<失われた10年>の消費者は?
<失われた10年>とはまさしく失った人たちの物語であって、全員の物語ではなかった…。世界が不況の現在でも、世界でベンツほか超高級車が売り上げを伸ばし、日本でも1億円以上の投資マンションが人気で、アウディの売り上げも伸びています。はずれたのはクルーグマンだのリフレ派だのプロ?の予想や期待であって、確信(犯)的?なパンピー=消費者には致命的なショックはまだ顕在化していません。『下流社会 新たな階層集団の出現』や「両極化」といった現象は確かでありながら、だからこそ消費を継続している人たちも相当数いて、90年バブル時よりランボルギーニの数が増えていたりする東京ミッドタウンあたりを眺めても…一律な判断はできないことを示唆しています。もちろんそれらは多くても3、4割程度の人たちだけでしょうが。これは90年バブル前後でいえば年収800万円以上の人たちの消費は伸び続けているという事実があり、逆に『新・階層消費の時代―所得格差の拡大とその影響』では800万円以下は下層(階級)化することが85年時点で予測されていたという事実があります。
90年代初頭のバブル崩壊後94年に『新ぜいたく主義宣言』という本が出ました。<失われた10年>に関する考察では(経済(学)関係を別にすれば)消費者にリアリティがあるものとして貴重な探究です。バブル崩壊しちゃったけど積極的な消費は止まらないだろう…という内容で、3割の人が「クオリティ確信派」として消費し続けているという調査と今後消費し続けるだろうという予測でした。これは当たりました。まだインターネットもなく一部の人たち(コアは数万人?)がパソコン通信をしていただけの時代にこれだけの予期を可能にした調査検討というものもスゴイなとも思います。
高度大衆社会に対応した「リーズナブルな」ぜいたく、
そして、真の「こころの満足」が達成されるぜいたく、
さらに環境問題をはじめ、「地球的制約」を与件として組み込んだ、
「新しいぜいたく」の探求となるに違いない。
いわば、「新しいぜいたく」の体系的追求が
産業社会の生き延びる道にほかならないのである。
執筆したのは電通総研。さすが広告屋さんのコトバ。消費者との接点にいるだけにズバリ当たっていました…。
「バブルの理由?2」で書いたようにバブルが構造化している先進国では消費者が決定権をもっています。しかしそれは自覚がないために<重層的非決定>なかたちの決定権であり、ヘーゲル的な意志ではなく、超高度資本主義=消費資本主義的な膨大な商品アイテム数のように散逸(冪上化)したかたちで発現します。ポスモダ論議?でいわれてきたオタクや若者をとらえて〝象徴界が機能し(て)ない〟ということの本質は、こういうことではないでしょうか?
本来的に{<買う>か?<買わない>か?}という受動態でしかない消費者の意志の発現が決定権をもつことはH・ルフェーブルらが70年代(たとえば『都市革命』)から指摘していました。しかし決定(権)=権力は生産サイドにあるという発想と認識は経済(学)でも政治でも長く続いてきています。
池田blogの「「失われた10年」から学ぶべきこと」に経済学者も混乱する「失われた10年」への評価(特にどう脱却したかについて)がコンパクトにまとめられています。
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