<心像=イメージ>という認識のラジカル
イメージとは何か?という問題は、人間の心的現象にとっていちばんラジカルな問題でしょう。知覚や想像力に思索をめぐらせたサルトルやMポンティでも、その答えは出せてはいません。
イメージや想像には形があります。そのためにイメージへの思索は現実の視覚像との区別ができていないという初歩的?な錯誤も多く、混同したり混乱しがちです。またイメージにはあらかじめ価値判断が含まれているために大変に複雑な面もあります。
対象物が<心像>にあらわれるあらわれ方は、
その対象の種類や質にかかわらず、
いつもおなじ仕方でしかあらわれないということが重要なのである。
なぜならば対象がなんであれ<心像>においては、
ただ概念の実体がさまざまな鏡によってさまざまな貌をしてあらわれるだけで、
いつもおなじ実体に対面しているだけだからだ。
(『心的現象論序説』「Ⅶ心像論 2心像における時間と空間」P251)
ここで指摘されているように「おなじ仕方でしかあらわれない」というのは大変に重要なことを示しています。いつ、どこで、なにを想像しようが、それは「おなじ仕方でしかあらわれない」もの…です。そして、「いつもおなじ実体に対面しているだけ」という指摘から、この「実体」こそが想像(認識)のラジカルな実体であることが分ります。それは認識の構造そのものであり、認識するときの規範であり、概念を映しだす…ものです。
この認識の基本となる構造からアプローチするとき、はじめて人間の心的現象があきらかになっていきます。心理学あるいは哲学や現象学といったジャンルや領域の命名に関係なく、世界を把握しうる可能性がそこにはあります。


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