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2017年2月

2017年2月25日 (土)

視覚(心的領域)の一次対応としての空間性

この視角は、どの方向と距離をとろうとしても、
その都度その視角に固有な限定をうける。
この限定からぬきだすことができる共通性は、
心的領域における最初の一次的な視覚の空間化度である。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「3 度(Grad)について」P100)

☆心的現象論の基本となる時空間概念が、視覚を具体例として説明されています(感覚ごとに時空間化度は異なります)。「視角」が物理的な制約を受けている(そもそも「視角」は物理的な制約を表現する言葉ですが)ことを示しながら、それに限定されない心的領域(物理的に限定されないからこそ心的領域≒観念ですが)における空間概念が定義されています。
この「一次」(的)な空間化度(空間性)とそれに対応する時間化度(時間性)があり、そのカップリングが心的な領域の基礎になります。何かを見る時の現実の視覚とそれにともなう視覚の心的領域の基本となる関係が説明されています。これは原生的疎外と純粋疎外の関係を視覚(感覚)において説明したものともいえます。

2017年2月13日 (月)

ゼロの発見=<純粋疎外>という心的現象

心的現象としての灰皿は、
視覚による知覚作用のはんい内で、純粋視覚ともいうべきものにまで結晶しうる…

この<純粋視覚>は、対象とする灰皿と、対象的な視覚なしには不可能であるが、
視覚のはんい内で対象と対象への加工のベクトルが必然的にうみだす構造であり、
その意味では、わたしにとっての灰皿と、灰皿にとってのわたしとが、
きりはなせないところでだけ成立する視覚を意味している。

(『心的現象論序説』【Ⅲ 心的世界の動態化】「2 原生的疎外と純粋疎外」P95~96)

☆<純粋疎外>という心的現象論の基礎であり最重要概念が、具体的な例として説明されています。<原生的疎外=ある>のベクトル変容である<純粋疎外=いる>の具体的な発現のカタチになります。ここでは視覚における<純粋疎外>がエグザンプルになっています。

<純粋視覚>について

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

MIT(マサチューセッツ工科大学)をはじめ「認知哲学の最先端の一つの問題」とされている「認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。」というカタチでも問題にされているもの。カンタンにいえば認識時の自他不可分のことになります。「区別の基準はどこにあるのか?」と問うならば、逆に<区別できない状態>を仮構し、そこから思念し思索することが人間には可能です(つまり人間の思考だけがゼロを設定することで飛躍的に発達した、その可能性そのものの具体のひとつがこの純粋疎外です)。この区別できない確定不能な状態が<純粋状態>つまり<純粋疎外>と呼ばれる状態のことになります。それそのものは論理的に確定不能であり論理性をもたいないために外部からは言及できないマテリアルあるいは先験的理性のようにみえもします。

来歴、知覚残効、純粋疎外




心的現象論序説が最も難解な書物といわれる理由がこういったところにあるのでしょう。しかし逆に基礎が理解できるとこれほどシステマチックに整序された体系の理論はないかもしれません。資本論を思わせるような全体像がそこにはあります。

世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ

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