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2016年3月

2016年3月12日 (土)

心的現象としての<夢>6 形像のある/ない

夢は、いうまでもなく<特殊な>心的な自己疎外である。

それが眠りへの心的な世界でだけ可能だということである。


覚醒時の心的な領域にとって身体は、<自然>に属している。
そしておなじように、
夢にとっては、覚醒時の心的な領域が、第二次的な<自然>に属している…。
そして、
覚醒時の心的な領域を、どこまで第二次的な<自然>に転化しうるかという度合いが、
夢の形像の強さ、鮮明さの度合いを左右する…。
(P198)


…形像的な夢は、覚醒時の心的な領域をよりよく<自然>化しえた場合であり、
非形像的な夢は、この<自然>化があまり巧くゆかなかった場合にあたっている。
(P198)


☆夢の形像がある/ないの差異はどこからくるのでしょう? 覚醒時のあらゆる認識が対象と背景のカップリングであるように、夢という認識にもターゲットとグランドがあります。「覚醒時の心的な領域」にとっていちばん基本的なグランドは<自然>としての<身体>。同じように「入眠時の心的な領域」である夢にとって基本的なグランドとなる<自然>は「覚醒時の心的な領域」そのものなのです。それは既に<身体>から疎外されているために「第二次的な<自然>」になります。<自然>化が巧くいくというのは、「覚醒時の心的な領域」が巧く対象化されたということであり、別のいい方をすればその空間性や時間性がハッキリしたということでしょう。

2016年3月 5日 (土)

心的現象としての<夢>5 形像がない

形像をなにもともなわないでいる
考想の継続、判断、結合だけが存在するような下限の夢は、
可能性としては
<入眠>時の心的領域そのものとおなじだとかんがえることができる。
(P193)


☆形像がない夢とは何なのでしょう? 形像がないということは形像を生成する時空間変換が起こっていないということです。そこでは「考想の継続、判断、結合だけ」が存在し、覚醒時とおなじような認識がされていると考えられます。

こ のために「夢のなかで、じぶんが夢をみていることを識っている」というような自己認識が可能です。ここにも冪乗化する観念の自己言及性があります。この夢 と覚醒時の通底する状態はある純粋状態であり、認識がはじまる起点として<時点ゼロ>と同定できるでしょう。それは異なる領域がシンクロした状態です。

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