OnePush!お願いしまーす!

無料ブログはココログ
2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

とれまがブログランキング

2017年1月31日 (火)

マテリアルとしての<共同幻想>

‘対象に投影された自己像の不可知性’つまり自己言及による決定不能性はゲーデルの定理やチューリングマシンの問題としても有名ですが、人間の心理現象としては強力な防衛機制?としてこれらの問題はクリアされています。不可知な部分に何かが代入されて処理されていくからです。代入されたものはマテリアルな属性をともなって意識に影響をあたえます。これが共同幻想です。
「すべては<代入される空間性>」

共同幻想は意識がおよばないという意味ではマテリアルであり、ラカンの象徴界(「三界論と<力>と」)オーバーラップするもの。また論理的にその因果を探せば(自己言及の限界として)自己言及できない領域として抽出できます。ポスモダ的な論議の可能性はそこにありましたが、どこからも誰からも解が指し示されることはありませんでした。タームのブリコラージュだけの衒学では言及することさえ不可能だったのでしょう。構成同一性(「<思考>のはじまるところ」)が行使されない認識は思索にはなりえないという(ベイトソン的な)エビデンスそのもののようですが…。
「言葉を生むもの…とは?」

このマテリアルとしての属性は哲学的には先験的理性のようと表現されるものです。この先験的理性のようなものを<純粋疎外>とした説明が「心的現象論序説」による基礎的な定義になります。このことから理論的にあるいは論理的な帰結として共同幻想が純粋疎外に由来あるいは依拠するものであることが分かります。あるいは純粋疎外状態から生成するのが共同幻想だということになります。「共同幻想論」そのものでは入眠状態あるいは夢幻様と説明される心理状態です。「共同幻想論」での入眠時の状態あるいは夢幻様とよばれる心理状態は、別のいい方をすれば全般的な<純粋疎外>の状態であることを指しています。
「世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ」


入眠時あるいは夢幻様とよばれる、この睡眠と覚醒の混融した状態は、脳科学的には脳幹網様体がコントロールしているもの。脳幹網様体は機構的には感覚、意識、内分泌系の情報が相互にフィードバックする領域で意識の覚醒のレベルを決定しています。個体の心理を探究した心的現象論から、個体を母体との関係で解いていく「母型論」では大洋の概念をモチーフに思索されていくものが、これに対応するところがあると考えられます。この<大洋>でイメージされるものがフロイトにおいては羊水であることはある程度オーバーラップします。
「<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの」
「時間性・リズムという科学」

脳幹網様体の機構が感覚からの情報、皮質からのフィードバック情報といった神経系の情報とともに、内分泌系からの情報が加わっていることに大きな意味があります。細胞膜やレセプターを通じた内分泌系の情報は神経のパルスより一桁も二桁も速いスピードで作用します。たとえば角田テストによると実母の声に脳幹が反応するのは10000分の1秒というスピードであり、これは細胞膜でのイオンのやり取りの速度に相当します。しかもそれは意識という自覚なしに行使され、事後的にも意識化されることはありません。
「ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明」

脳神経学的にいえば、胎児は羊水に浸かっていますが、脳幹網様体(そしてすべての細胞)は内分泌系の液性環境に浸かっています。そしてこの液性環境での情報のやり取りがラジカルに個体の活動をコントロールしています。神経反応どころか精神活動さえもその完全な影響下(コントロール下)にあります。これは地上の全生物とその全生命が液性環境に依拠しているという普遍的な事実そのものの象徴的なエビデンスでしょう。液性環境の均衡を気分として探究する木下清一郎の考察は斬新で大きな可能性がありそうです。液性環境での情報のやり取りにリン脂質を利用していることを人間の(脳と心の)大きな特徴として研究した木下清一郎の指摘のように、各種リン脂質であるホルモンやサイトカイン、痛み物質であるプラスタグランジン、痒み物質であるヒスタミン…の液性環境に浸かって10000分の一秒で代謝する細胞を心の原点とした論考はラジカルなもの。もちろんその対極に観念の運動としての人間活動を探究し続けた吉本隆明がいます。
「言語とイメージが探究される理由は? 2」

2016年12月31日 (土)

先験的理性のようにみえる<純粋疎外>≧共同幻想

 先験的理性のようにみえると説明されている<純粋疎外>。
 先験的であり理性的であるとしたら…そこに思考が介在することは可能でしょうか?
 あらかじめ思念することが不可能であるような印象があります。
 そして、それこそが共同幻想(が成立する)の基本的な根拠になるもの。

 逆の説明も可能です。思考できない領域だからこそ先験的理性のように感受されてしまう…ということです。
 いずれにせよ、ここに共同幻想の根拠があります。(思念や想像がおよばないものだとすれば、それはラカンの象徴界にも似ているかもしれません…)


 マルクスはこの思索しづらい領域をいっきょに把握しようとしました。それが経済分析でした。いわゆる下部構造へのアプローチです。下部構造のマテリアルとテクノロジカルな解析ができれば、その上部構造である宗教や文化や国家は把握できると考えたワケです。
 マテリアルな関係を分析できれば、それを基礎にしている関係(社会や文化、国家や宗教)は理解できる…ということ。

 ところが現実には、そうカンタンには社会や文化のさまざまな現象は理解できません。物質的基盤が同じであれば、同じような社会や文化になるか…現実にはなりません。同じ環境でも宗教や国家は異なるものになるし、習慣や風習も違っていたりします。
 そもそも人間にとっていちばん基本的な言語や家族の形態も場所が異なれば異なっている方が普通です。

 この異なっているものをサンプルの数だけ、現実の数だけ蒐集しアプローチする社会学、人類学や民俗学、あるいは歴史学のようなものがあります。ブルデュートッド阿部謹也のようなアプローチが結果として、科学や法則として社会にアプローチしたマルクスのものと近似したものでもあることは、大切なことだと考えられます。アプローチの方法論ではなく結果を考えるとき、さまざまな方法を試してみることは価値があることでしょう。開かれているスタンスでなければ、どんな問題も根源へ至ることはムズカシイでしょうから。


 マルクスがモノゴトを媒介とする関係(下部構造)に思索をめぐらせたように、関係そのものに思索をめぐらせ探究したものが心的現象論です。
 先験的理性のようにみえる…ということの原理から思索し直したのが心的現象論のアプローチです。

 <先験的>というように経験を超え、<理性のように>という思考を制する規範であるかのようなイメージ。

 これらの超越性とイメージが生成する根拠を探究すること…
 それが心的現象論のモチーフになります。



『心的現象論序説』から…


   <精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…
   この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、
   あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)

   人間の<関係>の総体としてのこの世界は、
   フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、
   異なった位相の世界として存在している。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)


   生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、
   時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、
   現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域は、
   空間性(空間化の度合)によって抽出することができる…

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P50)


   人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は…
   生活史と精神史との歴史的な累積を、
   心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、
   この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P70)


2016年11月21日 (月)

<価値>を生む、対幻想2

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想に非肯定=否定が介入、生成して認識がはじまります。母子一体(自他不可分)の状態からの分節化であり、ここに他者、世界、自己が生まれます。


fr  2015年5月17日 (日)<内コミュニケーション>のトレードオフ

 “想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。

 

リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。

       -       -       -

 あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?

 さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。

 ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。

   

相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
   一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

   

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
   母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。


       -       -       -

fr  2016年4月 2日 (土)<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?


fr  2016年5月 6日 (金)認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

 

自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』

 

「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>


fr  2016年5月20日 (金)<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。

2016年10月29日 (土)

<価値>を生む、対幻想

対幻想は<個別的現存>でしかない人間が<人類>であることを可能にするもの。シンプルにいえば人間にとっての根源的な価値を産出するもの。そして認識の初源になるものです。認識は対幻想から遠隔対称化する…と考えてきた過去のものを並べてみました。


fr  物語の生まれとはじまり

●母との物語はいくつかのパターンに分けることができます。

●そのパターン化する以前、分岐する前の基本となる認識(感情、気持ち、思考などの原点となるもの。数学でいえばゼロの状態に相当するものです)があります。

●このゼロの状態が減算され微分されてパターン化し分岐します。
 自分が全面肯定される(ハズだ)という<対幻想>=<時点ゼロの双数性>が否定されることによって拡散するわけです。

●対象に投映された<自己が全面肯定される(ハズの)志向性>が、否定(去勢)されることによって拡散します。

●(自己)肯定のイメージが微分されるワケですが、この時絶対に微分されない拡散されない領域があります。前述にもどれば否定(去勢)されない領域があります。
 それは自己の観念からいえば対象に投映された時に自覚できない領域です。自覚できないために否定されることもありません。(否定を自覚できない)
この領域に対する否定は身体的な否定に相当し、それは観念にとって依拠する環境そのものの否定になります。


fr  『心的現象論序説』 P30

自己観察によって確かめられる部分でさえも、
自己が自己に対置されるという幻想的な一対一の分化が、
観察の前提をなしている。


fr  『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
  第5章 脳と心  1―構造としての階層  (4)前頭葉  P153

脳の最終の統合領域である連合野が脳のなかに一つではなく、
いくつか同時にあらわれたことは重要である。
なぜかといえば、
連合野どうしのあいだに想念のやりとりがおこなわれうる基礎ができたからである。
考えることの本質は、自分が自分に問いかけ、これに答えるところにあるならば、
ここにはじめて脳は考えることのできる存在となったわけである。
観念の対話があって、はじめて認知や判断といったいわゆる知能とよべるはたらきが
生まれてくるのであろう。


fr  2007年2月17日 (土)独解=<ゼロ>の発見

 人間は個別的現存でしかないのになぜ人類が成り立つか?という若きマルクスの疑問に、吉本さんは<対幻想>という根拠を示しました。ニューアカに影響された自分は、それを<時点ゼロの双数性>とニューアカ風に表現してみました。相互に全面肯定=絶対認知される(ハズ)という幻想と、非肯定性による対幻想(全面肯定性)の非対幻想化(遠隔化)が考えられます。遠隔化された結果として共同幻想や個人幻想の属性を措定する吉本理論のスゴサは驚くばかりです。アルチュセールが毛沢東の矛盾論からインスパイアされたように、フーコーなどもこういった(理論化された)論理的な機序を知りたかったのではないでしょうか。


fr  2011年3月25日 (金)『共同幻想論』・祭儀論から考える

P139
…<死>では、ただ喪失の過程であらわれるにすぎなかった対幻想の問題が、
<生誕>では、本質的な意味で登場してくる。
ここでは<共同幻想>が、社会の共同幻想と<家族>の対幻想という
ふたつの意味でとわれなければならない。

 ここに対幻想と共同幻想が逆立する契機があります。
 <生誕>をめぐる村落の共同幻想(公的関係)と対幻想(親和的関係)は相互に移行可能であることが指摘されています。家族は親族や部族に遠隔化しやがて民族や国家まで至る可能性もあるとともに、一対の男女はそのすべての起源たりうるからです。


fr  2011年7月15日 (金)『共同幻想論』・対幻想論から考える

P176
…<対なる幻想>はそれ自体の構造をもっており、
いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、
集団の共同的な体制と独立しているといってよい。

共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった水準に分離したとき、
はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が
おおきく登場するようになったのである。 
もちろんそれは近代以降の<家族>の問題である。

 対幻想は集団からは「独立している」という断定はわかりやすく、多くの読者が共有する対幻想への理解がここにあります。それはまた同時に共同幻想そのもの(への理解)を難しくしているものでもあるでしょう。親(子)に対する対幻想(家族)と男女間の対幻想(性)は異なりますが、それは時間への関係性の違いです。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。


fr  2011年9月 8日 (木)『共同幻想論』・罪責論から2

P214~215
<父>はじぶんが自然的に衰えることでしか
<子>の<家族>内での独立性をみとめられない。
また<子>は<父>が衰えることでしか
<性>的にじぶんを成熟させることができない。
こういった<父>と<子>の関係は、
絶対に相容れない<対幻想>をむすぶほかありえないのである。

 ルソーからフロイトまで欧米思想に散見するエディプス・コンプレックスの解と(も)なる認識でしょう。
 「絶対に相容れない<対幻想>」の設定が吉本理論らしい原理と圧倒的な何かを示しています。{相容れない<度合い>}(あるいは{相互に肯定される(ハズの)<度合い>})をバリアブルなものとして設定すれば遠隔化の度合いを示すものとなり、その究極に共同幻想の極点が想定できます。
 この父子相伝の西欧的に表象しがちな関係ですが、神話からアニメまで多くの物語がベタにこの構造をそのまま展開させています。またリアルな権力(者)のヒエラルカルな構造(関係)も同様なものとして考えることが可能かもしれません。


2016年9月17日 (土)

エディプス・コンプレックスが届かない無意識の<核>

 母から生まれ、母に育てられる人間の存在のあり方と比べて、子にとって父が意味をもってくるのは社会化し始めるころから。吉本的あるいは母型論的には外コミュニケーション以降だと考えられます。それ以前の、胎内から言語以前までのコミュニケーションは代謝なども含む内コミュニケーションとして最重要のもの。この内コミュニケーションこそ無意識とその核を生成し形成するステージでありレイヤーであり、<大洋>という言葉で表された状態になります。


   問題児を抱えた家族から委嘱されれば、
   非常に厳しい訓練を課して、
   父親代理人となって立ちふさがる…
   …
   それで解けるのは、たぶん心の表面層と中間層のあいだくらいまでだと思います。

                                                                                      (『人生とは何か』P61)


 ファザコンからアプローチしても、その分析は深くならず「無意識の核」までは届かない…把握でき解決できるのは「表面層と中間層のあいだくらい」まで…。このシンプルですが、とても大きな意味のある指摘は、吉本隆明が無意識についての思索を巡らせた90年前後のものと思われ、まだ中途のもののようです。一時期流行ったスパルタ式の教育や訓練セミナー的なものについての論評の一部。



 ファザーコンプレックスは有名な言葉であり概念ですが、現実にどのような意味を持って心理や精神医療の世界で使われているのでしょうか。

 日本のポスモダ、ニューアカでもファザーコンプレックスは重要な概念でした。資本主義のパラノドライブをドゥルーズ=ガタリを手がかりエディプスコンプレックスで説明してみせたニューアカのスタートは、バブルへ突入する時代を素直に反映した上部構造現象ともいえます。日本初のラカンの解説でもあった『構造と力』がニューアカの聖典なのだから当たり前かもしれませんが(同書の時点ですでに浅田彰氏はラカンの限界を指摘しているのは、さすがの才だと思われます。しかし、それに注目した論者がいないというのも日本のリアルなのでしょう)、人気のある何名かのラカニアンによる仕事も貴重だと思います。システム論との融合のような試みもあったようで、その元気さは思索を遊ぶ人たちにスノビッシュな刺激となりました。ウオール街の占拠デモを計画した共産主義者のジジェクも日本ではラカニアンとしても人気があります。

           
構造と力―記号論を超えて

著:浅田 彰
参考価格:¥2,376
価格:¥2,376
OFF :  ()
   


   フロイト的に云うと、無意識の世界、あるいは前意識の世界でもいいんですけど、
   それを3つの層に分けるのがとても分かりやすいと考えています。
   つまり、1つは表面層、1つは中間層、もう1つは核です.
   非常に奥深くこしらえられたその人の無意識の核というものがあります。

                                                                                     (『人生とは何か』P25)


 ラカンは無意識は構造化されているとしていますが、どう構造化されているのか説明がされていないようです。吉本隆明=心的現象論的には、『人生とは何か』『心とは何か』などで無意識を3つの層に分けた思索がされています。ある意味で汎用的な思索の枠組を当てはめた試論ですが、それだけに、思索の方法に長けている吉本らしく間違いのない展開がなされています。

 無意識の領域と現実界の間に境界領域を設定し、現実界側に意識の領域が設定されています。無意識の領域には現実界に接したところから順に表面層中間層が設定されています。現実界側に意識の領域が設定されているのは現実を認識しているものとしての意識という意味でありラカン的な意味での現実界ではないということなのでしょう。

 ファザーを対象化した場合の分析と解決への経路の限界は、当然ですが全ての人間とファザーより先験的ではるかに質的に深い関係であるマザーとの関係への探究によって解(説)かれていきます。 『人生とは何か』『心とは何か 心的現象論入門』『母型論』では母子関係からの分離、大洋からの析出が言語の獲得をはじめ人間が人間であることのエビデンスであること、その困難さそのものから描かれていきます。



           
人生とは何か

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,782
価格:¥ 1,782
OFF :  ()
   

           
心とは何か―心的現象論入門

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,782
価格:¥ 1,782
OFF :  ()
   

           
母型論

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,944
価格:¥1,944
OFF :  ()
   

2016年8月18日 (木)

現代という作家を明かす…『村上春樹は、むずかしい』

気鋭の批評家東浩紀氏が「吉本(隆明)派」と呼んだのが加藤典洋氏。一般には早くから村上春樹の研究家として知られている有名な文芸評論家です。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。
「指示表出と自己表出の可能性」から

 吉本隆明の読者であればアレ?と思うかもしれません。たしかに、ちょっとヘンですが間違ってはいません。指示表出と自己表出という『言語にとって美とはなにか』の代表的な概念装置からすると足りないもの?がありますが、機能分析的に使うならOKなのではないでしょうか?

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。
「指示表出と自己表出の可能性」から


 加藤典洋氏がまるで吉本隆明のように村上春樹を批評しているのが『村上春樹は、むずかしい』だとすれば、吉本隆明がまるで文芸批評そのもののように春樹ワールドを分析してるのは『ハイイメージ論』で読むことができます。

 文芸ジャンルのプロからはdisられシカトされたのが村上春樹の初期でした。デビュー時に春樹ワールドに魅了され、その文体をマネしたり分析したりしていたのはコピーライターやサブカル系のジャンルのマガジンであって、文芸ジャンルではありません。サブカルの領域では“エヴァンゲリオンの登場で文芸は終わった”という説得力のある言説が流れいて、当然だと思っていた人は少なくないでしょう。事実、当然です。

 明治以来の12音階への洗脳教育のなかで登場したTK=小室哲哉の登場でもそうでした。小室氏も著名な音楽家や作曲家から激しくdisられたのです。それは“音楽の理論にあっていない”という爆笑ものの非難に象徴されていました。自らの依って立つ12音階理論だけが正しいのだというのでしょう。そこには―あらゆる理論は現実から抽象されるもの―という科学の初歩がありません。ただ自分にだけ都合のいい狭量な宗教になってしまっています。


           
村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

著:加藤 典洋
参考価格:¥864
価格:¥864
OFF :  ()
   

 加藤典洋氏はきっぱりと入り口で宣言しています。

     世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、
     彼は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、
     大事な存在なのだと知らしめたい。
(『村上春樹は、むずかしい』「はじめに」P13)

 これは本書で繰り返し指摘されるある事態を示しています。
 それは東アジアで村上春樹が読まれているにもかかわらず、その東アジアの知識層には春樹もそのワールドも支持されていない、評価されていない…という事態です。

 この指摘は“左右両翼から十字砲火にあった四面楚歌の評論家”と自称する加藤氏ならではの分析であり批評だからこそ可能なもの。そして加藤氏と同じ知識層に対して自覚を促すクリティカルとなっています。エヴァンゲリオン以降の世代であればシカトしておけばイイような相手を丁寧に導こうとする氏の真面目なスタンスは、常に自らを振り返りつつ思索している氏ならではのものからかもしれません。

 大衆と知識層の乖離は吉本隆明にあっては大前提であり、社会を見るときの基本となるものであることは吉本の読者には常識でしょう。資本主義のすべてのプロダクトを指示表出として批評したハイイメージ論では、すでに知が無効であること倫理がないこと…が基本的なモチーフであるとともに結語でした。それは商品という指示決定に対して自己確定するとはどういうことなのか?それは可能なのか?それは正常に行われているのか?その最適解はあるのか?という高度資本主義の圧倒的なボリュームの環界をめぐる思索でした。それが知識層が誰もタッチできず言及することさえできなかったエビデンスなのでしょう。

 そこには大衆の指示表出を自己確定できない知識層の姿があります。

2016年1月31日 (日)

すべては心からという問題提起…32年以上も継続した『心的現象論本論』

●人間は心=観念のある生き物…
 政治も経済も科学も宗教も、人間の心が無ければ機能しないし、そもそもそういうシステムや装置はこの世界に生じない。ただの紙切れや金属片に<通貨>としての価値を認め、それを使って生活を営み、それのために働くのも<心>があるからで、時には<国家>のために戦争という名目で人を殺し、あるいは革命やテロというカタチで国家や体制に戦いを挑む。あるいは恋愛や家族のために国家を捨てることもあるし、命をかけて争うこともある。
 すべての原因は<心>にある。そして、すべてに<心>が(反映されて)ある。本書はこのシンプルな事実を突きつめ続けた32年以上にわたる未完の記録。

 「共同幻想」で革命を説き「対幻想」で家族を考え「自立」「大衆」近年では「ひきこもり」などのコトバで人間を考え続けた戦後最大の思想家。現代思想の張本人?であるフーコーやボードリヤールとの討論を通して絶賛されつつ、あくまで在野をつらぬいた思想の巨人。今や世界的な作家となった吉本ばななの父でもあり、頑固な東京下町のオヤジでもある人。本書はそういう人の未完に終わったライフワークの成果ともいえるもの。

●うつ病から解いていく驚異の展開…
 本書のメインのひとつがうつ病への緻密な解釈。本書は『本論』であり『序説』とは趣きが違っているけど、見事に『序説』から演繹された内容となっています。序説では読解に高度な抽象力が問われ、本書ではより簡明な(理論の)展開となって(これでも!)丁寧に読めば読者の思索を刺激してくれるものが全ページで確認できます。

 たとえば冒頭にある「目の知覚論」では縄文土器の文様から直線がプリミティブな抽象であることが指摘されています。その直線の形成は知覚の感情によることが示され、前段では心理には錯覚など無いことが説明され、そのように見え、そのように見ようとする視覚の必然性が説明されています。ここに感覚から観念に至る最初のルートが明解に示されているワケです。
 この最初の16頁分だけで、この書がただものではないことが解るでしょう。あるいは心理学や各種の認識論、哲学などジャンルを超えたあらゆる分野でとてつもない衝撃やコンプレックスが、しかし顕在化しないで沸き起こることが予感されるかもしれません…。
 ただ、難解で有名?な『心的現象論序説』がプロ?からは論評さえされないことで読者に継承されてきたように、今回も何の論評も無いのかもしれません。少なくとも、論評にはそれなりの能力が必要だとすれば、それは理解も予測もできる事態なのかもしれません。

 次の「身体論」ではいきなり「古典ドイツの身体論」としてフォイエルバッハへの孝察からヘーゲルの観念論までの広がりを射程とする探究がはじまり、緻密な検討と驚異的な広がり、それらを支えているオリジナルな観点への自問自答が繰り返されています。
 そして『心的現象論序説』『ハイイメージ論』『アフリカ的段階』などで示されてきた欧米思想への孝察とその成果が縦横無尽に駆使され、フロイトからライヒ、ドウルーズ・ガタリからラカン、三木成夫からホログラフィ理論までが引用され検討される世界は単なる読書家にもスリリングです。

●<手>からすべてを考えたり…
 よくカントの言葉として「手は外部の脳だ」といわれますが、本書の<手>への孝察は哲学的な瞹昧さが無く、人間という観念をもった生物の、その<手>という器官が認識と行動を媒介し統御し内化することを機能としていることが解き明かされます。<手>の知覚は触覚だけだが、<手>は<了解>するものだ…とマルクスが1つの<商品>から資本主義のすべてを読み取るように、ひとつの器官である<手>が孝察されます。
 人間が自然に働きかけるのが<労働>であり、それを通して<自己実現>し、その成果が<商品>だとするのがマルクス。本書では『資本論』や進化論を踏まえ、認識論として哲学的に<手>が考察されています。


 <手>の特異性が<時間>の拡大と構築に関与する…


 それは外化された<了解>であり
 …個体の生涯が限る<時間>を超えようとする作用に根ざしている。


 <手>がつくりあげるのは
 物質的であっても観念的であっても<了解可能>あるいは<了解希望>であって…


 吉本隆明の手が作り上げつつあった本書は未完のまま刊行されましたが、その読解は読者に任せられています。戦後最大の思想に対して戦後最大の読解は提示されるのでようか? 「社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?」といった橋爪大三郎氏の重い指摘は…。

●この潔癖さは邪魔かも?
 『ひきこもれ』『13歳は二度あるか』『中学生のための社会科』などでまったく新しい若い読者もでてきた吉本隆明氏ですが、その理論的な成果を解説するガイドは見当たりません。団塊の世代がメインを占めるであろう従来の読者層では論壇的な政治談議が目立ちます。
 最近では渋谷陽一と糸井重里が若い読者を吉本ワールドに導く数少ない仕事をしているだけなのかもしれず、本書の刊行など歓迎できるデキゴトはありますが、ノンジャンルでラジカルな著者の思想理論やフーコーほか欧米思想家とのやりとり、本書をはじめとする心的現象論関係の成果に対する研究と検討…などは本格化していません。

 著者に失敗?があるとすれば任官しないこと?。最高学府をはじめいくつもの大学から教授への就任を求められながら著者は固辞しつづけました。もし東大や東工大の教授等の肩書きでも受ければ、<戦後最大の思想>が正式?に研究対象となり得たでしょう。ヘーゲルかフロイトか柳田國男か心理学か言語学か、マテリアルな根拠を社会科学というジャンルで問いながら、そのベースには理系のクールなスタンスがあり、用語の一つからして他者に否定されることもなかったとはいえ、問題なのはむしろ理解さえされなかったということ…。理解できなかったことを正直に認めた浅田彰氏などは小数派で多くは驚くほどの曲解や誤読から批判や否定が繰りだされました。だからこそ、多くの者による理解の可能性と思索の広がりのためにも、最高学府名誉教授なりの肩書きを受けるべきだったと考えられます。この点においては、吉本氏の潔癖さが大衆への知の可能性の障害となってしまった事実は無視できないのではないでしょうか?


           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 8,640
価格:¥ 8,640
OFF :  ()
   

ある意味、エグザンプルの多さはハイイメージ論的でもあり、最後に日本語の造語可能性を日本の古語であり基層である琉球周辺の言語(あるいは奈良時代以前の大和言葉)に求めた本書はノンジャンルの大著としても読める稀有な書籍といえるものかもしれません。

(2008/11/28、2016/01/31)

2016年1月16日 (土)

液性環境の動的平衡からはじまる…『心は遺伝子をこえるか』

 本書はポストモダンの最大の成果である<自己言及>をスタートにもゴールにも基礎にしている。もちろん著者は思想的な運動であったポストモダンに関心などないだろうが、ポスモダの当事者が何らかの解も何も出せなかったのと比べれば、本書の成果はとてつもなく大きいといえる(もちろん浅田彰氏のように何も提出しなかったことでポスモダの解というものを体現したスタンスは貴重だ)。そもそも自己言及というものを問題の基礎に据えたベイトソンなどのクラスを除けば、ここまで到達した思索はない。松岡正剛氏が著者をポアンカレーにたとえるほど評価している理由も、本書を読むと歴然だ。

   自己触媒こそは、生命の系をつらぬいている鍵となる概念であろう。
   『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
   「第一章 遺伝子は生命を機械になしうるか」「2 「心」の誕生」「(1)動物に心はあるか」(P15)

 本書『心は遺伝子をこえるか』でいう細胞間コミュニケーションは<内コミュニケーション>とオーバーラップする。リン脂質の液性環境に浸った細胞には安定と変化という相反するものが可能で、その平衡状態に対応するものとしての心的現象が想定でき、時点ゼロの双数性として設定できる。

           
心の起源 生物学からの挑戦 (中公新書)

著:木下清一郎
参考価格:-
価格:
OFF :  ()
   

 遺伝子が自己複製するためにはあらかじめ自己を<記憶>しておくことが必要であり、この記憶を<心の起源>とするのが『心の起源』だった。本書はその延長にあり、さらには考察を深め、生命にとっての心が探究されている。


 あらたにはいってくる情報と過去の記憶との照合がおこなわれ、
 ある判断がでてくることになる。それにともなってもう一つ、
 照合にさいしての満足度のようなものとして、感情があらわれてくる。
 判断と感情の最初の出現は、記憶の形成とおなじくしていて、そのあと、
 判断の複雑さが増していくにつれて、感情の複雑さもその度合いを増していくというように、
 心はしだいに複雑になっていく。

             『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
             「第一章 遺伝子は生命を機械になしうるか」「2 「心」の誕生」
             「(1)動物に心はあるか」(P9)

           
心は遺伝子をこえるか

著:木下 清一郎
参考価格:¥2,592
価格:¥2,592
OFF :  ()
   

 感情や気分といったもっとも人間らしいものについてキチンとした定義ができない人文科学に対し、本書はハッキリした解を示してもいる。
 過去の記憶と照合したときのズレに対する評価としての<感情>や<気分>「液性環境が気分そのものになる」という明確な定義。ある特定の気分(=状態)というものは、この<液性環境>のある何らかの偏りを示すことになる。これは健康診断で最も重要で基本的な指標となる血液検査からも類推できる。血液環境は液性環境の代表的なものだ。細胞間コミュニケーションをとる液性環境を生成する最大の要因と資源は血液であり、そのさまざまな反応や変化が「内分泌系を主体とする液性の細胞間コミュンニケーション」なのだ。


           
細胞のコミュニケーション―情報とシグナルからみた細胞 (生命科学シリーズ)

著:木下 清一郎
参考価格:¥2,160
価格:¥98
OFF : ¥2,062 (95%)
   

 この内分泌系の細胞間コミュニケーションとともに個体を構成する情報システムのもう一つが神経系だ。神経系の基本的な作動である<反射>、情報のストックである<記憶>は、自らの安全・安定のために過去の記憶と現在の認識を照合する…。
 照合は判断(環境と世界に対する適・不適などの判断、思考)のはじまりであり、その結果は気分としてその時点での総合判断・統合認識を形成する…。
 具体的にはリン脂質をメインにプロスタグランジンなどの微妙な変化と増減によってその時点での状態が体現される。これがその時点での気分だ。もちろん気分は変化していく…。

 個体というシステムが平衡を維持するように自己変化するのが動的平衡であり、これは自己言及によるフィードバックを前提とするコントロールだ。

 遺伝子の自己複製と、単細胞の多細胞化という進化の過程を仔細に考察しながら、心の発生を探究する本書。

 自己表出として表出する心の由来や生成はどこに求められるのか…?

 動物の鳴声やさまざまな生物の個体間におけるサインによる交換などは機能分析はできても人間の言語の発生のヒントにはならない。

 記憶と現況認識の照合、それらを総合したものとしての概念や情報。これらの膨大なストックから特定の関係を自在に取り出すための言語。ここに情報のタグとしての言葉の生成を見出すことができる。
 詩人は自由に詩がつくれると考え、言語学者は言語があると思っている…という吉本隆明のアイロニカルな指摘。それを背理にするような言語の基本的な定義をここから考えるコトができるだろう。

 大脳新皮質での情報処理が連合野の登場により総合的なものに発展したことは重大な臨界点となる。それまで、個々の感覚からの情報を概念にまとめていたのが、複数の概念を比較し相互に参照するようになったのだ。このことによって、たとえば、猫や犬のように自分の尻尾を追いかける…ようなことがなくなったといえる。個別の感覚が常に別の感覚や認識からチェックされているからだ。
 言語の生成により人間がトレードオフしたものは、母型論的にいえばスキゾフレニックなものだが、それとは別に、ここにも人間の自己に亀裂をもたらす機会が生じたともいえる。複数の中心を産出しうる連合野の登場は複雑な情況を生き抜くための方便であるとともに、人間にスキゾフレニックな認識をもたらしたからだ。

 生物としての種が、個体(の限界)を超えて担保されるための装置として快楽を定義した本書は、ジャンルを超えて先端であることは確かだ。欲望や快楽や誘惑をテーマとしてきた思想や哲学が到達できなかった解さえも、ここにあるからだ。

2015年12月26日 (土)

対幻想論との緊張が読める―『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの』

斎藤環氏はジジェクを通してマルクスにもある程度の理解があり、ラカンの異端派を自称する臨床医であるとともにサブカル論をはじめ各種評論に活躍している。特にひきこもりの問題を提起し公的に認識させた功績は大きい。村上春樹のファンとしても、多くを専門書よりそこから学んだとするほど。デヴィッド・リンチフリークでもあり文芸からサブカル、映画を問わずノンジャンルの批評が人気。『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの』は対幻想を意識しつつ書かれたもので、吉本隆明の『家族のゆくえ』と比較すると面白い。第三世代システム論(オートポイエーシス)の影響を受け理論的に詰めた『文脈病』では「可能性の中心」を示しつつポスモダを超える自負をかいま見せてもいる。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<家族>をめぐる対幻想論との緊張が読める、かも

 06年に刊行された著者の本の中でいちばんいいかもしれない。まず読みやすい。そしてラカン派の臨床医である著者の基本的なスタンスがわかりやすく示されている。クールな著者が自らについて語っているのも見逃せないだろう。
 ところで、本書は、明らかにその基本的な部分で吉本理論が意識されているようだ。
 「家族制度を支えている幻想とは、「対幻想」ではなく、「エディプス三角」なのではないか」(P105)。酒井順子の『負け犬の遠吠え』を援用しつつ唐突に主張されるこの一言は、それだけに印象に残る。
 実をいうと「対幻想」を否定するために「エディプス三角」が主張されたこの構図は『構造と力』の再現でもあり(浅田らは団塊や全共闘世代と決別するために彼らの教科書であった吉本・対幻想を否定する必要があった。よくある世代間闘争だ)、大澤眞幸の〝吉本隆明は踏絵だった〟という指摘を待つまでもないかもしれない。
 社会の構成要素を、それは<対>(2名の関係)なのか<三角>(3名の関係)なのか....というのはフロイト以来の論議なのだろうが、この論議を現代の日本に当てはめると、それが世代間の論争になってしまう。フロイト=対=対幻想論(吉本)という団塊や全共闘世代がフォローする認識があり、ラカン=エディプス△=『構造と力』など(浅田、斎藤、etc)ニューアカ以降に支持されるドゥルーズ・ガタリ的な潮流がある(あった?)ということだ。その他に〝2名以上いれば権力が生じる〟とした宮台真司の権力論(『権力の予期理論』ほか)があり、社会システムの生成と稼働の根源に対の関係を見いだし、2名の関係で一方の人間の他方の人間への認識が一方の人間を自縛するように作用する過程を説明している。相手に対してどう対応するかを選択する時、その選択の自由によってその選択肢の構造に自縛されていく訳だ。

 P173には本書の理論的な成果が要約されている....
 「二者関係の空間こそがプレ・エディパル(前エディプス期)の空間なのである」
 「さまざまな自明性」は「プレ・エディパルな二者関係において形成される」
 「二者関係は幼児期だけのものではない」「成人して以降も、常に個人の自明性を支える空間として機能し続ける」「しばしば反復する」
 「「家族」こそは、この種の反復における、もっともありふれた器のひとつなので
ある」

 ....プレ・エディパル(前エディプス期)な二者関係による自明性は生涯反復され、家族はその器なのだ....という説明だ。ある種の読者はここでデジャブを感じぜざるを得ないだろう。なぜならこれこそが28年前に吉本隆明がフロイトを徹底的に読解しつつ独創した<対幻想>概念そのものだからだ。
 人間は「エディプス三角」を通過することで「社会化」されるが、「自明性」はそれ以前に二者関係において形成される、という説明は、そのまま対幻想論であるし、そして自明性の揺らぎこそが典型的な精神の病ではなかったか?
 ことさら吉本隆明を贔屓するつもりはないが、本書の結論は対幻想論と同じであり、それはフロイトを丹念に読んできたものなら当然にたどりつくものだ、ということにつきるのだろうか。
 著者のオリジナルな見解を読む機会は多々あり、精神分析とシステム論の融合を略るなど期待したくなる試みは少なくなく、今後も注目していきたいが、個人的には吉本理論との関係が気になった。

2006/12/26 18:47

           
家族の痕跡 いちばん最後に残るもの (ちくま文庫)

著:斎藤 環
参考価格:¥734
価格:¥734
OFF :  ()
   
           
家族のゆくえ (知恵の森文庫 a よ 4-2)

著:吉本隆明
参考価格:¥679
価格:¥679
OFF :  ()
   

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

著:斎藤 環
参考価格:¥2,808
価格:¥677
OFF : ¥2,131 (76%)
   

2015年9月30日 (水)

ベックのリスク理論を超える…『人類が永遠に続くのではないとしたら』

   村上春樹のイエローブックで有名な…といえば知ってる人も多い加藤典洋氏の著作。
   タイトルとは関係ないようですが、ズバリ吉本隆明の本です。(笑)

 ここにあるのは、マルクスにも吉本隆明にも距離を置いていたために可能になったクールな認識。あるいは日本と距離を置いていたことが<現在>への思索に余裕をもってアプローチできることにもなった、そのスタンスは、太平洋戦争中に戦争に全く影響されなかった太宰治にも通じるものかもしれません。しかし、思索はシステマチックであり、ジャンルを超えて普遍的、時代の感性をつかんでセンシティブです。また多くの論者を世代を超えて捉えており同時代のリアリティに満ちています。

 311以降やリーマンショック以降の現代資本主義あるいはグローバル経済とそれにともなうコンフリクトといった、大多数の論者が批判はできてもその後は語れず、近未来へのオルタネイティブも示せないなかで稀有な一冊…というイメージがします。数少ない思想家や思索者だけがもっている、常に方法そのものを問う、そのスタンスが深い探究となり、まったく新しい認識を生んでいます。それも思念的なものではなく、援用されている三木解剖学に代表されるようにラジカルな、生物的な説得力をもった、あるいはマテリアルでありエンジニアリングである多くの産業的な成果を引導として展開されています。導者にはビル・ゲイツやザッカーバーグといったITの立役者をはじめ、見田宗介星野芳郎ルーマンらのラジカルな問題提起を受けつつ、新進気鋭の國分功一郎東浩紀の名もあり、アリストテレスからバタイユ、ローティ、吉本隆明らが縦横無尽に援用されています。

           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
参考価格:¥778
価格:¥778

   

           
アフリカ的段階について―史観の拡張

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,728
価格:¥ 1,728

   

 吉本隆明の「アフリカ的段階」の援用にみられるように大きく人類と歴史を捉えながら、古代ギリシャ哲学以来の問題あるいはアウシュビッツでこそ提起されたものが、フーコーやアガンベン、アーレントの思索とともに考察されていきます。
 ヘーゲル=マルクス的なアプローチから否定の否定の弁証法として一刀両断にされてしまうものを、それらからフリーハンドである著者は、コンティンジェントとして丹念に考察しています。弁証法は錯誤ではないのですが抽象あるいは科学に必然な捨象の成果であって、具体そのもの、あるいはリアルの臨界そのものとは乖離する可能性があることを著者は巧みに回避できています。この回避そのものが本書の主題であるリスクのヘッジの一例でもあり、導入から語られているウルリヒ・ベックリスク理論を超えうるリスク理論の深化としての思索だともいえます。

 最後の結語を保障する世界観=人間観として心的現象論序説の有名な一説、原生的疎外についての一文が紹介されています。
 著者が控えめながら提示している<世界心情>という概念は、マルクス、コジェーヴ以来の<動物的>あるいはゾーエーとしての<動物生>に対しての大きな意味づけであり、<世界視線>への経路としての最重要な概念装置でしょう。

----------------------------------------
 最初に「ズバリ吉本隆明の本です。」と書きましたが、いわゆる吉本隆明本ではありません。吉本隆明の援用とその可能性の中に現代のリスクを超え人類の明日を見出していくもので、吉本隆明を語ることが目的ではないということです。より具体的にいえば吉本自身が現代社会のオワリを宣告したハイイメージ論の結語に対する解答になりうる内容の本だ、ということになると思 います。
 論を開くのに援用されるのは見田宗介であり、それを受けて吉本の言葉が引かれるという展開です。見田宗介に関しては吉本隆明自身が見田 さんの社会理論から解きあかしたいと語っていることもあり、意外?なマッチングと、それを視野に収めている著者の冷静で広い思索が要になっています。
 いずれにせよ稀有で貴重な本であるということに変わりはありません。現代思想を超えていく先端の思索が楽しめる読書ができます。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,188
価格:¥300
OFF : ¥888 (75%)
   
           
現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』を読む

著:真木 悠介 , 他
参考価格:¥3,024
価格:¥358
OFF : ¥2,666 (88%)
   
           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋 , 他
参考価格:¥2,484
価格:¥888
OFF : ¥1,596 (64%)
   

より以前の記事一覧

にほんブログ村

ネタ本 アザーコア

オススメ DOYO