心的現象としての言語 病気のワケ
心的な失語はただふたつの本質的な態様によってあらわれうる。
ひとつは、<概念>の心的な構成が不全であることによって、
言語が、心的な規範に同調しえないばあいである。
他のひとつは、言語の心的な<規範>の不全に基づいて、
概念の心的な構成が不可能なばあいである。
(『心的現象論序説』【Ⅴ心的現象としての発語および失語】P162)
☆<概念>の構成は自己抽象によるもので、<規範>の形成は自己関係によるものです。失語をはじめ言語にあらわれる心的な障害というものは、概念が不全なために、あるいは規範が不全であるためにあらわれます。簡単にいえば概念という中身がちゃんとしていないか、規範という容器がちゃんとしていないかということになります。
概念は規範によって表出されて、はじめて言語化します。
言語の規範というのは、音韻、韻律、文法などの共同性です。
表現としての言語は表出されないかぎり存在しません。
(NOBORUのブログ・「2つの認識の基礎」)
これらの言語にあらわれる心的な障害は、環界への認識や世界視線そのものの振幅として考えることができます。問題は言語認識とその他の認識との関係、媒介やバイアスとなるものへのアプローチでしょう。
規範としての言語は共同幻想の生成と不可分ですが、そのためにこそ明確に峻別されたアプローチが必要となるもの。『言語にとって美とはなにか』では共同幻想は<社会的幻想>と呼ばれており、その呼称の差分に含まれるものは小さくはないのではないでしょうか。また共同幻想そのものは心的現象論では<幻想的共同性>とされています。
(心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>)
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