心的現象論

2017年3月16日 (木)

聴覚と視覚の空間化度の<時間化>

聴覚と視覚にあらわれた人間の心的な特異性は、
聴覚と視覚の空間化度だけが、
そのままで構造的時間性に転化しうるものだという点に帰せられる。

聴覚と視覚のばあいにはある対象を<聴く>ことと<視る>ことは、
そのまま時間性として感ずることができるということである。

『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「6 聴覚と視覚の特異性」P120)

☆音楽や映像が時間の芸術といわれるように聴覚と視覚は時間の経過とともに知覚(感覚上の分別は空間性の差異によります)されます。すべての感覚刺激は単位時間あたりの空間量(空間性)が閾値を超えたところで受容されるものですが、認知上はそこに錯誤が生じます。すべての認識は時間の経過とともにあり、ここでは感覚された空間性が認知の時間性に溶融してしまう可能性が示されています。感覚すべき対象の空間性が認識する主体の時間性と溶融するのは<純粋疎外>状態を媒介とした現象、あるいは<純粋疎外>状態そのもの。それは自他不可分からはじまる認識の初源であり原点となるものです。この認識の初源に戻っての認識(再認識)が統合的に現象した場合がデジャブです。

心的現象としての<イメージ>7 他者性
幻聴や幻視は聴・視覚の空間化度が
そのまま時間性として了解されるために
<身体>の時間化度と関係ないかのように成立する仮象である。(P122)

心的現象としての<イメージ>8 空間化度
純粋概念としては、嗅覚・味覚・触覚における空間化度は、
そのまま(即自的に)時間性としては感じることはできない。
対象との関係の幻覚としてはありうる。(P122)

心的現象としての<イメージ>9 了解作用
具体的に確認できない対象を自己と関係づけようとする意識こそ、
関係という空間性を時間性として了解する意識そのものである。(P124)

2017年3月 9日 (木)

聴覚(心的領域)の一次対応としての空間性

聴覚が受容するのは、時間的な距りではなく、
可聴周波数と波形による振動物体の空間的な性質である。
いわば、もっとも発達した感覚と考えられている聴覚は、
遠隔化された触覚にたとえることができるものであり、
その空間化度は、一定の方向に物体から外延される全空間との接触性を意味している…

『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P101)

☆ここでは「おおくの神経生理学者」や「ヘーゲル」が「聴覚の属性を空間性とかんがえずに、時間性とむすびつけようといている」ことを「それは誤解である」と否定しながら、心的現象論ならではの時空間概念を基礎にした説明がされます。聴覚は単位時間あたりの空気の振動を受容し、2つの聴覚器官(耳)へ到達する音波の時間差から音源の方向や位置を探るものです。どんな複雑な音もホワイトノイズもオーケストラの演奏も高調波倍音もホルマント構造の音も、聴覚に受容される瞬間は1点の接触点でしかありません。

「視覚(心的領域)の一次対応としての空間性」と同じように聴覚の心的領域の基礎として一次対応としての空間性があります。各感覚におけるこの一次対応からのズレが、原生的疎外 → 純粋疎外というベクトル変容の本質になります。


音からわかるコト

J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

入力が無い時の<受容>と<了解>


           
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2017年2月25日 (土)

視覚(心的領域)の一次対応としての空間性

この視角は、どの方向と距離をとろうとしても、
その都度その視角に固有な限定をうける。
この限定からぬきだすことができる共通性は、
心的領域における最初の一次的な視覚の空間化度である。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P100)

☆心的現象論の基本となる時空間概念が、視覚を具体例として説明されています(感覚ごとに時空間化度は異なります)。「視角」が物理的な制約を受けている(そもそも「視角」は物理的な制約を表現する言葉ですが)ことを示しながら、それに限定されない心的領域(物理的に限定されないからこそ心的領域≒観念ですが)における空間概念が定義されています。
この「一次」(的)な空間化度(空間性)とそれに対応する時間化度(時間性)があり、そのカップリングが心的な領域の基礎になります。何かを見る時の現実の視覚とそれにともなう視覚の心的領域の基本となる関係が説明されています。これは原生的疎外と純粋疎外の関係を視覚(感覚)において説明したものともいえます。

2017年2月13日 (月)

ゼロの発見=<純粋疎外>という心的現象

心的現象としての灰皿は、
視覚による知覚作用のはんい内で、純粋視覚ともいうべきものにまで結晶しうる…

この<純粋視覚>は、対象とする灰皿と、対象的な視覚なしには不可能であるが、
視覚のはんい内で対象と対象への加工のベクトルが必然的にうみだす構造であり、
その意味では、わたしにとっての灰皿と、灰皿にとってのわたしとが、
きりはなせないところでだけ成立する視覚を意味している。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「2 原生的疎外と純粋疎外」P95~96)

☆<純粋疎外>という心的現象論の基礎であり最重要概念が、具体的な例として説明されています。<原生的疎外=ある>のベクトル変容である<純粋疎外=いる>の具体的な発現のカタチになります。ここでは視覚における<純粋疎外>がエグザンプルになっています。

<純粋視覚>について

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

MIT(マサチューセッツ工科大学)をはじめ「認知哲学の最先端の一つの問題」とされている「認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。」というカタチでも問題にされているもの。カンタンにいえば認識時の自他不可分のことになります。「区別の基準はどこにあるのか?」と問うならば、逆に<区別できない状態>を仮構し、そこから思念し思索することが人間には可能です(つまり人間の思考だけがゼロを設定することで飛躍的に発達した、その可能性そのものの具体のひとつがこの純粋疎外です)。この区別できない確定不能な状態が<純粋状態>つまり<純粋疎外>と呼ばれる状態のことになります。それそのものは論理的に確定不能であり論理性をもたいないために外部からは言及できないマテリアルあるいは先験的理性のようにみえもします。

来歴、知覚残効、純粋疎外




心的現象論序説が最も難解な書物といわれる理由がこういったところにあるのでしょう。しかし逆に基礎が理解できるとこれほどシステマチックに整序された体系の理論はないかもしれません。資本論を思わせるような全体像がそこにはあります。

世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ

2017年1月27日 (金)

<純粋疎外>の時間化度と空間化度

わたしの判断が、この判断対象ときり離すことができず、
わたしにとって先験的な理性であるかのように存在するという位相
ここで<純粋>化された理性の概念が想定される。
わたしたちは、このような<純粋>化の心的領域を、
原生的疎外にたいして純粋疎外と呼ぶことにする。
そして、この純粋疎外の心的領域を支配する時間化度と空間化度を、
固有時間性、固有空間性とかりに名づけることにする。

『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「2 原生的疎外と純粋疎外」P96)

心的現象論の基礎であり同時にもっとも象徴的な概念である<純粋疎外>が説明されています。まったく思弁的な概念ではなく個別的現存である個体に即した概念装置であり、それは<固有時間性><固有空間性>として心的現象論を構成していく基礎となるものです。この<固有時間>はアインシュタインのものと同等の意味であつかわれており、TPOに現存することからはじまる個体への完全にサイエンスとしてのアプローチ になっています。システム理論のオートポイエーシスの特異点である<境界>の定義を超えるものとして考えると、その深さと可能性が解ります。

2017年1月19日 (木)

心的現象の時間性と空間性

原生的疎外の心的領域を内在性としてかんがえる場合
<身体>の生理的時間性と現実的環界の自然的空間性との
一次対応をもとにする時間化度と空間化度を基軸として想定した。

そしていずれにせよ<異常>あるいは<病的>な現象では、
この一次対応は失われるものとかんがえてきた。


心的領域では
かならずある時間性と空間性の内在的な度合(Grad)によって
対象的認識も、本来的認識も変容をうける。

『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P99)


心的現象論は時空間概念の駆使によっていわゆる現象学的なものを超えていきますが、それはむしろ物理学的なニュアンスやヘーゲル小論理学のようなニュアンスであり、そこにマテリアルとテクノロジーあるはエンジニアリングに親和的な印象があります。これは思索者である吉本隆明がフランスの化学を専門とし物理化学的な概念や数理的な方法に優れていることによるもの。心理や上部構造分析において真に科学的なアプローチをしてきた詩人の不思議に見えてしまう強度が発揮されています。

2016年12月31日 (土)

心的現象としての言語 <概念>と<規範>

ある発語体系を<概念>の自己抽象の時間性の度合いとしてみることと
<規範>の自己関係の空間性の度合いとしてみることとは、
あたかも光を波動としてみるか粒子としてみるかといほどの相異にすぎない。

                (『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P179)


☆「発語における時間と空間の相互転換」の冒頭、時空間概念で説明する心的現象論序説の典型的なパートです。固有時である個別的現存=個体(個人)の言語という現象があざやかに時間性と空間性の現象として把握されています。この後、この<規範>は共同性への思索の初源として展開共同幻想論されていきます。<概念>については時間性の問題としてフッサールの内的時間などを超えつつ「自然体としての人間の生理的な時間」との関連で考察され、『母型論』ほかで三木成夫の解剖学などを参照しながらオリジナルな展開がされていきます。

2016年11月12日 (土)

心的現象としての言語 理解と像

発語体系が、
時間性の変化と順序としてではなく空間性の変化と順序として<わたし>に統覚されうるのは、
それぞれの発語が、
<わたしがここに存在する>という自己の場所的な存在にたいする自己関係にたいして、
それぞれ異なった空間性の度合いとして存在することが<わたし>に認知されるためである。

                (『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P177)


☆最小単位に分節化された言葉が、つまり品詞単位の言葉が、「それぞれ異なった空間性の度合」として「<わたし>に認知」され処理されて、全体(=像)として理解されていきます。理解を左右するのは、この<全体=像=イメージ>の拡大や縮小、抽象化のレベルや質です。通常の理解やコミニュケーションは品詞そのものの定義から理解する辞書的なアプローチがベースになっています。そこから個別的現存ごとの差異を捨象すると形式論理だけの世界になり、それは文法と辞書だけで済む世界です。ベイトソンでいえば学習Ⅰだけで対応できる世界になります。もちろん、現存在が固有時である以上、現実にはそのような世界は存在しません。思索や哲学の大きな陥穽がここにあります。

2016年9月24日 (土)

心的現象としての言語 問題の根源

事象A→Bを、実例として発語A→Bとかんがえてみれば、
フッサールの単純さと誤解ははっきりしてくる。
発語Aが事象Aでありうるのは、それが空気の振動として<他者>と共有しうるからである。
だから発語Aが<知覚>と関係づけられるのは、
それが空気の振動として<聴覚>に関与するという点においてだけである。
しかし、断るまでもなく<空気の振動>イコール<発語>ではないし、
発語以外の<空気の振動>は、風の音、樹木の揺れる音、物体の衝突その他無数に存在しうる。

わたしたちは、このようなあいまいさに排除を施した後に
<発語>体系の時間性と空間性はどこで相互転換しうるかという問題に到達することができる。

                                    (『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P183)


☆“ベルグソンの意識の直接所与性についての考察を、現象学的にホン訳し直したフッサール”と、その“フッサールの単純さと誤解”を指摘しながら、シンプルな<時間>と<空間>の概念を駆使した思索とアプローチです。一見精緻な西欧の哲学や認識がじつはシンプルな混同や見たくないものは見えない?程度の不可視性によって至っている限界が、カンタンに突破されていきます。

「<発語>体系の時間性と空間性はどこで相互転換しうるか」というのは、表出についてのほとんどすべての問題のキーポイント。それとともに、身体の時間性がすべての(心身の)時間性を統御しているという事実からは、人間の認識全般に関する問題すべてが、それどころか身体の健康とか病気という問題すべてにかかわってくる重要で根源的なものが…ココにあるということになります。

*「了解の系としての4つの時間性=クロック」

*「クロックとシンクロ」

2016年9月12日 (月)

心的現象としての言語 理解と文法

…発語体系が、
時間性の変化と順序としてではなく
空間性の変化と順序として<わたし>に統覚されうるのは、
それぞれの発語が、
<わたしがここに存在する>という自己の場所的な存在に対する自己関係にたいして、
それぞれ異なった空間性の度合いとして存在することが
<わたし>に認知されるためである。

(『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P177)


☆「これ.は.パン.だ.よ.ね.?」という言葉(発語体系)が理解できるのは、<これ><は><パン><だ><よ><ね><?>というそれぞれの語=概念と自己との関係が「空間性の度合い」として認知できているため。この<「空間性の度合い>相互の関係性が反復され抽象化をへて形成されたのが文法であり、それ自体に普遍性や先験性はなく、認識する側の受容の問題などの全般から生成するもの。ピダハン(「鳥のように鳴いてコミュニケーションする少数民族ピダハン」)のような文法が無い言葉や、従来の言語学でまったく説明できない民族の言葉も、「それぞれの語=概念と自己との関係」を探ることで解き明かしていくことが可能です。

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