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2012年8月

2012年8月15日 (水)

<純粋視覚>について

世界視線や対幻想といったタームよりもラディカルで重要なのが、<純粋疎外>概念とそこから派生するいくつかの概念の一つである<純粋視覚>です。 

認識のうえで<身体>と<心>と<外部>の区別がついていない状態を、位相学的に<純粋疎外>として設定します。この定義に相当するものがオートポイエーシスでは<境界>です。しかしオートポイエーシスでは<外部>を<撹乱>として捉え、有意な定義ができません。これはシステム論の限界を如実に表しているといえます。

 <純粋疎外>の概念は、個別の器官や特定の認識作用に際してある種の定点を仮構するものとして援用されます。初出は『心的現象論序説』ですが、その後の『イメージ論』をはじめとした批評理論の構築においても、理論の根幹を支えるもとのとして行使されています。

―――――――――――――――――――――――――――――
視覚像にいくつかのレベル≒種類があります。

 対象的視覚像
  視覚感覚器に反映された対象像。別の言い方をすれば
  「視覚センサーに入力されたデータ」です。

 知覚的視覚像
  対象像を認識した視覚像。意識された視覚像。
  自己確定(決定)された視覚像。

 想像的視覚像
  想像力(認識力)によって形成された視覚像。
  経験値データによる範囲内。

 世界視線による視覚像

  想像的視覚像が予想データによって拡張形成された視覚像。
  予期データによって拡張形成された想像的視覚像。

―――――――――――――――――――――――――――――

上記の定義に以下の<純粋(疎外)>概念に基づいた<純粋視覚>を設定することによって、いままで必要でありながら得られなかった定点と大きな可能性が確保できます。

       -       -       -

 純粋視覚
  視覚の対象と視覚そのものが自他不可分(分別不能)の状態にある視覚。

       -       -       -

 <純粋>概念は、静態的な状態としては第三世代システム論のオートポイエーシスにおける境界概念と重なりますが、境界の外部を対象化し得ないシステム論にはそれ以上の可能性がありません。
 <純粋>概念は、常に能動的である認識そのものの特異点を定点として仮構したものです。これによって、その定点からどちらにむかってベクトルがシフトするかというアプローチができ、そのことによって明晰な分析が可能になります。別のいいかたをすれば、微分的解析の陥る概念の微細化のようなデッドエンドを避けることができ、それは同時にデッドエンドから超越論的認識へという、科学を装った認識の宗教化を回避することもできるワケです。

2012年8月10日 (金)

<世界視線>について、マトメ

 吉本理論の初期3部作の用語として有名になったのが<対幻想>や<共同幻想>という言葉。
 その3部作のなかの『言語にとって美とはなにか』を発展させた『ハイ・イメージ論』で登場したキーワードが<世界視線>です。
 それは以下のように考えられます。

       -       -       -

世界視線=過視的な世界像・世界観

       -       -       -

 「世界視線」は簡単にいえばCG映像のような視覚イメージ。

 対象の表も裏も、前も後ろも、上面も下面も側面も自由自在に見ることができるのが世界視線で、すべての方向方角において等価な視線です。それとともに、同時にその視点の在るところそのものも見えている視線です。

 「<純粋視覚>について」でも説明しますが視覚像に以下の各レベルがあります。ヒエラルカルな関係であるとともに、それぞれに不可換な属性があり、まったく独立した位相が考えられます。

       -       -       -

 対象的視覚像
 視覚センサーに入力されたデータ

 知覚的視覚像
 自己確定(決定)された視覚像

 想像的視覚像
 経験値データによる範囲内。

 世界視線による視覚像
 予期データによって拡張形成された想像的視覚像。

       -       -       -

 マテリアルなデータの入力から最終的な判断まで、その過程にはいくつかのステップがあり、それぞれのステップでコントロールの構成が違います。また、コントロール不能の状態として<感情>があります。

 サヴァン症候群に類似する視覚能力が言語野を抑制することで再現できることから、意識からのコントロールを解除することで世界視線的な視覚像が得られる可能性があり、これは臨死体験による自己客体視からも類推されます。

 問題は、CGとサヴァン的な視覚が対称的な理由によっていることです。CGは推論や予期データにより、サヴァンは抑圧のない器官化した身体感覚によりますが、共通するのはサヴァンもCGも入力データそのものが最大のファクターであること。また、推論プログラムにより最小限のデータから無限大へ向けて描画できるとすれば、この場合は当然推論プログラムそのものが最大のファクターになります。この推論プログラムは心的現象では想像力にあたります。また、データ入力は感覚器官による受容そのものです。

 

世界視線の<予期データ>は動態的な視覚像や運動としての視覚をアフォードする、あるいは想像力という観念の運動をアフォードするためのデータです。

2012年8月 3日 (金)

<夢>という自由な認識

 

<世界視線>は時間も空間も超えて、あらゆるものを自由に見ることができる、人間のオリジナルな視線だ。

 臨死体験のように自分の死体を見たり、ランドサットGoogleEarthのように世界を見おろすことができる。あるいは過去へ遡って若い頃のパパやママに会ったり、未来へ飛んでお爺さんになった自分を探したり…空間の制約も時間の制限もない、観念の自由な視線なのだ。

 日常生活のなかで、この世界視線とよく似た現象がある。楽しかったり悲しかったり怖かったりする、あるいはすぐに忘れてしまったり、何年間も憶えていたりする魅力的で不思議な現象で、この現象をコントロールして自分たちの役に立てている民族もいるらしい。

 まったく刺激が無い部屋に入ると誰でも30分くらいで幻覚や幻聴を体験するという心理学の実験がある。
 この実験と同じように、まったく刺激がなくなると人間はどこでもいつでも誰でも、同じような体験をする。リアルには通勤の電車の中や講義の最中などでも、経験することがあるもので、ちょっとした居眠りでも可能性は充分ある。
 それは、<>だ。

 夢は、眠ってしまったために、感覚からの刺激がなくなり、脳内の観念の作動だけになっている状態だといえる。疲労などで感覚からの刺激がマヒしたり、何らかの理由で観念(神経)の統御が解除されれば同じように白昼夢になったり、幻覚や幻想が生じたりする。精神疾患と呼ばれるものは、そういった状態が頻発したり常態化することでしかなく、健常と病気の間には、確定したボーダーはないことを吉本さんは理論的に証明したともいえる。

 『心的現象論序説』(Ⅳ心的現象としての夢「1.夢状態とはなにか」P188)では以下のように“夢が外部情報に左右されない”ことが説明されている。夢は純粋に観念の作動なのだ。

 夢の対象は<身体>の外部に実在しないために、
 受容の空間化度は感覚に固有な水準と境界を持ち得ない。
 そのため夢の空間化度は無定形な集積に過ぎない。

 この外部情報に制限されない<夢>という自由な認識に、視覚情報という具体的な外部の情報をプラスしたものが世界視線だといえる。

 また、外部からの情報つまり感覚からの情報に左右されないために、感覚の無い脳神経だけの、純粋に観念(意識)だけの典型的な動きをしている可能性がある。
 <夢>を探究するコトは、純粋に人間の認知機能を分析することになる。すくなくとも、認識全般の基礎であり、重要な観念の表出として<夢>があると考えられるのだ。



 認識に<心像><形像><概念>の3つの位相があり、それぞれの生成の過程と<形像><概念>にまたがって<心像>が構成されることが『心的現象論序説』では説明されている。  そして、<心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、それは<共同観念の世界の代同物>でもあると人間の認識の全般像が論証されている。

 <心像>=イメージ、<形像>=形態認知、空間認識の規範化、<概念>=空間化された認識そのもの…これらの概念装置の考察と定義をへてはじめて人間の認識へのアプローチが可能になる。 そのうえで可能になるのが環界に対する認識で、他者や外部に対する認識がはじめて登場する。留意すべきは、ここではじめて自己に対する認識も構造化するということだろう。



ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,155
価格:¥1,155

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