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2016年9月

2016年9月24日 (土)

心的現象としての言語 問題の根源

事象A→Bを、実例として発語A→Bとかんがえてみれば、
フッサールの単純さと誤解ははっきりしてくる。
発語Aが事象Aでありうるのは、それが空気の振動として<他者>と共有しうるからである。
だから発語Aが<知覚>と関係づけられるのは、
それが空気の振動として<聴覚>に関与するという点においてだけである。
しかし、断るまでもなく<空気の振動>イコール<発語>ではないし、
発語以外の<空気の振動>は、風の音、樹木の揺れる音、物体の衝突その他無数に存在しうる。

わたしたちは、このようなあいまいさに排除を施した後に
<発語>体系の時間性と空間性はどこで相互転換しうるかという問題に到達することができる。

                                    (『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P183)


☆“ベルグソンの意識の直接所与性についての考察を、現象学的にホン訳し直したフッサール”と、その“フッサールの単純さと誤解”を指摘しながら、シンプルな<時間>と<空間>の概念を駆使した思索とアプローチです。一見精緻な西欧の哲学や認識がじつはシンプルな混同や見たくないものは見えない?程度の不可視性によって至っている限界が、カンタンに突破されていきます。

「<発語>体系の時間性と空間性はどこで相互転換しうるか」というのは、表出についてのほとんどすべての問題のキーポイント。それとともに、身体の時間性がすべての(心身の)時間性を統御しているという事実からは、人間の認識全般に関する問題すべてが、それどころか身体の健康とか病気という問題すべてにかかわってくる重要で根源的なものが…ココにあるということになります。

*「了解の系としての4つの時間性=クロック」

*「クロックとシンクロ」

2016年9月12日 (月)

心的現象としての言語 理解と文法

…発語体系が、
時間性の変化と順序としてではなく
空間性の変化と順序として<わたし>に統覚されうるのは、
それぞれの発語が、
<わたしがここに存在する>という自己の場所的な存在に対する自己関係にたいして、
それぞれ異なった空間性の度合いとして存在することが
<わたし>に認知されるためである。

(『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P177)


☆「これ.は.パン.だ.よ.ね.?」という言葉(発語体系)が理解できるのは、<これ><は><パン><だ><よ><ね><?>というそれぞれの語=概念と自己との関係が「空間性の度合い」として認知できているため。この<「空間性の度合い>相互の関係性が反復され抽象化をへて形成されたのが文法であり、それ自体に普遍性や先験性はなく、認識する側の受容の問題などの全般から生成するもの。ピダハン(「鳥のように鳴いてコミュニケーションする少数民族ピダハン」)のような文法が無い言葉や、従来の言語学でまったく説明できない民族の言葉も、「それぞれの語=概念と自己との関係」を探ることで解き明かしていくことが可能です。

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