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2009年4月30日 (木)

<ユーミン>という商品のスゴサ?

どこでもユーミンネタとか音楽ネタはつきませんが、
池田blogでもときどき音楽ネタがあるみたいで、
今回は「そしてもう一度夢見るだろう」!です。

今や音楽は典型的な商品だし、完璧に個人のオーダーだし、激しい消耗品でもあるし、
なにより受動性の高い、それだけに心理的な心的現象的なものだし…。
だからこそ病理?としても…
汎用性のあるサンプルでもあるでしょう、あらゆる音楽と音は…。
それは人間の<関係性>の原点であり<社会性>のトリガーや象徴でもあるからです。

4月7日に池田blogの「35年目の松任谷由実」のコメントで書いたのは以下でした。
今回の「そしてもう一度夢見るだろう」にはもっと書いてしまいましたが…。w
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ユーミンは倍音のピークが2つ以上ある (Y-BAT) 2009-04-07 09:02:14

…ホルマント構造の声でその典型がホーミーです。もちろんホーミーの方が2つ以上の倍音のピークの等価度が高いです。簡単にいうとハ長調(ドが根音)の曲でファの音がよく鳴っている感じ。4度音ですね。

ユーミン自ら負けを認めたのは小室哲哉だけでした。小室の特徴も4度音を強調するものでアマチュア時代からミュージシャンの間では「4度音の小室」で有名?でした。西欧クラシックが支配権を確立していく間に4度音の地位は落ちて行きます。あるいは4度音の価値の低下がクラシックのが確立していく過程です。ウェーバーの音楽社会学に書かれているようですね。
「展覧会の絵」のような印象的な曲は4度音の価値が高く、それは非西欧の特徴です。宇多田も4度音が強調されてるようです。
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●マーケティング
 音楽産業のコーディネーション?を考えると、音楽レーベル(レコード会社のブランド?)の生産するものとオーディエンスの要求するもののギャップ?が問題で、そこで消費者の要求(嗜好)を探ってマーケティングしてきたのがTK・小室哲哉氏。TMNでアニソン系のコア?なファン15万人という限界を超えることに苦心した結果として、そこで音楽は芸術というキレイゴトをやめて産業化と市場化への覚悟を求められたワケです。もちろんこれは音楽産業全体がバブルの頃からシフトしていく契機でもあったハズ。アドルノ(浅田彰氏も)はアメリカにおけるジャズのこういう産業化に批判的だったのかな? 日本ではニューアカで知識は商品になったハズ(ホントはバレただけ)だから別に新しいことじゃないですが。

 TKの仕事を支えたようなテクノロジーの発展は、そういったハードの供給の面で音楽を消費者のものにした側面があります。サンプリングからDTM、自動演奏、楽曲生成の自動化などテクノロジーによるイノベーションはレコード会社や音楽産業のあり方を変えました。
 また音楽家の位置づけや経済的な問題をフォーカスしたのもTKでした。

●音から共同性へ
 街のどこかで鳴っている音、ホームの電車が発車するサインとしての音や、交差点での音声による誘導だとか、豆腐屋の笛だとか、教会の鐘の音などの典型的なものもありますが、そういうサウンドスケープ?に共同性(共同体)を見出そうとするアプローチをもっているのが(自分が知る限りでは)小沼純一氏や小室哲哉氏でした。坂本龍一氏は音の変成によるオーディエンスへの影響?の変化などには興味があったようですが…。

 レコード会社が売りたい音楽があって、オーディエンスが聴きたい音楽がある。そのギャップは結構大きかったりしますが、聴きたい音や音楽をリサーチする時にホントにあるいは根本的に必要なのは、サウンドスケープとしたときにそのバックとなるもの。極論すれば、その根本のセントラルドグマには<母体音>や<胎内音>があるワケです。そしてオーディエンスの成長時の環境。近藤等則氏であれば機械音に囲まれた家、鍛冶屋?だったオヤジさんとか、ですね。

●音と音楽の根源
 経済的側面を離れれば音楽という商品と産業はもっとも人間(性)に左右されるジャンルなので、その心理的な側面にウエイトはあると思います。

 胎児が母体から受けるサインは細胞のイオン反応のスピードで10000分の1秒です。人間が感得できる音の変化は2000分の1秒なので、それ(音速)より5倍以上速い。人間は成人しても生涯この10000分の1秒というスピードで実母の母音に反応(もちろん無意識下で)することがわかっています。

 「「音楽は郷愁だから」という原点」で書きましたが、ユーミンは常に原点を確認していて原点から始まり原点へ戻っていく…というスタイルで音や音楽に臨んでると思います。
 音楽の初源がこういうところに、つまり心身の根源にあるのは確かでしょう。

 元来人間を取り巻く自然の音(風、波、鳥や獣の鳴き声など)と神からの啓示(言葉的なるもの)を連続音として再現したのが音楽だとすれば、音楽への嗜好の変化はオーディエンスの何か大きな変化を現わしているものかもしれません。

 <巫女>にたとえられたりもするユーミンの理由がココにあります。

           
Super Best Of Yumi Arai

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そしてもう一度夢見るだろう (AND I WILL DREAM AGAIN.)

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2009年4月27日 (月)

若者が<関心のある・ない>コトの理由は?3

「<他者が関与できない>ということが最重要なそして絶対的な条件」というのが若者が関心があるコトの条件であると「若者が<関心のある・ない>コトの理由は?2」…で書きました。これらの心理?の発現には本来「心理的な発達段階とその発現のタイミングやスピードあるいは持続に、何らかの抑制があるハズ」なので、もし現在の若者のあり方に問題があるとすれば、このようなところを考察すればいいワケです。

若者が<他者が関与できない>というニッチ?なところにわずかなコミットやアプローチをするのは当然として、実はこの<他者(関与)否定?>的な認識は社会のコンセンサスでさえある可能性があります。「<不況>と<不安>が生むもの」で書いた内容でいえば「意図せざる結果」を誘導する<意図せざる>意志、<重層的非決定>的な判断に近似するような可能性のあるもの…でしょう。ニーチェが負債といったものかもしれません。

それは現代社会の中心的な構成員である<個別的現存クン>のコトであり、そのバリエーションでしょう。長くなりますが「欲望の分子革命とか」で書いたその辺をコピペしておきます。

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 スクエアなデリダは論理的に差延という発想に行きつきましたが…即金では買えない10万円のPCが10回払いだったら買えるよ、というようなコトで、今ココでの10万円持ってないというマイナス10万円という負債のザマも、10回払いという負債の差延でもってクリア。めでたくPCはオレのもの的な世界…です。

 しかもPCというマテリアルはゲットできるんだが、負債というマイナスの権利は10回払いという差延テクノロジーによってそういったシステムを構築している社会のなかへ解消していきます。社会システムは負債の差延を冗長性として内包してます。
 共同体の抽象化された概念である社会ですが、それが負債の差延の蔓延したシステムであるというコトは重要。この一点だけが、個別的現存としての人間、現存在としての人間、○○人間でもなんでも、社会と結節を作るトコです。ただし、今的には、という限定つきかもしれません。

 個別的現存が背負った負債は社会が預かってくれるんで、個別的現存クンは社会にアタマが上がりません。
 ところが、自分が負債をかかえてるコトなんか誰も認めたくないんで、認めない…と。楽しいコトは好きなんで、楽しいコトの結節点として社会を認めるよ、と。資本主義は楽しいコトをバンバン生産してくれますから。
 これがオタキングの主張ですね。
 楽しいとゆープラスの価値観の共有。
 しかし楽しいコトはみんなそれぞれ違うワケです、現実には。好きな対象はバラバラなワケです。そんなワケでオタキングはある種象徴的でしたが、ほぼ同時に無効でもありました。

                                   「欲望の分子革命とか」

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オタキングの単行本デビュー作であった『ぼくたちの洗脳社会』は、人々はそういう楽しいことを結節点とした共同性(体)に所属するようになり、複数のそういった共同体の間を行ったり来たりするような生活をするようになるという指摘でした。たぶん当時のパソコン通信niftyserveなどに所属し複数の「フォーラム」や「会議室」と呼ばれた掲示板を渡り歩いていた実感から類推したものだと思われます。夫婦や家族でさえあらかじめ約束しておかないと会うことはないかもしれない、日常的に顔を合わせているわけではない…という家族の近未来像なども描いていてリアルなオタキングの社会学本でした。ただその後の長期にわたる景気回復の無さや宮台社会学の説得力に象徴されるように{<楽しいコト>で結節点}よりも<島宇宙化>、さまざまな事件やひきこもりといったネガティブな物語りによる言説の方が説得力を持つようになっていきます。また本質的に、シェークスピアの「4大悲劇」から現在の〝癒し〟や天童荒太人気までネガティブストーリー?と〝受動性〟は人間本来の志向性?としてあるようです。それゆえに{<楽しいコト>で結節点}というのは事実でしたが無効だったともいえるでしょう。

       -       -       -

「…現実的な対案を示さないほうが、政治的には強い訴求力をもつ。ユートピアは「どこにもない国」だから美しいのだ。」
「それは永遠に実現することはないので、つねに「ここにはない」目標になるからだ。」

池田blog「希望について」にそのままズバリの指摘がありました。
まさしくユ・ートピア(U・TOPIA/ない・ところ)はそこに<ない>からこそ魅力をもち、各人がそれぞれ勝手に解釈できる<夢>だからこそ、さらに魅惑されていく…というユートピア=理想論の<力>なのでしょう。そして、理想が具体化し始めると各人の「勝手な解釈」ゆえにバラバラになるという党派性が顕在化してくることになります。だから、バラバラになるというのは現実化しつつある証拠でもあり、ある意味でコーディネーションの矛盾が露出してくる過程だともいえます。別の言い方をすれば、現実化すればあらゆるものはコーディネーションの矛盾が露呈するし、そこにはドルーズ=ガタリのような分子革命的なものが説得力をもつニッチ?があるのかもしれません…。

E・ブロッホの代表的な著作『希望の原理』を高価にも関わらず捨てることで現実やマルクス(理屈というもの)への希望を断念するためのパフォーマンスをしていた数年前の自分を思い出してしまいました。w

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2009年4月25日 (土)

若者が<関心のある・ない>コトの理由は?2

「若者が<関心のある・ない>コトの理由は?」で以下のように書きました。

   自分に直接影響あるコトと自分でコントロールできるコト…。
   この2つの条件が若者が関心をもてるコトだといえます。

例によってわかりにくかったと思うので多少整理してみます。w

キッカケはクローズアップ現代「政治は変わる? 動き出した若者たち」の番組はじめの若者が関心があることについてのコメントで、それはズイブン身近なコトとヘンに遠いコトでした…。これはサブカルやオタク論議あるいはひきこもり問題などのなかでラジカルなテーマになっていたコトでもあったのです。
若者が関心があるのは何なのか?
もちろんココ的にはその背理?で〝関心がないコト〟と〝その理由〟こそが重大なポイントです。<決定>ではなく<非決定>なところと、その理由ですね。その積分が社会だからです。メンガー的というかアルチュセール的というか吉本的というか、ココ的にはそういう語られない、明示されない顕在化しないものごとこそ、ターゲットにしたいと考えています。

 

   若者が関心があるのは「物価」と「防衛」「環境」など…
   …コレを、ちょっと抽象して(考えて)みると…
          ↓
   若者が関心があるのは「身近なコト」と「遠いコト」
          ↓
   具体的にいえば「自分に直接関係のあるコト」と「直接関係のないコト」
          ↓
   別の言い方をすれば
   <身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>
          ↓
   この場合は両方とも<自分でコントロールできる>ことなのです。
   これが最重要ポイント。

          ↓
   <観念的に関係するコト>は、
   実際のところ<自分でコントロールできる>というよりも
   <他者が関与できない>という方が当たっています。

          ↓
   <身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>で
   <自分でコントロールできる>のが条件になっていますが、
   もっと簡単にいえば<他者が関与できない>ということが
   最重要なそして絶対的な条件になっています。

          ↓
   {<他者が関与できない>ということが最重要なそして絶対的な条件}
   というのはとてもラジカルで、その分さまざまなコトのベースにある
   重大な<何か>を示していると考えられます…
          ↓
   <オタク>というのは<他者が関与できない>時空間を持つことであり、
   <ひきこもり>というのはそのために<他者が関与できない>時空間へ
   閉じこもったり、<他者が関与する>時空間へは行かないことだといえる
   でしょう。

          ↓

 

以上はただ単に整理し直しただけですが、この<他者が関与できない>ことを希求?する理由については考えていきます。この<他者>を回避あるいは自己の時空間からは排除しよとする心理(心的現象)はある種、必要でもあり、正常かつ必然だと思います。ただし、それは心理的な発達段階とその発現のタイミングやスピードあるいは持続に、何らかの抑制があるハズであり、それは充分に検討されるべきことでしょう。

       -       -       -

 若者を語る時に「象徴界が機能していない」といわれたことがあります。
 これはポストモダンやサブカル論議で<オタク>や<ひきこもり>に代表させて若者を語る時に指摘されてきたことです。<象徴界>というのは精神分析のラカン理論を代表する三界論(現実界、象徴界、想像界)の一つとして有名?になったタームで、その定義は<自分ではコントロールできないコト>であり<(知らずして)自分がコントロールされているコト>というものです。「刷り込みによる定型的な学習」から生成される認識で、言語や法律といったものなどが<象徴界>の代表的なものとして取り上げられるようです。

 ところでこの「若者は象徴界が機能していない」というのは正しく?は逆?だと考えられます。
 機能していないのは象徴界ではなく<想像界>ではないでしょうか?
 そして想像界(思考では)はいかに努力?しても自己言及の再帰性においてドーナツの穴のように触れられない、つまり不可知な非認識な領域があります。そこを自動的に補填してしまう結果として生じるのが共同性の基本です。そのために共同性がらみの認識は本来的にアンタッチャブルであり、国家、宗教をはじめとして私たちの身体性や自己コントロール性から離れています。そして、だからこそ、それらの情報を得ようとする=知ろうとする、人間の営みがあるのだと考えられます。ヘーゲルはそれを体系的に解き明かそうとした最初の思想家かもしれません。

       -       -       -

池田blog「希望を捨てる勇気」にはシリアスな指摘と言葉が掲げられています。

「90年代の「失われた10年」と現在はつながっており、そしてこの長期停滞には終わりがないかもしれないのだ。」という池田氏の指摘があります。
しかも
「こういう状況は若者の意識にあらわれている、と城繁幸氏はいう。それは「希望のなさ」だ。」
だから
「「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。」
というアイロニカルな結論?が示されてもいます…。

この「希望のなさ」というのは{<他者>を回避あるいは自己の時空間からは排除しよとする心理(心的現象)}がとうとう自分自身の中にある自己観念をも回避あるいは排除するようになった結果である可能性もあるでしょう。そのために、そこ(自分の中)に他者を見つけることも容易で、極論すれば多重人格や分裂したキャラ、自己内自己を見出し易いという特徴があるかもしれない…とも考えられます。

 
 

『ハイエク 知識社会の自由主義』にはハイエクが心理学を目指していたことが書いてあり、またハイエクが属したオーストリア学派の創始者メンガーがマッハの影響を受けていたことが示されています。思想的にあのレーニンの宿敵?だった新カント派のマッハです。

行為としての労働にそれなりの価値はありますが、価値感(観)としての価値、人間に内在する価値はそもそも主観であるという当然の前提がそこにはあります。
消費者の価値観こそが経済の最重要項である以上、認識論的なアプローチなしには考えられないのが現代社会ですね。

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2009年4月20日 (月)

若者が<関心のある・ない>コトの理由は?

先週NHKのクローズアップ現代で「政治は変わる? 動き出した若者たち」というのをやってました。気になったのが番組はじめの若者に関するコメント。

 若者が関心があることは「物価」と「防衛」「環境」?だとか…

 「物価」と「防衛」「環境」?

 これは簡単にいうと「身近なコト」と「遠いコト」…になります。

 もうちょっと哲学的?で具体的にいえば「自分に直接関係のあるコト」と「直接関係のないコト」で、別の言い方をすれば<身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>です。

 手で触れられる身近な<近景>と手の届かない眺めるだけのような<遠景>に関心があり、本来の生活空間を意味している(人間関係などがその中に入る)<中景>がありません。ある意味でそこには<関係のグラデーション>がないともいえます。対象との距離が遠ざかれば認識上も遠ざかるような<遠近感=関係の距離感>がなく、認識上の距離観と空間的な距離感が比例していないともいえます。たとえばケータイによる関係=コミュニケーションとはそういうものなので、若者だけではなく現代社会のある特徴でもあるでしょう。

 そして<身体…>と<観念…>では全然違うようですが、この場合の2つには大きな共通点があります。それはこの場合は両方とも<自分でコントロールできる>ことなのです。これが最重要ポイント。
 つまり自分に直接影響あるコトと自分でコントロールできるコト…。この2つの条件が若者が関心をもてるコトだといえます。

 若者が関心をもつ「身近なコト」と「遠いコト」ですが、この<身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>の共通点である<自分でコントロールできる>ということにはもっと深い意味があります。

 それは<観念的に関係するコト>の特徴でもあります。

 この場合の<観念的に関係するコト>は、実際のところ<自分でコントロールできる>というよりも<他者が関与できない>という方が当たっています。もし自分の観念をホントに自己コントロールできるのならば悩みや心の問題は生じないハズで、これは現実にはムヅカシイことでしょう。
 この場合は<身体的に関係するコト>と<観念的に関係するコト>で<自分でコントロールできる>のが条件になっていますが、もっと簡単にいえば<他者が関与できない>ということが最重要なそして絶対的な条件になっています。

 <他者が関与できない>というのはとても大きなラジカルな意味があります。
 たとえば<オタク>というのは<他者が関与できない>時空間を持つことであり、<ひきこもり>というのはそのために<他者が関与できない>時空間へ閉じこもったり、<他者が関与する>時空間へは行かないことだといえるでしょう。

一般的に自己保身意識が強い分だけ他者批判をし国家や宗教(あるいは〝常識〟〝みんながいっている〟)といった<他者が関与しない(できない)>ものを錦の旗にした主張が出てきます。「<不況>と<不安>が生むもの」 より

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 ところで経済社会的な問題としては…すでに若者だけではなく無職無収入の中高年層が年金をもらっている要介護高齢者である親の面倒を見つつ同居している…そして親がいなくなったらどうなるのか?…という<中高年層のひきこもり>を、ラカニアンであり<ひきこもり>の専門家である斎藤環氏は<ひきこもり>が問題となりだした当初から指摘し警鐘をならしていましたが…。失われた10年以来、リストラなどから中高年層にそういった現実があり、一方で若年層に<他者の関与>を回避することがデフォルトとしてある…こういう状況でこの経済状態、そして希望のなさ…絶望すらできない社会になりつつあるのか…。「少子高齢化社会では小学生と老人の犯罪が増える」という予測さえ80年代の階層消費論の頃にあるようです。

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 こういった若者が<関心のある・ない>コトには、とても大きな理由があり、それそのものにも、そしてその結果そのものにもとてつもなく重大なものがあると思います…。

 

 池田blog「希望を捨てる勇気」「あぶれた若者は一生フリーターとして漂流するしかない」情況のなか「希望のなさ」が指摘されています。若者に対するさまざまな指摘や意見があるなかで、若者そのものの、あるいは現在の人々の在り方そのものの中に何か?と感じることやオカシイと思えることがあると思います。そういうものの原点まで考察しないとイケナイ情況になりつつあるのは確でしょう…。

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2009年4月17日 (金)

<失われた10年>の消費者は?

<失われた10年>とはまさしく失った人たちの物語であって、全員の物語ではなかった…。世界が不況の現在でも、世界でベンツほか超高級車が売り上げを伸ばし、日本でも1億円以上の投資マンションが人気で、アウディの売り上げも伸びています。はずれたのはクルーグマンだのリフレ派だのプロ?の予想や期待であって、確信(犯)的?なパンピー=消費者には致命的なショックはまだ顕在化していません。『下流社会 新たな階層集団の出現』「両極化」といった現象は確かでありながら、だからこそ消費を継続している人たちも相当数いて、90年バブル時よりランボルギーニの数が増えていたりする東京ミッドタウンあたりを眺めても…一律な判断はできないことを示唆しています。もちろんそれらは多くても3、4割程度の人たちだけでしょうが。これは90年バブル前後でいえば年収800万円以上の人たちの消費は伸び続けているという事実があり、逆に『新・階層消費の時代―所得格差の拡大とその影響』では800万円以下は下層(階級)化することが85年時点で予測されていたという事実があります。

90年代初頭のバブル崩壊後94年に『新ぜいたく主義宣言』という本が出ました。<失われた10年>に関する考察では(経済(学)関係を別にすれば)消費者にリアリティがあるものとして貴重な探究です。バブル崩壊しちゃったけど積極的な消費は止まらないだろう…という内容で、3割の人が「クオリティ確信派」として消費し続けているという調査と今後消費し続けるだろうという予測でした。これは当たりました。まだインターネットもなく一部の人たち(コアは数万人?)がパソコン通信をしていただけの時代にこれだけの予期を可能にした調査検討というものもスゴイなとも思います。

 

  高度大衆社会に対応した「リーズナブルな」ぜいたく、
  そして、真の「こころの満足」が達成されるぜいたく、
  さらに環境問題をはじめ、「地球的制約」を与件として組み込んだ、
  「新しいぜいたく」の探求となるに違いない。

  いわば、「新しいぜいたく」の体系的追求が
  産業社会の生き延びる道にほかならないのである。

 

執筆したのは電通総研。さすが広告屋さんのコトバ。消費者との接点にいるだけにズバリ当たっていました…。

 

「バブルの理由?2」で書いたようにバブルが構造化している先進国では消費者が決定権をもっています。しかしそれは自覚がないために<重層的非決定>なかたちの決定権であり、ヘーゲル的な意志ではなく、超高度資本主義=消費資本主義的な膨大な商品アイテム数のように散逸(冪上化)したかたちで発現します。ポスモダ論議?でいわれてきたオタクや若者をとらえて〝象徴界が機能し(て)ない〟ということの本質は、こういうことではないでしょうか?

本来的に{<買う>か?<買わない>か?}という受動態でしかない消費者の意志の発現が決定権をもつことはH・ルフェーブルらが70年代(たとえば『都市革命』)から指摘していました。しかし決定(権)=権力は生産サイドにあるという発想と認識は経済(学)でも政治でも長く続いてきています。

 

池田blog「「失われた10年」から学ぶべきこと」に経済学者も混乱する「失われた10年」への評価(特にどう脱却したかについて)がコンパクトにまとめられています。

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2009年4月16日 (木)

<消費者省>という革命!?

   PL法から15年。
   消費者の国であるアメリカやEUからの要望で、
   20年以上も経て、
   とうとう消費者庁の設置が決定されました。
   行政のウエイトが
   生産者から消費者へシフトすることになるでしょうか…。

●郵政民営化以上の成果?

 使用者側の過失を要件としない無過失責任のPL法。製造業者にとってはキビシイ法律ですが行政はPL法委員会でその取扱いを骨抜きにすることで対応してきました。しかし今回の消費者庁(省?)設置決定は郵政民営化につづく改革の成果でしょう。
 郵政民営化も道路公団改革も中途半端な面では逆効果が生じ、またそこが改革批判のターゲットになりました。
 長年続いている後継者の不在による簡易郵便局の閉鎖が改革のせいにされたり、業務譲渡を不動産譲渡と間違われて入札が不当に安いとされたり、わずかな改革さえ情報の非対称性につけこんだ攻撃にさらされています。
 でも大事なのは端緒をつけたこと。強力にぶち上げた改革がないがしろにされる場面で小泉首相は「端緒をつけたんだから」と自己満足していましたが、それは政治家の哲学というだけではなく、革命でもない限りこの程度の進展速度が限度ということなのかもしれません…。

●成長戦略は消費者メインから!?

 <消費者省>が消費者問題を担当するのは当然ですが、それだけなら当然ながらイノベーションにはなりません。
 選択消費がGDPの半分を超える超高度資本主義=先進国で求められているのは<消費>が占める経済上のウエイトの再検討・再把握です。
 経済的にみて製造部門に比して利益が薄いサービス部門の問題があります。しかもこのサービス部門こそ消費に直結するものであり最もイノベーションが必要でしょう。インターネットの完全な一般化とともに、ラジカルな再考・再構築?が求められます。まず通信(の開放)や著作権といった問題の根本的な改革がないと具体的な〝次の展開〟がはじまりません。

 ある意味<消費者省>の責務は巨大だともいえます。
 極論すれば、今後の成長戦略を担うような官庁でなければいけないワケです。

 幾何的な産業発展の時代から、次のサービス部門の最初のブレークとしての金融経済は文字通りバブルとしてブレークしてしまいました。
 ファイナンスが信用そのものであるように、これは社会や共同体、国家といった人間関係を前提としたあるいは結果とした問題です。具現化したものとしては<税>や<ファイナンス>の問題(国家や政府の問題)ですが、これらとパラレルに生起しているあらゆる現象(事件ほか)との照応なしにすすむ認識は何であれ説得力を失っていくでしょう。その代表が経済(学)である可能性は低くありません。

   なぜレクサスは売れないのか?
   なぜ1日で100名も自殺者がいるのか?
   なぜ下流社会という認識が問題(反発されたのか)になるのか?

 ニート、ひきこもりから派遣切りまで問題はいくらでもあります…。

 

池田blog「成長戦略とは何か」で…

「成長戦略」にとってもっとも重要なのは、政府が特定の部門を成長産業とみなして補助金をばらまくことではなく、競争を促進して創造的破壊を促進することなのだ。

と指摘されています。<消費者省>はその担い手になる可能性はあるのでしょうか?

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2009年4月14日 (火)

貧困ファンドは究極のトレードオフ?

情報を知らないで、不安なまま世の中を見ると、「資本主義はヘン」とか「市場はオカシイ」になってしまいます。情報に自由にアクセスできるのにそうだとすれば、「ヘン」や「オカシイ」のは、その人そのものでしょうけど。w
情報が公開されていれば資本主義は正常?に発展していく可能性の方が高いです。あらゆる問題の根源にあるのは情報が公開されていないこと? つきつめるとそれはトレードオフに関する情報に関して、です。最貧困層への融資でも利益が上がるほど資本主義は発達してきているのでトレードオフに関して否定的であったり、費用対効果の情報を提供しないのは犯罪的でさえあります。特に政府や230兆円の留保金を抱え込んだままの大企業は。

●ハンパな資本主義がヘン!

  資本主義(capitalism)が悪いんじゃない。
  資本主義が半分しか完成していないのが問題なのだ

  資本主義の解釈が狭すぎるのが問題なんだ

404 Blog Not Found「ムハマド・ユヌス語録」にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏の来日時のコメントが即日掲載されていました。小飼氏の訳です。)

 貧困を救うファンドは世界の常識になりつつあり、グラミン銀行のムハマド・ユヌス氏はノーベル平和賞まで受賞しました。フランス左翼政権の頭脳だったジャック・アタリ氏は今やサルコジ政権でも活躍。この個別国家解消を目指してEU成立に奔走したヨーロッパ最高の知性のアタリ氏も、プラネット・ファイナンスという貧困解消のVCは草の根からというファンドで頑張ってます。貧困解消のためにネットの無線通信端末を配布するBRAC-NETや、年に500億円を貧困層に融資しているBRAC-BANK。あのジョージ・ソロスも100億円単位の寄付を行ったりしています。こういったソーシャル・ビジネス、公益資本主義とかCSRの高まりという実効性ある現実の解決だけが意味や価値があります。これはまさしく資本主義と市場の発展の大きな成果ですね。

           
働かざるもの、飢えるべからず。

著:小飼 弾
参考価格:¥1,680
価格:¥1,680

   

●健全な資本主義は早くも回復!?

 本日もCNBCのニュースによるとゴールドマンサックスがGOODです。

   業績が予想の倍以上
   減配なし
   公的資金の早期返済へ
   1か月で3割りの株価上昇

サブプライムローンという手続きからしていかがわしかったものにタッチすることなく、この金融危機、経済危機下でまっとうな投資活動、M&A、ヘッジファンドの取り扱いといった業務をこなしているGS。金融経済という名の<マネーでマネーを買う>つまり<信用で信用を買う>、つまるところ<相手を信じる…>ということを究極のよりどころとする信用資本主義そのものであるファイナンスを体現する一角を占めています。

日本国内で誰も再建を請け負わない見捨てられた破綻企業を、日本の企業に代わって請け負った外資はハゲタカといわてきました。しかし、有名外資の管理下で首切りが行われた事実はありません。黒字化して日本企業へ転売された後に首切りが行われるのが現実です。

●邪魔なのは何か?!

230兆円の留保金も持つ日本の大企業がやっていることは下請け企業をピンハネし、派遣を切り、取引先の倒産を眺めることです。外資と比してどちらがまともなのか…。そしてそれを眺めているのが政府と官僚…?

貧困層へ莫大な投資を続けシリアスな現実を知り尽くしているノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌス氏はいいます。

  政府は何でも作れるが、いったん作ったものを壊せない

国家という形態をとる以上はこのラジカルな問題が続くと思われます。なぜなら国家という共同幻想は個人の不安な心理に立脚した〝不安を解消するための自己生成するシステム〟「<不況>と<不安>が生むもの」参照)だからです。不安を解消するためにトレードオフされているのはイメージで、これは自己創出されます。リソースとして客観的な情報を与えないとこのイメージは歪み、病理的には妄想となります。これが不安な時の排外・排他主義、国家主義・民族主義です。あるいは日常でも小さな差別やKYとして発現します。

 

池田blog「トレードオフを否定する人々」でトレードオフを否定?する代表例として政府の景気対策があげられています。景気対策の費用を明かさない(当然発生する費用について情報提供公開しない)という究極のトレードオフの否定。実際のあらゆるトレードオフ(選択)に関わる問題の多くが「情報が公開されない」ことなのかもしれません。

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2009年4月 8日 (水)

<知らない>から貧乏!

地方の貧困層である農村に通信会社BRAC NETは無線通信のインターネットを設置していきます。配布される装置はWiMAXのデータ通信カードを取り付けたパソコン。目的はまず、貧困解消。

     貧困の原因は情報格差である

村人はネットで都会で売られている自分たちの野菜の値段を知ります。村に来る仲買人の買い取り価格の数倍以上。村人は値段を上げるよう交渉したり、自分たちで都会へ売りに行き、大きな利益を出せるようになるでしょう。〝情報の非対称性〟を理解した村人たちの改革がはじまります…。

NHKスペシャル<沸騰都市>でやっていたのが「ダッカ “奇跡”を呼ぶ融資」

〝情報の非対称性〟の解消に挑むのは22Fの超高層ビルを本部に持つ世界最大のNGOでBRAC。貧困層が多い農村にはその銀行部門BRAC BANKが融資しています。

 BRACの創始者はファズル・ハサン・アベッド
 スタッフ11万人
 融資件数10万件以上

アベッド氏は言います。

「貧しい人は自力で成長すると信じている」

それに

「政府も誰も助けてはくれない」

BRACの経営するデパートでは農村で作ったファッション物を売っています。価格は一般の3倍ほど。それでもよく売れます。いまやBRACはファッションブランドでもあるからです。その利益は貧困解消を目指し年に500億円を貧困層へ融資しているBRACを支えています。返済率は99.5%、利子(支払い配当?)は15%ですが債務者5名で一組の連帯責任になっているので双方に安心感があり、安定して継続的な融資が行われるようになっています。

政府国家の援助に期待せず(事実上拒否?)、利子を取ることなく、農村と都会のスラム街の最貧困層の自立を促すのが目的。救済とか援助ではなく自立を促すというニュアンスがポイント。この貧困層の経済的活動をメインにバングラデシュのGDP6%成長が5年間も維持されているからです。人件費は中国の3分の1。

国内では情報の非対称性をネットで解消しながら貧困層の成長を促し、対外的には人件費の非対称性を武器に輸出を促進…消費国家である先進国だけではなくイスラム圏という広大な市場をもターゲットにさらなる成長が見込まれるバングラデシュとダッカ。

もともと海外から資金が入っていなかったダッカでは金融危機の影響がなし。イスラム圏全般でもダメージは資本主義国ほど大きくなく、イスラム金融(銀行)も自信を深めています。

胸を張るイスラム圏の事業家たち…

世界15億人のイスラムを相手に我々は進みます
マネーゲームは終わりだ…


   ロシアが中東に接近
   オイルマネーをロシアへ

   シンガポールはドバイへの投資を促進
   イスタンブールはイランへの輸出が増加
   テヘランに大型ファッションビル計画
   アフリカの投資家がドバイへ進出
   ダッカからリビアなどへ労働者を

      -       -       -

ところで非イスラム圏の中国、インド、ロシア、アメリカ、日本ほかの人口の合計はイスラム人口を大きく超えます。これら中国も含めて資本主義と市場を基本とする世界でいちばん重要なのは言論と情報の自由です。

貧困の原因は情報格差でもありますが、池田blog「情報の非対称性にともなうエージェンシー問題」で示されているように今回の金融危機でも情報(の問題)は大きなファクター(orトリガー)となっています。

そして、この情報(の価値)に関していちばん根本的な問題は著作権が財産権とされてしまっている大きな弊害についてです。「著作権は他人が自分の著作を利用して新しい表現を行なう自由を侵害する権利である」と指摘する『ハイエク 知識社会の自由主義』『ヤバいぜっ!デジタル日本―ハイブリッド・スタイルのススメ』でクローズアップされている問題です。これはコピーの問題とともにインターネットの今後を左右する大きな問題でしょう。

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2009年4月 6日 (月)

マイクロソフトが売れた理由

●値段は10分の1

 かつて先行するDR-DOS(デジタルリサーチ社のOS)を追い落としてビル・ゲイツ(MS社)がMD-DOSの売り込みに成功した理由はカンタン。
 「値段はDR社の10分の1でいいですよ。」というゲイツの売り込みがあったから。
 こうしてビル・ゲイツは正々堂々とその市場で独占的な地位を築いたわけですね。

 まもなく日本でもDR-DOSは数か月で駆逐され、MS-DOSの独壇場となり今に至ります。たしかDR-DOSはVer6くらいまで出たと思いますが、すでにMD-DOSの圧倒的優位は変わらず、MS社がPCのOSを独占的に占めました。

●使いやすさ&コラボ

 次のWindowsでも同じ。
 〝窓〟をもち、マウスで操作するOSやシェルは他にもありました。日本でもJustウインドウやダイナウインドウなどはある意味先行していて世界初のスクロールバーがあったりしました。そのダイナウインドウを日本で購入して持ち帰ったのがMS社の研究員。その後発売されたMS-Windowsにはスクロールバーがつき、操作性が断然よくなって普及開始。 Windows3.1からPCのハードの圧倒的な性能向上もあってWindows95がブレイク。時代はWindowsへとシフトしました。ウインテルといわれたマイクロソフトとインテルの蜜月がPCを進化させ、それをベースにインターネットもスタートします。

●internetは政府の強力なバックアップ

 バブルの頃、通信ではNECと富士通の技術者用だったパソコン通信(電話回線)が一般向けに商用となりインターネットに先行していました。まもなくNTTが医療関係のデータ(レントゲン写真やカルテ)通信を企画し、それを知ったアメリカのゴア副大統領は国家安全保障会議の承認のもと国防省のコンピュータ通信回線とプロトコルをインターネットとして一般向けに開放することを決定します。NTTの計画を知って半年後にはアメリカはインターネットの基本回線を「情報ハイウエイ」として発表したわけです。このスピード、国防省の協力、国家安全保障会議におけるネットとプロトコルのバッククップ…。

 そしてネットが要求したのが通信の性能向上。ブラウザーのモザイクが当初から画像に対応していたために画像の転送スピードが問題でした。また日本では(特にNEC)はアルファベットの倍の情報量をもつ2バイトコードである日本語(文字)の表示のためにPCの性能アップに迫られました。そのためPCではないワープロ機という日本独自の発展もあり、家電企業とPC企業が激しい競争となり600万円のワープロはわずかの間に20万円程度になり、その後「1台売るごとに赤字が増える」過当競争を経てワープロはアプリ化してPCにリプレースされていきます。

       -       -       -

 MS社の勝利は「ライバルの10分の1の値段」から始まり、技術の発展と、ハードウエア企業との協力を経て進んできています。ゲイツ氏ひとりでアフリカ諸国のGDP合計に相当する財産を所有しているらしいですが、スタートは大学生のガレージ企業でした。それを世界の覇者にしたのはコストと技術で市場の競争に勝ったことです。ところで『ハイエク 知識 社会の自由主義 (PHP新書)』の「イノベーションに法則はない」でも指摘されていますがスティーブ・ジョブズの成功は「ほとんどまぐれ当たりであり」「画期的な技術でもない」ことが示されています。嫌われるほどの個人的なこだわり?でプロデュースされたのでiPodは売れたのかもしれません。

 一般的にはMS社のように何の変哲もない正攻法が市場で勝利するのでしょう。

 ところで世界不況で外需に頼れず、内需にシフトするしかない日本ですが、そのまだ将来があると思われている内需の代表?でもあるWeb関連やIT関連はまとも?なのでしょうか? そこには〝情報の非対称性〟などがまだまだあって本来のIT産業やネットの価値が発揮されていない可能性もあるのではないでしょうか?

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2009年4月 2日 (木)

マネーを独占?する国家

池田blog「ポラニー的不安」のコメントに面白いのがありました。

私は、経済は素人ですが、管理通貨制の下でのデフレをうまく説明するには、はじめに金本位制と管理通貨制の類似性を指摘しなければならないと思う。そして、過剰生産の問題にまで遡行する必要があると考えます。

そこでまず…金本位制と管理通貨制の類似性と限界とか…などと考えてみました。

金本位制は国家の独り善がり・・・

 金本位制は経済が国際化してるのに〝一国でやっていける〟と考える独り善がりな体制。イギリスの利上げで投機資金がロンドンへ移動してニューヨークの株価が崩壊してはじまった1929年の世界不況は金本位制への大きなノンでしょう。もちろん経済が国際化していなければ金本位制でもいいのかもしれませんが、それでも〝金(財)の獲得〟という帝国主義的な萌芽はあり得るし、世界各国がいつまでも個別の閉鎖系であるハズはないですね。

管理通貨体制は市場が命・・・

 管理通貨体制は国際間のバランスを図るためのものでしょうが、通貨の価値を保証するための経済力として国内経済(市場)の健全性?を前提とするので国家の責任と市場の役割は大きくなります。管理通貨体制下でこそ市場は健全でないと、そして国家は民主主義体制でないとオカシクなります。経済と政治の両方が民主主義でなければ正常な市場はあり得ないからです。つまり通貨を保証する国家の市場と政治に関する責任は重大であり、だからこそあらゆるジャンルへの安易な国家介入は慎まなければいけなくなるワケです。

金本位制と管理通貨体制の共通点は・・・

 金本位制と管理通貨体制の絶対的な共通点は、どちらも通貨の発行が国家一極に委ねられているということ。これがどちらの通貨体制にとってもある限界を規定していると考えられます。それは<国家がマネーを独占>しているということです。
 グローバル経済やマネーへの悪罵は世界中で散見しますが、それはマネーを独占的に発行している国家(中央銀行)そのものへの批判として再把握されなければいけません。国家が〝マネーは独占するが、マネーの責任は無い〟というような無責任な態度なら、マネーそのものへの信頼が毀損します。
 これは市場で利益をあげられないで赤字になり借入資金の返済不能からおこる金融危機とは違う危機です。国家そのものの信用危機です。現在、本当に見極めなければならないのは、100年に一度の危機が金融市場や実体経済の失敗による危機なのか、マネーの発行権を独占する国家への信用危機なのか、ということではないでしょうか?
 責任を全うしようとする国家が公的資金をジャブジャブ使うのはある意味で当然です。しかしそれは国家が税金を払っている国民に対して膨大な負債を負うことを意味します。当然ですが国家へのチェックは厳しくなります。情報公開もオンブズマンも当たり前のことに過ぎないでしょう。官僚や公務員のあらゆる情報開示と国民による罷免権の強化があっていいハズだと考えられます。

       -       -       - 

 貨幣論はいろいろありますが、国家が貨幣を発行(を独占)する本質的な理由はただ一つでしょう。共同体構成員の共同体への信用を象徴すること、です。そしてこの象徴=貨幣(とその支払い)をどう扱うか、どう扱われるか、で、その共同体と構成員の関係が計られ、それを見てお互いのあり方を再帰的に自己修正していくためのシステム…と考えることができます。国家にとって貨幣の発行とその還流である税は、国民にとってそれこそ信用の供給と返済なのではないでしょうか。100%の信頼というものがあるとすれば…。

 民主党の小沢氏は消費税施行以前から消費税に積極的でした。それは小沢氏に国家と国民と税に関する哲学があるからです。

   国民が国家に全幅の信頼を置いていたら
   税率は100%でいいはずだ

…と消費税に関して発言したことがあります。

 このくらいの哲学を政治家は持つべきですね。

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