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2009年1月26日 (月)

世界デフレ都市TOKYO!

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>■デフレもバブルも統制3法からだけど・・・   2002/10/30</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>

▲デフレはどこから?

 デフレが顕在化したのは90年代初頭のバブル崩壊からですが、デフレそのものがあったのはもっと以前からだし、デフレ志向そのものはアメリカの倍額に相当する設備投資がはじまった時期でもある東京オリンピック(1964年)頃からだと考えることが可能です。

 その根本には銀行を頂点とするヒエラルカルな構造があります。
 その構造がつくられたのは戦前で、つくったのは企画院。つくった人は1917年レーニン革命当時にモスクワ大学を卒業した日本人Mさん、 Kaさん、Kiさんたち企画院のキレもの官僚さんたちです。戦後、Kaさんは社会党の左派として農地改革を、Kiさんは保守の黒幕的右派として、活躍しました。

 こうやって由来を孝察するとファシズムを成立させた統制3法が現在の日本のベースに(まだ)あることが明白です。戦略的な基本はあらゆるコストを圧縮すること。目標はもちろん強国…。

 そして戦後日本をいちはやく共産主義陣営に対抗させるためにとられた傾斜生産方式とそれを支える世界銀行からの厖大な資本投下。出来上がったのは巨大な「日本株式会社」…。

 所得の倍増がさらに加速度原則的に膨らんだのが土地バブル。
 土地バブルを担保して金融バブルへ。

 政府と自民党が土地関連融資への総量規制を緩和しようとした(当時の自民党小沢幹事長ら)時に反対した東京のスタンスは現在の経済的混乱に対するカウンターであり先取りだったんですね。
 東京の在り方は日本の矛盾を先取りしてるし、日本の犠牲にもなっています。
 東京の価値は、誰でもその歴史的な本源的蓄積をデータベースとして駆使できるコト。地方や外国からいろいろな人々が集まって何かができるところ、です。その巨大な積分の化け物であり超デフレ空間である東京は世界のサンクチャリとしてさらなる集中と集積が図られるべきかも。たとえばアキバはそんな象徴(だった?)なの、かな…。


▲統制3法

 大企業は大きな都市にあります。

 従業員はその都市で暮らさなければいけません。そこで地方出身者が都市で暮らせるようにつくられたのが借地借家人保護法です。安い給料でも暮らせるように借地代借家代を安くし、長期間都市に住み続けられるように借主の権利が保護されました。
 そして安い給料でも食料が買えるように食糧管理法もつくられました。

 これによって東北の農村などから働き手である青年が都市へ移住させられ、大企業のために働かされるようになりました。これへの大きな反発が、「東北の農村が飢えている」状況に憤慨して決起した226のクーデター事件です。天皇の米を作っている農村の働き手が都市の大企業へ奉仕することを余儀なくされているという反乱派の認識は説得力があります。これは農本主義=天皇制ファシズムと資本主義ファシズムの衝突でもあったわけです。同時期に市民階級の立場から資本主義ファシズムに戦いを挑んでいたのが左翼と共産主義です。

 大正ロマンとか大正デモクラシーというのは、人々が経済的に自立し、個人が独立した生活を営むことができる結果としての文化でした。就労年数も平均5年単位で、職を替えることはフツーのこと。株主である旦那衆の亮受した文化ですね。最初の共産党の秘密会議が表向きは株主会として開催されたのはカモフラージュにしても説得力があります。
 政治的にも地方の自治権が強く、財政的にも独立してました。それを都市の大企業を中心とした中央主権的資本主義にシフトさせたのが銀行法です。
 企業の株を持っていても利益が少ないように規制し、個人の株所有を抑制しました。
 そして企業そのものの資金も株式という直接金融ではなく銀行から融資をうける間接金融に誘導しました。企業が銀行の融資で経営されるようになれば、銀行を通じて会社をコントロールすることができるからです。銀行は大蔵省に一元的に支配されるわけで、ここに統制経済の根本的なシステムが完成します。大蔵省をバックボーンとする金融独占資本体制が成立したわけですね。

 いまだに政府が銀行(だけ)を大事にするスタンスは変わってません。太平洋戦争の敗北があっても、これらの銀行法をはじめとする統制3法は最近まで不変でした。行革や構造改革が叫ばれても、この統制経済的なスタンスとシステムの行使には何の変化もありません。それどころか情報関連法などでさらに統制の準備的な手段は強化されるかもしれません。

 安いサラリーでもフリーターでもそれなりに生きて行けるのはいろいろなリーズナブルな物価のおかげ。それをデフレだと批判したり不安を煽りたてる巨大な〝荒らし〟こそ現代の権力の最終的な姿かもしれません。

…なんて考えてみました。

 

2002/10/30
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2009年1月 8日 (木)

欲望の分子革命とか

 NHKでやってたのが1929年のウオール街の株価暴落の物語。
 ニューヨーク証券取引所でバブルが崩壊するアレですね。
 もちろんコレは第2次世界大戦や太平洋戦争のキッカケの表象。

 実際、経済問題以外に戦争のキッカケなんてないワケです。
 いろいろ例外があるように見えますが、すべて“利益”に還元できるコトばかり。もちろん“利益”というのはその時代ごとに形態が全然違うこともあります。
 それが世界空間共通の価値を持つようになっていくのが資本主義で、価値の均質空間化です。これが地域的な価値と衝突する時にいろんな物語が生まれたりします。

 村に市場が立って、定期的に市場が開催されるようになると、その市場に資源や客や名誉や人気をとられちゃうことにビビった他の共同体からヘンな物語が登場します。市場への道筋にある峠や山や谷でお化けや怪物や幽霊がでる話しですね。

 コレは市場へ行かせないための妨害工作だったりします。
 つまり市場と共同体だったり共同体と共同体との“闘争”なワケで、都市内部だとお店とお店の“闘争”だったり、ブランドとブランドの“闘争”だったりします。どこかのバーガーがミミズの肉だとか。(^^;)
 コレらは都市伝説の源でもあるでしょう。
 いずれにせよ空間性の対立や闘争なんで、戦国時代の楽市楽座だろうが、吉祥寺のバーガー店だろうが、ケミカル会社のフェイクファーと人工飼育のミンクだろうが、本質は同じです。

 歴史学も社会学も文化人類学も、同じような方法をベースにしています。
 ある空間世界での微分と分類。それはコマゴマ&ゴチャゴチャで整理整頓が必須の家政学的なワールドであるかもしれません。

 マルクスになるとちょっと違ってきます。
 時間的な分類をメジャーにして価値の空間性を連立方程式にかけちゃいます。
しかも時間性と空間性の相互変換を前提にしてるから変幻自在であり、どこまでも認識分類するとともにそれに応じた積分=現状認識とその現状を構成する力の場を自在に設定していきます。非感性的認識の自由度を実態に応じて遊べる?ワケともいえるかもしれません。
 昔からインテリ?がマルクスで遊ぶのはこのヘンに理由があるようです。

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 ところで“価値”は“欲望”するから生じるんで、それを捨象してはどんなに価値分析やってもダメじゃん、というのが流行?しました。そうです、ポストモダンをパースペクティブに据えたポスト構造主義的な認識、ですね。

 スクエアなデリダは論理的に差延という発想に行きつきましたが…即金では買えない10万円のPCが10回払いだったら買えるよ、というようなコトで、今ココでの10万円持ってないというマイナス10万円という負債のザマも、10回払いという負債の差延でもってクリア。めでたくPCはオレのもの的な世界…です。

 しかもPCというマテリアルはゲットできるんだが、負債というマイナスの権利は10回払いという差延テクノロジーによってそういったシステムを構築している社会のなかへ解消していきます。社会システムは負債の差延を冗長性として内包してます。
 共同体の抽象化された概念である社会ですが、それが負債の差延の蔓延したシステムであるというコトは重要。この一点だけが、個別的現存としての人間、現存在としての人間、○○人間でもなんでも、社会と結節を作るトコです。ただし、今的には、という限定つきかもしれません。

 個別的現存が背負った負債は社会が預かってくれるんで、個別的現存クンは社会にアタマが上がりません。
 ところが、自分が負債をかかえてるコトなんか誰も認めたくないんで、認めない…と。
楽しいコトは好きなんで、楽しいコトの結節点として社会を認めるよ、と。資本主義は楽しいコトをバンバン生産してくれますから。
 これがオタキングの主張ですね。
 楽しいとゆープラスの価値観の共有。
 しかし楽しいコトはみんなそれぞれ違うワケです、現実には。
好きな対象はバラバラなワケです。そんなワケでオタキングはある種象徴的でしたが、ほぼ同時に無効でもありました。

 このバラバラになっていく状況に一瞬の賭けをするのがスキゾキッズでした。
 状況や環境世界としてはそれでいいでしょう。
 マテリアルにバラバラの末端で生起するのが分子革命。
 だから立派な分子革命になるFMラジオの運動なんかを否定した浅田さんは山谷でガタリに叱られたりしたんですね。

 マテリアルな状況や欲望の対象をめぐる力の生成はそれでいいですが、そもそも欲望の契機や生成の理由は問われていません。

 マテリアルに世界は革命できますが、人間そのもの、欲望そのものへの革命はおろか考察さえちゃんとされてないワケです。個別科学である心理学などのように人間や欲望を考察している立場はありますが、そこでは逆にマテリアルな世界が捨象されてます。たとえば最初から理念内構築しか意図してないラカンなんかズルイかもしれません。

 そんなワケで欲望がダイレクトに、しかも主体の自己言及性だけを係数に社会に関与していくフィールドが、サブプライムローン破綻だなんだで最安値更新とかいわれてる東京証券取引市場だったりニューヨーク証券取引市場だったりします。
 全体を示す数値が最低値を更新しつつ、個別具体的な数値には高値更新があるワケで、サブカルやオタク論議がどうだろうと個別的現存を把握なんかできてないことと同じですね。論議って論者の自己満足が原則だからかもしれません。

 個人には「関係ねーよ」てなことが多すぎるかもしれませんが。

....てなこのテキストもあんまりボクには関係ない気もしないでもないですけど。

 

(2000/10/26~)
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経済は変化率を観る

▲ある時期の社会経済のバランスを考える

 理念的にある時期(たとえば現在でも)の日本の経済状況に以下の等号?が成り立つとします。とゆーか、成り立たせるのが、理念なんですが。(~o~)

 とにかく、それぞれの項目は理念としては等価です。

 このバランス?のとれた等号関係の変化を考えると、社会経済の構造の内的な変化がわかります。やがてそれは構造そのものへの変化となります。たとえばそれが恐慌だったり革命だったり戦争だったり、しますね。


理念的に(ホントに)等価なのは....

GDP = 株価時価総額 = マネーサプライ・通貨総量 = 担保総額


▲ある時期をデフォルトに設定する

 そして、ある時期の社会経済状態(のバランス)をデフォルトに設定します。
 それを均衡のとれたホメオスタシスな状態だと仮定します。ポイントは、そこからの変化率です。
現実にポストモダンフイールドで生きてる人にはあまりにもカンタンな概念設定かもしれませんが。(^^;)
 経済成長が+か-かなんてホントはそんなに問題になりません。問題になるのは変化率の方です。バランスがどういうように変化するか?です。

 この変化率を取り上げて分析します。小室直樹さんみたいに加速度原理がポイントだとか…スルドイ分析もありますが。

 問題はその動因。まあ動因は心的現象におけるクロナクシーだのなんだのがポイントです。極限では「せき立て」の心理であり、金融工学でノーベル賞をとっているブラックショールズ式などの確率過程期待論、つまりあの「伊籐の定理」というものなどが原点です。


▲デフォルトからの変化を考える

 で、問題はそれぞれの項目の変化率(の差異)です。
 そのデフォルト期から一定の時間が経った時期のそれぞれの項目の変化の割合ですね。社会全体が変化なく推移してるなら、各項目は同じようなバランスで相互に関係しながら平穏な月日が過ぎているでしょう。

 逆に、ある項目だけが急激に変化してたり、あるいは全然変化しなかったりすれば、デフォルトの項目相互の均衡は失われ、全体のバランスは崩れてきているワケです。

 このバランスが崩れてきたことをデフレだとかインフレだとかナンだとかレッテルします。


(2002/5/1~)
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