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2012年7月15日 (日)

誰にでもある“デジャブ”と“クオリア”

 “あ、この光景は見たことがある…”と感じたり、はじめて訪れたのに“前に来たことがあるな…”と感じたりするのがデジャブ
 デジャブのロマンチックなものでは、“はじめて出会ったのに、別れの感情のなかで恋をする”というようなものもある。これはキルケゴールという哲学者の日常的な体験だったらしい。実存主義の思索家だが、そこにはクールな一期一会とはちがったセンチメンタルな何かがあるのかもしれない。この失恋感情のなかで恋をするというキルケゴールは時の流れに過剰にセンシティブで、時間というものに対しても深い理解を示している哲学者でもあるのだ。

 広告の世界で写真を撮る時には「シズル感だそうか」というようなディレクションがされることがある。“シズル感”は定義しにくいものだけど、“みずみずしい感じ”などに理解されている。冷えたソーダグラスに結露がキラキラ輝いてるようなイメージだ。このシズル感はマテリアルな感じを言い現したものだが、もっと広い意味では“アハっ!体験”ともいわれるクオリアのことにもなるだろう。単なるオブジェ=対象に対して“アハっ!”と感動してしまうクオリアは、感覚の対象性のレベルで価値を感じてしまう錯誤だが、その詳しい機序が吉本では認識論として明らかにされている。

  “デジャブ”と“クオリア”。

 この2つに、明確な答えを出していたのが吉本隆明だった。
 吉本の理論と用語でいえば、どちらも認識の原了解のレベルでのコンフリクトなのだが、こういった明確な定義はどこからも一度もされたことがないのが実情だ。
 “デジャブ”と“クオリア”は、どちらも想像された視覚像であり、視覚化した想像力だ。より正確には視覚像に表出した観念性だともいえる。

 これだけでも、吉本隆明が最大の思想家といわれる理由がわかるだろう。
 どんな微細なデリケートなこともわからなければ、世界や国家など大きなことなどわかるわけがない。ゴーストや、デジャブ、クオリアを見切れる世界視線は、幻覚や幻想はもちろん、隠蔽やゴマカシが通用しないツールでもあるのだ。

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