<純粋視覚>について
世界視線や対幻想といったタームよりもラディカルで重要なのが、<純粋疎外>概念とそこから派生するいくつかの概念の一つである<純粋視覚>です。
認識のうえで<身体>と<心>と<外部>の区別がついていない状態を、位相学的に<純粋疎外>として設定します。この定義に相当するものがオートポイエーシスでは<境界>です。しかしオートポイエーシスでは<外部>を<撹乱>として捉え、有意な定義ができません。これはシステム論の限界を如実に表しているといえます。
<純粋疎外>の概念は、個別の器官や特定の認識作用に際してある種の定点を仮構するものとして援用されます。初出は『心的現象論序説』ですが、その後の『イメージ論』をはじめとした批評理論の構築においても、理論の根幹を支えるもとのとして行使されています。
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視覚像にいくつかのレベル≒種類があります。
対象的視覚像
視覚感覚器に反映された対象像。別の言い方をすれば
「視覚センサーに入力されたデータ」です。
知覚的視覚像
対象像を認識した視覚像。意識された視覚像。
自己確定(決定)された視覚像。
想像的視覚像
想像力(認識力)によって形成された視覚像。
経験値データによる範囲内。
世界視線による視覚像
想像的視覚像が予想データによって拡張形成された視覚像。
予期データによって拡張形成された想像的視覚像。
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上記の定義に以下の<純粋(疎外)>概念に基づいた<純粋視覚>を設定することによって、いままで必要でありながら得られなかった定点と大きな可能性が確保できます。
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純粋視覚
視覚の対象と視覚そのものが自他不可分(分別不能)の状態にある視覚。
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<純粋>概念は、静態的な状態としては第三世代システム論のオートポイエーシスにおける境界概念と重なりますが、境界の外部を対象化し得ないシステム論にはそれ以上の可能性がありません。
<純粋>概念は、常に能動的である認識そのものの特異点を定点として仮構したものです。これによって、その定点からどちらにむかってベクトルがシフトするかというアプローチができ、そのことによって明晰な分析が可能になります。別のいいかたをすれば、微分的解析の陥る概念の微細化のようなデッドエンドを避けることができ、それは同時にデッドエンドから超越論的認識へという、科学を装った認識の宗教化を回避することもできるワケです。
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