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2009年4月25日 (土)

若者が<関心のある・ない>コトの理由は?2

「若者が<関心のある・ない>コトの理由は?」で以下のように書きました。

   自分に直接影響あるコトと自分でコントロールできるコト…。
   この2つの条件が若者が関心をもてるコトだといえます。

例によってわかりにくかったと思うので多少整理してみます。w

キッカケはクローズアップ現代「政治は変わる? 動き出した若者たち」の番組はじめの若者が関心があることについてのコメントで、それはズイブン身近なコトとヘンに遠いコトでした…。これはサブカルやオタク論議あるいはひきこもり問題などのなかでラジカルなテーマになっていたコトでもあったのです。
若者が関心があるのは何なのか?
もちろんココ的にはその背理?で〝関心がないコト〟と〝その理由〟こそが重大なポイントです。<決定>ではなく<非決定>なところと、その理由ですね。その積分が社会だからです。メンガー的というかアルチュセール的というか吉本的というか、ココ的にはそういう語られない、明示されない顕在化しないものごとこそ、ターゲットにしたいと考えています。

 

   若者が関心があるのは「物価」と「防衛」「環境」など…
   …コレを、ちょっと抽象して(考えて)みると…
          ↓
   若者が関心があるのは「身近なコト」と「遠いコト」
          ↓
   具体的にいえば「自分に直接関係のあるコト」と「直接関係のないコト」
          ↓
   別の言い方をすれば
   <身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>
          ↓
   この場合は両方とも<自分でコントロールできる>ことなのです。
   これが最重要ポイント。

          ↓
   <観念的に関係するコト>は、
   実際のところ<自分でコントロールできる>というよりも
   <他者が関与できない>という方が当たっています。

          ↓
   <身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>で
   <自分でコントロールできる>のが条件になっていますが、
   もっと簡単にいえば<他者が関与できない>ということが
   最重要なそして絶対的な条件になっています。

          ↓
   {<他者が関与できない>ということが最重要なそして絶対的な条件}
   というのはとてもラジカルで、その分さまざまなコトのベースにある
   重大な<何か>を示していると考えられます…
          ↓
   <オタク>というのは<他者が関与できない>時空間を持つことであり、
   <ひきこもり>というのはそのために<他者が関与できない>時空間へ
   閉じこもったり、<他者が関与する>時空間へは行かないことだといえる
   でしょう。

          ↓

 

以上はただ単に整理し直しただけですが、この<他者が関与できない>ことを希求?する理由については考えていきます。この<他者>を回避あるいは自己の時空間からは排除しよとする心理(心的現象)はある種、必要でもあり、正常かつ必然だと思います。ただし、それは心理的な発達段階とその発現のタイミングやスピードあるいは持続に、何らかの抑制があるハズであり、それは充分に検討されるべきことでしょう。

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 若者を語る時に「象徴界が機能していない」といわれたことがあります。
 これはポストモダンやサブカル論議で<オタク>や<ひきこもり>に代表させて若者を語る時に指摘されてきたことです。<象徴界>というのは精神分析のラカン理論を代表する三界論(現実界、象徴界、想像界)の一つとして有名?になったタームで、その定義は<自分ではコントロールできないコト>であり<(知らずして)自分がコントロールされているコト>というものです。「刷り込みによる定型的な学習」から生成される認識で、言語や法律といったものなどが<象徴界>の代表的なものとして取り上げられるようです。

 ところでこの「若者は象徴界が機能していない」というのは正しく?は逆?だと考えられます。
 機能していないのは象徴界ではなく<想像界>ではないでしょうか?
 そして想像界(思考では)はいかに努力?しても自己言及の再帰性においてドーナツの穴のように触れられない、つまり不可知な非認識な領域があります。そこを自動的に補填してしまう結果として生じるのが共同性の基本です。そのために共同性がらみの認識は本来的にアンタッチャブルであり、国家、宗教をはじめとして私たちの身体性や自己コントロール性から離れています。そして、だからこそ、それらの情報を得ようとする=知ろうとする、人間の営みがあるのだと考えられます。ヘーゲルはそれを体系的に解き明かそうとした最初の思想家かもしれません。

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池田blog「希望を捨てる勇気」にはシリアスな指摘と言葉が掲げられています。

「90年代の「失われた10年」と現在はつながっており、そしてこの長期停滞には終わりがないかもしれないのだ。」という池田氏の指摘があります。
しかも
「こういう状況は若者の意識にあらわれている、と城繁幸氏はいう。それは「希望のなさ」だ。」
だから
「「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。」
というアイロニカルな結論?が示されてもいます…。

この「希望のなさ」というのは{<他者>を回避あるいは自己の時空間からは排除しよとする心理(心的現象)}がとうとう自分自身の中にある自己観念をも回避あるいは排除するようになった結果である可能性もあるでしょう。そのために、そこ(自分の中)に他者を見つけることも容易で、極論すれば多重人格や分裂したキャラ、自己内自己を見出し易いという特徴があるかもしれない…とも考えられます。

 
 

『ハイエク 知識社会の自由主義』にはハイエクが心理学を目指していたことが書いてあり、またハイエクが属したオーストリア学派の創始者メンガーがマッハの影響を受けていたことが示されています。思想的にあのレーニンの宿敵?だった新カント派のマッハです。

行為としての労働にそれなりの価値はありますが、価値感(観)としての価値、人間に内在する価値はそもそも主観であるという当然の前提がそこにはあります。
消費者の価値観こそが経済の最重要項である以上、認識論的なアプローチなしには考えられないのが現代社会ですね。

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