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2016年2月

2016年2月26日 (金)

心的現象としての<夢>4 形像化

本来的な<受容>が、夢においてどう変化するかが問題となる。

もしも夢が形像化してあらわれるならば、
この形像化に関与した意識の空間化度を除いたほかの<受容>は、
時間的な構造に擬似的に転化する…だろうということである。
(P190)

夢において<了解>作用は、夢の形像とつぎつぎにおこる形像の場面の移動や結合や短絡といったような、形像の移動する場面の<了解>の時間化度をのぞいた時間性を、擬似的な空間性に転化する…。(P191)


☆夢の形像とは何なのでしょう? いかなる意味でも視覚像ではありえない夢の形像はイメージそのものである可能性があります。くり返しますが夢には外部に対象がありません。つまり感覚が受容する空間性がありません。そのために夢の形像=空間性は夢を見ているコトそのものの空間性なのです。夢を見ているという認識(行為)そのものの空間性が夢そのものなのです。ここに冪乗化する観念があります。

さらに、感覚が受容する空間性がないために、本来ならばそれを了解する時間性もありません。すると了解の時間性はどうなっているのか…。この時間性こそが擬似的に空間性に転化していると考えられます。認識の時空間構造が転化し変換しているのが夢なのです。この観念の純粋状態ともいえる夢の全体像はいかなる思想や哲学あるいは科学からもアンタッチャブルなままです。

2016年2月19日 (金)

心的現象としての<夢>3 受容を遮断

眠りの状態が、まず対象の感覚的な受容を遮断するということ…
あらわれる夢表現に対して<入眠>時の心的な領域は
一義的(アインドイツテツヒ)な対応性をもたない…
(P188)

夢の形像は…心的な受容の空間化度が消失し、
心的な了解の時間化度が変容することから
直接に必然的にやってきたものである。
(P189)


☆くり返しますが、夢の状態は外界と一切の関係がありません。「あらわれる夢表現に対して…一義的(アインドイツテツヒ)な対応性をもたない」のです。「心的な受容の空間化度」は「無定型な空間化度の集積」であり、「心的な了解の時間化度は、対象が概念を結ぶような構造と水準をもちえない」のです。

 夢の属性というものは、どこからどうみても、「いかなる意味でも視覚像ではありえない」ことがわかります。このことから視覚(像)を前提にしてきた考察は哲学であれ心理学であれ、根本的に無効である可能性があります。

 またピダハンのように写真(二次元の視覚像)を読む(見る)ことができないような認識への経路ともなるものがここにあると考えられます。それはイメージや想像についての数少ない考察者であるサルトルやMポンティへの再考を促すものでもあるでしょう。

2016年2月11日 (木)

心的現象としての<夢>2 視覚像ではない

夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とはまったく関係がない…

心的な受容の空間化度が消失し、
心的な了解の時間化度が変容することから直接に必然的にやってきたものである。
つまり、意識が対象を受容するという構造をたもちえないところから、
必然的に与えられたものが夢の形像であって、
いかなる意味でも視覚像ではありえない。
(P189)

心的な規範の空間性と心的な概念の時間性が、
所定の水準を失ったために心的な言語の意味構成の水準を崩壊させた結果として、
形像となってあらわれたという点に意味があるだけである。
(P189)


『心的現象論序説』「Ⅳ.心的現象としての夢」「1.夢状態とはなにか」を参考に…


☆夢の形像、夢にでてくるイメージというものは、実際に見たものとも、記憶の残像とも関係ありません。「いかなる意味でも視覚像ではありえない」という断定がヴィジュアルやイメージを重視する現代にあってこそ、そのポスモダ状況での解釈の根本的な錯誤をも示唆しています。ゴースト、デジャブ、クオリアなどは見え方の問題であって、見えているものの問題ではないということです。言語(の価値)を探究する困難さと、イメージを探究する困難とを、パラレルに思索した一つの解がここにあります。

2016年2月 5日 (金)

心的現象としての<夢> 対象がない

心的にみられた眠りとは感覚的な受容を閉ざし、
了解を変容させた状態を意味している。
(P187)


対象が<身体>の外部に実在しないことから、
無定型な空間化度の集積にすぎなくなる…

心的な了解の時間化度は、
対象が概念を結ぶような構造と水準をもちえない…
(P188)


『心的現象論序説』「Ⅳ.心的現象としての夢」「1.夢状態とはなにか」を参考に…


☆夢は入眠中のデキゴトであるために外界との関係がありません。感覚がはたらいていないために、外部からの情報はないと仮定できます。聴覚が機能してなにか聞こえるとすれば、その部分だけ覚醒しているので夢と切り離して考えることができます。夢は観念の純粋状態、あるいは純粋疎外の初源ともいえるものです。

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