若者が<関心のある・ない>コトの理由は?
先週NHKのクローズアップ現代で「政治は変わる? 動き出した若者たち」というのをやってました。気になったのが番組はじめの若者に関するコメント。
若者が関心があることは「物価」と「防衛」「環境」?だとか…
「物価」と「防衛」「環境」?
これは簡単にいうと「身近なコト」と「遠いコト」…になります。
もうちょっと哲学的?で具体的にいえば「自分に直接関係のあるコト」と「直接関係のないコト」で、別の言い方をすれば<身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>です。
手で触れられる身近な<近景>と手の届かない眺めるだけのような<遠景>に関心があり、本来の生活空間を意味している(人間関係などがその中に入る)<中景>がありません。ある意味でそこには<関係のグラデーション>がないともいえます。対象との距離が遠ざかれば認識上も遠ざかるような<遠近感=関係の距離感>がなく、認識上の距離観と空間的な距離感が比例していないともいえます。たとえばケータイによる関係=コミュニケーションとはそういうものなので、若者だけではなく現代社会のある特徴でもあるでしょう。
そして<身体…>と<観念…>では全然違うようですが、この場合の2つには大きな共通点があります。それはこの場合は両方とも<自分でコントロールできる>ことなのです。これが最重要ポイント。
つまり自分に直接影響あるコトと自分でコントロールできるコト…。この2つの条件が若者が関心をもてるコトだといえます。
若者が関心をもつ「身近なコト」と「遠いコト」ですが、この<身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>の共通点である<自分でコントロールできる>ということにはもっと深い意味があります。
それは<観念的に関係するコト>の特徴でもあります。
この場合の<観念的に関係するコト>は、実際のところ<自分でコントロールできる>というよりも<他者が関与できない>という方が当たっています。もし自分の観念をホントに自己コントロールできるのならば悩みや心の問題は生じないハズで、これは現実にはムヅカシイことでしょう。
この場合は<身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>で<自分でコントロールできる>のが条件になっていますが、もっと簡単にいえば<他者が関与できない>ということが最重要なそして絶対的な条件になっています。
<他者が関与できない>というのはとても大きなラジカルな意味があります。
たとえば<オタク>というのは<他者が関与できない>時空間を持つことであり、<ひきこもり>というのはそのために<他者が関与できない>時空間へ閉じこもったり、<他者が関与する>時空間へは行かないことだといえるでしょう。
一般的に自己保身意識が強い分だけ他者批判をし国家や宗教(あるいは〝常識〟〝みんながいっている〟)といった<他者が関与しない(できない)>ものを錦の旗にした主張が出てきます。「<不況>と<不安>が生むもの」 より
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ところで経済社会的な問題としては…すでに若者だけではなく無職無収入の中高年層が年金をもらっている要介護高齢者である親の面倒を見つつ同居している…そして親がいなくなったらどうなるのか?…という<中高年層のひきこもり>を、ラカニアンであり<ひきこもり>の専門家である斎藤環氏は<ひきこもり>が問題となりだした当初から指摘し警鐘をならしていましたが…。失われた10年以来、リストラなどから中高年層にそういった現実があり、一方で若年層に<他者の関与>を回避することがデフォルトとしてある…こういう状況でこの経済状態、そして希望のなさ…絶望すらできない社会になりつつあるのか…。「少子高齢化社会では小学生と老人の犯罪が増える」という予測さえ80年代の階層消費論の頃にあるようです。
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こういった若者が<関心のある・ない>コトには、とても大きな理由があり、それそのものにも、そしてその結果そのものにもとてつもなく重大なものがあると思います…。
池田blogの「希望を捨てる勇気」で「あぶれた若者は一生フリーターとして漂流するしかない」情況のなか「希望のなさ」が指摘されています。若者に対するさまざまな指摘や意見があるなかで、若者そのものの、あるいは現在の人々の在り方そのものの中に何か?と感じることやオカシイと思えることがあると思います。そういうものの原点まで考察しないとイケナイ情況になりつつあるのは確でしょう…。
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