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2016年4月 2日 (土)

<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 911の後に安堵した人がいます。それは、胎児が致死量に相当するアドレナリンによる陣痛で生まれてくるように911から産出されたもの…ともいえそうなもの。カタストロフィではあるが、その荒波に放り出された、文芸評論家の加藤典洋氏は、その心情を吐露しています。それは、間違いなく<大洋>でまどろむかのように荒波に身を任せ、回帰したとも再生したともいえるもの。この「安堵」は911で唯一の肯定できる転回かもしれません

 そして加藤氏はポスモダに向き合うことにし移入思想を受け入れるようになります。
 それは、リスキーな現在を超えるスタンスに立った、ということ。リスクを了解してこそ得られる視線をもった立場についた…ということです。
 ポスモダの仕上げのような近代への全否定である911…。ここから得られるものはグランドリセットでありラジカルな更新…

 ポスモダな世界観では「憐れみ」が最期の人間性のようでしたが…。
 東浩紀氏から「吉本派」と呼ばれる加藤氏は、最期の人間性を動物由来の「憐れみ」に見出そうとするポスモダな世界観…に比して、どういう解をだしたのか…。それが<世界心情>です。911の後に安堵したという加藤氏が、それととともに自覚した心情が<世界心情>だったのです。

 <世界心情>とは、ホントは誰もが持っている<心>のハズ。
 すくなくとも人類としての人間には前提になるもの。

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋
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 加藤氏は<世界心情>をコンティンジェンシーの文脈で説明しようとしますが、911という圧倒的な抑圧(とその後の安堵)から<世界心情>を感受したのであれば、その過程をそのままトレースしてはどうでしょうか? 個人の心情が生まれるのは<公>や<他>による軋轢であることが共同幻想論で解析されているからです。

           
改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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 共同幻想によって対幻想が抑圧されることが自己幻想が生まれるキッカケである(「共同幻想論」)ならば、すべての自己幻想の前提に「対幻想への抑圧」に対する反発・反動・反作用があるはず。

 アリストテレスやライプニッツに由来する偶有性やコンティンジェンシー(あるいはWコンティンジェンシー)を吉本隆明的に、そして弁証法的に縮減すれば…

   対幻想が否定されることへの否定

…となるかもしれません。すくなくとも科学が抽象であるならば、こう表せるハズです。
もちろん冗長性にしか自己発現を見いだせいないような哲学や思想は相変わらず、その屈折語に由来するせいか婉曲な迂回路を必要とするのでしょうが、ここではそれは無関係。

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?

           
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 ヒントはハイイメージ論のプロローグである「映像の終わりから」にあります。そして、共同体の終わりが告げられるハイイメージ論のエピローグである「消費論」とともに、そこには、現代を見切った<世界視線>があります。

   自己言及の不可能性

   過剰に対応する倫理の不在

 現実には資本主義の商品という指示表出の環界のなかで、<人工の視線>に紛れ溶融してしまう<世界視線>の純粋疎外状態と、過剰に対する倫理の不可能性という状況をクリアする方法が必要だということでしょう。


 金融と民主主義と軍事というグローバリズムによる世界の一体化のなかで、南の主導によってしか世界心情が現われないのはナゼか?

 グローバリズムという規範と化した共同幻想に抑圧されていくもの探れば解はあるハズです。史観として拡張されたアフリカ的段階を逆立して読むこと…別のいい方をすれば、レヴィ=ストロースが敗北者たちの群れと呼んだ、その敗北者から世界を観ること

           
アフリカ的段階について―史観の拡張

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 フーコーとの対談前後に現象学的歴史観が可能だと考えていた吉本隆明。その後、見田宗介の社会理論に可能性を見いだしていった経緯は、ここに明らかです。
 ポスモダを正面から受けとめた見田宗介のスタンスは、現在を超えるヒントを可視化し、吉本隆明はそれに期待し、加藤典洋はそれを世界心情として了解した…といえるのではないでしょうか…。

           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
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2012年3月 1日 (木)

『一般意志2.0』…ノンバーバルな革命思想?

感覚的で重層的非決定的な、空気を読む革命思想?…
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フランス革命を準備したひっきーの思想がよみがえる…?

●ひっきーの思想?
 本書が主張する「一般意志2.0」はムズカシイものではないらしい。なぜなら「知覚することができるはず」(P90)のものだから。しかも「理念でも物語でもなく、具体的にデータベースとしてどこかのサーバーに格納されている」「実在する」(P91)もの…なのだ。いきなりだが、読んでいると、それはアンティーク?な知識でいうリバイアサン(ホッブス)、上部構造(マルクス)、共同幻想(吉本隆明)とかで含意されてきたものと同じだなと思う。それが圧倒的にわかりやすく身近なものとして解説されている。

 「一般意志2.0」のルーツはルソーの『社会契約論』

 そのルソーはひきこもりのオタク的?な思想家だったという。思想家はどうでもいいけど、ひきこもりだったのは興味深い…というよりシンパシーを感じてしまう。そういえば仏文学の講義で習ったフランス革命のリーダーたちはひっきーぽいのはたしかだった。ロベスピエールサン=ジュストもシャイな人で他人とのコミュニケーションがあまり得意ではないらしかった(でもモテ系だったらしい)。まあ問答無用でお前はギロチンなっ!ということではないと思うけど…。しかし実際に著者は「一般意志の生成のためにはコミュニケーションは必要ない」(P170)と説明してる。それが「ひきこもりの作る公共性に賭けた思想家」ルソーのベースにあるポリシーだと…。
 コミュニケーションなしで何をどうするんだろ?とちょっと心配、でも、ちゃんと説明がある。ルソーの理想は「意識ではなく無意識に」、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会」(P165)なのだ。これなら納得。当たり前のコトだけど古代の鉄器から産業革命まで、社会を発展させてきたのはテクノロジーとマテリアルだからだ。経済学でいうとモノとモノの関係が支える社会を資本主義と呼んだ『資本論』と同じだ。スタティックな基盤としてはベースが物でも情報でも変わりはない。

●「一般意志2.0」って何?
 「一般意志2.0」の内容は?…「情報環境に刻まれた全市民の行為と欲望」(P117)だという。ジジェクラカンが登場しそうな雰囲気だが、実際にフロイトの「無意識」で著者は説明している。

 そしてこの「全市民の行為と欲望」を担保するものとして、複雑系の研究で有名なサンタフェ研究所スコット・ペイジの理論が紹介されている。それはペイジの『多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』で紹介されている「多様性予測定理」と「群衆は平均を超える法則」(P31)の2つの定理、法則?だ。

 コミュニケーションなしで、ただ知覚できるだけで、「一般意志2.0」での政治や社会が可能なのか?と疑問に思う人は多いはず。だが著者はシリアスに現実を指摘する。
 「現代人はいくら言葉を交わしても、「繋がり」を深めるだけでいかなる普遍性にも辿りつかない。」(P109)
 そのとおりで、しかもそれは昔からのことだと思う。
 たぶん哲学でも思想でも、個人と全体とか共同体とかとの関係は長い間のテーマだったはず。でも、どこにも、共同性や共同体と個人との関係(繋がり)にちゃんとした答えを出した思想や思索はない…。もし答えがあったのなら、今頃、人間は苦労なんてしてないはずだ。個人と個人の関係であれば恋愛だったり親子愛だったり友情であったり、答えに近いものを知ることはできるかもしれない。なのに個人と全体、個人と共同性とかになると、もう全然答えなどない。あるいは答えらしきものがあり過ぎてコンフリクトしてるだけだ。超高度資本主義からアルカイダまで、どこにも答えがないのが現実だ。この答えがない、というリアルに、本書はささやかだけど、カウンターを打ち込んだ気がする。

 著者は「未来についての夢だ」というけれど、案外はやくリアルな夢になるような気がする。少なくとも、本書を読んだら、ちょっとは元気になるはずだ。褒め過ぎかもしれないが、ある意味ですごい本だと思う。

●<重層的非決定>?とか
 アルチュセールが「資本論」から読み取った<重層的決定>(全体意志?の積分?)といったヘーゲル的な意志の積分に対して、<重層的非決定>と揶揄した吉本隆明さんの指摘がある。それが「一般意志2.0」とオーバーラップしそうだ。
 著者の『動物化するポストモダン』「思想地図」で名指しでリスペクトされていた数少ない思想家、吉本隆明さんの代表作『共同幻想論』を思い起こさせるイメージがある。まあ著者が影響は受けていないがアディクティッドされそうだという吉本さんの仕事との共通点はあるのかもしれない。

 本書は結論への準備として<憐れみ>を動物的な概念とするローティを紹介し、その「私的で身体的な反応が、公的な論理的で熟議の限界を壊す」(P212)と主張する。私的で身体的という究極の近接性?が論理を超えるのは当然(血コワイ怪我イタイとかはカンタンに論理を超えるし)かもしれない。そして、その反応=ジャッジを公共性や社会性のために演繹?させるスキームはどんなものなんだろ?というテクニカルな問題が著者を含めて読者みんなに投げられている。

 「たがいに憐れみを抱き」「公共性が担保される」(P220)というのはまるで文学の世界観だけど、シェークスピアを持ち出すまでもなく悲劇の共有は読者やオーディエンスにとって最大公約的なスタンスだ。隣人や相手の欠落を補い合うのはもっとも普遍的な共同体(性)の原理なのだから。(もっとラジカルに人間の関係性は恋愛から国家まで、同じ原理(性差)で通底してると考える『経済学・哲学草稿』の問題提起はここでも有効かもしれない)
 ただココには、憐れみをめぐる2つの立場からの“憐れんでもらってウレシイ?”という疑問や“憐れんでやるヨ!”という態度?などニーチェが示唆したような問題があるかもしれない。前者は屈辱を後者は傲慢を隠蔽しているのではないか…。

 結論?の「動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する」(P240)というのはベタな批判を浴びそう。でもそこで批判者の理解力や思考能力がバレるのもたしか。著者はいつもイジワルに読者で遊んでいる感じもする。『社会契約論』の原文を読んで作田啓一や桑原・前川の訳が意訳であることに気がついたのが本書のキッカケでもあるらしいのだ。それを無視して本書を社会契約論の文脈とは違う!と批判するのはあまりにも稚拙だ。本書や著者そして読者を一般バグとレッテルする一般バカが登場するのも著者のイジワルさが原因かも?

 ハイデガーは、世界への配慮こそが人間(現存在)の基礎をなすと考えた」(P251)という本書最後の注1はいちばんラジカルな主張だ。反対?に“自己への配慮”というものを考えていたらしいのがフーコー。同じように考える(特にフーコーとの対談以降)吉本さんの理論によればこの2つの配慮は相互に転換し、発展していくもの。自己と世界が不可分の胎児の認識は、そこからの遠隔化と近接化を繰り返しながら発展するからだ。精神分析もそこまで読むともっと有効なはずだ…。
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2012年1月31日 (火)

『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 』…全面肯定の思想

<一般意志2.0>はDDイデオロギー?!…たとえばアキバのイデオロギーDD(誰でも大好き)は世界に全面肯定のスタンスで臨む…

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<一般意志2.0>はDDイデオロギー?!

●ルソー版一般意志からアップデートした<一般意志2.0>
 本書『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 』で再び注目を集めているのがフランス革命の契機となったルソーや社会契約論。本書のキッカケも、そこだ。ベンヤミンの<アウラ>やラカンの<対象a>がマルクスの<剰余価値>をヒントにして生まれたように、本書の<一般意志2.0>はルソーの<一般意志>をキッカケにしている。著者がバージョンアップというように<一般意志2.0>と<一般意志>は近く、本書ではルソーのそれは<一般意志1.0)>とされる。

 タイトルには「ルソーフロイト」といったオーソドキシーとITを代表する「グーグル」が並び、本文でも相当量をさいて援用されている。特にルソーとその<一般意志>は本書のメインだ。一般意志については各章で繰り返し述べられるが、ルソーにもとづいた根本的な定義は以下のようなもの。

P44
全体意志は特殊意志の単純な和にすぎない。
しかし一般意志は、その単純な和から「相殺しあう」ものを除いたうえで残る、
「差異の和」として定義される。

 この<一般意志1.0>と(本書では)されるルソー版一般意志からアップデートしたのが<一般意志2.0>。本書の主唱するオリジナルな思想?だ。

●少数の専門家よりも多数のアマチュア
 <一般意志>の可能性に期待する<一般意志2.0>という思想。それを担保しているのはスコット・ペイジの思想?だ。本書のP31~32で紹介されている「多様性予測定理」と「群衆は平均を超える法則」(参考『「みんなの意見」は案外正しい』)の2つ(『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』で紹介されている)で、ある意味でルソーそのものより重要かもしれない。一言でいえば多数のアマチュアの意見は少数の専門家の判断より原理的に正しいというもの。衆愚がプロを超えるという事実を複雑系の研究は実証してしまったのだ。

 これはルソーの一般意志を発展的に実証したともいえる研究成果だろう。民主主義は全員参加が理想であり、全員の意志が何らかの形で反映されることは最重要な目標のはず。全員が全員であるほど(より多様であるほど)正しい意見と正確な予測が可能になるという発見は、既存の民主主義のイメージと大衆の概念をリセットし、それら(一般意志)を絶対に肯定できるものとして再把握させてくれる。

●感覚(モノ化)し認識(考える)する
 本書の<一般意志>を補強する重要な部分は『エミール』にも負っている。『エミール』は教育関係者なら必読だろうが、現在の日本の教育は『エミール』の真逆にいく可能性があり心配なところ。著者は他者の言い分が(を)モノ化する(させる)ことをエミールから援用して説いている。エミールの基本はシンプルで、理解力が未熟な幼少期・児童期には具体的な経験(だけ)をさせろ…いわゆる「消極教育」「実物教育」 というもの。樹に登って落ちると痛いし怪我もする、不注意に走り回っていれば転ぶこともある…というように遊びや生活行動の中で具体的な経験をさせることにウエイトをおいている。行動させその結果との因果を考えさせることを繰り返し体験させる。感覚による体験とそこからの反省や考えることによって理解力、認識力を身につけていく…これが理想の教育だ。逆に幼少期に抽象的なことを教育すると理解力が歪んでしまう。神はいるとか国家は絶対だと教えると、その部分だけ認識が棚上げされ(絶対視され)客観的な認識ができなくなるからだ。典型的な洗脳でもある抽象的な価値判断をルソーは人間の間違いの源と考えた。ルソーが客観的な認識のリソースとしての百科全書(モノの列挙)に参加した理由がこれだ。宗教や王権という抽象的な世界観から百科全書的(モノ化し論証可能)な世界観への移行…フランス革命を準備したのは当然だろう。
 他者(の意志)をモノとし、その総体を一般意志2.0(<一般意志>とはトレンドの総量とその属性のこと!?)とする本書は、他者への絶対的な肯定を前提としているといえる。コミュニケーションのいらない政治を主張し、他者への絶対的な肯定を前提とするのが著者の主張なのだ。朝生TVで橋本大阪市長の政策や説明に対して、異議はないがどこかオカシイ、優しさがないと指摘した著者のセンシティヴな認識は、いまこそ貴重だろう。

●コミュニケーションを超える
 コミュニケーションが前提ならばコミュニケーションスキルが高いものが決定権を握る機会が圧倒的に多いだろうし、民主主義が多数決ならば常に多数派の意見だけが通る。そうやって能弁は寡黙に勝利し、51票は50票に勝ち続けるだろう。しかもアローの定理のように「民主主義は成立しない」ことを証明する数理的な結論を得ても、何も解決しない。それどころか既存の情況を正当化し現状保守を補強するだけかもしれない。

 そういった現実に対して、著者はオタクやアキバのローカルルールやAKBファンのようにDDを主張しているともいえる。DD=誰でも大好き…。圧倒的な他者への肯定が著者の主張の根幹にあるのだ。著者の仕事をオタク論議やサブカルレベルと見下す?ような有名な論者もいる。評価すべきは逆だと思う。オタクやサブカルを語れるからこそ根本から政治を語れるのだし、少なくとも従来の旧態依然としたスタンスとは違う。常に外部を肯定し留意する著者の視点は他の論者にはないものだ。著者がひきこもりでオタクだったらしいルソーから見出したものは大きい。
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2012年1月16日 (月)

『一般意志2.0』…市場の要素としての<一般意志>?!

『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 』…微分された共同幻想

 初期の村上春樹みたいな書き出しからスタートする本書、『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』。そういえば著者は作家でもあったのだ。作家が連載ものを書くときに、あらかじめ数回分の文頭と文末を書いておく(理想的には全連載分を書いておく)ように、本書の各章の文頭と文末は(カッコよく)キマっている…。

 著者東浩紀の初論文?であるソルジェニーツインの研究(収容所=スターリン体制の研究で、それが統計的な計画であることの発見は著者に決定的な影響を与えた)で、そのロシア語能力は島田雅彦がほめるほど。そうした能力を活かし、本書はルソー社会契約論の翻訳が意訳を逸脱し原著の意味と全く異なっているのを発見したことからはじまっている。
 資本論のディーツ版の第一版にだけ記載されていた短い言葉の意味をめぐって柄谷行人の思索がはじまったように、著者もささいな意訳が決定的に意味を違え、大きな誤解を招いていることを発見してしまう。この意訳はバタフライ効果とも違って原著や著者をある意味で冒涜するものであるかもしれない。

           
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

著:東 浩紀
参考価格:¥1,890
価格:¥1,890

   

       -       -       -

 すべての人間の人生を集めたら、それは歴史になるか?…もちろん、ならない。歴史は多くの人々が集まって作るけど、それを個々の人々には還元できない…歴史解釈のムズカシイところがここ。世界も同じで、すべての人の生活を集めたらそれは世界なのか?もちろん、そうじゃない。ヘーゲルはあいまいに精神だの意志だのを世界や歴史の源と考えたかもしれないけど、そんな観念論はいまや通用しない。ただ個人と世界の関係を媒介してるものは知ることができる。市場だ。 

 市場は個と全体の関係そのものだけではなく、そのバランスを調整しているとも考えられる。世界の特異点を均衡させているのは市場なのだ。あるいは均衡させようとする動きを市場と呼ぶ。

       -       -       -

 均衡は取り引き=交換という作動で生成する。取り引きの要素はプラスとマイナスに抽象できる。プラスとマイナスで相殺(取り引き)した結果が市場の結果だ。結果は2つに抽象できる。{+/-=<ゼロ>}の場合と{+/-=<余剰>}だ。結果が<ゼロ>というのはそのまま<均衡>したと考えられる。結果が<余剰>の場合は<+>か<->に偏っていることを意味する。

 問題はここ。この偏りは個別の相対取引であっても市場の全体であっても、ある種のトレンドを示している。これが政策を登場させる契機であり、政治が必要となる理由だ。この偏りを是正し均衡を取り戻すための方便が政治というものだからだ。この偏りやトレンドを計測計量し、均衡へ導いたり是正したりするために政策を立案し実行するのが政治という仕事だ。静態的には、基本的に政治の内容は均衡をもとめて偏りやトレンドを相殺するものとして発現する。

 そのために政治の大前提となるのは、まず基本としてトレンドの総量と属性をキチッと把握することだ。本書はこのトレンドの総量と属性を観測・計量することを目的としたスキームについての本だともいえる。<一般意志>とはトレンドの総量とその属性のことだからだ。

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 資本主義の市場では一方が<+>であれば他方は<->で、量的にはこの<+>と<->は等価だ。一方が凸した分だけ他方は凹むわけで、この部分が一般的には利益(利子)であり経済学的には剰余価値をベースとした何らかの価値の発現だと考えられる。

 結果が<ゼロ>である{+/-=<ゼロ>}の場合は、そのままで均衡していることになる。この積み重ねは本源的蓄積として市場をめぐる基礎(構造)を強化していく。表象としてはこれが<全体意志>のコアでありモノ化した部分といえるかもしれない。アルチュセールならば重層的決定の成果だ。現代思想が流行した頃の言葉でならば<構造>であり、それに対して<一般意志>は<ノイズ>といえる。重層的決定を全体意志とするならば、<一般意志>は吉本隆明のいう重層的非決定とオーバーラップするものだ。

       -       -       -

 翻訳が思考の主要で大切な能力である構成同一性を体現するように、著者はさまざまなタームを自由に行き来しながら思索を重ねている。領域も射程も広く深い思索を読みやすいエッセイ風に仕上げたのが本書なのだ。

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 ググるとノージックについてクールに書き留め『一般意志2.0』について述べているコラムを発見。リバタリアニズムの文脈で『一般意志2.0』を捉えたスタンスは明確で事態を俯瞰させてくれます。橘玲氏の公式サイト「Stairway to Heaven」はある意味で自己確認することができ、なぜ日本で思想が無化されるか…についても考えさせてくれます。

2011年12月23日 (金)

『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 』…微分された共同幻想

『一般意志2.0』…市場の要素としての<一般意志>?!

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●動ポモと同じ文脈の問題提起?

 「思想地図」でリスペクトされた日本の思想家は吉本隆明と小林秀雄くらい。その想像力に対して畏敬の念にも近似する感覚を覚える人間は少なくないかもしれないですが、大多数の人間にとっては関心もないし、ましてや理解など(でき)ないのが現在なのでしょう。吉本に影響は受けてはいないがその仕事の志向にアディクティッドしてしまいそうだ…とどこかで語っていた東浩紀さんは、本書である意味、吉本さんと同じようなスタンスに立ったのではないか? 『動物化するポストモダン』が東さんにとっての共同幻想論(吉本さんの代表的な著作)に見える自分には、本書のスタンスもそう思えたりします。(<共同幻想>というタームはマルクスの<上部構造>のことで、マルクスの著作中では<公的幻影>(公的イメージ?)などの定義もされているみたいです。)

 共同幻想を発現し体現している主体は大衆そのものだというのが吉本さんの観点。これが歴史の最大の動因でもありマルクスはそれを自然史過程として把握できる…と考えていたことを吉本さんも前提にしてます。共同幻想論はその大衆の意志から生じる観念(精神現象)の運動を追究したもので、人間は意識しないでそう思ったりそう考えたりする…その累積的な変遷(吉本タームでは重層的非決定ハイエクが影響を受けたカール・メンガーにも似た?ような認識「意図せざる結果」 がある)を研究したもの。単純にいうと、すべてに意識的で表象的で論理的な(コンスタティブな)(つもりの)欧米の認識(科学?)とはちがって、観念そのものに複雑な運動を内包するアジア的(日本的)な認識の可視化が吉本さんの仕事の志向なのでしょう。

 ヘーゲルの意志論による意志(精神現象)の展開にマテリアルな裏づけをしたのがマルクスの下部構造(経済=モノを媒介にした関係)への鋭い考察。吉本さんの共同幻想論(上部構造論)はこの展開の仕方そのものを考えたもの。柄谷行人さんのスタートも『資本論』における上部構造と下部構造の関係をどう捉えるのか?というところから始まったもののようですね。

 動物化はヘーゲルからマルクスまで継続する意志論の背理的な一面を示す概念ですが、東さんはそれを全面化(前面化)しました。今回の<一般意志>もその文脈?で考えるとわかりやすいのかもしれません。
 マルクスでは上部構造として吉本理論では大衆(の意志)として対象化されてきたものがここでいう一般意志? 吉本さんの共同幻想へのアプローチではルソーも影響していることを橋爪大三郎さんが指摘していました。一般意志は、意外なほど共同幻想論へとストレートな経路になっていて、それはマルクスでも同じかもしれません。

●テクノロジーと論理の向こうにあるもの?

 議論を尽くす民主主義も論理的に詰めていけば(テクノ)ロジカルには<アローの定理>のように不可能性が証明されてしまいます。東さんはそういう限界をブレークスルーしようとしているともいえるかもしれません。

 共同性とか共同体の意志とは…何か?と問うときに、それを規定するものとしてマルクスは経済構造(下部構造)を考え、そこから表象する文化など意志的なものは上部構造として別途に考察した…。
 <世界>や<歴史>とは人間の<人生>を差し引いた後に残るものだ…という基本的な認識の構図はマルクスも吉本さんも同じ。東さんが紹介する一般意志も同じように考察され、シンプルに全体から個を差し引いて残るものを一般意志としていますね。
 マルクスは経済学批判として資本論を書き、政治学批判もバラバラとは手がけていて、そのコアになるのは本書で提起されている問題意識と同じなのでは?と推測できます。
 経済学などでよく指摘される「合成の誤謬」「コーディネーションの失敗」というものは民主主義の矛盾としても、もっとも露わになるものだけど、それは民主主義の限界そのものであるかも…。

 大衆の(意志の)無謬性を否定する宮台真司さんのような観点もありますが、そもそも大衆の意志とは何か?それは可視化できるのか?という問題がクリアされていなければならないはず。あまりにも当たり前だけど、東さんは空気のように意識されないできた一般意志を可視化することを主張してます。この誰もができない(意識しない(できない)ので出来るわけがないが)ことにスポットをあてた東さんの功績は大きいでしょう。

●タイムリーでクール?

 共同幻想や大衆の意志といえるものを「一般意志」としてピックアップした感覚は、それだけでもクールで期待したくなるもの。

 SNSからはじまった北アフリカの革命やウオール街への抗議、シリア問題などはまだ続いているし中国などでもネットは一党独裁政治に揺さぶりをかけている。でも注意したいのはそんなことではなく、ネットもSNSも光ファイバーもWIFIも普及しつつある日本で<何も起こらない>ことでしょう。

 僕なんか逮捕されちゃうよ…と幾度かtwitterや書籍でつぶやいている東さんですが、その思いをこういう形でキチッと本にできるのは、ある意味で恵まれているからかも? 人それぞれに、そういう自分のポジションや環境を活かしていくのが、これからの社会になるはずだし、願望されるもの。個人がそのままで生きていけるための思索としてここまで到達した?のだと思います。きっと本書は『郵便的不安たち』からの延長でもあるはずです。

 アメリカの大学でウイッキーペディアの使用が禁じられたり、全世界でのインターネットの普及に反比例するかのようにPVがマイナスに転じたり、ネットが当然である世界でリバランスなり正常化?の動きは数字に現れているとおり。だからこそ本書はリアルに意味と価値があるしタイムリーな一冊だと思います。

           
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

著:東 浩紀
参考価格:¥1,890
価格:¥1,890

   

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 一般意志は、全体意志から特殊意志の相殺しあうものを差し引いた和である…という数行だけを立ち読みして、このレビュー?を書いてみました。どこまで当たってるかな…

2011年12月17日 (土)

『ナショナリズムは悪なのか』…ブレークスルーを待つナショナリズム論?

『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人・NHK出版新書)

P11
反ナショナリズムという立場そのものが、
肥大化した自意識による付和雷同の結果である…

体制批判的でリベラルな立場の象徴は、
じつは同調圧力に対する弱さのあらわれなのである。

 反ナショナリズムへのキビシイ言葉からはじまる本書。著者の萱野稔人はまったく新しい保守?あるいはナショナリストなのだろうか? キビシイのはズバリと当たっているからであり、それは同時にナショナリストであることの動機にもいえることだろう。ドゥルーズガタリに拠りつつフーコーの研究家でもある著者は、方法としてマルクスと同じであるということさえある資本論特集の誌面で語ってもいる。

P30
私がナショナリズムを支持するのは、
あくまで国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、
アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。

 ここで示されているスタンスはまったく従来の保守とは違う。ウヨクの大部分がアイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムや国家でしかないことは常識的には明らかであり、中間層的なスタンスではそれが幸福という名の利益に置き換えられているだけに過ぎないのもバブル以降のスタンダードな認識だろう。大衆がなにをどう選択するかは個々人の蓄積と願望とTPOによってまちまちだが、個人をいちばん制約するモノゴトとその由来がどこからか、そしてどこへ向かっているかは、言外に誰にでもわかっているのが現代だ。この過視化した情況での言説が本当のポストモダンならば、著者のスタンスもパフォーマンスも見事なポストモダンだ。論拠がトートロジーであることを認めている著者は、次にどこへ行くのだろうか。OLがコムデギャルソンを着られるようになってから、ユニクロばやりの現在まで、失われた20年は長くなく、しかもその事由を捉えられた言説は少ない。本書が新鮮であることは確かだが。

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左翼やポスモダ論者はこの著者と闘論できるだろうか?

 ポスモダから左翼まで日本の人文科学や論者においてメジャーな“国家やナショナリズム=悪”という認識を著者はラジカルに批判し、同時にそれが原理としては見事な資本主義論にもなっている。DG(ドゥルーズ=ガタリ)による認識を追認しつつ展開され、国家と資本主義を相互に外在的なもの(対立するもの)とする立場と国家と資本主義は内在的な関係でトータルな構造(社会構造)として歴史的に発展してきたとする著者の立場に二分される。

 アイデンティティのシェーマに没入していく(しかない)ウヨクと市場が国家を超えると考えるグローバリストというまったく異なる両者が同じ観点から裁断されている。
 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やネグリ=ハートの『マルチチュード』なども仔細に検討されその限界が指摘される。フーコーの研究者でもある著者はポイントでフーコーも援用しDGとのマッチングで説得力を発揮している。

 ドゥルーズ=ガタリを援用しながらナショナリズムを正常な国民国家へと最適化することが説かれるが、これは徹底した経済学的な認識よってはじめて可能になった観点だろう。それも流行の数理オタク的な経済学ではない。国家と世界の連関を前提とした構造を把握した上で、またパノプティコンの必然を説きながら道徳的な善悪の判断を排して、鋭い思索が展開されているのだ。著者と水野和夫の対談『超マクロ展望 世界経済の真実』を併読すると世界経済からバブル、日本の可能性までが論じられていてリアルに日本がおかれている現況がわかる。

 パリ大学で学んだ著者はそのような環境(国家と政府の峻別が当然だという認識)で思索したということは無視できない。著者からみれば日本のポスモダや左翼のオカシナ国家批判も、そのオカシサの原因について考察してみなければならないハズなのだ。たとえば吉本隆明の『共同幻想論』はこのオカシサ(欧米との違い)について深く考察したほぼ唯一のものであり英語や仏語への翻訳をフーコーが希望したことは重く受けとめられるべきだし、これに関して「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」を「国家の成立」の要因だと語る(『世界認識の方法』)フーコーの指摘に留意すべきだろう。

 ナショナリズムの正当性あるいは正統?なナショナリズムを主張する著者だが、その限界もそこにある。それは著者がポスモダ論者に批判されるような点ではなく、著者の主張そのものにあるのだ。それは著者自身が認めているとおりに国家と法と暴力の関係がトートロジーになっていることが前提とされていることだ。
 法と暴力の起源が不問のまま国家の必然的な条件とされてしまっている。多くの学問や研究が法の生成や暴力の必然を問うているので、それを活かした考察があればもっと深い探究が可能ではないか? 暴力とは意味不明のままに他者を圧殺できることであり、「言語の共通性」を国家の前提とする著者の立場ではそもそも言語では意味不明の暴力を問うことはできない。そういった欧米的な認識の限界と闘ったフーコーは国家の(意味不明な)成立要件を「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」というところまで追い詰めることができている。心的現象論的にはこの「愛」を「自愛」と再定義すれば、あとは論理学的な探究をするだけなのだ。結論を言ってしまえば自愛(自己に対する対幻想・全面肯定)が遠隔化して対称的な展開をし、他者を(意味不明なまま)ジャッジする(できる)ステージでは国家が成立しうるということだ。各ステージでのストッパーとして倫理や道徳があるが、それは著者も認めているとおり、そして吉本理論では常識としてそれこそ意味はない。マテリアルとテクノロジー以外にモノゴトを左右するものはなく、倫理や道徳はある特定の段階とTPOでの法未然のものにすぎないからだ。

基本的に重要な留意点がいくつかある。
・国家や政府、ナショナリズムという概念の区別が曖昧な日本(アジア)と国家と政府が完全に峻別される欧米とは全く違うということ。(歴史的な発展段階の違い?)
・著者は欧米におけるナショナリズムの概念だけに依拠している。
・著者が依拠するドゥールーズ=ガタリがマルクスと精神分析(ラカン)に大きな影響を受けていてトータルではマルキストであること。特にガタリは共産主義者(党員)であり、日本へ非正規雇用者の実態などを視察にもきている本物の左翼の活動家でもある。
・フーコーの国家への認識は不完全だが“自愛”をキーワードにすれば国家やナショナリズムに届く可能性をもっており、欧米思想のなかでいちばん鋭いものになっている(吉本隆明との対談『世界認識の方法』を参照)。

P176
ネグリハート<帝国>論のまちがいは、
決定における「形式」と「内容」を混同しているところにある。

 これは端的にネグリ=ハートのマルクス読解が未熟なことを示している。著者は資本論を特集するある誌面で“自分の方法は資本論と同じだ”というようなことを述べているが、それが納得できる鋭い指摘になっている。ドゥールーズ=ガタリあるいはラカン的なものを参照しているならば、ジジェク(マルクス×ラカン)のようなものも参考文献として日本のポスモダ論者とガチに対峙できるのではないか。「新・現代思想講義」というサブタイトルを掲げるならばそういったアプローチもほしかった。

           
新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書 361)

著:萱野 稔人
参考価格:¥777
価格:¥777
   

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 欧米的な認識では国家と政府(政治権力)は別であり、そのために選挙で政府を交替させるのは日常的。選挙による民主主義の当然の姿だ。かつてのミッテラン大統領のように左翼の代表が“フランスの父”をキャッチにしても違和感がなく左翼と国家は普通に並立する概念にすぎない。ところがアジア(アフリカも)や日本では国家と政府の峻別が曖昧だ。そのために長期政権や独裁がみられ、それらへのアンチな運動は顕著ではなく民主的な政権交代でも政策のドラスティックな変更はない場合がほとんどかもしれない。

 日本の左翼やポスモダでは政府への批判がイコール国家批判・ナショナリズム批判になりがちだ。それこそ政府と国家あるいはナショナリズムの峻別がなされていない証拠。こういった左翼イデオロギーをはじめとした曖昧でしかもファンクショナルな理論をラジカルに解体することを目的としたのが吉本隆明だった。本書の参考文献にその『共同幻想論』が入っていないのが残念。

 「言語の共通性をつうじてその地域の法的な意思決定がなされる」ところに最終的な根拠を求めている著者の認識(国家やナショナリズムの)は近代国家の定義の典型でもある。だが現実にはEUにもロシア(旧ソ連)にも域内住民の言語の共通性はない。むしろ世界で唯一公用語=国語を設定しなかったスターリン憲法の先進性や多文化主義の方が見事?だが、その結末もユーゴ内戦、ルワンダのジェノサイドに象徴されるように楽しいものではなかった…。
 萱野が援用し依拠するDGもフーコーも(そしてマルクスも)、ヘーゲルとの闘争を経て欧米(と言語)の限界に突き当たった思索者であることが示唆しているものは大きいだろう。

2011年1月 6日 (木)

ポリス・遠野物語・国家

白熱教室・トロッコ・ミメーシス
 ポリス、遠野物語、国家からそれぞれ共同体の属性を読み取ろうとした論考があります。ギリシャのポリスからは宮台真司さんが、遠野物語からは吉本隆明さんが、国家からはマルクスが、それぞれ読み取ったものとその読み取り方…。ここから学べるものはたくさんありそうです。


ポリス・・・

           
大澤真幸THINKING「O」第8号

著:宮台 真司 , 他
参考価格:¥1,050
価格:¥1,050

   

 ギリシャのポリス、スパルタの戦士がたった300名だけでペルシャの大軍を迎え撃つ物語・映画「スリー・ハンドレッド」では集団密集戦法を観ることができます。自分たちに向かって雨のように降り注ぐ弓矢を見て笑い出す防御の構えのスパルタの戦士たち。戦場でのトランス状態、響きわたるハイになった戦士たちの豪快な笑い。彼らが形成する亀の甲羅のような密集した集団の盾は、個々が互いに隣の戦士を防護するように構えられて隙がありません。自分の盾が隣の戦士を守るという行為の連鎖がこのポリスの集団密集戦法を成立させています。利他的な行為こそが共同体を守るという象徴的な戦術がここにあります。大きな盾を操る筋力、隣人をカバーできる腕の長さと身長…。状況に応じて変化する構え。これらを可能にする身体と呼吸と察知、そしてなにより自らの命で隣の戦士を守る精神…このような行為を瞬時に可能にし、それへ至るすべてに至高の価値を見出すポリスの審美眼がポリス=都市国家=共同体を支える共同性だったことを宮台さんは重視します。やがてこの身体行為を要とする価値観=美学は文字の登場で弱体化し、ポリスはそこから頽廃し没落していきます。

 唱和と舞踏という身体的な運動=行為で意味や価値を伝承伝達してきたポリス社会の共同体が文字の普及のよって変質します。プラトンはもやは説得力を失った詩人に変わって哲人の存在を求めて尊び、そこで真理ではない文字や言葉を見抜き打ち破る能力も必須とし、そのための方法として対話(ダイヤローグ)=弁証法が重視されていきます。

 ギリシャのポリスの没落に共同体が依存する構造の変遷を見てとり、さらには哲人と比して詩人を貶めるプラトンのスタンスに、宮台さんは大きなヒントを得ているようです。
 つまり文字が拡がるにつれて「朗誦と舞踊」が「廃れた」ポリスでは身体性に依拠したミメーシスは起こるはずがなく人々はフラットになっていく…。このためのポリスの頽廃に対して文字=言葉を駆使できるものを待望したプラトンは必然的にその極北にあるイデアを掲げるようになる…


遠野物語・・・   

           
遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

著:柳田 国男
参考価格:¥500
価格:¥500

   

 これを語りて平地人を戦慄せしめよ。

 遠野物語の序文のこの文章が意味するものは何か?
 「平地人を戦慄せしめよ」…ずいぶん過激なようですが、平地人が当たり前のことだと疑いもなく信じているものが木端微塵に解体されてしまう…という意味ではないでしょうか。パンピーが当たり前だと思っている国家や社会の姿が、山人の奇譚から明らかにされていく…そういう意味がありそうに思えます。

 遠野物語には語り手である佐々木鏡石本人に関係する物語が多く出てきます。三島が絶賛した老婆の死の幽霊譚、馬に想いを寄せた娘が神になったオシラサマ、また毒キノコに当たり少女一人を残して1日で20数名が絶えてしまった家(佐々木家本家?)…これらの物語の女性は同一人物で佐々木の親戚であるともいわれています。そして不本意ながら村長として村の借金を負わされて家族が離散したらしい佐々木本人の現実…。
 マルクスが一つの商品から資本主義を解明し小林秀雄が単語から作品を分析するように、佐々木鏡石独りの物語だとしても、遠野物語から遠野という山野に存在する社会を解析することは可能でしょう。問題はそれが他者にとってどのような意味(価値)があるかということ。国家が個人(の物語)など歯牙にもかけないという現実に対して、個人の物語から国家を解体する経路を探究したのが『共同幻想論』だとすれば、そこには(文芸)批評に国家や宗教を解体しうる可能性や契機があるといえるワケです。

 『共同幻想論』の「憑人論」は遠野物語研究の周辺からも共同幻想を国家論と考えるスタンスからも違和感があると考えられます。「憑人論」は柳田と佐々木の親和的関係を考察し、それを演繹して<共同幻想>をみるもの、語るもの、伝えるものの関係を解き、それ自体が個人の観念が伝播し遠隔化していく過程のファクターと構造を探ったものだと考えられます。別のいい方をすれば作家論的なアプローチとその作品がメディアとして生成していく過程をフォーカスしたともいえます。ファンクショナルには巫女もシャーマンもメディアであり、その変遷は時代(社会構造)の変遷を意味するものだからです。


国家・・・

           
ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)

翻訳:城塚 登
参考価格:¥630
価格:¥630

   

 近代国家の成立をその精神(価値観)の外化である法(疎外態)と形態の精緻な構造として描いたヘーゲル。このヘーゲルの『法哲学』を徹底的に読み込んで、その形態から形式(国家)と力動(市民社会)の二重性を読み出し、歴史はそこからどう動くかを推論したのがマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』です。
 社会の疎外態である法という論理の展開から経済という自然(史)過程と照応する構造を読み取り、そこでは法の権化である国家と自然史過程を担う市民社会との関係が解析されていきます。

 同じように『遠野物語』に描かれている物語の形態と内容と当時の経済の状態との関連から物語の形態を(も)形成した(する)意識を読み取ろうとするのが『共同幻想論』。経済という自然史過程とそれに照応する民譚が示す社会の構造を読み取り、そこにおける民衆の心性から生成する観念と公的関係との関連や、ベースにある親和的関係と共同的なものがバランスしながら移行する関係を共同幻想論は描いています。

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