羊書

2017年7月31日 (月)

<モノ>と<イメージ>の認識

 モノを視るということは、いつも<視る構造>をとおして視ている…ということです。
 何を、どこで、いつ視ても変わらない視覚認識の構造があり、常にその構造をとおして視ていることになります。人間のすべての感覚は同じように、それぞれの<感覚の構造>をとおして感覚しています。

 認識するということは、すべて同じようになっています。何かを認識するということは、<認識する構造>をとおして認識しているワケです。いつでも、どこでも、認識するということは認識する構造をとおして認識しています。

 この構造とその仕組みや仕方を時空間構造で解説したのが心的現象論序説の内容になります。

 心像=イメージを見るというのは、イメージを見る構造をとおしてイメージを見ていることになります。
 イメージを見るということは想像するということであり、イメージを見る、想像する…ということは、認識の構造のなかでもいちばん複雑で高度なものになります。イメージや想像力について思索をめぐらせた現代思想や哲学の巨匠たちでも、イメージについて充分な考察をできてはいません(サルトルやMポンティは重要なポイントを突いていますが)。

 イメージや想像には形があります。そのためにイメージへの思索は現実の視覚像との区別ができていないという初歩的な錯誤も多く、混同したり混乱しがちです(オートポイエーシスなどではその混乱そのものがユニークです)。またイメージにはあらかじめ価値判断が含まれているために大変に複雑な面もあります。


           
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<価値>を生む、対幻想
<価値>を生む、対幻想2

2017年6月29日 (木)

<心像=イメージ>という認識のラジカル

 イメージとは何か?という問題は、人間の心的現象にとっていちばんラジカルな問題でしょう。知覚や想像力に思索をめぐらせたサルトルやMポンティでも、その答えは出せてはいません。

 イメージや想像には形があります。そのためにイメージへの思索は現実の視覚像との区別ができていないという初歩的?な錯誤も多く、混同したり混乱しがちです。またイメージにはあらかじめ価値判断が含まれているために大変に複雑な面もあります。



   対象物が<心像>にあらわれるあらわれ方は、
   その対象の種類や質にかかわらず、
   いつもおなじ仕方でしかあらわれないということが重要なのである。
   なぜならば対象がなんであれ<心像>においては、
   ただ概念の実体がさまざまな鏡によってさまざまな貌をしてあらわれるだけで、
   いつもおなじ実体に対面しているだけだからだ。

          (『心的現象論序説』「Ⅶ心像論 2心像における時間と空間」P251)


 ここで指摘されているように「おなじ仕方でしかあらわれない」というのは大変に重要なことを示しています。いつ、どこで、なにを想像しようが、それは「おなじ仕方でしかあらわれない」もの…です。そして、「いつもおなじ実体に対面しているだけ」という指摘から、この「実体」こそが想像(認識)のラジカルな実体であることが分ります。それは認識の構造そのものであり、認識するときの規範であり、概念を映しだす…ものです。

 この認識の基本となる構造からアプローチするとき、はじめて人間の心的現象があきらかになっていきます。心理学あるいは哲学や現象学といったジャンルや領域の命名に関係なく、世界を把握しうる可能性がそこにはあります。

2017年5月23日 (火)

コトバ相互の関係性=文法

 これは、美味しいパンです。

 このようなカンタンなコトバでも、心的現象の時間化度は、神経生理的なクロナクシーの規定を超えています。<これ><は>という<パン>への対象的指向のつぎに<美味しい>という判断がなされていくなかで、分割(文から分節化)された概念(コトバ=品詞)がそれぞれの仕方で結びついていく速度が、時間化度の本質になります。
 この時、すでに人間は生理的自然体としての時間化度を超えています。



   この分割された対象性の再構成が
   <クロナクシー>によって規定される時間化度を
   離脱すればするほど、わたしたちは
   高度な時間化度をもつものとかんがえることができる。

   (『心的現象論序説』Ⅲ心的世界の動態化 3 度(Grad)について P103)


 「<クロナクシー>によって規定される時間化度」というのは身体の時間性のベースになるもの。この<身体の時間性>は絶えず「高度な時間化度」に対して是正をもとめ、身体性への引き寄せをはかっています。身体性への復帰?の延長には自然的環界へ至る過程ともいえるものがあります。その究極は有機物から無機物への回帰?でもあり、ひとつの自然過程です。(<生きる>ということは「自然的環界へ至る過程」に抗うことでもあり、その行為(作為)が<労働>(『資本論』マルクス)と呼ばれるものです。心的現象論で<原生的疎外>と呼ばれるものがその起点=<生きる>ことそのものです。)

 一つ一つのコトバは概念を象徴するもので、言葉そのものは情報のタグとして機能しています。 言葉を想起することで、その言葉に象徴され代表される体系化された情報=概念を呼びだすことができます。一つ一つの言葉は(=概念)は基本的に、入れ子構造で安定していて、それらを複数同時に表出するときに言葉相互の関係性がチェックされます。

 <言葉相互の関係性>というのは、その表出時の全体(文)の志向(性)を反映しており、規範としては文法を生成します。

2017年4月20日 (木)

<直接性>を空間化度とする感覚

触覚の空間化度は、これ(視覚聴覚)とまったくちがっている。
触覚はもしあらゆる連合作用と視覚の補助とを排除すれば、
形態を識別することはできない。色彩を識別することもない。
また、距離をもつこともない。
いわば運動そのものの直接性ともいうべきものである。
この運動の直接性の感覚が、触覚の空間化度である。

嗅覚や味覚のような原始的感覚において、
わたしたちは、触覚よりもさらに原初的な直接性をみることができる。
それは、いわば滲透の直接性の感覚ともいうべきものである。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P100)

視覚と聴覚は可視光線と空気という均質的な空間性を媒介(メディア)とし、対象の外延としてそれを感知します。触覚では直接に対象に触れ、そのレスポンスは自らの運動性そのものによります。嗅覚や味覚ではレセプターにより直接に対象を感受します。生物の発展段階がそのまま反映されているといえるそれぞれの感覚のステージと種類。原始的な単細胞の生物から現代の人間の個体まで、その感覚の発展にはそれぞれの生命の特徴が現われてもいます。人間の身体はその時間性においてこれらの感覚からフィードバックされる空間化度を統御 しています。


享受・受容・感覚の位相?

     代謝レベル       体内感覚      内臓性  ↓   体内感覚

     分子レベル       味覚、嗅覚    浸潤性  ↓   味覚

                                 ↓   嗅覚

     物理レベル(ロー)   触覚と運動    接触性  ↓   触覚
     物理レベル(ハイ)   聴覚       共振性  ↓   聴覚
     物理レベル(超)    視覚         化学性  ↓   視覚

     情報レベル       脳、神経       情報性    ↓   頭脳感覚

     *(↓)は影響を与える方向。観念の作用はこの逆方向。

2017年4月 7日 (金)

知覚をなす身体の<時間化度>

それぞれの感官による感覚作用は、それぞれに固有の空間化度をもっており、
この空間化度は、生理体としての<身体>の時間化度にむすびついて知覚受容をなす…
これが、原生的疎外の心的な領域における感覚の空間化度の一次対応の本質である。

知覚受容に結びつく時間化度の概念は、

人間の<身体>を生理的自然体とみたときにかんがえられる神経伝播の速度であり、
神経生理学者のいう<クロナクシー>によってこの時間化度は規定される。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P101)

☆「神経生理学者のいう<クロナクシー>」というのは「生理的自然体」である身体の時間性で、感覚が作用するための最低刺激量であり閾値として基礎になるもの。身体の時間性はボディ・クロック(あるいはシステム・クロック)として各感覚や観念の時間性を統御しています。

 各感覚の一次対応の空間化度は、この身体の時間化度によって統御され、TPOで微妙に異なる知覚受容を生成していきます。感覚や観念の空間化度は相互に時間性(<構造的時間性=システムクロック≦ボディクロック>)を媒介してシンクロしています。
 「人間個体のあらゆるイレギュラー=異常や病気は、この個体のクロックをシステムクロックとしたコントロールからハズレること」です。

クロックとシンクロ

了解の系としての4つの時間性=クロック

2017年3月16日 (木)

聴覚と視覚の空間化度の<時間化>

聴覚と視覚にあらわれた人間の心的な特異性は、
聴覚と視覚の空間化度だけが、
そのままで構造的時間性に転化しうるものだという点に帰せられる。

聴覚と視覚のばあいにはある対象を<聴く>ことと<視る>ことは、
そのまま時間性として感ずることができるということである。

『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「6 聴覚と視覚の特異性」P120)

☆音楽や映像が時間の芸術といわれるように聴覚と視覚は時間の経過とともに知覚(感覚上の分別は空間性の差異によります)されます。すべての感覚刺激は単位時間あたりの空間量(空間性)が閾値を超えたところで受容されるものですが、認知上はそこに錯誤が生じます。すべての認識は時間の経過とともにあり、ここでは感覚された空間性が認知の時間性に溶融してしまう可能性が示されています。感覚すべき対象の空間性が認識する主体の時間性と溶融するのは<純粋疎外>状態を媒介とした現象、あるいは<純粋疎外>状態そのもの。それは自他不可分からはじまる認識の初源であり原点となるものです。この認識の初源に戻っての認識(再認識)が統合的に現象した場合がデジャブです。

心的現象としての<イメージ>7 他者性
幻聴や幻視は聴・視覚の空間化度が
そのまま時間性として了解されるために
<身体>の時間化度と関係ないかのように成立する仮象である。(P122)

心的現象としての<イメージ>8 空間化度
純粋概念としては、嗅覚・味覚・触覚における空間化度は、
そのまま(即自的に)時間性としては感じることはできない。
対象との関係の幻覚としてはありうる。(P122)

心的現象としての<イメージ>9 了解作用
具体的に確認できない対象を自己と関係づけようとする意識こそ、
関係という空間性を時間性として了解する意識そのものである。(P124)

2017年3月 9日 (木)

聴覚(心的領域)の一次対応としての空間性

聴覚が受容するのは、時間的な距りではなく、
可聴周波数と波形による振動物体の空間的な性質である。
いわば、もっとも発達した感覚と考えられている聴覚は、
遠隔化された触覚にたとえることができるものであり、
その空間化度は、一定の方向に物体から外延される全空間との接触性を意味している…

『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P101)

☆ここでは「おおくの神経生理学者」や「ヘーゲル」が「聴覚の属性を空間性とかんがえずに、時間性とむすびつけようといている」ことを「それは誤解である」と否定しながら、心的現象論ならではの時空間概念を基礎にした説明がされます。聴覚は単位時間あたりの空気の振動を受容し、2つの聴覚器官(耳)へ到達する音波の時間差から音源の方向や位置を探るものです。どんな複雑な音もホワイトノイズもオーケストラの演奏も高調波倍音もホルマント構造の音も、聴覚に受容される瞬間は1点の接触点でしかありません。

「視覚(心的領域)の一次対応としての空間性」と同じように聴覚の心的領域の基礎として一次対応としての空間性があります。各感覚におけるこの一次対応からのズレが、原生的疎外 → 純粋疎外というベクトル変容の本質になります。


音からわかるコト

J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

入力が無い時の<受容>と<了解>


           
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2017年2月25日 (土)

視覚(心的領域)の一次対応としての空間性

この視角は、どの方向と距離をとろうとしても、
その都度その視角に固有な限定をうける。
この限定からぬきだすことができる共通性は、
心的領域における最初の一次的な視覚の空間化度である。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P100)

☆心的現象論の基本となる時空間概念が、視覚を具体例として説明されています(感覚ごとに時空間化度は異なります)。「視角」が物理的な制約を受けている(そもそも「視角」は物理的な制約を表現する言葉ですが)ことを示しながら、それに限定されない心的領域(物理的に限定されないからこそ心的領域≒観念ですが)における空間概念が定義されています。
この「一次」(的)な空間化度(空間性)とそれに対応する時間化度(時間性)があり、そのカップリングが心的な領域の基礎になります。何かを見る時の現実の視覚とそれにともなう視覚の心的領域の基本となる関係が説明されています。これは原生的疎外と純粋疎外の関係を視覚(感覚)において説明したものともいえます。

2017年2月13日 (月)

ゼロの発見=<純粋疎外>という心的現象

心的現象としての灰皿は、
視覚による知覚作用のはんい内で、純粋視覚ともいうべきものにまで結晶しうる…

この<純粋視覚>は、対象とする灰皿と、対象的な視覚なしには不可能であるが、
視覚のはんい内で対象と対象への加工のベクトルが必然的にうみだす構造であり、
その意味では、わたしにとっての灰皿と、灰皿にとってのわたしとが、
きりはなせないところでだけ成立する視覚を意味している。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「2 原生的疎外と純粋疎外」P95~96)

☆<純粋疎外>という心的現象論の基礎であり最重要概念が、具体的な例として説明されています。<原生的疎外=ある>のベクトル変容である<純粋疎外=いる>の具体的な発現のカタチになります。ここでは視覚における<純粋疎外>がエグザンプルになっています。

<純粋視覚>について

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

MIT(マサチューセッツ工科大学)をはじめ「認知哲学の最先端の一つの問題」とされている「認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。」というカタチでも問題にされているもの。カンタンにいえば認識時の自他不可分のことになります。「区別の基準はどこにあるのか?」と問うならば、逆に<区別できない状態>を仮構し、そこから思念し思索することが人間には可能です(つまり人間の思考だけがゼロを設定することで飛躍的に発達した、その可能性そのものの具体のひとつがこの純粋疎外です)。この区別できない確定不能な状態が<純粋状態>つまり<純粋疎外>と呼ばれる状態のことになります。それそのものは論理的に確定不能であり論理性をもたいないために外部からは言及できないマテリアルあるいは先験的理性のようにみえもします。

来歴、知覚残効、純粋疎外




心的現象論序説が最も難解な書物といわれる理由がこういったところにあるのでしょう。しかし逆に基礎が理解できるとこれほどシステマチックに整序された体系の理論はないかもしれません。資本論を思わせるような全体像がそこにはあります。

世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ

2017年1月27日 (金)

<純粋疎外>の時間化度と空間化度

わたしの判断が、この判断対象ときり離すことができず、
わたしにとって先験的な理性であるかのように存在するという位相
ここで<純粋>化された理性の概念が想定される。
わたしたちは、このような<純粋>化の心的領域を、
原生的疎外にたいして純粋疎外と呼ぶことにする。
そして、この純粋疎外の心的領域を支配する時間化度と空間化度を、
固有時間性、固有空間性とかりに名づけることにする。

『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「2 原生的疎外と純粋疎外」P96)

心的現象論の基礎であり同時にもっとも象徴的な概念である<純粋疎外>が説明されています。まったく思弁的な概念ではなく個別的現存である個体に即した概念装置であり、それは<固有時間性><固有空間性>として心的現象論を構成していく基礎となるものです。この<固有時間>はアインシュタインのものと同等の意味であつかわれており、TPOに現存することからはじまる個体への完全にサイエンスとしてのアプローチ になっています。システム理論のオートポイエーシスの特異点である<境界>の定義を超えるものとして考えると、その深さと可能性が解ります。

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