心的現象としての言語 理解と像
発語体系が、
時間性の変化と順序としてではなく空間性の変化と順序として<わたし>に統覚されうるのは、
それぞれの発語が、
<わたしがここに存在する>という自己の場所的な存在にたいする自己関係にたいして、
それぞれ異なった空間性の度合いとして存在することが<わたし>に認知されるためである。
(『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P177)
☆最小単位に分節化された言葉が、つまり品詞単位の言葉が、「それぞれ異なった空間性の度合」として「<わたし>に認知」され処理されて、全体(=像)として理解されていきます。理解を左右するのは、この<全体=像=イメージ>の拡大や縮小、抽象化のレベルや質です。通常の理解やコミニュケーションは品詞そのものの定義から理解する辞書的なアプローチがベースになっています。そこから個別的現存ごとの差異を捨象すると形式論理だけの世界になり、それは文法と辞書だけで済む世界です。ベイトソンでいえば学習Ⅰだけで対応できる世界になります。もちろん、現存在が固有時である以上、現実にはそのような世界は存在しません。思索や哲学の大きな陥穽がここにあります。
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