦茶な言い分はしょーがないかもしれませんが。w

でも、そこには大きなヒントがあります。ソロスは個人の中に2つの位相を持っている、あるいは個人が持っている2つの位相を躊躇なく表現することができるのがソロスなのだ、ともいえます。これはユダヤ人同胞の財産を没収するような(耐えがたい)仕事に就いて自らの生きる道を切り開いてきた親の姿を間近にしてこその経験の結果なのだろうと思います。ある意味で(宗教的いえば)自分の原罪や間違いを直視できるからこその達観?であり認識なのかもしれません。

●75%凹めばオワリ!?
ソロスの予想でもヘッジファンドの総資産は1/4に縮小するだろうということ、選択消費論による1/2~1/4の縮小と併せて考えても、世界経済の縮小は最大で1/4程度、つまり75%程度のマイナスではないか?…と考えることができます。

世界の実体経済が6~7000兆円といわれ、グローバル・マネーの合計が2~3京円といわれています。6京とか8京だのという計算があるようですがファンズ・オブ・ファンズの冪上性を捨象すると2~3京円というのが適当だと考えられます。そうであれば実体経済の3~4倍程度のマネーが出回っているということであり、これは特に多すぎるワケではありません。たとえば、これは住宅や自動車など5000万円相当の実体経済の財を所有している人が2億円のマネーを所得(生涯賃金)として得ると考えると全く普通のことであることが分かります。

       -       -       -

池田blog「資本主義の失敗」で指摘されている「個別には合理的行動の集計が社会的に過剰なリスクをもたらす」という状態は資本主義の矛盾ですが同時に動因であり、資本主義そのものであるような気がします。またバブルも必然で「グリーン革命」で次のバブルを「環境」だとする指摘は少なくない同じ意見がありそうです。排出権などを証券としてトレードする資本主義の何でもアリ的なスゴサと、それを臆面もなく国家戦略とするアメリカのようなアタマのイイ国家…心配なのは日本のザマですね…。

       -       -       -

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金)

<資本主義>の限界?

 何種類もの経済原論の講義を受けたところで経済や資本主義はわからないシロモノ…。
 学生になった頃の不思議?な疑問は〝経済学を習ったら金持ちになるんだろ?〟だったり、教授を見ても〝ビンボウそうだな?〟というショックのよーな、そーでないよーな、真理を見たよーな…そんなもんでした。w

 ところで長い間、資本主義の限界はどんなところにあるのか? 具体的にどんな現象が資本主義の限界を示しているのか? と考えてきましたが、バブル経済やマネーゲームは資本主義の特徴そのものであって、それが限界的な現象だとは思えません。暴力革命でさえ資本主義の歪の必然から生まれたものであって、革命そのものが資本主義の限界を示している…というのとはちょっと違う気がします。この辺がマルクスでもニーチェでもムヅカシイところなのでしょう。あるいは弁証法というもののムズカシカシサなのかもしれません。

 

   もしバブルや恐慌が資本主義の限界ならば、
    どうしてその後も資本主義は続いているのか?

    もし資本主義が間違っているならば、
    社会主義独裁体制はナゼ崩壊して資本主義に戻ったのか?

 

 「個別には合理的行動の集計が社会的に過剰なリスクをもたらす」という池田blog「資本主義の失敗」の指摘に象徴されるように〝個人にとっては合理的〟なことが〝社会にとってはリスク〟というのはよくあることだと思います。そしてそれが繰り返されているというのもよくあることでしょう。(たとえば犯罪。個人のオーダーとそれに対する他者あるいは社会によるその全面否定という関係が犯罪の根本的な定義であるはずです。)

 経済(学)関係でいちばん疑問だったのはそういうところです。

 剰余価値のムズカシサや、労働価値への疑問はありますが、考えてみればよくわかることでした。労働に投入された時間を価値のスケールにするのは限界効用からみて説得力がないですが、現代社会が時間で労賃を計算しているのも事実ですし、またボタン一つで生産ラインが稼働する現在は投下される労働に対して冪上化した生産(量)があるワケで、単一の時間性では労働の価値を測れません…というのもますます普遍化する事実です。
 それでも、これらは計算できる事象でしかなく、いかに複雑になろうとも数値把握が可能な可算的な現象です。ジャック・アタリが現在の社会と経済を情報から検討したスタンスでも、それは変わっていません。
 しかしノーベル賞を10数人も受賞しているアメリカの金融工学のありさまくらい理論や特に数値表現への適合性?などというものに意味や価値があるのか考えさせられたものはありません。ノーベル賞受賞者2名が代表だったLTCMの破綻とひきこもりだったBNF氏の150万円→170億円という投資の結果など、統一して説明できる理論があるのでしょうか?w

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »