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2017年7月31日 (月)

現在はナゼ不可視なのか?…ハイイメージ論

 共同幻想論の現在版であるハイイメージ論は、現在はナゼ不可視なのか?という問いからスタートします。

 「高度情報化」の社会像の像価値は・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・それはわたしたちが、社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、わたしたちを安堵させているからだ。
 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P31,32)

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P24)


 フランス最高の知性といわれ左翼政権の最高顧問として登場したジャック・アタリの著作『情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)』。それを思わせ、そしてはるかにそれを超えるのがハイ・イメージ論Ⅰのスタートを切るこの30頁ほどの論考、「映像の終わりから」。すべては、現在が不可視であることを確認するところからはじまります…。

 産業構造の進展を時空間とその構造の差異の変容から説明しながら、わたしたちがいかにして不可視であるかを解いていく論考は、あの共同幻想論の現代版として思索されてきたもの…。「情念」や「倫理」を排したクールな思索と探究は情報理論なども踏まえて展開されています。

           
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情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)

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改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

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 共同幻想論は人はなぜ、どうしてどのように共同幻想を見てしまうかが探究されていますが、このハイ・イメージ論では問いが逆転し、なぜ見えないのか?が問われていきます。不可視であることの理由…。安堵し覚醒をさまたげるものとの永続的な闘い…詩人であり思想家である吉本隆明のノンジャンル、ノンリミットの思索がハイイメージ論に溢れています。


 安堵し覚醒をさまたげられている現代人へ、遠野物語の序文の「之を語りて平地人を戦慄せしめよ」というアプローチがハイ・イメージ論が書かれた動機のひとつでもあることは間違いないでしょう。

 国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。
 願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。

                          (『遠野物語』「序文」 柳田國男」)

           
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2017年6月30日 (金)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?(再掲)

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

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みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
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現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎や村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

    ハイ・イメージ論〈3〉

著:吉本 隆明
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2017年5月28日 (日)

<貧弱な共同社会>が生む共同幻想

   共同的な幻想もまた入眠とおなじように、
   現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、
   たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。
   そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。

                      (『共同幻想論』禁制論P64)


 共同幻想の「ほんとうの生み手は、貧弱な社会そのものだとすれば、探究すべきは「貧弱な社会そのもの」になります。
 マルクスは資本論で下部構造=モノを媒介とした関係を思索しましたが、下部構造の上部構造への影響を絶対とはしていません。ある頃からは上下の構造のカップリングとしてみることも一案にすぎないとしているようです。(「共同幻想論」では共同幻想はマルクスの上部構造のことだと説明されていますが・・・)


  では、この<貧弱な社会>とはどのようなものなのでしょう。
  何が<貧弱>なのでしょうか?
  この<社会>は上部構造なのでしょうか?
  それともモノを媒介とした社会として下部構造的なものなのでしょうか?


 社会はモノを媒介とした関係ですが、モノを認知するのも関係を認識するのも個人の心であることには変わりありません。そして認識において規範となるものや反復されるものはモノと同じように感受されます。簡単にいえば、人間が働きかけて変化させない限りは不変のものとして感受される(モノは規範であり反復されるものであり)ということであり、現実には感受している実感さえない(象徴界のように)ものです。
 <モノ>にはそういった意味合いが込められています。人間はそれらを意識することなくそれらに支配されている…といえるものです。



 <モノ>が意味するのは<不変>の関係になります。
 逆にいえば不変の関係=変わらない関係はモノであり、モノとの関係と同じだといえます。その都度認識する必要のない、いつも変わらない関係です。

 感覚は絶えず機能していて、時間の経過とともに変化する環界を感受しています。環界の急激な変化に個体が気がつかない場合、大きな危険にさらされる可能性があるからです。
 逆に変化のない関係であれば、いつも同じような関係に対して同じような対応をすればいいコトになます。この同じような対応の仕方を固定させたものが<規範>です。

 さまざまな経験による認識は<概念>としてストックされ、反復する認識は<規範>として認識のフレームを形成します。
 この概念と規範が同致したものにつけられたタグが<言語>になります。

 規範が優位なままに生成する認識のクラスターやレイヤーは共同性といえるかもしれません。あるいは規範に無意識のまま組み込まれるものに共同性としてのニュアンスがあるのかもしれません。 意識できないもの、あるいは意識を規定してしまうものとしての共同性や象徴界的なもの…。

2017年4月24日 (月)

<共同幻想>を生む禁制と自己言及

 共同幻想は何らかの禁制(Tabu)を前提としますが、禁制の対象は個体の意識のなかで措定されているハズです。
 この措定する意識も自己の意識なので、対象化するということそれ自体で意識×意識(自己言及性)が前提となっています。心的現象論序説で示唆されているように<観念のべき乗化>です。共同幻想は自己言及や再帰性を前提として生成するものです。


   ある事象が、事物であっても、思想であっても、
   人格であっても禁制の対象であるためには、
   対象を対象として措定する意識が個体のなかになければならない。
   そして対象はかれの意識からはっきりと分離されているはずである。
   かれにとって対象は、怖れでも崇拝でも、そのふたつでもいいが、
   かれの意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている。

                      (『共同幻想論』禁制論P46)


 個体のあらゆる認識が統覚からみて自己言及である(orでしかない)ということは、入れ子構造を仮構することで安定が担保されています(この自己言及をひとつの単位とし、そのアトラクタブルな領域をひとつの入れ子構造と想定できます)。
 自己言及による不確定領域は仮に空間性を代入することで安定しますが、それは仮定(or過程)であり絶えず更新され続けています。
 この更新をせまるものが「身体組織としての生理的な自然そのもの」であり心的現象論序説でいう<身体の時間性>です。

         
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   じぶんにとって、じぶんが禁制の対象であったとすれば、
   対象であるじぶんは酵母のように歪んでいるはずである。
   そしてこの状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、
   かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。

              (『共同幻想論』禁制論P46~47)


           
改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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 吉本式にいえば原生的疎外純粋疎外に絶えず是正を迫っているともいえるもの。
 「意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている」ために、その歪みを是正する必要がある…のであり、同時にその是正への抵抗としても生は意味づけられていくものだと考えられます。

2017年3月31日 (金)

利他的な行為の停止からはじまる共同性

 共同性の前提とは、ある意味で、自他を分けることです。
 自分サイドの人とそうでない人を分けるのがもっとも重要なポイントで、このことそのものが自分の所属する共同体と共同体外とのボーダーにもなります。

 具体的には、利他的な行為の停止が共同性の前提となります。

 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けていたのに、それが3才くらいからケースバイケースになるのです。この時、自分にプラスのものとマイナスのものを峻別することが基本になっています。

   生後六~八か月の赤ん坊も、
   社会的行動で相手を評価している…

   (『<わたし>はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』 第5章 ソーシャルマインド P183)

   幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制することを覚える。
   過去に何か分けあってくれた者を優先するなど、
   手助けする相手を選別するようになるのだ。

   (同上 P182)

           
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 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けるものを選ぶことがテストで確認されています。
また、他者が何かを探していると、それを指さしして教えてあげるという利他的な行為もします。

 生後6~8ヶ月の乳児が利他的だということは、人間のデフォルトが利他的であることのエビデンスになりうるもの。

 人間は元来から社会的な生き物だということでしょう。

   他者を肯定するものを肯定する…ということ。
   他者が何か求めていたら助けてあげる…ということ。

 この2つが人間の基本にあるということ、すくなくとも3才までは、利他的な行為が基本にある…。いいかえると、この2つは他者どうしが肯定しあうこと、とまとめることができるでしょう。

 これはつまり<相互に全面肯定である>という対幻想そのもの

 母子一体、自他不可分、世界=自分であるというスタート時の心の原形(時点ゼロの観念=)がそこにあるといえるでしょう。

 そして「幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制する」ようになり、ここから他者とともに生きていく現実に対応した社会性を身につけ、それは具体的には共同性そのものの発現として生成されるものだと考えられます。

2017年2月28日 (火)

対象との<関係そのもの>と想像するときの<根源にある枠組み>

対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

…というのが現象学の要諦だとされています。

 それは主体-客体に代表される二元(論)的な発想をブレークスルーするための画期的な方法でもあったのだと、それらについて『心的現象論本論』(P30)では「この種の現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と結論しています。欧米思想にとって「有効」であり、しかもそれは「遁走」だというところに、いつもの臨界を極めていく鋭利な思索があるようです。

 考えてみると、ここには2つ以上の?があり、それそのものが「有効」であるというレベルと「遁走」であることの理由を示してもいます。

 大きな問題は「不変」が「本質」であるという誤解と、「本質」が「直観」できるという錯誤の2つ。


           
心的現象論本論

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 「本質」というものについてはヘーゲル以来のあるいは哲学全体の思索があり、「直観」についてはすでに『心的現象論序説』で解体されてもいます…。悟性や理性の定義をしない(できない)で論を進めている多くのナントカ学の無効が宣言される一説なのかもしれません。もちろん古典という形容で免罪されるものは吉本の思索にはないでしょう。

   心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。

   心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
   ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…

                     (『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93)


           
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対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

「想像に左右されないで不変なもの」が「本質直観である」というのは、
「本質直観」は「想像に左右されないで不変なもの」ともいえます。
…つまり、そういったものを探せばいいワケです。



対象認識をするときに想像に左右されないものといえば、
たとえば、
対象認識をするときも想像するときも不変的もの…
それは、突き詰めれば対象との<関係そのもの>想像するときの<根源にある枠組み>
になります。

心的現象論の読者には基礎知識でしかないことですが、哲学をはじめさまざまな思索が自己言及の不可能性ゆえにアンタッチャブルのままきたものがここにあります。少なくともポストモダンやニューアカや自己言及というものがブレークスルーすべきものであることは見出していました。その後の沈黙は方法が見当たらないためであり、ターゲットが把握できなかったわけではないと思われます。

2017年1月31日 (火)

マテリアルとしての<共同幻想>

‘対象に投影された自己像の不可知性’つまり自己言及による決定不能性はゲーデルの定理やチューリングマシンの問題としても有名ですが、人間の心理現象としては強力な防衛機制?としてこれらの問題はクリアされています。不可知な部分に何かが代入されて処理されていくからです。代入されたものはマテリアルな属性をともなって意識に影響をあたえます。これが共同幻想です。
「すべては<代入される空間性>」

共同幻想は意識がおよばないという意味ではマテリアルであり、ラカンの象徴界(「三界論と<力>と」)オーバーラップするもの。また論理的にその因果を探せば(自己言及の限界として)自己言及できない領域として抽出できます。ポスモダ的な論議の可能性はそこにありましたが、どこからも誰からも解が指し示されることはありませんでした。タームのブリコラージュだけの衒学では言及することさえ不可能だったのでしょう。構成同一性(「<思考>のはじまるところ」)が行使されない認識は思索にはなりえないという(ベイトソン的な)エビデンスそのもののようですが…。
「言葉を生むもの…とは?」

このマテリアルとしての属性は哲学的には先験的理性のようと表現されるものです。この先験的理性のようなものを<純粋疎外>とした説明が「心的現象論序説」による基礎的な定義になります。このことから理論的にあるいは論理的な帰結として共同幻想が純粋疎外に由来あるいは依拠するものであることが分かります。あるいは純粋疎外状態から生成するのが共同幻想だということになります。「共同幻想論」そのものでは入眠状態あるいは夢幻様と説明される心理状態です。「共同幻想論」での入眠時の状態あるいは夢幻様とよばれる心理状態は、別のいい方をすれば全般的な<純粋疎外>の状態であることを指しています。
「世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ」



           
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入眠時あるいは夢幻様とよばれる、この睡眠と覚醒の混融した状態は、脳科学的には脳幹網様体がコントロールしているもの。脳幹網様体は機構的には感覚、意識、内分泌系の情報が相互にフィードバックする領域で意識の覚醒のレベルを決定しています。個体の心理を探究した心的現象論から、個体を母体との関係で解いていく「母型論」では大洋の概念をモチーフに思索されていくものが、これに対応するところがあると考えられます。この<大洋>でイメージされるものがフロイトにおいては羊水であることはある程度オーバーラップします。
「<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの」
「時間性・リズムという科学」

脳幹網様体の機構が感覚からの情報、皮質からのフィードバック情報といった神経系の情報とともに、内分泌系からの情報が加わっていることに大きな意味があります。細胞膜やレセプターを通じた内分泌系の情報は神経のパルスより一桁も二桁も速いスピードで作用します。たとえば角田テストによると実母の声に脳幹が反応するのは10000分の1秒というスピードであり、これは細胞膜でのイオンのやり取りの速度に相当します。しかもそれは意識という自覚なしに行使され、事後的にも意識化されることはありません。
「ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明」

脳神経学的にいえば、胎児は羊水に浸かっていますが、脳幹網様体(そしてすべての細胞)は内分泌系の液性環境に浸かっています。そしてこの液性環境での情報のやり取りがラジカルに個体の活動をコントロールしています。神経反応どころか精神活動さえもその完全な影響下(コントロール下)にあります。これは地上の全生物とその全生命が液性環境に依拠しているという普遍的な事実そのものの象徴的なエビデンスでしょう。液性環境の均衡を気分として探究する木下清一郎の考察は斬新で大きな可能性がありそうです。液性環境での情報のやり取りにリン脂質を利用していることを人間の(脳と心の)大きな特徴として研究した木下清一郎の指摘のように、各種リン脂質であるホルモンやサイトカイン、痛み物質であるプラスタグランジン、痒み物質であるヒスタミン…の液性環境に浸かって10000分の一秒で代謝する細胞を心の原点とした論考はラジカルなもの。もちろんその対極に観念の運動としての人間活動を探究し続けた吉本隆明がいます。
「言語とイメージが探究される理由は? 2」

2016年12月31日 (土)

先験的理性のようにみえる<純粋疎外>≧共同幻想

 先験的理性のようにみえると説明されている<純粋疎外>。
 先験的であり理性的であるとしたら…そこに思考が介在することは可能でしょうか?
 あらかじめ思念することが不可能であるような印象があります。
 そして、それこそが共同幻想(が成立する)の基本的な根拠になるもの。

 逆の説明も可能です。思考できない領域だからこそ先験的理性のように感受されてしまう…ということです。
 いずれにせよ、ここに共同幻想の根拠があります。(思念や想像がおよばないものだとすれば、それはラカンの象徴界にも似ているかもしれません…)


 マルクスはこの思索しづらい領域をいっきょに把握しようとしました。それが経済分析でした。いわゆる下部構造へのアプローチです。下部構造のマテリアルとテクノロジカルな解析ができれば、その上部構造である宗教や文化や国家は把握できると考えたワケです。
 マテリアルな関係を分析できれば、それを基礎にしている関係(社会や文化、国家や宗教)は理解できる…ということ。

 ところが現実には、そうカンタンには社会や文化のさまざまな現象は理解できません。物質的基盤が同じであれば、同じような社会や文化になるか…現実にはなりません。同じ環境でも宗教や国家は異なるものになるし、習慣や風習も違っていたりします。
 そもそも人間にとっていちばん基本的な言語や家族の形態も場所が異なれば異なっている方が普通です。

 この異なっているものをサンプルの数だけ、現実の数だけ蒐集しアプローチする社会学、人類学や民俗学、あるいは歴史学のようなものがあります。ブルデュートッド阿部謹也のようなアプローチが結果として、科学や法則として社会にアプローチしたマルクスのものと近似したものでもあることは、大切なことだと考えられます。アプローチの方法論ではなく結果を考えるとき、さまざまな方法を試してみることは価値があることでしょう。開かれているスタンスでなければ、どんな問題も根源へ至ることはムズカシイでしょうから。


 マルクスがモノゴトを媒介とする関係(下部構造)に思索をめぐらせたように、関係そのものに思索をめぐらせ探究したものが心的現象論です。
 先験的理性のようにみえる…ということの原理から思索し直したのが心的現象論のアプローチです。

 <先験的>というように経験を超え、<理性のように>という思考を制する規範であるかのようなイメージ。

 これらの超越性とイメージが生成する根拠を探究すること…
 それが心的現象論のモチーフになります。



『心的現象論序説』から…


   <精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…
   この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、
   あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)

   人間の<関係>の総体としてのこの世界は、
   フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、
   異なった位相の世界として存在している。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)


   生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、
   時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、
   現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域は、
   空間性(空間化の度合)によって抽出することができる…

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P50)


   人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は…
   生活史と精神史との歴史的な累積を、
   心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、
   この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P70)



           
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2016年11月21日 (月)

<価値>を生む、対幻想2

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想に非肯定=否定が介入、生成して認識がはじまります。母子一体(自他不可分)の状態からの分節化であり、ここに他者、世界、自己が生まれます。


fr  2015年5月17日 (日)<内コミュニケーション>のトレードオフ

 “想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。

 

リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。

       -       -       -

 あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?

 さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。

 ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。

   

相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
   一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

   

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
   母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。


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fr  2016年4月 2日 (土)<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?


fr  2016年5月 6日 (金)認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

 

自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』

 

「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>


fr  2016年5月20日 (金)<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。

2016年10月29日 (土)

<価値>を生む、対幻想

対幻想は<個別的現存>でしかない人間が<人類>であることを可能にするもの。シンプルにいえば人間にとっての根源的な価値を産出するもの。そして認識の初源になるものです。認識は対幻想から遠隔対称化する…と考えてきた過去のものを並べてみました。


fr  物語の生まれとはじまり

●母との物語はいくつかのパターンに分けることができます。

●そのパターン化する以前、分岐する前の基本となる認識(感情、気持ち、思考などの原点となるもの。数学でいえばゼロの状態に相当するものです)があります。

●このゼロの状態が減算され微分されてパターン化し分岐します。
 自分が全面肯定される(ハズだ)という<対幻想>=<時点ゼロの双数性>が否定されることによって拡散するわけです。

●対象に投映された<自己が全面肯定される(ハズの)志向性>が、否定(去勢)されることによって拡散します。

●(自己)肯定のイメージが微分されるワケですが、この時絶対に微分されない拡散されない領域があります。前述にもどれば否定(去勢)されない領域があります。
 それは自己の観念からいえば対象に投映された時に自覚できない領域です。自覚できないために否定されることもありません。(否定を自覚できない)
この領域に対する否定は身体的な否定に相当し、それは観念にとって依拠する環境そのものの否定になります。


fr  『心的現象論序説』 P30

自己観察によって確かめられる部分でさえも、
自己が自己に対置されるという幻想的な一対一の分化が、
観察の前提をなしている。


fr  『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
  第5章 脳と心  1―構造としての階層  (4)前頭葉  P153

脳の最終の統合領域である連合野が脳のなかに一つではなく、
いくつか同時にあらわれたことは重要である。
なぜかといえば、
連合野どうしのあいだに想念のやりとりがおこなわれうる基礎ができたからである。
考えることの本質は、自分が自分に問いかけ、これに答えるところにあるならば、
ここにはじめて脳は考えることのできる存在となったわけである。
観念の対話があって、はじめて認知や判断といったいわゆる知能とよべるはたらきが
生まれてくるのであろう。


fr  2007年2月17日 (土)独解=<ゼロ>の発見

 人間は個別的現存でしかないのになぜ人類が成り立つか?という若きマルクスの疑問に、吉本さんは<対幻想>という根拠を示しました。ニューアカに影響された自分は、それを<時点ゼロの双数性>とニューアカ風に表現してみました。相互に全面肯定=絶対認知される(ハズ)という幻想と、非肯定性による対幻想(全面肯定性)の非対幻想化(遠隔化)が考えられます。遠隔化された結果として共同幻想や個人幻想の属性を措定する吉本理論のスゴサは驚くばかりです。アルチュセールが毛沢東の矛盾論からインスパイアされたように、フーコーなどもこういった(理論化された)論理的な機序を知りたかったのではないでしょうか。


fr  2011年3月25日 (金)『共同幻想論』・祭儀論から考える

P139
…<死>では、ただ喪失の過程であらわれるにすぎなかった対幻想の問題が、
<生誕>では、本質的な意味で登場してくる。
ここでは<共同幻想>が、社会の共同幻想と<家族>の対幻想という
ふたつの意味でとわれなければならない。

 ここに対幻想と共同幻想が逆立する契機があります。
 <生誕>をめぐる村落の共同幻想(公的関係)と対幻想(親和的関係)は相互に移行可能であることが指摘されています。家族は親族や部族に遠隔化しやがて民族や国家まで至る可能性もあるとともに、一対の男女はそのすべての起源たりうるからです。


fr  2011年7月15日 (金)『共同幻想論』・対幻想論から考える

P176
…<対なる幻想>はそれ自体の構造をもっており、
いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、
集団の共同的な体制と独立しているといってよい。

共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった水準に分離したとき、
はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が
おおきく登場するようになったのである。 
もちろんそれは近代以降の<家族>の問題である。

 対幻想は集団からは「独立している」という断定はわかりやすく、多くの読者が共有する対幻想への理解がここにあります。それはまた同時に共同幻想そのもの(への理解)を難しくしているものでもあるでしょう。親(子)に対する対幻想(家族)と男女間の対幻想(性)は異なりますが、それは時間への関係性の違いです。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。


fr  2011年9月 8日 (木)『共同幻想論』・罪責論から2

P214~215
<父>はじぶんが自然的に衰えることでしか
<子>の<家族>内での独立性をみとめられない。
また<子>は<父>が衰えることでしか
<性>的にじぶんを成熟させることができない。
こういった<父>と<子>の関係は、
絶対に相容れない<対幻想>をむすぶほかありえないのである。

 ルソーからフロイトまで欧米思想に散見するエディプス・コンプレックスの解と(も)なる認識でしょう。
 「絶対に相容れない<対幻想>」の設定が吉本理論らしい原理と圧倒的な何かを示しています。{相容れない<度合い>}(あるいは{相互に肯定される(ハズの)<度合い>})をバリアブルなものとして設定すれば遠隔化の度合いを示すものとなり、その究極に共同幻想の極点が想定できます。
 この父子相伝の西欧的に表象しがちな関係ですが、神話からアニメまで多くの物語がベタにこの構造をそのまま展開させています。またリアルな権力(者)のヒエラルカルな構造(関係)も同様なものとして考えることが可能かもしれません。


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