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2012年12月18日 (火)

『悪人正機』とか…子は親から生まれるラジカルな事実

 どんな言説も世代論にしか還元できないフラットな輩と、子どものさまざまなイレギュラーは親のせいではないという倫理も理論も無用なモンスターな論者が8割を占めるという現実とは何か…

 子は親から生まれるという単純な事実は、子にまつわるあらゆる現象(病気、行動、性格…)は親に(も)起因するという論理を可能にするし保証する。子の遺伝子が親の遺伝子から生成されるという全生物にとっての客観的な事実だけではなく、人間においては子の育成環境そのものが親によるものであり、少なくとも倫理的にはその全責任は親に帰するものだからだ。親の倫理というものの根拠はそこにしか生まれない。その倫理を背負う勇気を<愛>と呼ぶのであり、それが相互に対等なヨコ系?の関係にシフトしたものが恋愛の<愛>でもある。子や相手をすべて負うということでは2つの<愛>は同じものだといえるかもしれない。

 親が子についての全責を負う自覚こそが<愛>であり、これが現象的には家族愛のベースになる。タテ系(時系列)の対幻想だ。この幻想だけが科学的な認識やマテリアルな関係性を超える可能性をもっている…と考えても過言ではない。事実この関係だけが人類を可能性せしめてきたからだ。なによりも子の安寧が、そこにある。これは神や宗教が与えるものとはレベルが違うもの。マテリアルな事実であり現実の生命の保証でありだからこその安寧だ。しかもそこには未来への可能性がある…。

 キリスト教などが隣人愛を主張して家族愛を否定するのは自らのイデオロギーとしての愛を普遍化するため。そうしないとイエスだの神だのは自らの(存在)意義を普遍化できないからだ。もちろんヨコ系の対幻想=恋愛はこれともっとも拮抗するものだろう。

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 親鸞の<悪人正機>(『悪人正機』参照)の根本には親子(愛)のもとでは子の<罪>もその半分は親に帰依すると考られている。そしてこの<罪>は過去に遡って連続する。だから仏教は過去を、つまり先祖を供養するのだ…これを指摘した吉本隆明の宗教理解はずば抜けているといえる。

 宗教や信仰(といった疑似的な愛)が普遍化するためには対立し拮抗する諸々の愛を凌駕していかなければならない。そのために倫理が設定されるに過ぎない。とりあえず宗教にとって最大の強敵は親子愛というタテ系の関連性と恋愛というヨコ系の関係性だろう。あらゆる宗教と大きな?共同(幻想)性ほど、この愛を即物的な<性>としてタブー視することの根拠は、その程度の問題にすぎない。
 しかもこの2つの愛は縦横変換ができる。その交点にあるのが家族だ。また縦横変換と外部との共同性との交点にあるのが兄妹を夫婦とする古代王朝に特徴的な近親愛だ。この理由に触れないで近親婚タブーを指摘してもそれはフィールドワークの域を出ない。問題は親族の構造ではなく親族が否定される構造にあるからだ。そして、すべてを愛から解こうとしたフロイトは完全に正しいが、そこに3つの位相を見出せなかったのはフロイトの限界なのだろう。この限界の突破からスタートしたのが吉本隆明だった…。そして、3つの位相の特徴は相互に排他的な関係であるところにある。これが<関係の絶対性>のもっとも抽象された基礎だ。

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 関係の絶対性は<否定される構造>から、否定されると次に何が生成するのか?…を解き明かした。
 対幻想が否定されて共同幻想が生成するのは論理的にも事実だが、自己幻想は逆に共同幻想の軋轢から生成する…。類でしかない生物には、この自覚は不可能だが、人間は共同幻想間の軋轢から自ら(個人)を獲得してしまう…。なぜなら共同性のレベルでの認識はその(関係の)根拠をマテリアルに還元できないために意識の冪乗としてしか意識できない…。そして、そのために最初に生じるのは感情だ。際限ない冪乗化の自覚なのだ。

 冪乗化の昂進は感動であり激情であるために、それはコントロールされるための規範が必要とされる。このプリミティブな規範が鼓動から演繹し分周するリズムや叫び声から抑制されていく唄であり、その形態化が踊りと歌であることは異論がないだろう。
 ヘーゲルが、つまり西欧近代が排除し捨象しようとしたアフリカ的段階から、それもヘーゲルの言説をたどりながら、吉本はほとんどすべての原点でもある未開の観念の運動を解き明かしてしまった。また遠隔対称化の具現として縄文土器の紋様やタトゥー、身体への加工(自傷)、トーテムポールといったものを鮮やかに解いてみせる視線はノンジャンルで展開されている。その視線こそが<世界視線>なのだ。

 ようやく博物誌や「構造主義の考古学」にたどりついたMフーコーはしかし何か間違いにも気がついた。いかなるゴールにも正しさはなく、常に問われるのは方法そのものであることに気がついたのではないだろうか。

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 親子の相互の離脱=遠隔(対称)化

 個体としての未開人が次第に冪乗化する意識をそれ自体として遠隔化し対象化していく過程は『アフリカ的段階について―史観の拡張』で考察された。
 柳田国男のいう軒遊びにみられる親子の、相互に親和的関係(対幻想)から離脱していく過程には、すべての物語が含まれてもいる。別離が終点ではなく物語の始点であり原点であることはいつまでも変わらないのだ。

   「家遊び」は親の保護下での遊び。
   親が認めたものを、親のコントロール下で遊びます。

   「軒遊び」は親の視界内での遊び。
   親の眺めのなか、親の手の届く範囲内で遊びます。

   「外遊び」は親の視線も手も届かないところでの遊び。
   親がいないところで、親の知らない遊びを(も)します。

「エピソードな原点『幼年論 21世紀の対幻想について』」から

 自由が遊びの形なき規範なら、その反対に規範のなかで行使される行為=労働がある。
 吉本とマルクスそのものが逆立するように関係するその思索の全体像は、まだまだ未開なのかもしれない。

2009年4月 8日 (水)

人間のすべてが語られる『超恋愛論』

 『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ 』に続く思想や理論ではない軽い談話のような本。しかし、ここにはどのハードな吉本本にもなかった問題がクローズアップされています。個人幻想からひきこもり、そして淡い恋から情熱的な人間関係、約束、掟、法律と国家や宗教の関係、家庭内暴力、三角関係、そして表現-指示表出までが展開する吉本ワールドがそこにあります。

 いままで<対幻想>を根底においてきた吉本さんが、ここでは<三角関係>を取り上げて、社会が成立した以降の三角関係ならではの観念の動きについて考察しています。恋愛からファシズムまで、そしていまだナゾの心の動き…。日常的な言葉で、しかし吉本理論の臨界ともいうべき困難な問題を、どのように困難かが語られています。

 対幻想の究極と三角関係の不思議を考察しながら、そこに恋愛の極限と日本の後進性を見出しています。

 対幻想(家族関係)から観念が遠隔化していく階程を解き明かしたのが吉本理論のメインでした。この観念の遠隔化を遡行した時に、どこまで遡行可能なのか?というのは一つの大きな問題ですが、フロイトを援用する形では<エス(→自我)>がひとつのゴールだと考えられます。『心的現象論序説』に示されているように自己が自己を対象化した時点で〝幻想対〟といえるからです。
 エスから生成・離脱しようとする主体化志向の動きと、その動きの作用によって必然的に形成される反作用としてのエス化志向(非主体化)?の動き、この2つのベクトルがあるワケです。<主体を確立しようとするコト><エスへ戻ろうとするコト>ですね。

 三角関係の考察で異性愛に同性愛(友情)が拮抗してしまった、あるいは超えてしまったことにフォーカスした鋭い考察がなされます。異性(愛)に拮抗するものが多種多様に存在するのが現在であり、それは<n個の性>として、あるいは「多重見当識」『戦闘美少女の精神分析 』(ちくま文庫)斎藤環)としてもあるでしょう。

 <恋愛>と<結婚>の違いも、日本におけるその歴史から考察されています。<恋愛>は対幻想の世界ですが、<結婚>はそれを<共同幻想>から認知されなければいけないという点が大きく構造が違います。また共同幻想は第三者でもあり、それを回避しようとする心性は近代日本の特徴でもあるという指摘がされます。

 吉本は1人の男性が友人にも女性にも気持ちを<話せない>で内向していくのが三角関係のベースにあると分析します。問題はその男性が気持ちを話せないことです。するとこの問題は<ひきこもり>や誰もが通過するであろう孤独の焦燥と同質であることがわかります。

 「ぼくが恋愛論の本を出すなんて、初めてのことです」ということですが、結局、人間の原理のすべてに関して書かれています。思想や哲学といった専門用語の羅列とは違ったフィールドで、どの思想や哲学よりも人間の根本を語ってしまっている著者がここにいます。〝人間の人間に対する関係の全てが男の女に対する関係の中にある〟という若きマルクスと同じ認識がここにあります。(彼女のために決闘してこめかみに傷を負ったマルクスの武勇伝は、どこか吉本さんに通じるものがありますね…)

 個別的現存でしかない個人が人類となる契機を一対の男女に見出したマルクス『経済学・哲学草稿』の提起した問題は共同(幻想)化という展開を経て現実を規定していきます。吉本理論がその解のキーであることは読者が確認することでしょう。

           
超恋愛論

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,470
価格:¥ 1,470

   

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