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2014年12月16日 (火)

「韻律がふくんでいる指示性」とは?

どんな表現も、あるワク組・規範がないと成立しません。当然ですが、何かを必死に訴えたところで、それが言葉にも声にも、あるいはサインや記号にもなっていなければ、それが何だかはわかりません。その必死の表現は、単に何かの表出であって、他者にまで伝わる表現(意味の伝達)ではありえないものとして終わってしまいます。

ある表出が表現と化す臨界を、吉本隆明は簡明に、鮮やかに描いています。

   <ウ><ワア>と<ウワア>が、もしちがった意味をあらわすとすれば、
   ふたつの韻律のちがいにその理由をもとめなければならない。
   すでに、韻律がふくんでいるこの指示性の根源を、
   指示表出以前の指示表出の本質とみなしてきた。

      (『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P108)

           
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 ここではワク組や規範の機能それ自体が意味を表象させる根源であることが微分されています。単にシンプルな分節あるいは韻律の違いが、それだけで意味の違いを現しているというその根源について、指摘されています。この「指示性」はノエシス的なものも含意するもの。

 同じページにヘーゲルによる、詩についての有名な解説が『美学』から引用されています。

   詩は韻文で書かれることを本質的要件とする。
   …
   韻文を聴くひとには、それが通常の意識において気ままに語られたものとは
   別種のものなのだということがすぐわかる。
   それに固有の効果は内容にあるのではなく、対象面にあるのではなくて、
   これらにつけられた規定にあるのであり、
   この規定はこの内容にではなくてもっぱら主観に帰属することを直接に明示している。
   ここに存する統一性・均等性によってこそ、
   規則的な形式は自我性に諧和するひびきを発するのである。

   (『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P108~P109。
                                     ヘーゲルの『美学』から引用)

           
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 「本質的要件」というのは音楽と同じで、分節されている、リズムがあるということ。
 「規則的な形式」が「自我性に諧和するひびきを発する」というのは、直截?にいえば自我のリズムがシンクロする規則的な形式があることを示していて、日本語でいえば五・七の音数律がその規則性であり形式になります。五・七の音数律が奇数なのは、偶数では心拍をはじめとして基礎が2ビートである人間にとって安定的であり運動や行為の終息には適していますが、継続や前進には奇数がいいワケです。奇数には安定を求めてさらに進行するという属性があるといえるでしょう。

 韻律についてのヘーゲルの考察を評価するところでの指摘が以下。「みている」というのはヘーゲルがそうみているということです。
 「内容とも対象とも異なった」ものだけども「主観に帰属するもの」で、「意識それ自体」と不可分なもの…。いかにも吉本隆明らしく、ヘーゲルやあるいはマルクスとオーバーラップするようなポイントがフォーカスされています。しかもそれは「完全に対象的に固定化されない」といいます。

   …韻律としての言語が内容とも対象とも異なった「主観に帰属するもの」、
   いいかえれば意識それ自体に粘りついてはなれないもの、
   完全に対象的に固定化されないものとみている…

      (『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P109)

 「対象的に固定化されない」つまり可変性のあるもの…。韻律の定義のこの部分は重要なことを示していそうです。認識のワク組の生成として“ベイトソンの学習”的なものがありますが、同じように表出から表現へ至る時のワク組の生成として固定化されないもの=ワク組の可変性があるワケです。

 このワク組の可変性には、環界への根源的な関係性が影響していると考えられます。

2013年11月 8日 (金)

<美>をミメーシスしようとする五七調?

「ポリリズムと自然音と人声と」で「自らのマザークロック、2拍子から分周し反復されるリズムはマテリアルとなり、逆に規範として自らに作用します…」と書きましたが、『言語にとって美とはなにかⅠ』では言語に即して以下のような説明があります。


  言語の音韻はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、
  言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。

                        (『言語にとって美とはなにかⅠ』P47)


 この「指示表出以前の指示表出」とは何のことでしょう?(ラカニアンにも「シニフィアンのシニフィアン」というような表現をする人がいますが)…とても原理的なことだと思われますが、それだけにわかりにくいかもしれません。アフォーダンスであれば<歩みをアフォードしてくれてるのは地球だ>といえるようにラジカルな(関連・関係性の)ことで、立つことをアフォードしてくれるのは重力そのもの…というようなそれ以上は微分できないような根源的な関係となるもののこと、と考えられます。一見奇想天外なトンチな問答みたいですが、現実や真実が意外にシンプルなことなのも少なくありません…。

 「指示表出以前の指示表出」というのは、たとえば「自らのマザークロック、2拍子から分周し反復されるリズムはマテリアルとなり、逆に規範として自らに作用します…」というようなものだと考えられます。価値判断つまり自己表出を捨象した表出として、です。自己表出を捨象しても残る指示表出というのは<生そのもの>あるいは原生的疎外そのものの<形態>ともいうべきものになります。


           
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  リズムが言語の意味とかかわりを直接もたないのに、
  指示の抽出された共通性とかんがえられることは、
  言語がその条件の底辺に、非言語時代の感覚的母斑をもっていることを意味している。
  これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれるようにみえる。

                               (『言語にとって美とはなにかⅠ』P47)


 この「感覚的母斑」は心拍や息つぎ、歩行といったものから直接に感受されるような感性(体性感覚)的なもの。そして「これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれるようにみえる」という指摘は2つの重要なことを説明しています。それは日本語が「等時的な拍音」つまり2拍子あるいは反復に近い印象を与えるということ。そして、それゆえに「音数律としてあらわれる」ということ、です。前者は後者の理由や因果になっています。簡単にいえば、日本語の音韻としての印象はシンプルであるために(音素の連続としてシンプルであるために)、その単調さから離脱するために音数律が発達した…ということ。なぜ単調さから離脱する必要があったのかというと、それはコミュニケーションのため。対幻想をはじめ共同体を構成する以上必然となる相手や隣人、多くの他者との情報交換をはじめとしたコミュニケーションが大前提となるからです。そこで必要なのは相手に受容されやすい指示性であり、さらには相手の認識(の志向性)を喚起する要素を備えたいからということになります。

 この延長線上で詩歌の五七調の説明ができます。つまり2拍子ではシンプルであり反復するだけですが、奇数の文節を持ち込むことで反復から離脱し、進行し変化する変容のイメージをあたえられるということ。変容のイメージこそ感動であり、感情を喚起する表現こそが詩歌をはじめとするものの価値だからです。もちろん、美と呼ばれるものがそれであり(古代ギリシャミメーシスというのはそれに呼び起こされることなのでしょう)、これはそのまま『言語にとって美とはなにか』というタイトルが示しているとおりの<美>のことです。


  日本語の韻律が音数律となることについて言語学者は、充分な根拠をあたえているようにみえる。

  (金田一春彦『日本語』から)
  日本の詩歌の形式で、七五調とか、五七調とか音数律が発達しているが、
  これも、拍がみな同じ長さで単純だからにちがいない。
  ただし、四や六がえらばれず五とか七とか奇数が多くえらばれたのはなぜか。
  日本語の拍は…点のような存在なので二拍ずつがひとまとりになる傾向があるからだろう。

                           (『言語にとって美とはなにかⅠ』P109~P110)


       -       -       -

 「指示表出以前の指示表出」という説明は「言語にとって美とはなにか」と「心的現象論序説」の取り上げる対象の差異をハッキリわきまえた表現だと考えられます。「以前」の「指示表出」については心的現象として個体の根拠づけにおける言語の定義であり、すでに言語が発生した以後(の位相)をあつかう(社会的共同性における)言語論では対象とならないからです。

           
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 単なる反復から離脱しリズムと化していく(志向する)のは自己表出から指示表出へと遠隔化するということでもあり、プリミティブな鳴き声や叫びなどの単なる発声が言語化していく過程に対応します。

 自己表出というものは自らの価値判断(享受全般)を前提とするもので、いわゆる自分そのものの表出。そのために{<自己>が(自己を)<確定>するもの}という根源的な定義があります。自らの価値判断に基づく表出ということです。その初源を抽象すれば(自己による)<自己抽象(性)>になり、これはあらゆる認識の<概念>形成のベースとなるもの。「感覚的母斑」はその基礎です。

 指示表出というものは自らの価値判断とは無関係に他からやってくるもので、他者によって{<指示>され<決定>されているもの}であり、初源の定義は他からやってくるという(自己による)<関係(性)>だけです。これはラジカルには<自己関係(性)>であり、あらゆる認識の<規範>形成のベースとなります。

「心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>」

2013年10月23日 (水)

J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

ポリリズムと自然音と人声と

黒い点をいくつか、描きます。
その上に任意の角度で5本の平行線を置きます…

これがJ・ケージの作曲法?の一つ。
5本の平行線はもちろん五線譜の線。
黒い点は音符で、テキトーに、いくつか、あるいはたくさん、散らばらせてもいいのでしょう。5本の平行線と黒い点から<楽譜>が生成し、そこには<音楽>が生まれます。

この自由でランダムな黒点のあり方からでも音楽を生み出してしまうものは何か?
カオスノイズを整序して定型音にしてしまうものは何か?
雑音ともいうべきものをコード化するものは何か?


   J・ケージは、
   純粋音階と自然諸音との差異を同一化してみせた。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P227)


単純な電子発振器からサインウェーブをべき乗化してあらゆる音をつくることはシンセサイザーで可能になりました。信号のべき乗化とは逆?に、全域的なノイズからフィルタリングで特定の音を生みだすこともできます。ノイズオシレーターからフィルターとレゾナンスを駆使して音声を合成するシンセサイザーは現代ではスタンダードな電子楽器でしょう。


  J・ケージは一面ではエレクトロ・シンセサイザーの予見であり、
  別の面からは楽音の群団の様式化、法規化の可能性の予見でもあったとおもえる。

                          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P228)


<世界視線>ランドサット (LANDSAT)や臨死体験から説明されたように、ここではJ・ケージの具体的な方法論からともてもラジカルな(ものごとが)説明がされようとしています。黒い点と5本の平行線の意味するもの、これらが示しているものは何か…?


       -       -       -

   音階はJ・ケージの世界では、
   自然音から抽出された純粋音階ではないし、
   純粋音階から構成された古典近代の楽音の世界でもない。
   音階は病像のあるひとつのレベルを指定しているだけだ。
   そのレベルにはいらなければ幻聴を呼びいれることができない
   そのレベルである。

                 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P224)


この<純粋音階>が吉本隆明の思索の全工程?をつらぬく<純粋疎外>概念だとすれば、ここに思想の全貌を見出すことも可能でしょう。いつどのパートをとってもいつもその思想の全体像が反映されている吉本隆明の<作品>として典型的なもの(論考)がここにあるといえます。

知が商品であることがカミング・アウトされたポスモダの雰囲気のなかで、J・ケージを語ることはスノッブでカッコよかったのですが、これほどの普遍性とそれゆえの破壊力を秘めたJ・ケージへの思索は『ハイ・イメージ論Ⅰ』以外には見当たりません。


   幻聴の基本的な形式…に気がついていた人は、
   ひとりは宮沢賢治、ひとりはJ・ケージだ。

       (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P211)


           
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高橋源一郎氏が、まだ婦人のお腹にいる子どもに胎教をしようと思って音読してみたら、キレイな言葉(音韻、韻律)の作品は宮沢賢治だけだったという話があります。宮沢賢治は詩人というよりも作家ですが詩歌とはまったく別な形態のファンタジー?でありながら、その世界は十二分に<美>をそなえたもの。それは「幻聴の基本的な形式…に気がついていた人」だったからかもしれません。


膨大な内容情報やボキャブラリーではなく、<美>を決定するものはなにか? 巧みなレトリックとプレゼンテーションのスキルではなく、生来の受動態である人間に<美>を感じるさせるものはなにか? この延長には、その言葉が構築する堅固な共同性としての国家や共同体とはなにか?という問題があり、宗教や神というものがあるでしょう。 

わずか11個の音素で成り立つピダハンの言語から、1と0という2つの信号による2進法のコンピュータ言語(マシン語)、長音と短音の2つしかないモールス信号。そして12音階から生まれる音楽(主に欧米の)…。ハイイメージ論で駆使されている方法は、これらいずれにも有効な思惟であるかもしれません…。


       -       -       -

いくつかの黒い点は、全宇宙的なピンクノイズでも街中のホワイトノイズでもよく、世界中のどんなオブジェでもOK。あらゆる環界のものが対象であり、何でもいいはずです。
問題は任意の角度で置かれる5本の平行線。これはフィルターのたとえで、「音からわかるコト」で書いた<生命システム>のこと。ただの黒い点をコード化する装置…人間をはじめ、すべての生き物がもっている、生きていこうとするコトそのものを可能にしているシステムとそのすべての働きのことになります。ポイントは、あらゆる対象を感受するときの生命システムの働き。


   あらゆる音はここから分節化され微分されたもの。
   フィルターとなるのは生命システムでありマシンであり
   サインウエーブに対するバリアブルフィルターとレゾナンスです。


オブジェからの情報やエネルギーに対して生命システムはフィルターをかけています。エントロピー閉鎖系である生命システムが無制限に外部の情報やエネルギーを受容してしまっては危険で、オーバーフローで自爆するか、逆にエネルギーや情報が足りなくて生命の減衰や消失をまねくか…。

生命は閉鎖系である自らのシステムを維持し持続するためにも、取り込む情報やエネルギーを整序しています。そして急激な変化を防ぐために入力と出力の均衡とシステム全体の平衡を維持しています。ホメオスタシスを維持することそのものが生命の大きな働きであり目的にもなっているわけです。


           
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このエネルギーや情報の入力を動的に制御しているのがフィルターでありレゾナンスの働きと機能。この入力に対するフィルターとレゾナンスの機能は、生命システムそのものであり、心身そのものの働きと機能になっているといえるでしょう。


   入力を制限するフィルター

   入力の特定部分を強調するレゾナンス


基本的にシンセサイザーなどをメタフォアにすれば、以上の2点が外界からデータを受給するときの制御の機能となります。もちろんこれだけでは生命における入力とは異なります。エントロピー閉鎖系(正確には入出力の加減による定常開放系)の生命では外界からの受給が止まれば、それは即座に死活問題。入力と出力の平衡で維持されている生命にとっては、入力・出力いずれの停止も系の消失=死を意味しています。

人間でいえば、いちばんの問題は情報。エネルギーはともかく定常的な意識を維持するには外界からの情報の入力が絶えず必要です。音楽、幻聴、言葉…いずれも意識(観念)が介在する入力と出力の問題で、さらには出力が同時に入力となる人間ならではのシステムの特徴があります。平衡の維持のために耐えず再帰している観念の自己言及システム。ポストモダンな知見が提起しながらなかなか解を見いだせなかった問題かもしれません。吉本隆明が観念のべき乗化として当初から基礎に据えていた認識がここにあります。

もっとも問題になるのは情報がない無入力状態、あるいは情報が正常な入力として受容されなかった場合です。こういった入力のエラー状態を人間はどのようにクリアするのでしょうか…。

2013年9月26日 (木)

ポリリズムと自然音と人声と

J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

鳥の鳴き声をはじめ、羽ばたき、獣が動く音、ゆれる枝葉の音、時に落ちる樹の実の音…
さまざまなジャングルの音。このジャングルの音=自然音からある特定のリズムを聴きだすのを教授=坂本龍一の音楽番組「スコラ」でやっていました。

ポリリズムの検証でジャングルの音を聴いてみるというもの。

いろいろな音が聴こえるだろうけど、基本にあるのは2拍子のはずです。
それは聴覚システムのマザーボードである身体のクロックが2拍子だから。心臓の鼓動や二足歩行の2拍子…。人間の全システムはこの2拍子をシステムクロックにしているといえます。他にあるのは微細なもので神経伝達のパルスと細胞壁のイオンチャンネル。これらは拍子よりもそのレスポンスのスピードのほうが問題で、イオンチャンネルは1万分の1秒を最速としてさまざまな心身の現象をコントロールしています…。(たとえば実母の音声に関しては脳幹はこのイオンチャンネルのスピードで反応していて、1万分の1秒で無意識のまま脳幹では反応することが確認されている…『右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界』角田忠信)。いかにすべての人間がマザーによるラジカルなコントロール下にあるかという実証にもなるでしょう…)

           
右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界 (小学館ライブラリー)

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ところで、このマザーなクロックである2拍子以外は抽象(偶数と奇数に)すれば3拍子なので、すべては2拍子と3拍子の組み合わせと考えることができるもの…。そのために、2拍子と3拍子を組み合わせたポリリズムですべてのリズムを表現できるともいえるかもしれません。(番組ではそういった説明はしてませんが)

ある断続する音が同じように繰り返せば、それがリズムになります。
連続音や反復する音を自らの身体性でもあるマザークロックの2拍子で割り、さらには2拍子以外の音律?を3拍子としてまとめ、2拍子との関連を反復していく…。こうやって自然音は人間にとっての音律や韻律になると考えられます。

自らのマザークロック、2拍子から分周し反復されるリズムはマテリアルとなり、逆に規範として自らに作用します…。これが言語の韻律でも同じで、自然音への享受の仕方が人間の発声そのものを左右していったと考えられます。

       -       -       -

自然音と人声の区別はなく、反復性があるかどうか…という面から言語化を探っていく吉本隆明のアプローチは、同時に規範化の過程の解明でもあり、ブレやズレのない探究とその方法の可能性に満ちています。

  『母型論』P168
  もともとは自然音であっても人間の音声であっても、区別の意識はなかった。
  すこしでも反復性があるかないかによって、リズムを感じ、そのリズムの反復性は
  分節化、言語化にちかづく契機をなしたとみることができる。

  『母型論』P169
  この風の音を、「ヒュウ、ヒュウ」という擬音語であらわすのは、事実としての風の音を
  それにいちばんちかいと感じる母音と子音固有の結合体系で言語化することだ。
  白然音の喩は、複雑な陰影としてうけとられるが、言語としてみれば、その段階は
  初源的だということになる。

さらに吉本隆明は“言葉の分節化が、知覚の方へ形象の残余をうつしたことを意味する”と鋭く指摘しています。民族語などの固有性との関連で説明されるこれらは、最小単位の共同性で発現する場合の「アワワ言葉」ともいうべきものの説明として理解できるもの。

  『ハイ・イメージ論Ⅱ』「表音転移論」P326
  音声が言葉を分節するようになったことが、
  じつは知覚の方へ形象の残余をうつしたことを意味している。
  音声によって分節された言葉は、
  すでに形象の表現を未分化のままひきずっている。

即物的に確認できる解剖学的な事実を離れても、機能の連関から因果の過程を読み取っていく一つの科学的な方法がここにあるといえます。

           
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2013年2月13日 (水)

規範に引き寄せられた言語、さえずるピダハン族

鳥のように鳴いてコミュニケーションする少数民族ピダハン

ピダハン、全員でつくる言葉と行動でつくる関係?

 ピダハン族の言語が規範に引き寄せられた言語である…とするとクローズアップされる問題は<環境>だ。規範の生成と概念の形成、つまり形態としての言語と意味としての言語に峻別すると、ピダハンは規範に引き寄せられた言語であることになる。しかもこの規範はいまや音楽として大きな専門領域となっている。

 規範に引き寄せられる理由は…認識上、環境との緊張関係の有無に左右されるのかもしれない。偶有性で説明する愚を退ければ規範に引寄さられる理由は一つしかない。環境との緊張関係がないために対自意識そのものが表出すること…つまり自己関係性の空間性がダイレクトに規範を生成するということだ。


 ピダハン族のドキュメントで気になったのは琉球語などを想起させるところや明暗だけの色彩について…。吉本隆明は心的現象論本論の最期に『沖縄古語大辞典』を参照しながら日本語の造語可能性を指摘し論考を終えている。枕詞を生んだ奈良時代以前の日本語の原型として沖縄古語へ参照が最期の思索だ。

 ハイイメージ論で共同性へ、心的現象論で幻想性そのものへそれぞれ最期の思索を巡らせた吉本隆明は、造語つまり新たなる共同性を育む仕組みについて「可能性としては、いくらでも新語をつくり出すことができる」「この重畳語ができる日本古語の造語可能性」(『心的現象論本論』P511)と推察している。


 「環境との緊張関係がないために対自意識そのものが表出すること」…つまり自己関係性の空間性がダイレクトに規範を生成するということ…は、次のようにいうと吉本ファンっぽいかもしれない。対自意識は環境との緊張関係と逆立しながら表出する、と。

 

 ピダハン族に色も数字もないのは、対象となるものがないのではなく、対象をそのように把握する必要性がないから…と考えられる。するとさらには概念把握した後のストックとして付随する時制がないのも推察できる。

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ピダハンも、すべての人間もある特定の環境にいます。TPO=場所ですね。場所的限定すべての認識はその場特有の限定、規制を受けるワケですが、逆に、ある特定の場や環境で、認識の基本である規範や概念形成をコントロールできたらどうなるか…。転地療法で統合失調症が完治した例が理由不明としてある精神分析医の本に書いてありましたが、それはある種の典型的な例だと考えられます。そこにはピダハンの言語と共通するようなテーマがメインとしてあるでしょう…“ワタシはダレ?・ココはドコ?”的な問題に通じるものとして。

TPO=場所的限定という原点

2013年2月 5日 (火)

鳥のように鳴いてコミュニケーションする少数民族ピダハン

規範に引き寄せられた言語、さえずるピダハン族

ピダハン、全員でつくる言葉と行動でつくる関係?

去年のクリスマス・イヴに面白いドキュメントをTVで見ました。アマゾンの少数民族を布教のために訪れた宣教師が、やがてキリスト教を棄教し、信仰を捨ててしまう。キリスト教圏の、しかも牧師が棄教するという事態がどれほどのものかは日本人にはそう簡単には想像できないかもしれません。それどころか彼は離婚までして家族を失う。でも彼には確固たる信念があり、そのために言語学者になります…。それは、その少数民族をもっと深く知り、そして彼らを守るため。現在進行形の彼の研究はチョムスキーをはじめとする言語学の無効を宣言するものともなりつつあります。言語学者ダニエル・エヴェレットです。

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 ブラジル・アマゾンの奥地に、不思議な言語を持つピダハンと呼ばれる少数民族がいる。ピダハンの言語には数や色を示す言葉がなく、過去や未来の表現もない。アマゾンの豊かな自然の恵みの中で、「過去」を思い患うことも「未来」を憂うこともなく、充実した「現在」を生きているのだ。心豊かなピダハンの暮らしを、長年にわたって彼らと共に暮らした元宣教師のアメリカ人言語学者の目を通して見つめる。

   『地球ドラマチック「ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」』
   2012年12月24日(月) 午前0:00~午前0:45(45分)


 1000例あまりの言葉(音声)を解析する。磁気テープに録音されたピダハンのオシャベリだ。音声を解析して何らかのパターンがあるか調べる。しかし1000例からは何の共通性もパターンも見つからない。普遍的なパターンがない?のだろうか。それは文法がないことを示しているのではないかと考えられる…。

 時制がない、色がない、数がない…わずか数百人の少数民族ピダパンの言語。母親は自分の子供を知っているが、子供が何人いるのかは知らない。映像をみるとピダハンと一緒にいるのがサル。ピダハンの子どもの隣で食べ物を手にとったりしている黒いサルがいる。また家のなかで白いサルがピダハンの隣で焚き火か何かをつついたり…。

 結論からいえばピダハン族にはチョムスキーのいう普遍文法がない。しかし、小鳥のように鳴いたり口笛で喋ったりすることもできる。さらには言葉から子音も母音を取り除いてもコミュニケーションできる?という従来の言語学の想像を絶する言語でもある。文法がない発音がない? toneと韻律で伝達する?言語? 従来音楽の方面へ発展した手法がピダパンでは言葉として発達した可能性があるようだ。

 チョムスキーのいう普遍文法がないピダハン族。音の高低やアクセントやリズムの変化で意味を伝えているピグミーの太鼓みたいな言語? ポイントは言語学者のカレン・エヴェレットが指摘する、韻律に注目しない現在の言語学が見逃している点。これは吉本隆明の言語論の方法だと明確に問題が設定できるのではないだろうか?

 ピダハン族はメロディやアクセントやリズムでコミュニケーションしていて、言語にはチョムスキー的な普遍文法がない…それは大きなヒントにもなる。メロディやアクセントやリズムは…文明国では音楽として大きな領域となっている。言語ではそれは規範の位相だ。ピダハンが意味概念への経路ではなく規範の部分を発達させたとすると…その理由は?



           
ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

翻訳:屋代 通子
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2009年1月23日 (金)

In A Silent Way

観ましたか?

1月4日放送のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~

吉本さんの著作がズラッ~と並べられた光景。

 

      イン・ア・サイレント・ウェイ

 

そこに聴こえてきたのが「In A Silent Way」です。

           
In a Silent Way

アーティスト:Miles Davis
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       -       -       -

あの、圧倒的な存在を感じさせる漆黒の名曲。マイルスデイビスがロックした、存在感そのものみたいな曲です。う~ん、このセンスには参った! この番組、本気で作ってくれてますね。

ところで、In A Silent Wayは70年代からのロックの時代に先んじてマイルスが放った強烈な一発。モードの自由さを手に入れモダンジャズというジャンルを確立したマイルスは、そこで止まっていなかったワケです。

「お望みなら、世界最高のロックバンドを組んでやろうか」といって作られたJack Johnsonの1年前。すでにマイルスの中には次の時代を圧倒するビジョンがあったんですね。

その2年後72年。on the Cornerをリリース。このプリミティヴでタイトなリズム。しかもダンサンブル…。現在のR&BからDJまで、この成果と影響なしにはありえなかったといわせるアルバムでした。

やがてマイルスコンボからはチックコリアハービーハンコックジョーザビヌルをはじめ、あらゆるジャンルに影響をあたえるような面々が生まれてきました。DTウオーカーやWWワトソンなど今のファンクやダンスMを産出しているものからピートーコージーのようなハチャメチャな前衛まで、ノンジャンルでしかも時代をも超越したような散種。現代の音楽の大きな系統樹を生み出してきたわけです。

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マイルスコンボの面々それぞれが一つのジャンルのような大きな存在となる一方で、交通事故の後長く沈黙していたマイルスが復活しました。NHKなどでそのコンサートの模様は何度か紹介されています。

それを聴いていてハッと気がついたことがありました。マイルスはアフリカ系ブラックミュージックから東欧系の牧歌的なもの、やんちゃなエレキギター日本の祭りやしょうの笛のようなものまで多種多彩なエッセンスをそれと顕さずに内在させ、そこからそれぞれのメンバーが輩出してきたのですが…。

復活後のマイルスがなぜこんなに新しいのか? 病気を持ち歳もとりつつあった彼のオンタイムなリアルさエネルギッシュさそしてPOPさ、それらへの強烈なストイックさ。痛む脚をこらえながら相変わらず圧倒的な存在感を示すステージ上のマイルス…。

復活した彼の音楽にはどこかで聴いたようなデジャブがありました。これは…。マイルスが多彩なメンバーをコンボに加えていたのは、それが彼のエッセンスにもなったからなのでしょう。もともとハービーハンコックを原点とするハードコアなファンクを聴いていた自分には復活したマイルスにデジャブがあったのです。マイルスは多くのメンバーに影響をあたえてきた…でも、もう一つ言えることは、マイルスは彼らからさまざまなものを吸収していたんだ、ということです。

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ハービーハンコックのHEAD HUNTERSFUTURE SHOCK にノリノリだった自分は、マイルスが見事に自らのエッセンスにしていった素晴らしいメンバーの味がマイルスの音楽ににじみでるのを感じることができました。メンバーはマイルスに影響され育てられましたが、マイルスがメンバーから獲得したものも大きかったのです。

吉本さんの本はよく読みましたが原理論で現代を分析批評した『ハイ・イメージ論』には感動しました。そこでは音楽や都市、ファッション、村上龍といった個別の具体的な商品に象徴される現代そのものがフォーカスされ、無限大に増殖する資本主義のアイテムがどれも鮮やかに解析され価値が評価され消費者としての自らが問われていきます。この、あらゆる雑多なだけれど魅惑的な対象を同じように取り扱っていく方法論は何だろう? 観点はどこにあるのか? 対象が何であれ揺るぎない観点からそれらはフォーカスされていますが…。

吉本さんの観点は<純粋概念>でした。『心的現象論序説』以来ずっと根底に流れる方法論が、最も複雑で変化に富み、リアルタイムで変遷し続ける現在を捉えていたのです。イメージ化された言語、言語のようなビジュアル、それらが生成する共同性…『イメージ論』のあとがきで宣言されたように、現在をリアルに把握するための『共同幻想論』と『言語にとって美とはなにか』が『ハイ・イメージ論』(『マス・イメージ論』を含む)としてリリースされました。

<純粋概念>…それは<ゼロの発見>に相当するものです。

現在をリアルに捕捉し続けるその方法論は、<純粋概念>をベースにしながらも現在そのものからマテリアルとテクノロジーを獲得しつつ生成され続けているのでした。それは筑波科学博で体験したヴャーチャルなデモやランドサット衛星から<世界視線>を考え、物理化学の<オルト・メタ・パラ>といった位置概念を文芸批評の確固たる視点の基礎として応用したり、常に現在と照応しながら方法(論)を構築してきた長い営為の成果でしょう。

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もっと吉本さんの用語に即していえば、無限に増殖し続ける資本主義のアイテム=指示表出そのものを内化して絶えず自らの自己表出のもとに方法論を磨いてきたということでしょう。

アップトウーデイトなメンバーからのエッセンスを吸収し続けたマイルスは最期まで<現在>でした。まったく風化しないどころか、いまだに先端をいくマイルスの凄味ともいえる存在感は、吉本さんに感じるものと同じです。

2007年2月 7日 (水)

『水のない晴れた海へ』とか

 

ガーネットクロウのDVDを買った。

楽しそうだなあ、とゆーのがその感想。

誰にだって、ちょっとは楽しいことがあるだろーし、
誰にだって、ちょっとは楽しい思い出があるだろー、な、と。

何人かの女の子の下宿にころがり込み、
村上春樹の小説みたいなをして、
東京郊外の駅でボッーとラストシーンを見送ってみたりした。

 

『水のない晴れた海へ』

 

なんとなくヘキルちゃんを思い起させる歌姫のMCが、
ホッとさせる。
ビジュアル的には七ちゃんがそーなのは当然としても。
MCのたどたどしさが新鮮....というより、
この感じを受け容れて共有できる人たちのクラスやタイプを
思い浮かべて、ホッとしてしまうのかもしれない。

そーかあ、階級意識つーか、
ごくわずかに残る共同意識だったか....。

 

歴史に残る革命家がこの人たちは鎖以外は失うものが無い
....と説明した階級=クラスがある。

もちろん、この言葉に説得力は無い。
だって、失うものですら無いんだからさ。
とゆーか、そんなものを意識はしない。
わからないことを感じたり、
知らないことを受けとめる人はいないんだよ。
たぶん。

そして「たぶん」ではない人は、その分だけちょっと不幸だ。
でも、不幸は幸せを際立たせるから。

 

村上春樹の都会味は自分のローカル色を否定したからさ....という
あるスルドイ人の批評を時々思い出す。評判のデビューを飾った
女性作家も同じことを言ってたっけ。

ローカル色を否定して生成されるのは....世界視線
指示表出による世界観。
イデオロギーも都市的感性も同じ。

 Ω

ジャンルはネオアコースティックらしいんだけど、
ネオアコで思い浮かべるのは19ゆずじゃんとゆーDBから
経験値によるバージョンアップは可能か?
それとも思考によるトライアルか?

ロッキングオンで学んだのは、
プログレは批評だという渋谷さんの哲学。

他の音楽で世の中は変わると主張していた人たちのコトバは
コンビニでパストラミサンドを食べると忘れ、
チョコやソフトを食べると
思い出しもしなくなった。その程度のもん。

 

イタリアの有名ケーキ屋の名前らしいPFMのイントロを聴くと
ゴシックロマン風でさえある印象の中に明るさや力強さを
感じさせるものがあったり。
単純な3コードをリリカルにしちゃうノヴァリスとか。
ジェネシスを聴いて暗さの中にスゴミを感じたり。

そーゆー片鱗を一瞬感じさせるガーネットクロウ。

ECMレーベルのジャケットなんか連想させちゃう雰囲気を
醸し出したり。
そんな香りの中で透明なジャズを感じさせる風景を
思い起させながらポップではない批評性をベースにしてる....
なんていう感想を認める人がいるでしょか?

時代のトレンドや巫女としてアレコレ持ち上げられるユーミン
ホントのスゴサは、
ラジカルなオーソドキシーにあるみたいに、
ガーネットクロウにも何かがあるみたいで....そういう感想を
とりあえずカキコ。

   〆

           
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(2003/4/22)

2007年2月 6日 (火)

音からわかるコト

●自然の音

 風の音や木々のざわめき、せせらぎの音、山鳴りから小鳥のさえずりに猛獣の咆哮まで、さまざまな自然音があります。全宇宙的なピンクノイズや遠い嵐のようなホワイトノイズまで、アナログとシンセサイザーのオシレーションで遊べるあらゆる音のベーシックな成分、それが自然音の原音でしょう。

 あらゆる音はここから分節化され微分されたもの。フィルターとなるのは生命システムでありマシンでありサインウエーブに対するバリアブルフィルターとレゾナンスです。

●人の声

 でも、人間にとって大切な音は基本的に一つだけ。それが人間にとっての音の原音でもあるんですね。それがです。

 そしてツノダテストで確認されているように、無意識下での母体の声への認知と脳幹のレスポンスから、それが究極の声として脳神経系全般を支配していることがわかります。

 胎児以来、人間の声に対するリーチングは変わらず、それが恋愛から病までのラジカルなファクターでもあるワケです。

●2つの音

 声が他の音と違うのは倍音構成のクラスターが複数あること。ホルマント構造といいますが、倍音構成に複数のピークがあり、そのピークを中心にしたクラスターが複数あるワケです。基音が最大音でピークとなりそれに整数倍音が乗ってる通常の楽器音などとの大きな違いですね。ホルマント構造は基音が複数あるようなもので、これは言語でも母音の特徴となってます。子音にはこのホルマント構造はありません。通常クラシックのオーケストラの演奏はどんなに壮大に響いてもホルマント構造にはなりません。

●ホルマント構造の意味

 どんなに人混みの中でもこのホルマント構造にフォーカスする聴覚の知覚によって特定の人間の声を聴き取ることができます。特に自国語の母音には鋭敏になっています。また聴き取りを意識していなくても母体の声には脳の認知システムは10000分の1秒というスピードでレスポンスすることが確認されてます。脳梁では聴覚認知システムのシフトが起こり、声や母体の声へのフォーカスが瞬時にはじまるワケです。しかも無意識にです。

 ホルマント構造の典型的な音声?を出すのがホーミーで、ユーミンもそうです。ダウンタウンの松本さんなど印象に残る声、心理学的に説得力があるとされる声の多く、ヒトラーの声も典型例とされています。高調波倍音が多いためにオシロスコープでいえば典型的な矩形波になるでしょう。

           
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●12音階の意味

 ホルマント構造の必要条件はピークやクラスターが2つ以上あることです。12音階の範囲内でいえば等価に近い音が2つ同時に鳴っていればホルマント構造と近似といえます。1度と4度の関係がそうです。

 4度音を不協和音とするクラシックには、そもそもホルマント構造はありません。逆にいえば脱ホルマント構造という志向こそが西欧12音階音楽なのでしょう。
 これが12音階形成の歴史であり、モダン化です。
 問題は、なぜ4度音を排除するようになってきたかということです。

●音楽の意味

 クラシックや西欧音楽そして12音階をはじめとする大部分の音楽の効用といえば、大脳の右半球を刺激することでしょう。言語認識が左半球によって行なわれ、これが過剰に続く日常生活の中でバランスをとるとすれば、右半球を刺激する音楽を聴くのがベスト。これは右半球が優れているということではなくて、左半球とバランスをとることが大切だということ。一般的に右半球がすぐれているという説は間違いです。大切なのは左右のバランスです。

●TK音楽の意味

 人の声を原音として、あるいは心理的な原風景として数1000曲を作ってきた人間。小室哲哉とはそういう人間であり音楽表現者です。

 小室の音楽をめぐる考察が世界トップレベルの音楽理論をも超えてラジカルな文化論として読める『楕円とガイコツ―「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」』という本があります。それはエスノを敗北ととらえ結局はインド・ヨーロッパ語の範疇から一歩も外へ出られない“悲しき熱帯”的な認識や“場”を勘案できないデリダ、高級?言語を評価するエンゲルスやレーニンなどと比較にならない深い思考と、ウエーバーの音楽社会学に指摘される3度音の採用と4度音の排除というクラシックの支配権正統化手順まで見破っていくスルドイ認識論的切断を示してくれます。ホンモノのサブカル研究でもあるでしょう。

           
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●インテグレートの意味

 言葉だけの民族はいるが、文字だけの民族はいない。
 口承伝承は今に続くが、文字による記録は断絶しがち。

 アーカイブがバグれば“ハイ、オシマイ!”程度の文化に未来の可能性はないでしょう。遺伝子に獲得形質としてインテグレートされ続けてきた能力の基本こそ感覚なんですね。
 たとえば、マルクスってそんなコトまで言及してたりします。

 それから、湯川秀樹博士しか評価していないらしいツノダテストだけど、その認識の根本として聴覚と脳のメカニズムに対するラジカルな考察と実験は貴重なもんだと思います。

(2001/3/20,2009/4/7)

2007年2月 3日 (土)

「音楽は郷愁だから」という原点

 

 音楽....いろいろあるけど、郷愁だから。

       -       -       -

 2時間のドキュメント番組「ユーミンの遥かなる音と魂の旅」でユーミンが何気で真理を語ってました。フィンランドの民俗音楽を聴いて「なんだかすごく懐かしい気がして」涙を流したり、鳥肌を立てたり。TKがはじめて華原の朋ちゃんの歌声を聴いた時に泣いたのも同じ理由なんでしょう、きっと。音楽を聴くとか何かの音を聴くという行為に共通するのは主体の受動性です。
 聴覚は受動性の感覚。受胎した瞬間から胎児は母体の音を聴いています。聴覚が生成する以前どころか、受精卵の細胞の段階から母体である環界のさまざまな影響は受けているわけです。(人間の脳幹は意識しなくても実母の声だけに反応し、ツノダテストによればそのスピードは1/10000秒。これは細胞内外のイオン反応の応答スピードのレベルであり、神経伝達のスピードの数倍から10数倍の速さです。細胞の代謝レベルの反応です。)
 一方、視覚は能動性(運動性)の感覚。映画やアニメを見るとか何かをコレクションするのは視覚による対象の享受ですが、対象へ働きかける(見る)という行為と、そもそも対象そのものへ近づいたり手に入れたりという行動や、そうしようとする観念がともないます。

       -       -       -

 音楽がどうして哀愁をおび、受動性の感覚なのか?
 幻聴は患者にとってどういう意味をもつのか?

       -       -       -

 幻聴や幻覚はあっても幻触?や幻味?はほとんどありません。これはそれぞれの感覚と共同性(均質空間による認識≧思考の前提条件)との対応関係に大きな違いがあるからで、指示決定は共同性の最たるものであり、均質空間を媒介とした認識を仮構するものと考えられます。逆に、空間の均質性だけが共同性を仮構する認識を可能にすると考えられます。均質性を前提とした観念が概念(性)であり、思考と認識の前提です。視覚と聴覚を可能にしている可視光線と空気振動は感覚器の対象としてはいちばん空間的な均質性が高いものでしょう。

 統合失調症が現存在分析の大きな手がかりとなるのは、基本的な意識が受動性として発現、自覚されているからです。妄想が受け身であることは象徴的。それは常に被害者意識として自覚されますが、本質的にこれは逆で、受動性として発現するから被害者意識になるワケです。受身であることは同時に原点であることと同じだと考えられます。
 たとえば、この原点の状態に戻って認識したときのイメージの代表的なものがデジャヴそこではすべてが懐かしく感じられます。音楽が郷愁である理由は、たぶんデジャヴと同じであるか共通点があるでしょう。人間の原点に戻っての認識だということです。無意識下に1/10000秒でレスポンスしてしまう音こそがその原点かもしれません。

       -       -       -

 デジャブは個体が<そこに在ること>の
 自己関係自体と自己了解自体の心的な表出である。

       -       -       -

 <そこに在ること>という現存在認識からはじまる人間。

 すべては....
 <ココはドコ?>
 <ワタシはダレ?>
 ....という原点からはじまり、原点へ戻っていくワケです。

(2003/3/15)

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