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2011年12月31日 (土)

「アタシの…」もっとも複雑なキャラ

「アタシのことがキライでも」…から
「アタシのことが…」女神という巫女


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください

 あつこの言葉でとっさに思い出したのが新選組司馬遼太郎だった。TVでは和田アキ子があつこの言葉に対してわからんと連発していた。「なんで、こんなんいう? わからんて、全然わからん!」と困惑顔だ。司馬も和田も同じ大阪人で、このちがいは何だろうとちょっと不思議だったが、一般的にはそうなのかもしれない。新選組(の出身地域)から日本でいちばん複雑なキャラを読み取った司馬とアイドルのコメントも理解できない和田。後者が多数派なら日本はあまりしあわせではないし、歴史的事実として前者の読みはシカトされるものだからだ。

 新選組は自らが所属する共同体の政治体制である幕府のために殉じた組織だ。しかも幕府は新選組に報いない。この農民出身の武装勢力を江戸を救うための生贄のように扱ったともいえる。
 新選組は幕府のために戦っているのに江戸に入ることを禁じられている。そのために江戸の外延である武蔵野を転々としながら戦い、死んでも幕府の墓はおろか江戸に墓を作ることも許されていない…。

 新選組は自らと同じ農民出身の薩長官軍と戦いながら何を考えていたのだろう。
 この思いと行動と沈黙の行為の全体像に司馬は日本でいちばん複雑なキャラの発現を見出している。

 甲府城は江戸防衛の要だ。この甲府城をめぐる戦いで新選組とそれを支える地域のエートスキャラが象徴的に表出する。

 甲府城へ向かう新選組は途中いろいろなところで歓待され、飲めや歌えやするうちに甲府城には官軍が到着してしまう。新選組の拠点である多摩や武蔵野から甲府城までは1、2日でたどり着く距離にあるが、連日の各地の歓待で数週間もかかってしまったようだ。 これは何を意味しているのか?
 新選組と歓待する農民は阿吽の呼吸で進軍を自ら遅らせたのだと考えられる。自分たちと同じ農民平民出身の官軍に勝たせたかったのではないか…。たぶん語られない真実としてこれが正解なのだろう。

 幕府に殉じながら報われることはなく、官軍を勝たせながら許されることがなかった新選組はある意味で沈黙の存在。勝利した薩長の明治政府下、新選組に関して詳述はし難いなかで、やがてその周辺からは主権在民の憲法が主張されることになる。この自由民権運動が新選組とゆかりのあるものであることはあまり語られない。
 明治をひっくり返して「おさまるめい(「治」「明」)」と揶揄した江戸の人たち。薩長と公家が発案した新しい江戸の名前「とうけい」。この漢学をひけらかした気取った名前も江戸の猛反発を受け、明治17年とうとう東京駅の駅名プレートに「とうきょう」(「東京」)が正式に掲げられ、「とうけい」は消えた。

 新選組はキラわれても江戸を救ったし、江戸幕府方も新選組を生贄にしながら江戸を守った。

 幕府の有能な官僚を処刑したために能吏がいない明治政府は森鴎外に執拗に仕官の依頼を繰り返すような状態だった。軍部でも薩長閥は太平洋戦争最後の陸軍大臣阿南まで続いたという指摘もあるほどだ。統制派皇道派などの派閥の原点に薩長閥問題があったのは事実で、政府の統制以前に軍部内のコンフリクトは軍部そのものの力を増大させてしまっともいえる。226事件のように地方と都市の対立、農本主義と産業ファシズムの対立といった緊張も全体として日本を強大な統制国家へ向かわせる契機になってしまっている。昭和13年には国家総動員法(ファシズム法)が制定される。

 明治維新で東京への行幸という建前だった天皇は昭和天皇の崩御をもって終わり、平成天皇即位で東京は正式に都になった。

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東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

著:東 浩紀 , 他
参考価格:¥1,218
価格:¥1,218

   

           
思想地図β vol.1

編集:東 浩紀
参考価格:¥2,415
価格:¥2,415

   

 地方と都市それを象徴する東京という問題がある。逆にいえば東京という問題を解析すれば、すべてが把握できる可能性があるとも考えられる。『東京から考える』にはそういったスタンスと可能性があった。
 北田暁大単著での続編を断念したのも象徴的。東京の問題を考えられる人が少ないという証拠だからだ。オタクの問題というのは東京の問題”と早くから見切っていた東浩紀がここでも鋭い。

 あつこのコトバは、日本でもっとも複雑なキャラと司馬が評した江戸=東京周辺のエートスからはデフォルトに近いもの。それがわからないで何がわかるのだろう?

 逆にそういったアプローチからでも東京(的)なるものを探求できるはずで、北田の断念は惜しいものだと感じられる。東浩紀がいう一般意志2.0は語られないものであり、意識した語りではないものであり、相反する個人の意志を相殺したあとで残るもの…だというのならば、コンフリクトしつつ圧倒的なプレゼンスを示す東京のエートスというものを対象として想像したくなるのは禁じ得ない。一般意志2.0そのものに極めて近似したものとしての東京。あるいは一般意志2.0に近似するがゆえに解りにくい東京がココにある。

 ソ連時代からモスクワ市民権が特別であったように中国も上海や北京の市民権は特別でもある。ところで東京は特別か? どこが特別か? そして大阪は特別を目指すのか?

 意味不明に人を魅了する、幻惑する、誘惑すること以外に東京が特別なところはないだろう。しかも東京への誘惑はその人間の欲望の鏡であってそれ以外ではない。東京は特別だがその原因?は東京にはない!? 東京をめぐる思索は、たぶん無限だ。

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東京にはレイヤーのようにオーバーラップされ同一視されている問題がいくつかある。

 1.東京が都市であること。
 2.東京が国家であること。
 3.東京が地方であること。

まず大前提としてこの3つの峻別が必要だ。逆にいえばこの3つの混同に東京(への)幻想の根拠もあるのだろう。東京学(参考に『東京学』)というものは東京の存在に反比例して小さく、また7割以上が地方出身者ともいわれる東京の構成員の複雑さそのものが幻想の東京をますます肥大化させている。そしてすべてがデフレトレンドなのが東京(都市)の特徴かもしれないが…。無方向無意味無制限な多弁が他者にとって意味を成さないように、あらゆる意味を成さない沈黙から感受し考察する以外には東京へのアプローチは困難だ。だが個人にとって沈黙は幹だと吉本隆明が指摘する(『日本語のゆくえ』東工大講義「芸術言語論」から)ように、個人の沈黙や意味不明を考えるところに唯一の可能性があるハズではないのか。

2011年12月27日 (火)

「アタシのことが…」女神という巫女

「アタシのことがキライでも」…から


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください


 …このあつことは違う、より本質的に巫女タイプであるメンバーがいる。
 AKB48初期にあつことともに2トップとまでいわれた小嶋陽菜こじはるだ。
 彼女は小学生の頃からレギュラー番組を持つほどのプッシュと人気があり、業界歴は長い。天然とも計算ともいわれるキャラはプライベートでは誰にでも好かれるもののようだ。だがこじはるは言葉が巧みでもなくパフォーマンスもおとなしい。NHKのドキュメントで目標をきかれて「このままでいたい」とだけ語った彼女には、このまま/ではないところでは自分が通用しないことへの自覚があるのかもしれない。
 同じドキュメントで「永遠のアイドル「考え中」と答えたのがゆきりん柏木由紀)とまゆゆ渡辺麻友)。理由はちがっても<いま/ここ>を全面肯定しそこに大きく依存していることへの自覚では、この3名は同じなのだ。AKB48を自分の夢の実現のためのステップととらえるその他のメンバーとの際立ったちがいがここにある。今の姿が、AKB48であることが…目的である者と女優や作家や声優になることが目的であることのスタンスのちがいだ。この3名の順位が上昇したのはAKB48的なものが評価された証拠だろう。

 逆に順位を下げたものもいる。絶対に崩れないはずの神7から板野友美ともちんが脱落し、秋元康が10年に一人の逸材という松井珠理奈じゅりなも順位を下げた。AKB48を知らない人からも容姿やファッションが評価されるともちんはその分だけAKB48的ではないのかもしれない。オリジナルなAKB48よりプロ志向が強く粒ぞろいともいえるSKE48はAKB48が初めて初週ミリオンを達成した頃にはavexへの所属が決定していた。SKE48で小学生デビューでもあったじゅりなはドキュメント番組まで作られている。こういうプロぶりがAKBらしくないと評価された可能性もあるのかもしれない。

 象徴的なのは高橋みなみたかみなの順位だ。
 秋元が「akbとは高橋みなみのことである」という高橋みなみ=たかみなもワンランク順位を下げた。これは「会いに行けるアイドル」からマスメディアの人気者でありミリオンを連発するようになったアイドル(プロ)への変遷を象徴しているだろう。予定調和を避けたい秋元は誰でも会いにいけるアイドルとマス・メディアに乗るアイドルとのきわどいバランスをキープしつつAKBをプロモーションしているようだ。「たかみなの順位に注目している」…総選挙の直前に秋元は多少緊張しながらそう答えている。たかみなの順位の変化は圧倒的にマス化しはじめたAKBの現状をそのまま反映したものなのだ。そしてこじはる、ゆきリん、まゆゆの順位の上昇はAKB的なものへの支持が一般化したことを示しているのだろう。AKBのスタイリスト茅野しのぶがNHKの「東京カワイイTV」で今年はオタクがメジャーになると指摘(宣言?)したのは勝利宣言でもあるかのような気がしたほどだった。それがオタク的なものAKB的なもののメジャー化という避けられない矛盾をともなうものであることもたしかだ。

 順位を急上昇させたのが指原莉乃さしことゆきりん。どちらもTVにレギュラー番組を持っている強さもがある。ヘタレとして人気のさしことお天気おねえさんとして世代を超えて知られているゆきりんはそれぞれファンを急拡大させた。さしこは実験番組ではありながら異例の放送期間の延長までした冠番組の最終回で、お父さん番組終ちゃった…と泣きながらコメントしたラストはベタもネタも超えてある意味リアルだった。AKBのリアルというものにシンクロできるのがファンなのかもしれない。

 19thシングル選抜じゃんけん大会では優勝し「チャンスの順番」で初センターをゲットした内田眞由美うっちーへの評価が興味深い。ここでセンターになれなかったらAKBを辞めようと思っていたといううっちーのコメントに対して、そのネガティブさを批判する意見が殺到し、先の選抜総選挙でも順位は圏外にとどまった。あくまでポジティブでいくのがAKBファンなのだ。

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 こじはるは同期や同世代以外とのコミュニケーションが少ないらしい。レポートなども上達?しない彼女はどうも言葉によるメッセージも稚拙だ。「このままでいたい」という彼女は「わかってほしい」ともいう。演技が大根とも評される北川景子と同じような悩み?をこじはるも持っている。女性たちから女神ともいわれる彼女の容姿はメンバー間で彼女の取り合い?になるほどだが、新橋駅前でサラリーマンのオヤジにインタビューすると驚くほど「こじはる!」「はるにゃん!」一色でもある。このことが物語っていることは意味深い。有名お笑い芸人が深夜に出待ちで待ち伏するほどの人気なのだ。またプロのファッション評論家が驚くほどファッションセンスがいい。このセンスの良さはAKB全体100数十名のなかでこじはる、篠田麻里子まりこ、ともちんの3名がダントツだ。

 容姿とセンスそして歌唱力にめぐまれながらも言葉に巧みではなくパフォーマンスが弱いこじはるには本質的に巫女的なものがありそうだ。占い師に外見に魅力があって(も)中身は全然何もないと断定されるところが、ある意味まるで巫女なのではないかと思わせたりもする。巫女は共同体の予期の入れ物であり期待の鏡であって主体性があってはならないからだ。

 冗舌な巫女は信頼されない。なぜならそれは知識人だからだ。言葉巧みである知識人は常に言葉と知見のチェックを受ける。それが彼らの運命だからだ。言葉のすくない巫女たちは周囲をミメーシスするようなパフォーマンスを日頃から求められる。それが彼女らの役目だからだ。巫女から知識人への変遷は如実に言葉に現れる。このことをベースにした吉本隆明の詩論は、ここまでも射程においているといえるだろう。

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 プライベートでは「暗い」と自称するあつこやたかみな。AKBがなかったら自分らには何もなかったともいう。結婚なんて想像もしないとも。彼女らにあたえられたステージはより普遍性を増しつつ拡散する運命にある。ただ共同幻想論でいう巫女と異なるのは家ではなくともいつでも帰れる劇場があることかもしれない。会いにいけるという対幻想の束の間の充足に惹かれるファンと、応援してもらえるという巫女たちのゲームをビジネスモデルとしてAKBは生まれたのだ。

 現在メンバーは恋愛禁止をはじめとしたいくつかの掟のもとにある。注目され期待されていた数名のメンバーや研究生らがAKBを去ってもいる。ステレオタイプにさまざまなオタクを集めてつくった中野腐女シスターズが音楽活動を停止するいまAKBはメジャー化という根本的な矛盾へ向けてダイブする運命にあるしそれしかないだろう。NMB48が所属の吉本興業から?と評価されだしたらしいが、メジャー化を指向するのがあたりまえの世の中で、AKBに求められている課題は小さくはない。普通の女の子に戻るしかなかった伝説のアイドルグループ、キャンディーズ。女子大生ブームをブームで終わらせてしまったオールナイトフジ。それなりの結果を残したおニャン子クラブ。このいずれとも違った展開が期待されるはずのAKBの今後は予想がムズカシそうだ。

 学者が書いたあるAKB分析?本でもこじはるは名前が出てくるだけでまったく考察されていない。理由はカンタンで単に考察できないのだろう。それほどこじはるの手がかり?となるような表出が少ないのかもしれない。しかしそれこそがある意味で巫女的なものであるとすれば、共同幻想論的なものが吉本にしか書けなかった証左でもある。誰にも明らかな手がかりがなければ考察できないような能力やスタンスで何が考察ができるのか?

  巫女はこのばあい
  現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、
  共同幻想の普遍性へと雲散していったのである。
『共同幻想論』

 こじはるだけが恋愛禁止を解かれる可能性について秋元はどこかで触れている。その意味するところが巫女的なものからの離脱であるとすれば、時代はそれだけ進歩したといえる。雲散することなく日常への平穏な着地を見送ることをできるシステムを秋元は<卒業>として設定した。巫女というノンバーバルな表現主体をプロデュースする秋元は自覚なき(古代の)知識人といえるかもしれない。

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 AKB48からのスピンアウトユニットでこじはる、たかみな、峯岸みなみみぃちゃんの3名で構成されるno3bがある。3名とも歌もダンスもうまいのは当然、ガチャンピンともニックネームされるみぃちゃんの歌唱力はバツグン、たかみなはもともとソロシンガー志望、AKBオーディションでプロを感心させたこじはるの歌。最大の特徴は3名のキャラがバラバラなこと。最強ユニットといわれる理由はそこかもしれない。20年後も芸能界に残ってると秋元が保証するみぃちゃんはトークが上手くAKBメンバー中では頭の回転が早くて一目置かれている。このno3bというたった3名での構成員の幅のひろさがポイントだ。AKB48初期にあつことともに2トップを飾ったこじはるとAKBの顔になりつつあったたかみなをあわせ、ダークホース的にみぃちゃんを組ませたユニットは、AKBをめぐる情況をある意味で打開していった。ただのアキバローカルな存在?とも思われかねなかったAKB48がメジャー化への意志を示した第一歩にみえた。権力が2名でも生じるように、「多様性予測定理」は3名でも発現する。

 こじはるの雰囲気に恐れをなして1年間も口をきかなかったたかみなと、こじはるに一生けんめい話しかけ続けたみぃちゃんとこじはるのユニット。no3bはいま仲がいいことをひとつのウリにもしているほどだ。<純粋ごっこ>と吉本が指摘した青春期ならではの友だちの関係をトレースすることは最大のSPかもしれない。ジジェクが現在というものを<ソーシャルまで売りやがって!>というのはきわめて正しいだろう。問題は買えるかどうかなのだから。

2011年12月26日 (月)

「アタシのことがキライでも」…から

「アタシのことが…」女神という巫女


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください


 6年前に観客7人の劇場でスタートした彼女らはいまやミリオンを連発する。
 その神7とも呼ばれるメインメンバーのセンター、絶対エース前田敦子の言葉に客席の秋元康も涙ぐんでいる。

 117万票を集めた選抜総選挙は政治的な議員選挙よりも大きい。

 SCやコンビニ1社の売上が弱小国家のGDPをはるかに超えるように、ここでは信用もマネーもそしてさまざまな影響も想像以上に巨大なのかもしれない。この得票を超えるような規模の政治的な選挙など数えるほどしかないだろう。

 そこで絶対エースと呼ばれる彼女=あつこは1位に返り咲いた歓喜の中で、涙声から絞りだすように言った。そこにはどこにも勝ち誇るようなおもむきはなく、AKBという共同体のためにだけ渾身を込めて伝えようとする彼女の姿があった。

 この夏まで…とメンバー自身が予想していた人気は、その夏までに大ブレイクしてしまった。

 他のメンバーのファンに嫌われる覚悟と、AKBという共同体を至上のものとしているあつこの思いがそのままの言葉はシンプルだ。自分とAKBをトレードオフしようとするこの態度は共同体にとっての巫女のものと同じ。さかのぼれは生贄のニュアンスとも近似する。

 自分がキラワレてもいいからAKBのことをキラワナイでというスタンスは、共同体をめぐる巫女のように、自らの(運)命がトレードオフされている。
 ファンにとってアイドルは多少でも巫女的な趣きがあるが、所属するグループにとっても巫女的であることを彼女は自ら示している。それがセンターの意味であり絶対エースの価値なのだろう。

 選抜総選挙での投票権はCD等に付いてくる。そのために投票目的での大人買い?が多数いるのでは?と一人一票の公正な選挙ではないという批判がTVキャスターなどからあった。あつこと1、2位を争った大島優子ゆうこはいう。票はアタシたちへの愛です…そこには愛が強ければ何票入れてもいいはずという解釈もアリで、ファンの喜びとともにメジャーなメディアへの反駁への共感もあり会場をわかせた。子役時代から業界が長いゆうこならではの政治的とさえ思えるレスポンスの説得力は小さくはない。あつことは対照なゆうこという存在もAKBの幅のひろさを示している。実際には売れまくったCDの数と比べれば投票は少なく、大部分のCDは聴くために買われたことが数字上証明された。音楽としての正当な評価もAKBを支えていることになり、彼女らのメジャー化は本物であることが確かめられたといえる。

 今年は結局年間トップ5を独占してしまった。

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 「大声ダイヤモンド」が耳に残り、「Beginner」のセンター別バージョンのプロモに興味を持ち、「RIVER」を思い出し、「桜の木になろう」に惹かれた頃にはメンバーの名前を憶えてしまっていた。しばらく前までたかみなとゆうこの区別がつかなかったのが信じられないくらいだが、見納めにふさわしいと思ったのは「ヘビーローテーション」のTVプレミアヴァージョン。センターゆきりんSKEフロントと走り隊7というフォーメーションだった。来年のフロントメンバー推し企画だろうけど。

  巫女はこのばあい
  現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、
  共同幻想の普遍性へと雲散していったのである。(『共同幻想論』

 雲散していく先を探していくハイ・イメージ論は早すぎた批評だったのか?
 いまこそオンタイムのハイ・イメージ論にリスペクトしつつ、AKBを観たり聴いたりしていて気になったのが選抜総選挙のあつこのコトバだ。

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 一般意志が正確で強固なのを論理的に数学的に証明したとしてスコット・ペイジの「多様性予測定理」「群衆は平均を超える法則」『一般意志2.0』で紹介されている。
 AKB48はメンバーの幅とそれをフォローするファンの幅が広く、この2つの法則があてはまるサンプルとしてもピッタリ。昔?プロのヒット予測が当らなくなり(的中率50%以下)CDの売上がダウンする中でTKは登場して大ヒットを連発した。この時のプロの論者によるTKへの批判や非難は単に自己防衛か嫉妬やヤッカミだが、そもそもプロの予期が当たらないのは原発事故でも確認されてしまった。
 ネットではジャスミン革命から直近の話題まで特殊意志があふれている。そこから一般意志を抽出することは困難ではなく、その可能性にかけた『一般意志2.0』の示すものは大きいし、明るい。選抜総選挙ほどの票も集まらない政治選挙の意義はホントウにないのかもしれないし、巫女が発現させたものがリアルな政治を超えるのはありうることなのだ。
 共同幻想では推しメンとファンの関係を語れる、一般意志はそれが政治や国家のあり方に波及するトレンドが語れる。スコット・ペイジのいるサンタフェ研究所といえば複雑系の拠点としても懐かしい?かもしれないが、投資の予期などで現役だ。しかしバブル経済とその崩壊は予期できないことをも証明してしまった。金融工学のノーベル賞の翌年には受賞者のヘッジファンドLTCMがロシアのデフォルトで破綻している…。現実のコンフリクトは常に最大値だが、思索は常にそれを超えようとする。衆愚(大衆)そのものに解を求めたスタンスは共同幻想も一般意志もまったく同じようだ。

2011年7月12日 (火)

ポリスの美学は文字の登場で弱体化したが…

 

 行為はその行為の発現者(行為者)とその行為の享受者や目撃者(第三者)の存在が前提であり必然。たとえば踊りも唄も見る者や聞く者の存在が前提です。ポリスでは集団密集戦法に象徴されるような勇猛が詠われ、踊られ、人々を熱狂させたのでしょう。身体性に依拠したミメーシスが喚起されるワケです。

 ところが文字は多くの場合は単独(者)であるその書き手を別とすれば、享受者=読者は自分独りだけで完結してしまうもの。読みたいものを読みたいように読む読者のエゴイスティックな世界で完結しうるものです。読者は書き手以外の他者を必要としないし、書き手は一回性の存在でしかない。(マルクスの剰余価値をヒントにしたアウラも、複製芸術以前に既に<他界>化していたという事実は軽くはない)。読者は必ずしも書き手の意向や意思にさえ影響されるわけでもない。書き手が死んでいても文字は残るので、リアルには書き手さえ読者には必要とさせないのが文字の大きな特徴であり、文字によって利己的に完結しうる読者の在り方が可能になったといえます。

 利他的な行為を至高の美学としたポリスの倫理観は文字の普及で崩壊します。隣の戦士を守るという行為とそこから生まれた倫理や美学は失われていきます。これがポリスの頽廃でありフーコーが注視し宮台真司がヒントを得た事態。もちろん文字の影響が大きくなるにつれ、その文字に書かれ、またそれに基づいて語られるものに対して厳しいエティックなり審美(眼)が行使され、その審判はコミュニケーションの形をとりながらダイアローグ=弁証法として発展していったワケです。

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 地球上の人間のうち文字を持つ民族はわずか5%。しかしその5%が世界を支配しているのは確かです。そして、自らの歴史を記述できない民族は滅びるとエンゲルスは述べていますが、記述したところで読まれるかどうかはまた別の問題なのかもしれません。ミクロには、はじめに書いたように読者は必ずしも書き手を必要とするものでもありません。 究極には小飼弾オタキングが指摘するように「コンテンツはタダ!」ともなりつつあり、書き手には相当な覚悟が必要でしょう。つまり“読まれなくても書く”意思がなければならなくなってきているかもしれないからです。そして読み手には読解力がさらに必要とされてきてるのではないでしょうか。

 三島由紀夫にとって「自分の自己実現のために<決起の呼びかけ>を利用したのであって、決起を呼びかけることが自己実現だったのではない」とすれば、それは一回性の表現であり作品だったといえるかもしれません。介錯を前提としない単独者としての独特の割腹も、反復不可能な表現をさらに際立たせる単独者のものとして、すべてをかけたものだったということでしょう。

 一般に自己表現のために書かれたものならば読まれなければ意義はありませんが、遠野物語・幽霊譚の炭入れの竹かごのように“彼岸を今ここに接続してしまう”ような仕掛けとしてなら、読まれなくても意義があるのかもしれません。それは文字に表現された何かではなく、書くことそのものに表出された何か、なのでしょう。三島の文学に意味があるとすれば、この延長でだと考えるのは無理なことではないはずです。本質に先立つ形態の…といった古典哲学的な意味そのもののように三島の作品は文体そのものの表出として意味があるのかもしれません。

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 スタイルとかファッションというもの、美学への考察は他に比べれば圧倒的な少数であり、なにより難解です。しかし、一本の直線からはじまった人類の表現行為は、そこに表出するものをはじめとして今現在でこそ探究すべきものが豊穣です。ハイイメージ論の射程に届く言説が皆無ななか、ニコファーレのオープンを当然だ!といえる東浩紀のようなスタンスは貴重なものでしょう。

2011年6月24日 (金)

遠野物語に自己実現のヒントを見た三島由紀夫?

 現実とは関係なくても共同性は成り立つ現実は無関係でも小説は可能だ…そこでの現実(との関係)は書く人そのもの=作家=三島自身(だけ)である…ある意味で現実感が希薄だったと思われる三島由紀夫遠野物語の幽霊譚・怪異譚=他界譚を激賞する理由は簡単かもしれません…。吉本隆明が常民の生きていく強度を見出し神話や国家のカラクリを知りえたもの、その究極である他界の在り方…に、三島は自己実現の可能性を見出そうとしたのではないでしょうか。そこには鉄(武器)と言葉(法)で自らを護ろうとする国家さえ雲散霧消させる力動が蠢いています。マルクスが怪物と呼んだものもそこから生まれたものであり、歴史のほとんどは常民=パンピーの強度が支えているものに過ぎないからです。その非決定の領域が神話化されるだけのことでしょう。

 ある日、自決直前にバルコニーから演説する三島由紀夫への自衛隊員からの罵倒がTVで公開されました。Vを観ていると自分が決起を期待したパンピーからの罵倒を聞いても三島の顔には失意の色は浮かんで来ません。冷静であるというより最初から分かりきっていた三島がそこにいる気がします。彼は自分の自己実現のために<決起の呼びかけ>を利用したのであって、決起を呼びかけることが自己実現だったのではないのでしょう。

 本当に死を演じるには本当に死ななければならないと考えていた三島由紀夫。
 美輪明宏氏に華奢だと揶揄された三島は、その半年後に鍛錬した肉体を身につけ、やがてそのマッチョさをバルコニーの上からパンピーに向かって誇示することになります。
 生=命をかける相手として男性ではなく自衛隊やパンピーを選んだ三島は巫女だった…といえるのが共同幻想論による立場?になるのかもしれません。勁草書房の吉本隆明全集の帯には「性的興奮を覚える」と三島にとって最高の賛辞が寄せられています。男性とはマザーシップだよという太宰の言葉とともに文芸における両極が明らかになるヒントがあるのかもしれない一言でしょう。

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 クーデター未遂の事件の時に三島の馘首のデスマスクを採るために現場を訪れたという人に会ったことがあります。アート関係のページ制作のためにあるアーティストを取材したら「昔ね、三島のデスマスクを採りに行ったんだ…」とその人が話してくれたのです。『限りなく透明に近いブルー』の舞台となったローカルでアーティストをしていた人で、その静かな視線にミメーシスしてしまった人もいます。デスマスクやドクロが趣味?のアーティストはオープンカーで横田基地周辺を駆け、米軍ハウスで制作にいそしんでいたそうです。 

 三島の割腹が単独者独特のものであるのは自衛隊の現場でも、あるいは篠山紀信による写真撮影用に演じたものでも、同じです。遠野物語・幽霊譚の炭入れの竹かごになるべく演説し割腹してみせた三島は巫女(行為からするとシャーマン的だが)として何を体現していたのか? 共同幻想論を駆使してそれを語れるものかどうか…試みる気概もなく、ただ身近に感じる三島の存在があります。片手では数えられない少なくない自死した友人たちは、誰も、どこか少し三島的でした。知り合いだった民族派右翼の幹部が、社会主義国の大使館に突入を繰り返した青春を語る時の落ち着いた語り口が思い出されるような、日頃の感覚のなかに友人や三島はいます。吉本が三島については語らないスタンスをフォローしながら、言葉以外の感覚を忘れえない暑い夏が、今年もきました。

      -       -       -

2011年2月12日 (土)

<国家>へのジャンプと作為

●<民族>→<国家>へのジャンプ

   家族→親族→部族→民族→国家という
   対幻想の遠隔化(観念化)していく過程こそが
   国家生成の過程そのものです。

 家族から国家までの過程のうち「民族」と「国家」の間には大きなギャップがあります。 これは「家族」と「親族」や「部族」と「民族」の間にあるものより大きな差異で、「民族」から「国家」にいたる場合のジャンプは家族が親族に遠隔化(拡張)する場合や部族が民族に遠隔化(拡張)する場合のジャンプより大きなものです。

 家族→親族や部族→民族という展開はその根拠を現実に見つけ出すことができますが、民族→国家の展開の根拠は観念のなかにあり(言語として表象されますが)何らかの現実には還元できません。現実に還元できないものが国家の根拠であるということになります。

 {<現実と無関係>という関係意識}が<他界>であるとすれば、国家もまた現実とは無関係のものであり、根拠のない関係意識が国家だといえることになります。国家は作為そのものだといえる可能性があります。宮台さんが援用する丸山眞男が指摘した「作為の契機の不在」という日本(人)の欠点?とは、具体的には、作為そのものである国家を意識できない事態…を示しているということになります。

●作為される国家・国民

 国家や国民の属性は作為として成立した(させた)ものであり、国家の構成員である国民の属性そのものが恣意的です。家族から民族までは遺伝子や言語など共通項となるものが抽出可能で、科学的に立証可能な現実に還元できるものが根拠となっています。しかし国家の成立要件と国民の属性は作為的です。フランスの領土で生まれればフランス人であったり、ユダヤ教を信仰していればイスラエル人であったり、旧ユーゴラスビアのように申請すればユーゴ人になれる(ボスニア、セルビア、クロアチア人などいずれの民族からでも申請できた)というものもあります。

 現実的要件に還元可能な<民族>と現実的要件が作為である<国家>との間には連続性はなく、そこには大きな観念的なジャンプがあるといえます。資本主義の深化と拡張が可能にした近代国家(民族国家の上位互換として)は観念(性)によって成立し得たものだといえるワケです。観念そのものが根拠なので、それは自由の体現でもあり、論理的には論理の限界(が自由の限界)で(も)あり、それは自己言及の不可能性として表象します。具体的には、その不可能性ゆえに、国民が国家を意識できないあるいは国家の責を問うことをしないという状況です。

●市民社会は自由な言語

 通貨が経済的範囲を、言語が民族の範囲を、それぞれ示していますが、領土が示しているのは何でしょうか? 領土は確かに国家の範囲(国家・政治・権力の空間性)を示していますが、領土の境界線の設定が作為的であることはいまや誰でも知っていることでしょう。もともと自然環境の違いや生態系的な差異を領土の境界にしていたと考えられる世界の民族は、近代国家という作為の集合態の登場で錯合した空間性を受け入れることになりました。宗教のように(純粋に)当初から価値観の違いを境界にしているものはありますが、それは非実在神あるいは非実在な理想郷を頂いているための必然です。その非実在性にリアリティをもたせるために各種の宗教的な演出がされているワケで、戒律はその規範性をとおして宗教の実効性を示し、立派な教会も見事な宗教画も聖歌もリアリティを与えようとするものです。宗教は純粋に作為でありリアリティを演出するためにさまざまな装置を必要としているといえます。

 市民社会は個人の自由を究極の目的とします。個人が互いの作為の自由を目的とするワケです。自由な言語が規範となり、そのリアリティ(と実効性)のために法(不自由)が設定されます。この疎外論(外化・表象論)的な見解は社会的な契約のために法が設定されるというトートロジカル?な見解とは異なり、マテリアルとテクノロジーへの経路が開かれています。

●根拠が不可視な国家の作為

 国家(共同体)は作為の根拠が不可視になりがちです。

 不可視な根拠を可視化しようとする巫女やシャーマンは、架空の根拠を仮構するために場所(土地、地域、自然などの場所的限定=TPO)にアンカーします。そのためにその地を象徴する氏神や共同体に関与することになります。あるいはそもそも特定の共同体の利害を代理象徴する(だけでしかない)巫女やシャーマンが、それなりのリアリティ?や説得力をもつために宗教的または神秘的様相を纏うのは当然なことなのでしょう。

 巫女やシャーマンが変性意識下(トランス状態)で見解を述べるのがその役割であるのは、共同体(国家)の変成にともなうものとして必然。変性意識の状態=夢幻様や入眠状態において感得した物語を収集したのが『遠野物語』であり、その変性状態の様態からリアルな関係性(現実世界)を読み取ろうとするのが『共同幻想論』です。

2011年2月 8日 (火)

『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』…その可能性

『「正義」について論じます THINKING O 第8号』…<近接性>とは?

 『「正義」について論じます THINKING O 第8号』の大澤真幸さんと宮台真司さんの対談は、社会学という水準で展開されるだけではもったいない?内容にあふれていて、サンデルのような政治哲学から変性意識までノンジャンルでつらぬく強度は他(?)を圧倒するものがありそうです。対幻想(と共同幻想との関連)や女性の定義だけで何冊も本を書ける斎藤環さんも才気にあふれてますが、宮台さんの言説もどの方面にも展開できる開かれた可能性は繰り返し読んでも楽しいもので、想像力を刺激してくれますね。

●ミメーシスを起こすものは?

P54
あり得ないほど共同体的な存在がミメーシス(感染的模倣)を起こすのと同様、
あり得ないほど脱共同体的な存在もミメーシスを起こすのです。

 共同体(スパルタとペロポンネソス同盟)のために死ぬレオニダスも、親和的関係(頼朝)から否定され共同体(国)から追放される(殺される)義経も、脱藩する坂本龍馬も魅力的です。
 共同体への強い志向も、逆に共同体を脱するスタンスも、それぞれ人びとを魅了する何かがあります。

 この点で宮台さんの上記の指摘はズバリと当たっています。共同体に対する是非はともかく共同体との関係性で「あり得ないほど」の強度があれば、いずれもそれは人を魅了するということでしょう。
 問題は共同体への是非、好き嫌いのような価値判断ではなく、共同体との<関係性>そのものが重要なのだ、ということです。

 まず共同体への是非つまり肯定と否定の価値判断が等価であることはわかります。どちらでもミメーシスを起こすならそれは等価なのだということです。そしてミメーシスを起こすのは「あり得ないほど」の共同体への(強い)関係性そののであるとすれば、それは何を示しているのでしょうか?

●共同体への<関係性>とは?

 共同体への<関係性>とは、<関係意識>そのものに他なりません。そもそも共同体そのものが関係意識なしには成り立たないものです。

 恋愛を典型とする親和的関係(対幻想)であれば、対象(恋人愛人)は意識だけではなく身体的な関係(性)の対象であり、意識(関係意識)しなくても成立しています。親和的関係のうち親族や部族も意識がなくても血縁や遺伝という共通項ゆえに成立します。民族であれば意識がなくても言語や文化という共通項があります。
 逆に価値観以外に共通項がない関係もあります。同じ神を信じることを前提とする宗教や価値観を共有するイデオロギーなどです。また音楽のように観念的な価値観ではなく身体性による共感や共有を前提としたものもあります。

 宮台さんが丸山真男を援用して強調する<作為の契機>の究極はこの関係意識のことです。この作為の契機が亢進した常態では原理的なあるいは病的な関係意識がクローズアップされ(てき)ます。(対象認識時の関係意識の亢進の一例として“クオリア”がある)

 <関係意識>の2つのファクターは<作為体験>と<不可避体験>。この2つが心的現象の基本構造を形成する関係意識そのものを形成しています。

●ミメーシスの対象が存在しない現在

 ミメーシス可能な対象が激減したのも現代の特徴かもしれません。国内最大級のある精神病院では田中角栄首相を最後にミメーシスの対象となる人がいないという調査がありました。かつては「朕は明治天皇である!」とミメーシス?する患者が少なくなかったようですが、「私は田中角栄だ!」を最後に感染模倣する患者はいないという報告があるワケです。

 一般的な若者論に関する言説でも「ロールモデルが無い」という指摘は説得力があります。サブカル的にもヒーローがいないというのも当たり前の認識になっています。AKB48でセンター経験がいちばん長い前田敦子でさえ、センターで歌うよりまわりで踊っていたいとコメントするほど。AKBに憧れてもセンターというポジションには興味がないファンも多いのでしょう。誰しも誰にも転移しないし、転移させるほどの対象がない…というのが現在のリアル。
 この転移(対象)の無さ、転移のし難さ…という状況や人間を分析するには個人=個別的現存への突っ込んだ探究が必要です。それが心の解明であるはずです。また大きな転移=ミメーシスはないかわりに趣味的なアディクティッド(嗜好)が無数にあるのが現代の特徴でしょう。その典型がサブカルやオタクの世界であり、パンピーのレベルでもすでに常識となったペットやガーデニング、世界的?なレベルでも(マテリアルな根拠が希薄な)エコ関連などいくらでもあります。

 ミメーシスの対象が存在しない、ロールモデルがない…しかし、この状況こそパンピーがフォーカスされ、大衆がクローズアップされる契機であるのも確か。その反映そのものであるかのようなメディアであるネットの可能性はどこまであるのか? それは予期できるものなのか? 楽しい探究はつきないですね。

2009年6月19日 (金)

<純粋ごっこ>!?で読了する『吉本隆明1968』

●〈熱い〉吉本ファンたち
 吉本隆明のファンは少なくないだろうが、少なくないだけにさまざまな人がいるようだ。 「吉本隆明」や「共同幻想」で検索をかけてぞろぞろ出てくるページに検索語以外の共通点はないような気もするし、<吉本オタク>とくくれるワケでもない。レスポンスには大学の研究室があったり、地方の出版社や書店があったり、医者がいたり、ファッションの関係者がいたりする。この雑多な<吉本ファン>のページやBLOGを見て、そこから何か共通点を探すのは相当に困難だろう。科学は無数の対象から共通点を抽出することが基本作業だが、吉本隆明を科学するのは難しいのかもしれない…。

 だが一つだけ確かそうなことがある。
 みな〈熱い〉のではないか? すべての執筆物を網羅しようとしているWEBがあり、吉本理論から新しい何かを発見しつつあるらしい思索があり、吉本邸を訪れてにこやかなショットを撮っているページがあり、吉本理論をベースに医療に臨んでいるらしいサイトがある…。吉本を読んだが「わからん」、わからんが惹かれる…当然だろうがそんな恋愛じみた感想を1、2行記しているだけのものも少なくないかもしれない。
 太平洋戦争に協力させられてしまった宗教者がその反省から吉本に講演を頼んだり、患者に臨む現場から講演を必要とされたり、全集に掲載された遺書のように一読者として最期の言葉を吉本へ向けたり、それら確かに熱くせき立てられたようなさまざまな吉本の必要性?を体現するデキゴトが、人の数あるいは書店で本と出会った数だけ、あるのだろう。

 吉本隆明の倫理の究極のものとして〈面々にはからえ〉という親鸞の言葉がある。著者の評価はそれ以前にあるのだが、吉本思想(とその読者)がもっとも決別しなければいけないスタンスこそが、この著者が共感したという、そのことそのもののハズだ。
 やがてcompleteする〈純粋ごっこ〉がホントの読了だろうし、吉本隆明はひたすら別れについて語ってきたのではないだろうか。本書『吉本隆明1968』の著者鹿島茂氏は何よりも素晴らしかった吉本隆明との出会いについて語っているのだ。

           
吉本隆明1968 (平凡社新書 459)

著:鹿島 茂
参考価格:¥1,008
価格:¥1,008

   

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