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2012年8月 3日 (金)

<夢>という自由な認識

 

<世界視線>は時間も空間も超えて、あらゆるものを自由に見ることができる、人間のオリジナルな視線だ。

 臨死体験のように自分の死体を見たり、ランドサットGoogleEarthのように世界を見おろすことができる。あるいは過去へ遡って若い頃のパパやママに会ったり、未来へ飛んでお爺さんになった自分を探したり…空間の制約も時間の制限もない、観念の自由な視線なのだ。

 日常生活のなかで、この世界視線とよく似た現象がある。楽しかったり悲しかったり怖かったりする、あるいはすぐに忘れてしまったり、何年間も憶えていたりする魅力的で不思議な現象で、この現象をコントロールして自分たちの役に立てている民族もいるらしい。

 まったく刺激が無い部屋に入ると誰でも30分くらいで幻覚や幻聴を体験するという心理学の実験がある。
 この実験と同じように、まったく刺激がなくなると人間はどこでもいつでも誰でも、同じような体験をする。リアルには通勤の電車の中や講義の最中などでも、経験することがあるもので、ちょっとした居眠りでも可能性は充分ある。
 それは、<>だ。

 夢は、眠ってしまったために、感覚からの刺激がなくなり、脳内の観念の作動だけになっている状態だといえる。疲労などで感覚からの刺激がマヒしたり、何らかの理由で観念(神経)の統御が解除されれば同じように白昼夢になったり、幻覚や幻想が生じたりする。精神疾患と呼ばれるものは、そういった状態が頻発したり常態化することでしかなく、健常と病気の間には、確定したボーダーはないことを吉本さんは理論的に証明したともいえる。

 『心的現象論序説』(Ⅳ心的現象としての夢「1.夢状態とはなにか」P188)では以下のように“夢が外部情報に左右されない”ことが説明されている。夢は純粋に観念の作動なのだ。

 夢の対象は<身体>の外部に実在しないために、
 受容の空間化度は感覚に固有な水準と境界を持ち得ない。
 そのため夢の空間化度は無定形な集積に過ぎない。

 この外部情報に制限されない<夢>という自由な認識に、視覚情報という具体的な外部の情報をプラスしたものが世界視線だといえる。

 また、外部からの情報つまり感覚からの情報に左右されないために、感覚の無い脳神経だけの、純粋に観念(意識)だけの典型的な動きをしている可能性がある。
 <夢>を探究するコトは、純粋に人間の認知機能を分析することになる。すくなくとも、認識全般の基礎であり、重要な観念の表出として<夢>があると考えられるのだ。



 認識に<心像><形像><概念>の3つの位相があり、それぞれの生成の過程と<形像><概念>にまたがって<心像>が構成されることが『心的現象論序説』では説明されている。  そして、<心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、それは<共同観念の世界の代同物>でもあると人間の認識の全般像が論証されている。

 <心像>=イメージ、<形像>=形態認知、空間認識の規範化、<概念>=空間化された認識そのもの…これらの概念装置の考察と定義をへてはじめて人間の認識へのアプローチが可能になる。 そのうえで可能になるのが環界に対する認識で、他者や外部に対する認識がはじめて登場する。留意すべきは、ここではじめて自己に対する認識も構造化するということだろう。



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