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2009年3月 2日 (月)

<不等価><不均衡>という原動力

 池田blog「資本主義と市民社会」にマルクスの資本主義認識の要点が必要最小限かつ最良な表現で書かれています。左翼であれば「剰余価値」や「労働価値」が不可侵のセントラルドグマとしてあるのでしょうが、もっとラジカルに、つまり資本主義の形態そのものとしての説明がここにあります。

 資本主義は、等価交換によって利潤(不等価交換)を生み出すシステムであり、この矛盾がさまざまな軋轢を生んできた。
                      「資本主義と市民社会」より

 

 「不等価交換」というのは「剰余価値」をも含む不均衡?な交換ですが、これを広義に<情報>の交換や<人員>の交換も含むと考えると、そのまま歴史認識の説明にもなりそうです。そしてそれは、全体像として本源的蓄積が行われていく不均衡累積過程そのものでしょう。
 本源的蓄積が不均衡に行われていく過程には、とても大事なポイントが2つあります。

それは…
  不均衡そのものが発展の動因であるコト。
そして…
  不均衡であっても破綻しないコトです。

 不均衡そのものはモノの交換であっても情報の交換であっても人間の交換であっても、それぞれに大きな意味があります。それは<不均衡>を解消する(均衡させる)ために、さらに<交換>そのものの<反復>とその<固定化>を誘引するコトであり、この総体が本源的蓄積だということです。簡単でシンプルなコトですが諸学に散逸してしまった個別の諸科学では把握しにくいことでもあり、またそれらを貫くように統計や抽象化した数値をもちだしても参考項目以外の意味はないでしょう。科学でさえ蓋然性でしかないことはサルトルが元シュールレアリストでマルクス主義者に転向したP・ナヴィルを論破した時の「方法の問題」に明らかですが、池田blogの「経済に「関数」なんて存在しない」にも同じように「数学的に厳密な意味での関数=写像が実証的に観察できるようなマクロ経済データは、世界中に一つもない。」「まず経済が合理的な「関数」で構成されているというワルラス以来の迷信を捨てることだ。」という鮮烈な指摘があります。こういう認識こそ今必要なものでしょう。

 何かの全体像をつかもうする時に認識そのものが個別であったり、勇んで抽象であったり極端だと宗教的あったりするブザマな模様こそが現代だという悲喜劇があります。たとえば現況では数値をいじればOKというリフレ派や売上目標を設定して満足してる社長まで同じようなもの。また統計を根拠に労働の配置・配分を強制した壮大な実験はスターリン主義として破綻した歴史的事実もあります。

 現在、<不均衡>とそれを調整・調節しうる契機としての<市場>とその<自由>は、あらゆる面で不適切、不当な評価を受けつつあるのかもしれません。経済危機が何らかの世界的な危機に発展してしまわないためにどうすればいいのか? マルクスによると歴史の繰り返しが3度目以降は喜劇らしいので、自分ももっぱら楽天主義ではいますが…。w

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