若者が<関心のある・ない>コトの理由は?3
「<他者が関与できない>ということが最重要なそして絶対的な条件」というのが若者が関心があるコトの条件であると「若者が<関心のある・ない>コトの理由は?2」…で書きました。これらの心理?の発現には本来「心理的な発達段階とその発現のタイミングやスピードあるいは持続に、何らかの抑制があるハズ」なので、もし現在の若者のあり方に問題があるとすれば、このようなところを考察すればいいワケです。
若者が<他者が関与できない>というニッチ?なところにわずかなコミットやアプローチをするのは当然として、実はこの<他者(関与)否定?>的な認識は社会のコンセンサスでさえある可能性があります。「<不況>と<不安>が生むもの」で書いた内容でいえば「意図せざる結果」を誘導する<意図せざる>意志、<重層的非決定>的な判断に近似するような可能性のあるもの…でしょう。ニーチェが負債といったものかもしれません。
それは現代社会の中心的な構成員である<個別的現存クン>のコトであり、そのバリエーションでしょう。長くなりますが「欲望の分子革命とか」で書いたその辺をコピペしておきます。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
スクエアなデリダは論理的に差延という発想に行きつきましたが…即金では買えない10万円のPCが10回払いだったら買えるよ、というようなコトで、今ココでの10万円持ってないというマイナス10万円という負債のザマも、10回払いという負債の差延でもってクリア。めでたくPCはオレのもの的な世界…です。
しかもPCというマテリアルはゲットできるんだが、負債というマイナスの権利は10回払いという差延テクノロジーによってそういったシステムを構築している社会のなかへ解消していきます。社会システムは負債の差延を冗長性として内包してます。
共同体の抽象化された概念である社会ですが、それが負債の差延の蔓延したシステムであるというコトは重要。この一点だけが、個別的現存としての人間、現存在としての人間、○○人間でもなんでも、社会と結節を作るトコです。ただし、今的には、という限定つきかもしれません。
個別的現存が背負った負債は社会が預かってくれるんで、個別的現存クンは社会にアタマが上がりません。
ところが、自分が負債をかかえてるコトなんか誰も認めたくないんで、認めない…と。楽しいコトは好きなんで、楽しいコトの結節点として社会を認めるよ、と。資本主義は楽しいコトをバンバン生産してくれますから。
これがオタキングの主張ですね。
楽しいとゆープラスの価値観の共有。
しかし楽しいコトはみんなそれぞれ違うワケです、現実には。好きな対象はバラバラなワケです。そんなワケでオタキングはある種象徴的でしたが、ほぼ同時に無効でもありました。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
オタキングの単行本デビュー作であった『ぼくたちの洗脳社会』は、人々はそういう楽しいことを結節点とした共同性(体)に所属するようになり、複数のそういった共同体の間を行ったり来たりするような生活をするようになるという指摘でした。たぶん当時のパソコン通信niftyserveなどに所属し複数の「フォーラム」や「会議室」と呼ばれた掲示板を渡り歩いていた実感から類推したものだと思われます。夫婦や家族でさえあらかじめ約束しておかないと会うことはないかもしれない、日常的に顔を合わせているわけではない…という家族の近未来像なども描いていてリアルなオタキングの社会学本でした。ただその後の長期にわたる景気回復の無さや宮台社会学の説得力に象徴されるように{<楽しいコト>で結節点}よりも<島宇宙化>、さまざまな事件やひきこもりといったネガティブな物語りによる言説の方が説得力を持つようになっていきます。また本質的に、シェークスピアの「4大悲劇」から現在の〝癒し〟や天童荒太人気までネガティブストーリー?と〝受動性〟は人間本来の志向性?としてあるようです。それゆえに{<楽しいコト>で結節点}というのは事実でしたが無効だったともいえるでしょう。
- - -
「…現実的な対案を示さないほうが、政治的には強い訴求力をもつ。ユートピアは「どこにもない国」だから美しいのだ。」
「それは永遠に実現することはないので、つねに「ここにはない」目標になるからだ。」
池田blogの「希望について」にそのままズバリの指摘がありました。
まさしくユ・ートピア(U・TOPIA/ない・ところ)はそこに<ない>からこそ魅力をもち、各人がそれぞれ勝手に解釈できる<夢>だからこそ、さらに魅惑されていく…というユートピア=理想論の<力>なのでしょう。そして、理想が具体化し始めると各人の「勝手な解釈」ゆえにバラバラになるという党派性が顕在化してくることになります。だから、バラバラになるというのは現実化しつつある証拠でもあり、ある意味でコーディネーションの矛盾が露出してくる過程だともいえます。別の言い方をすれば、現実化すればあらゆるものはコーディネーションの矛盾が露呈するし、そこにはドルーズ=ガタリのような分子革命的なものが説得力をもつニッチ?があるのかもしれません…。
E・ブロッホの代表的な著作『希望の原理』を高価にも関わらず捨てることで現実やマルクス(理屈というもの)への希望を断念するためのパフォーマンスをしていた数年前の自分を思い出してしまいました。w
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント