マネーを独占?する国家
池田blogの「ポラニー的不安」のコメントに面白いのがありました。
私は、経済は素人ですが、管理通貨制の下でのデフレをうまく説明するには、はじめに金本位制と管理通貨制の類似性を指摘しなければならないと思う。そして、過剰生産の問題にまで遡行する必要があると考えます。
そこでまず…金本位制と管理通貨制の類似性と限界とか…などと考えてみました。
金本位制は国家の独り善がり・・・
金本位制は経済が国際化してるのに〝一国でやっていける〟と考える独り善がりな体制。イギリスの利上げで投機資金がロンドンへ移動してニューヨークの株価が崩壊してはじまった1929年の世界不況は金本位制への大きなノンでしょう。もちろん経済が国際化していなければ金本位制でもいいのかもしれませんが、それでも〝金(財)の獲得〟という帝国主義的な萌芽はあり得るし、世界各国がいつまでも個別の閉鎖系であるハズはないですね。
管理通貨体制は市場が命・・・
管理通貨体制は国際間のバランスを図るためのものでしょうが、通貨の価値を保証するための経済力として国内経済(市場)の健全性?を前提とするので国家の責任と市場の役割は大きくなります。管理通貨体制下でこそ市場は健全でないと、そして国家は民主主義体制でないとオカシクなります。経済と政治の両方が民主主義でなければ正常な市場はあり得ないからです。つまり通貨を保証する国家の市場と政治に関する責任は重大であり、だからこそあらゆるジャンルへの安易な国家介入は慎まなければいけなくなるワケです。
金本位制と管理通貨体制の共通点は・・・
金本位制と管理通貨体制の絶対的な共通点は、どちらも通貨の発行が国家一極に委ねられているということ。これがどちらの通貨体制にとってもある限界を規定していると考えられます。それは<国家がマネーを独占>しているということです。
グローバル経済やマネーへの悪罵は世界中で散見しますが、それはマネーを独占的に発行している国家(中央銀行)そのものへの批判として再把握されなければいけません。国家が〝マネーは独占するが、マネーの責任は無い〟というような無責任な態度なら、マネーそのものへの信頼が毀損します。
これは市場で利益をあげられないで赤字になり借入資金の返済不能からおこる金融危機とは違う危機です。国家そのものの信用危機です。現在、本当に見極めなければならないのは、100年に一度の危機が金融市場や実体経済の失敗による危機なのか、マネーの発行権を独占する国家への信用危機なのか、ということではないでしょうか?
責任を全うしようとする国家が公的資金をジャブジャブ使うのはある意味で当然です。しかしそれは国家が税金を払っている国民に対して膨大な負債を負うことを意味します。当然ですが国家へのチェックは厳しくなります。情報公開もオンブズマンも当たり前のことに過ぎないでしょう。官僚や公務員のあらゆる情報開示と国民による罷免権の強化があっていいハズだと考えられます。
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貨幣論はいろいろありますが、国家が貨幣を発行(を独占)する本質的な理由はただ一つでしょう。共同体構成員の共同体への信用を象徴すること、です。そしてこの象徴=貨幣(とその支払い)をどう扱うか、どう扱われるか、で、その共同体と構成員の関係が計られ、それを見てお互いのあり方を再帰的に自己修正していくためのシステム…と考えることができます。国家にとって貨幣の発行とその還流である税は、国民にとってそれこそ信用の供給と返済なのではないでしょうか。100%の信頼というものがあるとすれば…。
民主党の小沢氏は消費税施行以前から消費税に積極的でした。それは小沢氏に国家と国民と税に関する哲学があるからです。
国民が国家に全幅の信頼を置いていたら
税率は100%でいいはずだ
…と消費税に関して発言したことがあります。
このくらいの哲学を政治家は持つべきですね。
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コメント
ハイエクは通貨発行を自由にして国家の独占をやめるべきだと書いています。通貨の国家独占も悪であり、競争によって様々な可能性を追求するべきだというハイエクの思想はある意味徹底していて、貨幣とはなんなのかということを考えさせられます。
(猫氏もハイエクを読めば社会主義がなんたるかを理解できると思いますが・・・)
投稿: truf | 2009年4月 4日 (土) 00時33分
猫さんにはちょっとキツイことを書いてしまいましたが。年長者にはそのスタンスだけでも毅然とするものがほしかったので。価値観は別で当然ですがものを語るスタイルを多少は考えてほしかった…かな。w
私はハイエクはビギナーなので池田氏の著書が新鮮でイイです。しかし原則がまるでマルクスのような…。アンチマルクスでマルクス酷似?は多いですね。w
trufさんてtaroさんですか? そんな感じがしますが…違うかな。w
投稿: Y-BAT | 2009年4月 4日 (土) 01時25分
私はただのハイエク中級者?です。Taroさんは博識ですが、無政府自由主義の話をされても議論は混乱するだけですね。
資本論も大転換も読んでませんが猫さんの言いたいことはこうなんじゃないでしょうか。
インチキ製品の過剰生産が資本主義の問題で19世紀末は帝国主義と社会主義の強制交換で解決しようとして失敗した。同じようなことが今起きてるけど、新帝国主義も新社会主義もいやなので新しい強制変換の方法を「発明」をしよう。と。
しかしハイエク的に見れば何が過剰か適正かを決める最適な方法は市場競争であり、問題は過剰生産自体ではなくY-BATさんも仰るように「過剰生産者の保護」です。
等価価値や適正にこだわった東ドイツやソ連経済はどうなったのか、過剰生産とともに激しい競争にさらされているコンピュータ産業はどうなったのか、携帯電話やブローバンドや高速なコンピュータは「適正」から生まれるのかということを考えれば過剰は絶対悪とは言えません。
問題は過剰生産者の雇用や投資や利潤が巨大になり、競争のルールを歪める独占や政府の保護を求める権力を持つことで、これは民主主義の無制限な権力(と腐敗)も要因です。ハイエクによれば競争と市場のルールを上位に置く制限された政府が必要だとしています。(なので通貨も範疇になる)
私はマルクスビギナーですが、ハイエクとマルクスが類似してるというのはどういう点でしょうか?資本主義の問題を解決する出発点は同じで、マルクスは労働価値、ハイエクは市場競争で解決できるとしたあたりでしょうか。ハイエクは理性(革命精神)を断罪しているので、人間の欲望や行動をできるかぎり強制や制限せずにそのまま活かすしかないじゃないかという点では人間自然主義かもしれません。
投稿: truf | 2009年4月 4日 (土) 15時28分
過剰生産者サイドの権力(志向)が利潤などの膨大化とともに固定化してしまうと階級問題になってしまいますね。左翼や自称マルキストが勢いを得るのでしょう。でも彼らに解決はできない…。この〝解決できない〟ことそのものについて考えたいというのが自分の主旨です。
マルクスとハイエクの類似点というと池田氏が「部族社会と大きな社会」で示したような点がありますが。同様に抽象的ですが自分が感じる類似点は〝方法〟についてです。〝問題〟のフォーカスの仕方と解の見つけ方が似ている、と思いました。理論の緻密さなどを別とすればアンチマルクスであるポパーやドラッカーみたいな人でもそう感じることがあります。逆に緻密な論を持っていてもまったく類似点や共通点を感じない大物の哲学者や思想家は多いのですが。
池田氏の『ハイエク 知識社会の自由主義』の最終章で紹介されている「ハイエク問題」で指摘されるハイエクの矛盾とされるものも、多くのマルクス批判者が主張するマルクスの矛盾点と同じようなものの気がします。ハイエクは自らの認識をシフトとして対応しているようですが、マルクスは矛盾がその理論にビルトインされています。背理的なあるいは弁証法的な認識なので当然なのですが。ここは理解されずに批判のターゲットになりやすいところなのでしょう(たぶん…)。
自分の読みではマルクスは自然主義なのですが、マルキストあるいはコミュニストが全然違う方法論を語っているのが理解できません。一部のマルキストはその自然主義を読み取り、エコロジーや生態学にシフトした人がいると思います。このシフトはそれこそ当然なんだけど…。
労働価値は池田氏の指摘とはまた別の問題でも無効になってきたと考えます。従来の産業下では投入された時間を価値のスケールにします(スミス以来)が、現在の情報化・デジタル化では単位労働が生産する商品(や価値)は冪上化していて線形代数では整合がとれません。すでに産業の生産効率に関しては線形代数レベルで把握しようとするのがおかしいわけです。それから全く違いますが<労働価値>という把握ではなく、<労働>には〝商品の存在契機〟であることと〝労働(者)の自己発現〟であることとしての価値があり、これを経済(学)的に同定するのは無理がある、とも考えています。こちらの方が先に気がついたものですね。
投稿: Y-BAT | 2009年4月 4日 (土) 19時34分
佐伯啓思氏の『大転換』を立ち読みすれば、ハイエク問題のことも書いてますね。たしかにハイエクがアフリカの貧国に豊かになるために市場秩序を導入することに賛成なのか反対なのかは気になるところですが、自生的秩序を重視するという主張の本質ではないと思います。
氏の主張の社会と市場が対立するという話も、国家と社会、国家と市場という関係を考えると池田先生と同じ疑問が生まれます。定義問題なんでしょうが、ハイエクは「社会」や「社会主義」を慎重に定義しています。情報化によって社会主義的公共計画ができるという話も「大きな社会」問題を軽視していると思いますね。
ハイエクのエッセンスは懐疑論的な、(社会を成り立たせている)定数への疑問(競争)、未来の変化に対応するためにもルール(伝統)も進化するべきだという動的なものだと思います。
マルクスはどこか定数的、静的な理論に思えますが、マルクスも勉強する必要がありますね。マル経やらマルクス主義者のノイズが多いので敬遠してましたが。
投稿: truf | 2009年4月 4日 (土) 22時48分
そうですね、静的ではなく動的…たぶん自分が興味を持てる思索者・思想家の共通点です。「資本論」はマルクスの目前にあったイギリス資本主義の論理モデルなので一般化できません。一般化したために問題続出に。自ら資本家工場主だったエンゲルスが加筆編纂したため当時の現実には鋭利な武器となり、鋭い分だけ捨象されてしまったものが多すぎるというイメージがあります。マルクス自身がインドヨーロッパ語以外の言語には別の認識、別の哲学があることを認識していて、経済モデルでもアジア的なものには触れるだけに留めてますね。つまり知らないことは語らないというスタンスがあり、マルクス読みでこれを踏まえている人が少ないようです。勝手にマルクスを絶対視するから手に負えない。
池田氏が「資本主義と市民社会」(2009-02-27)で指摘したように「マルクスとハイエクがともに依拠した西欧的な市民社会の概念が、どこまで普遍的なモデルなのかが問題だ。」…なのであり、
「「強い個人」がみずからの主人になるという思想で、リバタリアンに近い。つまりマルクスは(ハイエクと同じく)きわめて正統的なモダニズムなのである。」
…ということでしょう。
コミュニストやマル経は下部構造(経済)による決定論なので、マルクスの有用性が遺棄されてしまっています。池田氏が評価するハイエクの自生的秩序の認識は、社会を規定する観念(価値観、掟、法、宗教など)が歴史のTPOごとに再帰的に生じ変化し続けることを解析したマルクスと同じで、氏もヘーゲル→マルクスのメリットとして市民社会(市場経済)の変遷への認識を受け継いでいることを評価してますね。もともと、市民社会を自己規定する観念の歴史的変遷は初期マルクスや哲学系のマルクス理解では常識のはずなのですが。非マルクス系の人間の考察の方が見事です。氏も経済学より心理学、ハイエクが心理学を目指していたことを繰り返し指摘していますが、示唆するところは大きいですね。
投稿: Y-BAT | 2009年4月 5日 (日) 02時19分