「韻律がふくんでいる指示性」とは?
どんな表現も、あるワク組・規範がないと成立しません。当然ですが、何かを必死に訴えたところで、それが言葉にも声にも、あるいはサインや記号にもなっていなければ、それが何だかはわかりません。その必死の表現は、単に何かの表出であって、他者にまで伝わる表現(意味の伝達)ではありえないものとして終わってしまいます。
ある表出が表現と化す臨界を、吉本隆明は簡明に、鮮やかに描いています。
<ウ><ワア>と<ウワア>が、もしちがった意味をあらわすとすれば、
ふたつの韻律のちがいにその理由をもとめなければならない。
すでに、韻律がふくんでいるこの指示性の根源を、
指示表出以前の指示表出の本質とみなしてきた。
(『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P108)
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ここではワク組や規範の機能それ自体が意味を表象させる根源であることが微分されています。単にシンプルな分節あるいは韻律の違いが、それだけで意味の違いを現しているというその根源について、指摘されています。この「指示性」はノエシス的なものも含意するもの。
同じページにヘーゲルによる、詩についての有名な解説が『美学』から引用されています。
詩は韻文で書かれることを本質的要件とする。
…
韻文を聴くひとには、それが通常の意識において気ままに語られたものとは
別種のものなのだということがすぐわかる。
それに固有の効果は内容にあるのではなく、対象面にあるのではなくて、
これらにつけられた規定にあるのであり、
この規定はこの内容にではなくてもっぱら主観に帰属することを直接に明示している。
ここに存する統一性・均等性によってこそ、
規則的な形式は自我性に諧和するひびきを発するのである。
(『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P108~P109。
ヘーゲルの『美学』から引用)
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「本質的要件」というのは音楽と同じで、分節されている、リズムがあるということ。
「規則的な形式」が「自我性に諧和するひびきを発する」というのは、直截?にいえば自我のリズムがシンクロする規則的な形式があることを示していて、日本語でいえば五・七の音数律がその規則性であり形式になります。五・七の音数律が奇数なのは、偶数では心拍をはじめとして基礎が2ビートである人間にとって安定的であり運動や行為の終息には適していますが、継続や前進には奇数がいいワケです。奇数には安定を求めてさらに進行するという属性があるといえるでしょう。
韻律についてのヘーゲルの考察を評価するところでの指摘が以下。「みている」というのはヘーゲルがそうみているということです。
「内容とも対象とも異なった」ものだけども「主観に帰属するもの」で、「意識それ自体」と不可分なもの…。いかにも吉本隆明らしく、ヘーゲルやあるいはマルクスとオーバーラップするようなポイントがフォーカスされています。しかもそれは「完全に対象的に固定化されない」といいます。
…韻律としての言語が内容とも対象とも異なった「主観に帰属するもの」、
いいかえれば意識それ自体に粘りついてはなれないもの、
完全に対象的に固定化されないものとみている…
(『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P109)
「対象的に固定化されない」つまり可変性のあるもの…。韻律の定義のこの部分は重要なことを示していそうです。認識のワク組の生成として“ベイトソンの学習”的なものがありますが、同じように表出から表現へ至る時のワク組の生成として固定化されないもの=ワク組の可変性があるワケです。
このワク組の可変性には、環界への根源的な関係性が影響していると考えられます。
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