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2016年8月18日 (木)

現代という作家を明かす…『村上春樹は、むずかしい』

気鋭の批評家東浩紀氏が「吉本(隆明)派」と呼んだのが加藤典洋氏。一般には早くから村上春樹の研究家として知られている有名な文芸評論家です。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。
「指示表出と自己表出の可能性」から

 吉本隆明の読者であればアレ?と思うかもしれません。たしかに、ちょっとヘンですが間違ってはいません。指示表出と自己表出という『言語にとって美とはなにか』の代表的な概念装置からすると足りないもの?がありますが、機能分析的に使うならOKなのではないでしょうか?

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。
「指示表出と自己表出の可能性」から


 加藤典洋氏がまるで吉本隆明のように村上春樹を批評しているのが『村上春樹は、むずかしい』だとすれば、吉本隆明がまるで文芸批評そのもののように春樹ワールドを分析してるのは『ハイイメージ論』で読むことができます。

 文芸ジャンルのプロからはdisられシカトされたのが村上春樹の初期でした。デビュー時に春樹ワールドに魅了され、その文体をマネしたり分析したりしていたのはコピーライターやサブカル系のジャンルのマガジンであって、文芸ジャンルではありません。サブカルの領域では“エヴァンゲリオンの登場で文芸は終わった”という説得力のある言説が流れいて、当然だと思っていた人は少なくないでしょう。事実、当然です。

 明治以来の12音階への洗脳教育のなかで登場したTK=小室哲哉の登場でもそうでした。小室氏も著名な音楽家や作曲家から激しくdisられたのです。それは“音楽の理論にあっていない”という爆笑ものの非難に象徴されていました。自らの依って立つ12音階理論だけが正しいのだというのでしょう。そこには―あらゆる理論は現実から抽象されるもの―という科学の初歩がありません。ただ自分にだけ都合のいい狭量な宗教になってしまっています。


           
村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

著:加藤 典洋
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 加藤典洋氏はきっぱりと入り口で宣言しています。

     世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、
     彼は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、
     大事な存在なのだと知らしめたい。
(『村上春樹は、むずかしい』「はじめに」P13)

 これは本書で繰り返し指摘されるある事態を示しています。
 それは東アジアで村上春樹が読まれているにもかかわらず、その東アジアの知識層には春樹もそのワールドも支持されていない、評価されていない…という事態です。

 この指摘は“左右両翼から十字砲火にあった四面楚歌の評論家”と自称する加藤氏ならではの分析であり批評だからこそ可能なもの。そして加藤氏と同じ知識層に対して自覚を促すクリティカルとなっています。エヴァンゲリオン以降の世代であればシカトしておけばイイような相手を丁寧に導こうとする氏の真面目なスタンスは、常に自らを振り返りつつ思索している氏ならではのものからかもしれません。

 大衆と知識層の乖離は吉本隆明にあっては大前提であり、社会を見るときの基本となるものであることは吉本の読者には常識でしょう。資本主義のすべてのプロダクトを指示表出として批評したハイイメージ論では、すでに知が無効であること倫理がないこと…が基本的なモチーフであるとともに結語でした。それは商品という指示決定に対して自己確定するとはどういうことなのか?それは可能なのか?それは正常に行われているのか?その最適解はあるのか?という高度資本主義の圧倒的なボリュームの環界をめぐる思索でした。それが知識層が誰もタッチできず言及することさえできなかったエビデンスなのでしょう。

 そこには大衆の指示表出を自己確定できない知識層の姿があります。

2015年1月28日 (水)

言葉を生むもの…とは?

   …言語の陰画の特徴は、まず言語そのもののように<意味>をつくらない。
   つぎにそこから由来するともいえるし、逆にこちらの方が源泉だともいえるが、
   像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を
   同一「概念」のようにみなすといった特徴をもっている。

                                (『母型論』「病気論Ⅱ」P87)

 とても重要な事が2つ示されています。1つは、言語の陰画は意味をつくらないのですが言語を支えている(だから陰画と表現されている)ということ。これは錯覚などをテーマとする心理学でいう「地」「図」のような関係に例えると、以前のエントリー*「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」で書いたような説明が参考になります。

   「ルビンの壷」でいえば、
   「壺」(である)の認識を支えているもの、アフォードしているのは顔と見なせる空間で、
   逆に「顔」の認識を可能にしているのは壺の空間となります。
   このように対象認識を可能にしているものは非対象となっている領域です。
   これは<意識>を支えているのは<無意識>ということでもあり、
   知覚を可能にしているのは非知覚領域だ…ということを示唆してもいます。
                    *「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」


 2つ目は認識力一般としてはこちらの方が重要ですが、像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を同一「概念」のようにみなすといった特徴」です。異なるものを同じものとみなす志向(性)ともいうべき構成同一性は、このblogでも当初からフォーカスしてきました。構成同一性ベイトソンでいえば学習Ⅱレベル(松岡正剛の千夜一冊・「精神の生態学」)に関係するものですが、この構成同一性そのものの根拠やその初源がどこにあるかについてダイレクトに示してみせたのは、この吉本隆明が初めてになります。この認識能力の混乱がたとえば分裂症であることはいうまでもないでしょう。違ったディメンションにある像を同一視したりすれば、その理由が他者にとって理解不能である限り、それはビョーキとされてしまいます。


           
精神の生態学

原著:Gregory Bateson
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 キチンとした概念規定による言葉と確固たる文法による言語があり、その言語世界が構築する世界観があるとします。それはキチンとした世界観であり認識であり、ゆるぎない価値判断を提供するものでしょう。他方、アバウトな概念といい加減な文法の言語があり、世界観があるとします。
 このキチンとした世界観はアバウトな世界観を理解できるでしょうか?
 概念規定がキチンとしていればしているほど、その規定からハミ出すものやカバーできないものは間違っていると認識されるはずです。あるいは狂ったものだと判断されるかもしれません。キチンとした概念や文法から乖離すればするほど異常で、狂っているとされるでしょう。これが前エントリーの「「日本は壊れている」…とは?」でフォーカスされた壊れているとされることの根本的な理由だと考えられます。

 もちろん「日本は壊れている」という吉本隆明のもっともラジカルな問題意識とモチーフは、吉本隆明自身によって解答が用意されており、それこそが彼の長い思索の魅力や意義として多くの読者を惹きつけてきたのではないでしょうか?

           
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 結論をいってしまえば、壊れて見えるところに可能性を見出していくのが吉本隆明の思索だということになります。33年もかかった未完の大著『心的現象論本論』の最後は重畳語の自由な造語の可能性に注目しています。それは文法などなくとも新しい言語が可能であることを示しており、これはF・ガタリが指摘するようなヨーロッパのジャーゴンには文法がなく言葉を付け足していくだけだが言語や文は成り立っている…ことなどと同じもの。

 また音声的には日本語の基層を成す琉球語の三母音のように、絶えず<|N|音>に向けて縮退しようとする発声の特徴があります。これは自然音をも含めて考えると人間の自然音としての自己表出だけの音声への回帰の志向が常にあるとも考えられるもの。当然その志向のなかでは人声と自然音は同定も同致もしやすく、自然と人為の意味変換や価値変換が自在であることが想像できます。吉本式にいえば、日本語は自然音との純粋疎外状態が常同的であり、それに応じて環界への意味(あるいは価値)付与もなされるだろうということです。これが世界観や自然観であることはいうまでもありません。

   この初期神話に記載された自然の景物や天然現象を、聴覚にうったえる言葉の
   音声を発するものとみなし、また天然の景物や天然現象の端々を擬人(神)化して
   みせる世界認識の特徴は、マラヨ・ポリネシア語族のひとつの系統の言語を基層に
   もつ日本語の特質、いいかえれば景物を擬人とみ天然音を語音となる特質を生み
   だすことになったとかんがえられる。

                                 (『母型論』「語母論」P100)

 この言語の歴史的変遷を、個体の発達の段階と同定して、あわわ言葉をはじめとする概念を設定し探究していくのが吉本隆明の言語理解であり、それは同時に共同性への、社会への、現在へのアプローチとなります。

 ボキャブラリの数がそのまま社会階層を反映するような欧米社会ではアッパーな階層ほど語彙が多いのが当然でしょう。分節化し、どこまでも微分されていく言語世界。この分節化の進展こそが社会(階層)の進展や進歩と同一視されています。では逆に語彙が融溶し、発声や発話が縮退し短縮化する社会はどうでしょう。かつて「チョベリバ」が注目されたギャル語の世界。自分たちだけで共有することを目的としたような、極小共同態のための言葉…。島ごとに村ごとに違う琉球の島言葉…。沈黙の発声である<|N|>へ向かって絶えず縮退しようとする、五母音から三母音へ収斂しようとする日本語の基層…。

 分節化と差異化を繰り返し増大する子音のディラックに埋まっていく欧米言語と、沈黙へ向かって縮退し自然音と同致していくかのような日本語。
 スキゾフレニックなデッドロックへの道と、あわわ言葉とバブバブと反復する幼童的世界。この2極を自在に行き来する思索こそ吉本隆明が体現してきたものなのでしょう。

     すべての童話の特性、
     いいかえれば幼童性と等価な形式的な特性は、
     反復の構造だといえよう。

           (『ハイイメージ論Ⅲ』「幼童論」P197)

2014年12月31日 (水)

「日本は壊れている」…とは?

自らの思想を包括的に語るときに、吉本隆明は、日本は壊れている…といく度か述べています。このラジカルな問題意識こそ、吉本の全思想を貫くもの。『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ』などで語られている「日本は壊れている」という認識…それは何を意味しているのでしょうか?

正確には<欧米言語から見れば、日本は壊れている>ということであり、そこでは、日本が壊れているようにしか見えない欧米言語=思想の限界も顕わになっていきます。これらの問題は、『母型論』心的現象論で繰り返しフォーカスされているとおり個別具体では現存在に症例として表象するもの。それゆえに、心的現象論をはじめとした、膨大な精神疾患などの症例からアプローチしていく吉本ならではの方法論をも示していることになるでしょう。

 この<壊れ方>について思索したものが、あの共同幻想論です。
 オトナが神仏を敬いながら、コドモは神仏をオモチャにして遊び、そこでコドモに下る罰と、その反対としてのコドモへの救済の物語…。
 このアンビバレントな罪なり罰なりの相反する2つの方向が、日本の壊れ方の典型的な代表例としてサンプリングされていくのが共同幻想論の醍醐味です。欧米では空間的に領域が異なる2つの方向が、日本では並列、並立しているという状況を共同幻想論は明かしていきます。時空間的に自在に変換してしまう日本の状況というもの、あるいは日常的にキメラとしてそれらが鼎立している日本の生活空間…。

    けれども自分ではあれ自体にはまだ続きがあって、
    もう少し完成に近いところにもっていかなきゃいけないのに、
    論理がそうならない。

                          (『吉本隆明の世界』P96)

 「あれ自体」とは「アフリカ的段階」のこと。「論理がそうならない」というところに深く大きな意味があるのではないでしょうか? ここには、言葉から見れば壊れているというものを、今度は論理としてどうなのか?という位相まで追い、やはり論理から見てみてもそうならない、となる…。壊れているという空間的規定からの逸脱を、そうならないという時間的な位相のものとして追い込んだ、ある対象を限界あるいは臨界まで探究し、おそらくは反復という残余しか残らないところまで追いつめる…吉本隆明ならではの思索の破壊力が顕になった瞬間だといえそうです。残余としての反復が幼童性であり純粋であり、可能性であることはいうまでもありません。赤ちゃんはバブバブするだけですが、イナイイナイバアだけでも、それが豊穣であることは誰もが認めるところでしょう。あらゆる可能性がそこにあるからです。

 日本を<壊れやすい>ものとして捉えたものとして『フラジャイル 弱さからの出発『日本流』松岡正剛)などがあります。日本ならではのアプローチだといえますが、そこにはその壊れやすいものにこそ強さを見出す視点があり、その思索はオリジナル。これからの可能性にあふれた思想でしょう。それは大衆の生活や文化に見出だせるものでもあり、大衆の原像のイメージにもリレーするもの。たとえば童謡がある時ある意味では社会に蔓延りだした同調圧力への抵抗であり、しかも侵されることがないことを示してみるなど、松岡正剛氏ならではの優しい眼差しが、フラジャイルなものへのリスペクトともいうべき思索を巡らせていきます。

           
フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

著:松岡 正剛
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フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾 方法日本)

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2013年11月 8日 (金)

<美>をミメーシスしようとする五七調?

「ポリリズムと自然音と人声と」で「自らのマザークロック、2拍子から分周し反復されるリズムはマテリアルとなり、逆に規範として自らに作用します…」と書きましたが、『言語にとって美とはなにかⅠ』では言語に即して以下のような説明があります。


  言語の音韻はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、
  言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。

                        (『言語にとって美とはなにかⅠ』P47)


 この「指示表出以前の指示表出」とは何のことでしょう?(ラカニアンにも「シニフィアンのシニフィアン」というような表現をする人がいますが)…とても原理的なことだと思われますが、それだけにわかりにくいかもしれません。アフォーダンスであれば<歩みをアフォードしてくれてるのは地球だ>といえるようにラジカルな(関連・関係性の)ことで、立つことをアフォードしてくれるのは重力そのもの…というようなそれ以上は微分できないような根源的な関係となるもののこと、と考えられます。一見奇想天外なトンチな問答みたいですが、現実や真実が意外にシンプルなことなのも少なくありません…。

 「指示表出以前の指示表出」というのは、たとえば「自らのマザークロック、2拍子から分周し反復されるリズムはマテリアルとなり、逆に規範として自らに作用します…」というようなものだと考えられます。価値判断つまり自己表出を捨象した表出として、です。自己表出を捨象しても残る指示表出というのは<生そのもの>あるいは原生的疎外そのものの<形態>ともいうべきものになります。


           
定本 言語にとって美とはなにかI: 1 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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  リズムが言語の意味とかかわりを直接もたないのに、
  指示の抽出された共通性とかんがえられることは、
  言語がその条件の底辺に、非言語時代の感覚的母斑をもっていることを意味している。
  これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれるようにみえる。

                               (『言語にとって美とはなにかⅠ』P47)


 この「感覚的母斑」は心拍や息つぎ、歩行といったものから直接に感受されるような感性(体性感覚)的なもの。そして「これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれるようにみえる」という指摘は2つの重要なことを説明しています。それは日本語が「等時的な拍音」つまり2拍子あるいは反復に近い印象を与えるということ。そして、それゆえに「音数律としてあらわれる」ということ、です。前者は後者の理由や因果になっています。簡単にいえば、日本語の音韻としての印象はシンプルであるために(音素の連続としてシンプルであるために)、その単調さから離脱するために音数律が発達した…ということ。なぜ単調さから離脱する必要があったのかというと、それはコミュニケーションのため。対幻想をはじめ共同体を構成する以上必然となる相手や隣人、多くの他者との情報交換をはじめとしたコミュニケーションが大前提となるからです。そこで必要なのは相手に受容されやすい指示性であり、さらには相手の認識(の志向性)を喚起する要素を備えたいからということになります。

 この延長線上で詩歌の五七調の説明ができます。つまり2拍子ではシンプルであり反復するだけですが、奇数の文節を持ち込むことで反復から離脱し、進行し変化する変容のイメージをあたえられるということ。変容のイメージこそ感動であり、感情を喚起する表現こそが詩歌をはじめとするものの価値だからです。もちろん、美と呼ばれるものがそれであり(古代ギリシャミメーシスというのはそれに呼び起こされることなのでしょう)、これはそのまま『言語にとって美とはなにか』というタイトルが示しているとおりの<美>のことです。


  日本語の韻律が音数律となることについて言語学者は、充分な根拠をあたえているようにみえる。

  (金田一春彦『日本語』から)
  日本の詩歌の形式で、七五調とか、五七調とか音数律が発達しているが、
  これも、拍がみな同じ長さで単純だからにちがいない。
  ただし、四や六がえらばれず五とか七とか奇数が多くえらばれたのはなぜか。
  日本語の拍は…点のような存在なので二拍ずつがひとまとりになる傾向があるからだろう。

                           (『言語にとって美とはなにかⅠ』P109~P110)


       -       -       -

 「指示表出以前の指示表出」という説明は「言語にとって美とはなにか」と「心的現象論序説」の取り上げる対象の差異をハッキリわきまえた表現だと考えられます。「以前」の「指示表出」については心的現象として個体の根拠づけにおける言語の定義であり、すでに言語が発生した以後(の位相)をあつかう(社会的共同性における)言語論では対象とならないからです。

           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,000
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 単なる反復から離脱しリズムと化していく(志向する)のは自己表出から指示表出へと遠隔化するということでもあり、プリミティブな鳴き声や叫びなどの単なる発声が言語化していく過程に対応します。

 自己表出というものは自らの価値判断(享受全般)を前提とするもので、いわゆる自分そのものの表出。そのために{<自己>が(自己を)<確定>するもの}という根源的な定義があります。自らの価値判断に基づく表出ということです。その初源を抽象すれば(自己による)<自己抽象(性)>になり、これはあらゆる認識の<概念>形成のベースとなるもの。「感覚的母斑」はその基礎です。

 指示表出というものは自らの価値判断とは無関係に他からやってくるもので、他者によって{<指示>され<決定>されているもの}であり、初源の定義は他からやってくるという(自己による)<関係(性)>だけです。これはラジカルには<自己関係(性)>であり、あらゆる認識の<規範>形成のベースとなります。

「心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>」

2013年10月23日 (水)

J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

ポリリズムと自然音と人声と

黒い点をいくつか、描きます。
その上に任意の角度で5本の平行線を置きます…

これがJ・ケージの作曲法?の一つ。
5本の平行線はもちろん五線譜の線。
黒い点は音符で、テキトーに、いくつか、あるいはたくさん、散らばらせてもいいのでしょう。5本の平行線と黒い点から<楽譜>が生成し、そこには<音楽>が生まれます。

この自由でランダムな黒点のあり方からでも音楽を生み出してしまうものは何か?
カオスノイズを整序して定型音にしてしまうものは何か?
雑音ともいうべきものをコード化するものは何か?


   J・ケージは、
   純粋音階と自然諸音との差異を同一化してみせた。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P227)


単純な電子発振器からサインウェーブをべき乗化してあらゆる音をつくることはシンセサイザーで可能になりました。信号のべき乗化とは逆?に、全域的なノイズからフィルタリングで特定の音を生みだすこともできます。ノイズオシレーターからフィルターとレゾナンスを駆使して音声を合成するシンセサイザーは現代ではスタンダードな電子楽器でしょう。


  J・ケージは一面ではエレクトロ・シンセサイザーの予見であり、
  別の面からは楽音の群団の様式化、法規化の可能性の予見でもあったとおもえる。

                          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P228)


<世界視線>ランドサット (LANDSAT)や臨死体験から説明されたように、ここではJ・ケージの具体的な方法論からともてもラジカルな(ものごとが)説明がされようとしています。黒い点と5本の平行線の意味するもの、これらが示しているものは何か…?


       -       -       -

   音階はJ・ケージの世界では、
   自然音から抽出された純粋音階ではないし、
   純粋音階から構成された古典近代の楽音の世界でもない。
   音階は病像のあるひとつのレベルを指定しているだけだ。
   そのレベルにはいらなければ幻聴を呼びいれることができない
   そのレベルである。

                 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P224)


この<純粋音階>が吉本隆明の思索の全工程?をつらぬく<純粋疎外>概念だとすれば、ここに思想の全貌を見出すことも可能でしょう。いつどのパートをとってもいつもその思想の全体像が反映されている吉本隆明の<作品>として典型的なもの(論考)がここにあるといえます。

知が商品であることがカミング・アウトされたポスモダの雰囲気のなかで、J・ケージを語ることはスノッブでカッコよかったのですが、これほどの普遍性とそれゆえの破壊力を秘めたJ・ケージへの思索は『ハイ・イメージ論Ⅰ』以外には見当たりません。


   幻聴の基本的な形式…に気がついていた人は、
   ひとりは宮沢賢治、ひとりはJ・ケージだ。

       (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「像としての音階」P211)


           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

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高橋源一郎氏が、まだ婦人のお腹にいる子どもに胎教をしようと思って音読してみたら、キレイな言葉(音韻、韻律)の作品は宮沢賢治だけだったという話があります。宮沢賢治は詩人というよりも作家ですが詩歌とはまったく別な形態のファンタジー?でありながら、その世界は十二分に<美>をそなえたもの。それは「幻聴の基本的な形式…に気がついていた人」だったからかもしれません。


膨大な内容情報やボキャブラリーではなく、<美>を決定するものはなにか? 巧みなレトリックとプレゼンテーションのスキルではなく、生来の受動態である人間に<美>を感じるさせるものはなにか? この延長には、その言葉が構築する堅固な共同性としての国家や共同体とはなにか?という問題があり、宗教や神というものがあるでしょう。 

わずか11個の音素で成り立つピダハンの言語から、1と0という2つの信号による2進法のコンピュータ言語(マシン語)、長音と短音の2つしかないモールス信号。そして12音階から生まれる音楽(主に欧米の)…。ハイイメージ論で駆使されている方法は、これらいずれにも有効な思惟であるかもしれません…。


       -       -       -

いくつかの黒い点は、全宇宙的なピンクノイズでも街中のホワイトノイズでもよく、世界中のどんなオブジェでもOK。あらゆる環界のものが対象であり、何でもいいはずです。
問題は任意の角度で置かれる5本の平行線。これはフィルターのたとえで、「音からわかるコト」で書いた<生命システム>のこと。ただの黒い点をコード化する装置…人間をはじめ、すべての生き物がもっている、生きていこうとするコトそのものを可能にしているシステムとそのすべての働きのことになります。ポイントは、あらゆる対象を感受するときの生命システムの働き。


   あらゆる音はここから分節化され微分されたもの。
   フィルターとなるのは生命システムでありマシンであり
   サインウエーブに対するバリアブルフィルターとレゾナンスです。


オブジェからの情報やエネルギーに対して生命システムはフィルターをかけています。エントロピー閉鎖系である生命システムが無制限に外部の情報やエネルギーを受容してしまっては危険で、オーバーフローで自爆するか、逆にエネルギーや情報が足りなくて生命の減衰や消失をまねくか…。

生命は閉鎖系である自らのシステムを維持し持続するためにも、取り込む情報やエネルギーを整序しています。そして急激な変化を防ぐために入力と出力の均衡とシステム全体の平衡を維持しています。ホメオスタシスを維持することそのものが生命の大きな働きであり目的にもなっているわけです。


           
動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

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このエネルギーや情報の入力を動的に制御しているのがフィルターでありレゾナンスの働きと機能。この入力に対するフィルターとレゾナンスの機能は、生命システムそのものであり、心身そのものの働きと機能になっているといえるでしょう。


   入力を制限するフィルター

   入力の特定部分を強調するレゾナンス


基本的にシンセサイザーなどをメタフォアにすれば、以上の2点が外界からデータを受給するときの制御の機能となります。もちろんこれだけでは生命における入力とは異なります。エントロピー閉鎖系(正確には入出力の加減による定常開放系)の生命では外界からの受給が止まれば、それは即座に死活問題。入力と出力の平衡で維持されている生命にとっては、入力・出力いずれの停止も系の消失=死を意味しています。

人間でいえば、いちばんの問題は情報。エネルギーはともかく定常的な意識を維持するには外界からの情報の入力が絶えず必要です。音楽、幻聴、言葉…いずれも意識(観念)が介在する入力と出力の問題で、さらには出力が同時に入力となる人間ならではのシステムの特徴があります。平衡の維持のために耐えず再帰している観念の自己言及システム。ポストモダンな知見が提起しながらなかなか解を見いだせなかった問題かもしれません。吉本隆明が観念のべき乗化として当初から基礎に据えていた認識がここにあります。

もっとも問題になるのは情報がない無入力状態、あるいは情報が正常な入力として受容されなかった場合です。こういった入力のエラー状態を人間はどのようにクリアするのでしょうか…。

2013年9月26日 (木)

ポリリズムと自然音と人声と

J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

鳥の鳴き声をはじめ、羽ばたき、獣が動く音、ゆれる枝葉の音、時に落ちる樹の実の音…
さまざまなジャングルの音。このジャングルの音=自然音からある特定のリズムを聴きだすのを教授=坂本龍一の音楽番組「スコラ」でやっていました。

ポリリズムの検証でジャングルの音を聴いてみるというもの。

いろいろな音が聴こえるだろうけど、基本にあるのは2拍子のはずです。
それは聴覚システムのマザーボードである身体のクロックが2拍子だから。心臓の鼓動や二足歩行の2拍子…。人間の全システムはこの2拍子をシステムクロックにしているといえます。他にあるのは微細なもので神経伝達のパルスと細胞壁のイオンチャンネル。これらは拍子よりもそのレスポンスのスピードのほうが問題で、イオンチャンネルは1万分の1秒を最速としてさまざまな心身の現象をコントロールしています…。(たとえば実母の音声に関しては脳幹はこのイオンチャンネルのスピードで反応していて、1万分の1秒で無意識のまま脳幹では反応することが確認されている…『右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界』角田忠信)。いかにすべての人間がマザーによるラジカルなコントロール下にあるかという実証にもなるでしょう…)

           
右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界 (小学館ライブラリー)

著:角田 忠信
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ところで、このマザーなクロックである2拍子以外は抽象(偶数と奇数に)すれば3拍子なので、すべては2拍子と3拍子の組み合わせと考えることができるもの…。そのために、2拍子と3拍子を組み合わせたポリリズムですべてのリズムを表現できるともいえるかもしれません。(番組ではそういった説明はしてませんが)

ある断続する音が同じように繰り返せば、それがリズムになります。
連続音や反復する音を自らの身体性でもあるマザークロックの2拍子で割り、さらには2拍子以外の音律?を3拍子としてまとめ、2拍子との関連を反復していく…。こうやって自然音は人間にとっての音律や韻律になると考えられます。

自らのマザークロック、2拍子から分周し反復されるリズムはマテリアルとなり、逆に規範として自らに作用します…。これが言語の韻律でも同じで、自然音への享受の仕方が人間の発声そのものを左右していったと考えられます。

       -       -       -

自然音と人声の区別はなく、反復性があるかどうか…という面から言語化を探っていく吉本隆明のアプローチは、同時に規範化の過程の解明でもあり、ブレやズレのない探究とその方法の可能性に満ちています。

  『母型論』P168
  もともとは自然音であっても人間の音声であっても、区別の意識はなかった。
  すこしでも反復性があるかないかによって、リズムを感じ、そのリズムの反復性は
  分節化、言語化にちかづく契機をなしたとみることができる。

  『母型論』P169
  この風の音を、「ヒュウ、ヒュウ」という擬音語であらわすのは、事実としての風の音を
  それにいちばんちかいと感じる母音と子音固有の結合体系で言語化することだ。
  白然音の喩は、複雑な陰影としてうけとられるが、言語としてみれば、その段階は
  初源的だということになる。

さらに吉本隆明は“言葉の分節化が、知覚の方へ形象の残余をうつしたことを意味する”と鋭く指摘しています。民族語などの固有性との関連で説明されるこれらは、最小単位の共同性で発現する場合の「アワワ言葉」ともいうべきものの説明として理解できるもの。

  『ハイ・イメージ論Ⅱ』「表音転移論」P326
  音声が言葉を分節するようになったことが、
  じつは知覚の方へ形象の残余をうつしたことを意味している。
  音声によって分節された言葉は、
  すでに形象の表現を未分化のままひきずっている。

即物的に確認できる解剖学的な事実を離れても、機能の連関から因果の過程を読み取っていく一つの科学的な方法がここにあるといえます。

           
母型論

著:吉本 隆明
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ハイ・イメージ論2 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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2012年8月 9日 (木)

重畳語という可能性

 重畳語というのは作家の間では避けるべき用法なのかもしれない。その理由はハッキリしないが、達者な言語表現としては評価されていないというニュアンスがありそうだ。
 言語表現が洗練?されていく過程は、西欧クラシックの音楽が12音階に収斂していく過程にも似ているイメージがある。Mウエーバー『音楽社会学』で探究したものはそういったものだったのだろう。枕詞の無意味になっていく過程そのものが日本語の進歩?の過程でもあるように、豊穣な自然音から遠ざかっていく過程こそが12音階化そのものである可能性は人間による作為の一面として確かなハズだ。もちろん、それは正しいかどうかというジャッジとはまったく関係がないことだ。

 日本古語の特徴でもあるらしい重畳語とその1回生化でもある枕詞や複合地名の形を解きながら、日本語(古語)への根本的な考察がなされる。名詞や動詞は形容詞的な意味をもって下に続く語を修飾していき、可能性としては無限に新語を生むだせる…重畳語という日本語だけの特性がフォーカスされている。この日本語の無限の可能性を示して終わるのが『心的現象論本論』の最後のセンテンスだ。

第四類(注1:角川書店『沖縄古語大辞典』から)の重畳語は日本古語の特性ともいうべきもので、語の重畳によって新語をつくりだすことができ、このばあい名詞、動詞は形容詞的な意味をもって、つぎつぎに下の語を修飾しながら、可能性としては、いくらでも新語をつくり出すことができる、そして複合地名や枕詞の形は、この重畳語ができる日本古語の造語可能性を、一回にとどめたと解することも不都合ではない。(『心的現象論本論』P511)




心的現象論本論



著:吉本 隆明

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 『ハイ・イメージ論Ⅲ』現在までのあらゆる倫理と思想の無効を宣言し、共同幻想への最後の思索をめぐらせた吉本隆明は、30年以上継続した思索と連載である『心的現象論本論』では言葉への無限の可能性を示して終えている。心的現象論は未完だといわれているが、当初からこのようなエンデイングが想定されていたのではないかという感は禁じえない。“「だいたい、いくところまでいったな」というところで止めて、そのままになっているのですが”という「あとがきにかえて」の吉本さんの言葉は、その裏付けでもあるだろう。
 そして読者そのものに対しては、重畳語という形ではあるが、いくらでも新語形成が可能である日本語のポテンシャルを示してみせているのだ。ハイ・イメージ論で倫理や思想の無効を宣言した吉本さんは、心的現象論で言語の可能性を示してみせた…それは大衆の原像たる読者になんらかの期待や可能性を見出そうとしたことの証左だろうか。

 経済をめぐる状態の大きな転換にともなって、もともと経済ベースのファクター(下部構造)を最大のものとする大部分の共同体(上部構造≧国家)は整合性を失いつつある…これまでの欠如の時代から過剰の時代へのシフトによる従来の倫理や思想の無効化…。フラット化した現在の社会のコンフリクトした状況にあって、有効な思想は可能なのか?…というハイ・イメージ論が読者に問うたともいえる問題は、言語の可能性というところ以外にはヒントも解もないだろう。




ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)



著:吉本 隆明

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 吉本さんは言葉の重畳が新語を生むことを指摘したが、モノの列挙をオタクの情熱だとしたポスモダからの指摘は何を意味しているのか? その一つの解に、モノの秩序に導かれる社会を理想としたルソーの指摘を読み解いた東浩紀さんの鋭さは、今さらながら、貴重だ。その拠点でもある株式会社ゲンロン「思想地図」の可能性は、どうだろうか?



一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル



著:東 浩紀

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2011年12月31日 (土)

「アタシの…」もっとも複雑なキャラ

「アタシのことがキライでも」…から
「アタシのことが…」女神という巫女


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください

 あつこの言葉でとっさに思い出したのが新選組司馬遼太郎だった。TVでは和田アキ子があつこの言葉に対してわからんと連発していた。「なんで、こんなんいう? わからんて、全然わからん!」と困惑顔だ。司馬も和田も同じ大阪人で、このちがいは何だろうとちょっと不思議だったが、一般的にはそうなのかもしれない。新選組(の出身地域)から日本でいちばん複雑なキャラを読み取った司馬とアイドルのコメントも理解できない和田。後者が多数派なら日本はあまりしあわせではないし、歴史的事実として前者の読みはシカトされるものだからだ。

 新選組は自らが所属する共同体の政治体制である幕府のために殉じた組織だ。しかも幕府は新選組に報いない。この農民出身の武装勢力を江戸を救うための生贄のように扱ったともいえる。
 新選組は幕府のために戦っているのに江戸に入ることを禁じられている。そのために江戸の外延である武蔵野を転々としながら戦い、死んでも幕府の墓はおろか江戸に墓を作ることも許されていない…。

 新選組は自らと同じ農民出身の薩長官軍と戦いながら何を考えていたのだろう。
 この思いと行動と沈黙の行為の全体像に司馬は日本でいちばん複雑なキャラの発現を見出している。

 甲府城は江戸防衛の要だ。この甲府城をめぐる戦いで新選組とそれを支える地域のエートスキャラが象徴的に表出する。

 甲府城へ向かう新選組は途中いろいろなところで歓待され、飲めや歌えやするうちに甲府城には官軍が到着してしまう。新選組の拠点である多摩や武蔵野から甲府城までは1、2日でたどり着く距離にあるが、連日の各地の歓待で数週間もかかってしまったようだ。 これは何を意味しているのか?
 新選組と歓待する農民は阿吽の呼吸で進軍を自ら遅らせたのだと考えられる。自分たちと同じ農民平民出身の官軍に勝たせたかったのではないか…。たぶん語られない真実としてこれが正解なのだろう。

 幕府に殉じながら報われることはなく、官軍を勝たせながら許されることがなかった新選組はある意味で沈黙の存在。勝利した薩長の明治政府下、新選組に関して詳述はし難いなかで、やがてその周辺からは主権在民の憲法が主張されることになる。この自由民権運動が新選組とゆかりのあるものであることはあまり語られない。
 明治をひっくり返して「おさまるめい(「治」「明」)」と揶揄した江戸の人たち。薩長と公家が発案した新しい江戸の名前「とうけい」。この漢学をひけらかした気取った名前も江戸の猛反発を受け、明治17年とうとう東京駅の駅名プレートに「とうきょう」(「東京」)が正式に掲げられ、「とうけい」は消えた。

 新選組はキラわれても江戸を救ったし、江戸幕府方も新選組を生贄にしながら江戸を守った。

 幕府の有能な官僚を処刑したために能吏がいない明治政府は森鴎外に執拗に仕官の依頼を繰り返すような状態だった。軍部でも薩長閥は太平洋戦争最後の陸軍大臣阿南まで続いたという指摘もあるほどだ。統制派皇道派などの派閥の原点に薩長閥問題があったのは事実で、政府の統制以前に軍部内のコンフリクトは軍部そのものの力を増大させてしまっともいえる。226事件のように地方と都市の対立、農本主義と産業ファシズムの対立といった緊張も全体として日本を強大な統制国家へ向かわせる契機になってしまっている。昭和13年には国家総動員法(ファシズム法)が制定される。

 明治維新で東京への行幸という建前だった天皇は昭和天皇の崩御をもって終わり、平成天皇即位で東京は正式に都になった。

       -       -       -

           
東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

著:東 浩紀 , 他
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思想地図β vol.1

編集:東 浩紀
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 地方と都市それを象徴する東京という問題がある。逆にいえば東京という問題を解析すれば、すべてが把握できる可能性があるとも考えられる。『東京から考える』にはそういったスタンスと可能性があった。
 北田暁大単著での続編を断念したのも象徴的。東京の問題を考えられる人が少ないという証拠だからだ。オタクの問題というのは東京の問題”と早くから見切っていた東浩紀がここでも鋭い。

 あつこのコトバは、日本でもっとも複雑なキャラと司馬が評した江戸=東京周辺のエートスからはデフォルトに近いもの。それがわからないで何がわかるのだろう?

 逆にそういったアプローチからでも東京(的)なるものを探求できるはずで、北田の断念は惜しいものだと感じられる。東浩紀がいう一般意志2.0は語られないものであり、意識した語りではないものであり、相反する個人の意志を相殺したあとで残るもの…だというのならば、コンフリクトしつつ圧倒的なプレゼンスを示す東京のエートスというものを対象として想像したくなるのは禁じ得ない。一般意志2.0そのものに極めて近似したものとしての東京。あるいは一般意志2.0に近似するがゆえに解りにくい東京がココにある。

 ソ連時代からモスクワ市民権が特別であったように中国も上海や北京の市民権は特別でもある。ところで東京は特別か? どこが特別か? そして大阪は特別を目指すのか?

 意味不明に人を魅了する、幻惑する、誘惑すること以外に東京が特別なところはないだろう。しかも東京への誘惑はその人間の欲望の鏡であってそれ以外ではない。東京は特別だがその原因?は東京にはない!? 東京をめぐる思索は、たぶん無限だ。

       -       -       -

東京にはレイヤーのようにオーバーラップされ同一視されている問題がいくつかある。

 1.東京が都市であること。
 2.東京が国家であること。
 3.東京が地方であること。

まず大前提としてこの3つの峻別が必要だ。逆にいえばこの3つの混同に東京(への)幻想の根拠もあるのだろう。東京学(参考に『東京学』)というものは東京の存在に反比例して小さく、また7割以上が地方出身者ともいわれる東京の構成員の複雑さそのものが幻想の東京をますます肥大化させている。そしてすべてがデフレトレンドなのが東京(都市)の特徴かもしれないが…。無方向無意味無制限な多弁が他者にとって意味を成さないように、あらゆる意味を成さない沈黙から感受し考察する以外には東京へのアプローチは困難だ。だが個人にとって沈黙は幹だと吉本隆明が指摘する(『日本語のゆくえ』東工大講義「芸術言語論」から)ように、個人の沈黙や意味不明を考えるところに唯一の可能性があるハズではないのか。

2011年12月27日 (火)

「アタシのことが…」女神という巫女

「アタシのことがキライでも」…から


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください


 …このあつことは違う、より本質的に巫女タイプであるメンバーがいる。
 AKB48初期にあつことともに2トップとまでいわれた小嶋陽菜こじはるだ。
 彼女は小学生の頃からレギュラー番組を持つほどのプッシュと人気があり、業界歴は長い。天然とも計算ともいわれるキャラはプライベートでは誰にでも好かれるもののようだ。だがこじはるは言葉が巧みでもなくパフォーマンスもおとなしい。NHKのドキュメントで目標をきかれて「このままでいたい」とだけ語った彼女には、このまま/ではないところでは自分が通用しないことへの自覚があるのかもしれない。
 同じドキュメントで「永遠のアイドル「考え中」と答えたのがゆきりん柏木由紀)とまゆゆ渡辺麻友)。理由はちがっても<いま/ここ>を全面肯定しそこに大きく依存していることへの自覚では、この3名は同じなのだ。AKB48を自分の夢の実現のためのステップととらえるその他のメンバーとの際立ったちがいがここにある。今の姿が、AKB48であることが…目的である者と女優や作家や声優になることが目的であることのスタンスのちがいだ。この3名の順位が上昇したのはAKB48的なものが評価された証拠だろう。

 逆に順位を下げたものもいる。絶対に崩れないはずの神7から板野友美ともちんが脱落し、秋元康が10年に一人の逸材という松井珠理奈じゅりなも順位を下げた。AKB48を知らない人からも容姿やファッションが評価されるともちんはその分だけAKB48的ではないのかもしれない。オリジナルなAKB48よりプロ志向が強く粒ぞろいともいえるSKE48はAKB48が初めて初週ミリオンを達成した頃にはavexへの所属が決定していた。SKE48で小学生デビューでもあったじゅりなはドキュメント番組まで作られている。こういうプロぶりがAKBらしくないと評価された可能性もあるのかもしれない。

 象徴的なのは高橋みなみたかみなの順位だ。
 秋元が「akbとは高橋みなみのことである」という高橋みなみ=たかみなもワンランク順位を下げた。これは「会いに行けるアイドル」からマスメディアの人気者でありミリオンを連発するようになったアイドル(プロ)への変遷を象徴しているだろう。予定調和を避けたい秋元は誰でも会いにいけるアイドルとマス・メディアに乗るアイドルとのきわどいバランスをキープしつつAKBをプロモーションしているようだ。「たかみなの順位に注目している」…総選挙の直前に秋元は多少緊張しながらそう答えている。たかみなの順位の変化は圧倒的にマス化しはじめたAKBの現状をそのまま反映したものなのだ。そしてこじはる、ゆきリん、まゆゆの順位の上昇はAKB的なものへの支持が一般化したことを示しているのだろう。AKBのスタイリスト茅野しのぶがNHKの「東京カワイイTV」で今年はオタクがメジャーになると指摘(宣言?)したのは勝利宣言でもあるかのような気がしたほどだった。それがオタク的なものAKB的なもののメジャー化という避けられない矛盾をともなうものであることもたしかだ。

 順位を急上昇させたのが指原莉乃さしことゆきりん。どちらもTVにレギュラー番組を持っている強さもがある。ヘタレとして人気のさしことお天気おねえさんとして世代を超えて知られているゆきりんはそれぞれファンを急拡大させた。さしこは実験番組ではありながら異例の放送期間の延長までした冠番組の最終回で、お父さん番組終ちゃった…と泣きながらコメントしたラストはベタもネタも超えてある意味リアルだった。AKBのリアルというものにシンクロできるのがファンなのかもしれない。

 19thシングル選抜じゃんけん大会では優勝し「チャンスの順番」で初センターをゲットした内田眞由美うっちーへの評価が興味深い。ここでセンターになれなかったらAKBを辞めようと思っていたといううっちーのコメントに対して、そのネガティブさを批判する意見が殺到し、先の選抜総選挙でも順位は圏外にとどまった。あくまでポジティブでいくのがAKBファンなのだ。

       -       -       -

 こじはるは同期や同世代以外とのコミュニケーションが少ないらしい。レポートなども上達?しない彼女はどうも言葉によるメッセージも稚拙だ。「このままでいたい」という彼女は「わかってほしい」ともいう。演技が大根とも評される北川景子と同じような悩み?をこじはるも持っている。女性たちから女神ともいわれる彼女の容姿はメンバー間で彼女の取り合い?になるほどだが、新橋駅前でサラリーマンのオヤジにインタビューすると驚くほど「こじはる!」「はるにゃん!」一色でもある。このことが物語っていることは意味深い。有名お笑い芸人が深夜に出待ちで待ち伏するほどの人気なのだ。またプロのファッション評論家が驚くほどファッションセンスがいい。このセンスの良さはAKB全体100数十名のなかでこじはる、篠田麻里子まりこ、ともちんの3名がダントツだ。

 容姿とセンスそして歌唱力にめぐまれながらも言葉に巧みではなくパフォーマンスが弱いこじはるには本質的に巫女的なものがありそうだ。占い師に外見に魅力があって(も)中身は全然何もないと断定されるところが、ある意味まるで巫女なのではないかと思わせたりもする。巫女は共同体の予期の入れ物であり期待の鏡であって主体性があってはならないからだ。

 冗舌な巫女は信頼されない。なぜならそれは知識人だからだ。言葉巧みである知識人は常に言葉と知見のチェックを受ける。それが彼らの運命だからだ。言葉のすくない巫女たちは周囲をミメーシスするようなパフォーマンスを日頃から求められる。それが彼女らの役目だからだ。巫女から知識人への変遷は如実に言葉に現れる。このことをベースにした吉本隆明の詩論は、ここまでも射程においているといえるだろう。

       -       -       -

 プライベートでは「暗い」と自称するあつこやたかみな。AKBがなかったら自分らには何もなかったともいう。結婚なんて想像もしないとも。彼女らにあたえられたステージはより普遍性を増しつつ拡散する運命にある。ただ共同幻想論でいう巫女と異なるのは家ではなくともいつでも帰れる劇場があることかもしれない。会いにいけるという対幻想の束の間の充足に惹かれるファンと、応援してもらえるという巫女たちのゲームをビジネスモデルとしてAKBは生まれたのだ。

 現在メンバーは恋愛禁止をはじめとしたいくつかの掟のもとにある。注目され期待されていた数名のメンバーや研究生らがAKBを去ってもいる。ステレオタイプにさまざまなオタクを集めてつくった中野腐女シスターズが音楽活動を停止するいまAKBはメジャー化という根本的な矛盾へ向けてダイブする運命にあるしそれしかないだろう。NMB48が所属の吉本興業から?と評価されだしたらしいが、メジャー化を指向するのがあたりまえの世の中で、AKBに求められている課題は小さくはない。普通の女の子に戻るしかなかった伝説のアイドルグループ、キャンディーズ。女子大生ブームをブームで終わらせてしまったオールナイトフジ。それなりの結果を残したおニャン子クラブ。このいずれとも違った展開が期待されるはずのAKBの今後は予想がムズカシそうだ。

 学者が書いたあるAKB分析?本でもこじはるは名前が出てくるだけでまったく考察されていない。理由はカンタンで単に考察できないのだろう。それほどこじはるの手がかり?となるような表出が少ないのかもしれない。しかしそれこそがある意味で巫女的なものであるとすれば、共同幻想論的なものが吉本にしか書けなかった証左でもある。誰にも明らかな手がかりがなければ考察できないような能力やスタンスで何が考察ができるのか?

  巫女はこのばあい
  現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、
  共同幻想の普遍性へと雲散していったのである。
『共同幻想論』

 こじはるだけが恋愛禁止を解かれる可能性について秋元はどこかで触れている。その意味するところが巫女的なものからの離脱であるとすれば、時代はそれだけ進歩したといえる。雲散することなく日常への平穏な着地を見送ることをできるシステムを秋元は<卒業>として設定した。巫女というノンバーバルな表現主体をプロデュースする秋元は自覚なき(古代の)知識人といえるかもしれない。

       -       -       -

 AKB48からのスピンアウトユニットでこじはる、たかみな、峯岸みなみみぃちゃんの3名で構成されるno3bがある。3名とも歌もダンスもうまいのは当然、ガチャンピンともニックネームされるみぃちゃんの歌唱力はバツグン、たかみなはもともとソロシンガー志望、AKBオーディションでプロを感心させたこじはるの歌。最大の特徴は3名のキャラがバラバラなこと。最強ユニットといわれる理由はそこかもしれない。20年後も芸能界に残ってると秋元が保証するみぃちゃんはトークが上手くAKBメンバー中では頭の回転が早くて一目置かれている。このno3bというたった3名での構成員の幅のひろさがポイントだ。AKB48初期にあつことともに2トップを飾ったこじはるとAKBの顔になりつつあったたかみなをあわせ、ダークホース的にみぃちゃんを組ませたユニットは、AKBをめぐる情況をある意味で打開していった。ただのアキバローカルな存在?とも思われかねなかったAKB48がメジャー化への意志を示した第一歩にみえた。権力が2名でも生じるように、「多様性予測定理」は3名でも発現する。

 こじはるの雰囲気に恐れをなして1年間も口をきかなかったたかみなと、こじはるに一生けんめい話しかけ続けたみぃちゃんとこじはるのユニット。no3bはいま仲がいいことをひとつのウリにもしているほどだ。<純粋ごっこ>と吉本が指摘した青春期ならではの友だちの関係をトレースすることは最大のSPかもしれない。ジジェクが現在というものを<ソーシャルまで売りやがって!>というのはきわめて正しいだろう。問題は買えるかどうかなのだから。

2011年12月26日 (月)

「アタシのことがキライでも」…から

「アタシのことが…」女神という巫女


アタシのことがキライでも
AKBのことはキライにならないでください


 6年前に観客7人の劇場でスタートした彼女らはいまやミリオンを連発する。
 その神7とも呼ばれるメインメンバーのセンター、絶対エース前田敦子の言葉に客席の秋元康も涙ぐんでいる。

 117万票を集めた選抜総選挙は政治的な議員選挙よりも大きい。

 SCやコンビニ1社の売上が弱小国家のGDPをはるかに超えるように、ここでは信用もマネーもそしてさまざまな影響も想像以上に巨大なのかもしれない。この得票を超えるような規模の政治的な選挙など数えるほどしかないだろう。

 そこで絶対エースと呼ばれる彼女=あつこは1位に返り咲いた歓喜の中で、涙声から絞りだすように言った。そこにはどこにも勝ち誇るようなおもむきはなく、AKBという共同体のためにだけ渾身を込めて伝えようとする彼女の姿があった。

 この夏まで…とメンバー自身が予想していた人気は、その夏までに大ブレイクしてしまった。

 他のメンバーのファンに嫌われる覚悟と、AKBという共同体を至上のものとしているあつこの思いがそのままの言葉はシンプルだ。自分とAKBをトレードオフしようとするこの態度は共同体にとっての巫女のものと同じ。さかのぼれは生贄のニュアンスとも近似する。

 自分がキラワレてもいいからAKBのことをキラワナイでというスタンスは、共同体をめぐる巫女のように、自らの(運)命がトレードオフされている。
 ファンにとってアイドルは多少でも巫女的な趣きがあるが、所属するグループにとっても巫女的であることを彼女は自ら示している。それがセンターの意味であり絶対エースの価値なのだろう。

 選抜総選挙での投票権はCD等に付いてくる。そのために投票目的での大人買い?が多数いるのでは?と一人一票の公正な選挙ではないという批判がTVキャスターなどからあった。あつこと1、2位を争った大島優子ゆうこはいう。票はアタシたちへの愛です…そこには愛が強ければ何票入れてもいいはずという解釈もアリで、ファンの喜びとともにメジャーなメディアへの反駁への共感もあり会場をわかせた。子役時代から業界が長いゆうこならではの政治的とさえ思えるレスポンスの説得力は小さくはない。あつことは対照なゆうこという存在もAKBの幅のひろさを示している。実際には売れまくったCDの数と比べれば投票は少なく、大部分のCDは聴くために買われたことが数字上証明された。音楽としての正当な評価もAKBを支えていることになり、彼女らのメジャー化は本物であることが確かめられたといえる。

 今年は結局年間トップ5を独占してしまった。

       -       -       -

 「大声ダイヤモンド」が耳に残り、「Beginner」のセンター別バージョンのプロモに興味を持ち、「RIVER」を思い出し、「桜の木になろう」に惹かれた頃にはメンバーの名前を憶えてしまっていた。しばらく前までたかみなとゆうこの区別がつかなかったのが信じられないくらいだが、見納めにふさわしいと思ったのは「ヘビーローテーション」のTVプレミアヴァージョン。センターゆきりんSKEフロントと走り隊7というフォーメーションだった。来年のフロントメンバー推し企画だろうけど。

  巫女はこのばあい
  現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、
  共同幻想の普遍性へと雲散していったのである。(『共同幻想論』

 雲散していく先を探していくハイ・イメージ論は早すぎた批評だったのか?
 いまこそオンタイムのハイ・イメージ論にリスペクトしつつ、AKBを観たり聴いたりしていて気になったのが選抜総選挙のあつこのコトバだ。

       -       -       -

 一般意志が正確で強固なのを論理的に数学的に証明したとしてスコット・ペイジの「多様性予測定理」「群衆は平均を超える法則」『一般意志2.0』で紹介されている。
 AKB48はメンバーの幅とそれをフォローするファンの幅が広く、この2つの法則があてはまるサンプルとしてもピッタリ。昔?プロのヒット予測が当らなくなり(的中率50%以下)CDの売上がダウンする中でTKは登場して大ヒットを連発した。この時のプロの論者によるTKへの批判や非難は単に自己防衛か嫉妬やヤッカミだが、そもそもプロの予期が当たらないのは原発事故でも確認されてしまった。
 ネットではジャスミン革命から直近の話題まで特殊意志があふれている。そこから一般意志を抽出することは困難ではなく、その可能性にかけた『一般意志2.0』の示すものは大きいし、明るい。選抜総選挙ほどの票も集まらない政治選挙の意義はホントウにないのかもしれないし、巫女が発現させたものがリアルな政治を超えるのはありうることなのだ。
 共同幻想では推しメンとファンの関係を語れる、一般意志はそれが政治や国家のあり方に波及するトレンドが語れる。スコット・ペイジのいるサンタフェ研究所といえば複雑系の拠点としても懐かしい?かもしれないが、投資の予期などで現役だ。しかしバブル経済とその崩壊は予期できないことをも証明してしまった。金融工学のノーベル賞の翌年には受賞者のヘッジファンドLTCMがロシアのデフォルトで破綻している…。現実のコンフリクトは常に最大値だが、思索は常にそれを超えようとする。衆愚(大衆)そのものに解を求めたスタンスは共同幻想も一般意志もまったく同じようだ。

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