無自覚がはじめる2
<絶対に言及できないモノゴト>に対して代入される<あるモノゴト>はドコからくるか? 何に由来するか? という問題があります。これが心的現象におけるいちばん根本的で、究極の問題であり、ただひとつの答えでもあるものです。
<絶対に言及できないモノゴト>に対して代入される<あるモノゴト>とは、<外部への認知>そのものなのです。この認識の循環が心的システムそのものであり、その発現が心的現象そのものとなります。
論理的に自己言及不可能という自己矛盾(内部への認知)を解消するために、そこへ言及可能な環界への認知(外部への認知)を代入します。代入はあくまで代入であり、何を代入しても暫定的、蓋然的に心的な安定性を得るだけですが、この暫定性こそが<生きていく>理由そのものだと考えられます。<死>は環界への全面的な復帰であり、心的には突然の終了でしかありません。
☆自己言及の不可能性としての絶対に言及できない領域には、暫定的に何かを代入してしまうというシンプルな機構が心理の大きな面、あるいは基本的な面を占めています。左右の視野を分断して一方だけを可視にしても、不可視の方でも「視えている」と判断することなどを典型例として{<不可視であることそのもの>が不可視}になっており、つまりすべては可視だと判断されるという認識の特徴があります。それは{<無意識そのもの>を意識できるか?}という問題でもあります。いちいち感覚器において知覚できない<関係>というものを、関係そのものをマテリアルだと看做すことによって、あたかも<関係>が存在しているように認識する…そこでも同じ機序によって認識は形成されます。吉本隆明が追究した共同幻想が生成する(orしてしまう)、その理由です。さらに<死>は当人には絶対に認識できないものであり、第三者間においてしか認知されないものとして<他界>を形成します。<他界>への認識は究極の典型的な幻想であり、<関係>上にしか生成しない認識ともいえます。
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