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2016年9月17日 (土)

エディプス・コンプレックスが届かない無意識の<核>

 母から生まれ、母に育てられる人間の存在のあり方と比べて、子にとって父が意味をもってくるのは社会化し始めるころから。吉本的あるいは母型論的には外コミュニケーション以降だと考えられます。それ以前の、胎内から言語以前までのコミュニケーションは代謝なども含む内コミュニケーションとして最重要のもの。この内コミュニケーションこそ無意識とその核を生成し形成するステージでありレイヤーであり、<大洋>という言葉で表された状態になります。


   問題児を抱えた家族から委嘱されれば、
   非常に厳しい訓練を課して、
   父親代理人となって立ちふさがる…
   …
   それで解けるのは、たぶん心の表面層と中間層のあいだくらいまでだと思います。

                                                                                      (『人生とは何か』P61)


 ファザコンからアプローチしても、その分析は深くならず「無意識の核」までは届かない…把握でき解決できるのは「表面層と中間層のあいだくらい」まで…。このシンプルですが、とても大きな意味のある指摘は、吉本隆明が無意識についての思索を巡らせた90年前後のものと思われ、まだ中途のもののようです。一時期流行ったスパルタ式の教育や訓練セミナー的なものについての論評の一部。



 ファザーコンプレックスは有名な言葉であり概念ですが、現実にどのような意味を持って心理や精神医療の世界で使われているのでしょうか。

 日本のポスモダ、ニューアカでもファザーコンプレックスは重要な概念でした。資本主義のパラノドライブをドゥルーズ=ガタリを手がかりエディプスコンプレックスで説明してみせたニューアカのスタートは、バブルへ突入する時代を素直に反映した上部構造現象ともいえます。日本初のラカンの解説でもあった『構造と力』がニューアカの聖典なのだから当たり前かもしれませんが(同書の時点ですでに浅田彰氏はラカンの限界を指摘しているのは、さすがの才だと思われます。しかし、それに注目した論者がいないというのも日本のリアルなのでしょう)、人気のある何名かのラカニアンによる仕事も貴重だと思います。システム論との融合のような試みもあったようで、その元気さは思索を遊ぶ人たちにスノビッシュな刺激となりました。ウオール街の占拠デモを計画した共産主義者のジジェクも日本ではラカニアンとしても人気があります。

           
構造と力―記号論を超えて

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   フロイト的に云うと、無意識の世界、あるいは前意識の世界でもいいんですけど、
   それを3つの層に分けるのがとても分かりやすいと考えています。
   つまり、1つは表面層、1つは中間層、もう1つは核です.
   非常に奥深くこしらえられたその人の無意識の核というものがあります。

                                                                                     (『人生とは何か』P25)


 ラカンは無意識は構造化されているとしていますが、どう構造化されているのか説明がされていないようです。吉本隆明=心的現象論的には、『人生とは何か』『心とは何か』などで無意識を3つの層に分けた思索がされています。ある意味で汎用的な思索の枠組を当てはめた試論ですが、それだけに、思索の方法に長けている吉本らしく間違いのない展開がなされています。

 無意識の領域と現実界の間に境界領域を設定し、現実界側に意識の領域が設定されています。無意識の領域には現実界に接したところから順に表面層中間層が設定されています。現実界側に意識の領域が設定されているのは現実を認識しているものとしての意識という意味でありラカン的な意味での現実界ではないということなのでしょう。

 ファザーを対象化した場合の分析と解決への経路の限界は、当然ですが全ての人間とファザーより先験的ではるかに質的に深い関係であるマザーとの関係への探究によって解(説)かれていきます。 『人生とは何か』『心とは何か 心的現象論入門』『母型論』では母子関係からの分離、大洋からの析出が言語の獲得をはじめ人間が人間であることのエビデンスであること、その困難さそのものから描かれていきます。



           
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2014年6月20日 (金)

了解の系としての4つの時間性=クロック

 いっさいの了解の系は
 <身体>がじぶんの<身体>と関係づけられる<時間>性に原点を獲得し、
 いっさいの関係づけの系は
 <身体>がじぶんの<身体>をどう関係づけるかの<空間>性に原点を獲得するようになる。

                (『心的現象論本論』「身体論」<11 身体という了解―関係系>P73)

 これは、30数年の思索におよぶ心的現象論によるラジカルな結論の一つ。観念や意識といった心的現象における<了解>についての同定と定義がなされています。端的に、これ以上の微分的考察はなく、これ以外の哲学的な思索もないかもしれません(恣意的なものはいくらでもありますが…)。このことから、心を科学したときの臨界的な定義ともいえるもの。『心的現象論序説』ではこのように時空間概念を駆使して心が解析されていきます…。これらをある意味で純化し、より現代的な科学とする、あるいは(単に)時間性や空間性という概念でよりクールに考察すると、どうなるか…。やはり、20数年以上の思索(と実証や実験)で同じような問題(意識…『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』)に到達しつつある認知神経科学などとの公約数的なもの(あるいはエビデンスとして)も意識しつつ、“人間をOSに例える”ような(荒唐無稽な)トレンドさえも念頭において考えてみるのも面白いかもしれません…。

 生命活動そのものが、30億年かけて地球物理学的なスケールの環界から帰納的に生成した、わずか6個の時計遺伝子によって営まれています。そして身体のラジカルなファクターはバイオリズムに代表される数種類の時間性=クロック。胎内から出産、そして生きていくことそのものというストレス以外では、このクロックのあり方そのものが大きなファクターになります。
 心的現象論的には、いくつかのクロックに集約できそうな時間性が、そこにあります。

       -       -       -

 知覚受容に結びつく時間化度の概念は、どのように想定されるべきだろうか?
 もっとも単純なのは、
 人間の<身体>を生理的自然としてみたときにかんがえられる神経伝播の速度であり、
 神経生理学者のいう<クロナクシー>によってこの時間化度は規定される。

                (『心的現象論序説』 Ⅲ.心的世界の動態化 P101)

 最低刺激量としての閾値からの乖離という神経生理学的な認識が、心的現象(論)としての基礎(始源)でもあることが宣言されています。身体に依存しますが、そこに還元はできない心的現象(=観念)への基本的な認識がここにあります。(「還元はできない」ことを念頭に置かないと荒唐無稽な認識になります。いわゆるゲームや人工知能で人間を例えられるとするような…)

 身体の時間性は、生物としての存在でもある人間の自然な時間性です。
 身体の時間性は、人間にとっての自然な時間として他の時間性を統御しています。
 身体のクロックは、身体をマターとする自然(の進行過程)と考えられます。ボディ・クロックあるいはシステム・クロックとして人間個体の基礎になるものです。

 観念の時間性は、感情や感覚的なものも含めて可変的な、伸び縮みする時間性です。 楽しいとあっという間に時間が過ぎ、大変なことは長く感じたりするのがその例です。
 観念のクロックは、<感情><感覚>をマターとして変化すると考えられ、マザー・クロックといえるものです。 

 思考の時間性は観念の時間性の影響を受けますが、ロジカルな時間性として人間が自らコントロールできるものでもあり、学習や経験によって可変的なスマート・クロックです。
 思考のクロックはロジカルであり、マターとしてはコントロール可能です。

 環境の時間性は、自然環境そのもののマテリアルな時間性であり、いちばん大きな影響を人間に与えています。たとえば成長や老化や死は、人間がどんなに努力しても免れません。しかし、部分的局所的には働き(労働)かけて変えることもできます。
 環境のクロックは、宇宙や地球環境を最大のものとし、身近なマテリアルに至るまでさまざまなものがあるマター・クロックです。
 人間がテクニカルに働きかけることにより変更が可能です。

       -       -       -

人間の個体の全体性は身体のクロックに統御されて維持(=動的平衡)されています。
人間個体のあらゆるイレギュラー=異常や病気は、この個体のクロックをシステムクロックとしたコントロールからハズレること。

   …思考の固有時間性にともなって<身体>の時間性は変容させられ、
   この変容の態様にしたがって、<身体>はその<クロナクシー>をすてて
   変容された時間性に対応する変形と、変形された行動とを体験する…

                (『心的現象論序説』 Ⅲ.心的世界の動態化 P110)

そのシステムクロックともっともシンクロすることを求められながら、同時に常に反作用としてシンクロ率に大きな振幅をあたえているのが観念のクロックです。人間のマザークロックとしてあるこの観念のクロックは<大洋の波動>として<母>から授かったもの。その継承もネガ・ポジを両極とする数段階のステージを含む両価的なもので複雑。個体におけるその表層的な位相が、ここで「思考の固有時間性」と呼ばれているものだと考えられます。

   …分割された対象性の再構成が
   <クロナクシー>によって規定される時間化度を離脱すればするほど、
   わたしたちは高度な時間化度をもつものとかんがえることができる。

                (『心的現象論序説』 Ⅲ.心的世界の動態化 P102)

対象への認識(知覚など)は脳内(観念内で)で再構成されて最終的な認識(自己確定)へ進んでいきますが、この時に時間性(時間化度)が認識を大きく左右する(される)ことが示されています。問題はこの時間性の由来と行方です。
「分割された対象性の再構成」というのはとてつもなく大きなファクターで、認識上の統合失調症的なものも、言語の表出などに関する問題も、ダイレクトに影響しているのはこの次元でありこの段階でありこの領域の問題です…。

成長するにつれ、このマザークロックに大きな影響をあたえていくのがスマートクロック。
スマートクロックは均質性に依拠した論理(性)でもあり、思考のクロック。意識(的な)のクロック、人為的な科学的なクロックともいえます。

このスマートクロックのリソースとなっているのは自然であり環境である物理的な世界(に由来するもの)で、マテリアルな世界における論理性や法則性がスマートクロックの原資となっています。

そしてスマートクロックや先のシステムクロックに最も影響をあたえ、規範にもなっているのが自然や対象そのもののクロック。マタークロックともいえるものが想定できます。クロノス時間?と近似するものも含意されるといえるかもしれません。

       -       -       -

これら4つのクロック…

 システムクロック
 マザークロック
 スマートクロック
 マタークロック

…は相互に関連し互いにそれぞれのリソースでもあり、TPOに応じて特異点的に個を形成(構成)しています。

クロック相互の関連である<シンクロ>を起点に思索をめぐらせ、個体のすべてのシステムの内的連関を理論化できる視点が吉本隆明氏の論考にあります。

       -       -       -

           
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2012年6月30日 (土)

リスペクト!『心的現象論本論』…資本主義への解?

30数年かかって未完に終わったのが心的現象論。その序説と本論を合わせた「心的現象論」が豪華本として出ている。マニア?向けともいえるが序説(1965年~69年)と本論(1970年から97年)の合本はこれが初めて。同時に本論だけの「心的現象論本論」もでている。また「心的現象論序説」は角川で文庫化されているので古本が入手しやすい。

本論は2段組500頁を超える。うつ病などの症例から縄文土器の文様までさまざまな具体例から解き明かす内容で読むほど説得力に富んでいるが、そのエグザンプルの多さ類例の列挙には戸惑う人もいるかもしれない。理論の基礎に関する部分でヘーゲルなどへの参照が少なくなく「心的」より「現象論」としてアプローチが深い。それゆえに現象学を“遁走”へと追い詰めることに成功している。哲学や認識論が微塵にされる数百頁だ。数学者野口廣さんのトポロジー論や「ジーマンの頭脳のモデル」からニューロンの数式化とさらなる解析を行ったり、LSDの実験論文の幻肢の消滅を考察(≒クオリアの消滅)したり、D・ボームやホログラフィ理論まで、文系の問題意識に理系の解析能力を駆使した考察が数百頁にわたって詰め込まれているのが心的現象論であり、吉本さんの思想そのものに一貫するスタンスだ。ハイイメージ論が指示表出=作品・商品の列挙から帰納していくのに対して心的現象論は個別的現存=個体の観念から演繹していく。未完の心的現象論の最後は言語の生成と展開についての論考で終わっているが、『ハイ・イメージ論Ⅱ』のエンディングも言語の生成と展開についての論考で終わっている。資本主義の商品としての指示表出と個人の観念である自己表出とが結節し交換する言語への問いで、2つの著作は、まるで出会ったかのように終わっている。

『ハイ・イメージ論Ⅲ』の最終章「消費論」はヘーゲルの動物概念が導き、選択消費が創出するフラット化した社会を示しながら、それへ対応できる知見も倫理もないことに不安の根源を見出して終わる。吉本隆明は理論的体系的な思索の最後に既存の思想や言葉が無効であることを指摘したのだ。

ここで吉本の共同幻想への思索は終わっている。この後、心的現象論の本論では個体の観念からアプローチすることをとおして、つまり心的現象論から演繹する形でさまざまな対象を取り上げ、やはり言語の生成を考察するところで未完の作業は中断される。その後、言語についての考察の形を取りながら、自身の思索を総括するかのように『「芸術言語論」への覚書』をだしたが、その論考のまとめであり仕上げがNHKで放送された講演だ(『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~ [DVD]』に収録)。次世代にアプローチできないものには世代を超えた意味や価値はないが、糸井重里の助けを借りて行われた最期のパフォーマンスは大成功のうちに終わったといえる。なぜならオーディエンスの大部分は若い世代だったからだ。

『ハイ・イメージ論Ⅲ』の最終章で示された、過剰の時代に欠乏の時代の既存の思想や言葉が無効であることは、クリアされるべき課題として、現前にある。不安は原生的疎外が新しい現実を受容するときの閾値によるが、吉本は既存の言葉の無効を示しながらも、“よきノマド=グローバリスト?”のように楽観的だ。バブルとその崩壊に関しての論考にも悲観的な趣はなく、楽観的で古典でもあるような“自由人の自由連合”というユートピアも夢想でもないハズだ。“すべては<代入される空間性>”という認識に1つの解のヒントがある…ということを吉本隆明から学んでからもう10年以上たっている。

2012年6月29日 (金)

3つの細胞の由来

 受精卵が胎胚細胞に発展するときに3種類の細胞ができます。
 内胚細胞、中胚細胞、外胚細胞3種の胚葉細胞です。
 人間のすべての細胞はこの3つの系統のどれかからできます。

 やがて内胚は内臓、中胚は筋肉や骨格、外胚は皮膚と目などの感覚と脳になります。
 機能的には内臓は植物系、筋肉や骨格は動物系だといえます。つまり植物系は無意識でも働いていて、動物系は意識してはじめて運動するということです。
 根源的には植物系は恒常的な生命の維持そのものが目的であり、動物系は外部に働きかけて栄養などを獲得することが目的です。
 外胚から発達する神経系である皮膚や感覚は外部の情報を収集します。そして脳がそれを認識し内臓や筋肉へ指示をだします。脳は外胚から内部へ陥入した器官です。

 現実にはこれらの3つの系統の器官は相互に絡まって1つの器官や組織を形成して機能し、全体として身体と心身のシステムを構成しています。
 肺のような器官は恒常的に無意識に呼吸していますが、それを意識的に止めることもでき、また敏感に空気の汚れを感じて反応したりもします。肺では3つの細胞の由来が機能として1つに統合されているのです。そして運動やストレスで呼吸が乱れるのは人間だけだといわれています。

 このことは人間だけが3つの細胞の由来が身体心身のいろいろな面で統合されている可能性を示しています。それは逆に3つの細胞の由来がそれぞれいろいろなところで表出する可能性を示してもいるでしょう。普段は無意識に働いている呼吸を意識的に止められるように、無意識な身体的な反応や機能をコントロールできる可能性があります。たとえば便意や尿意も意識的に止められます。このことは反対に意識的な機能や行為が無意識や意識できないものによって影響を受け左右される可能性も示しています。それは緊張やストレスで汗をかいたり震えたり血圧が上がったり....さまざまな現象が考えられます。そればかりか現実には意識そのものが無意識に左右され影響を受けています。

 結果としてそれらの究極の現象であり、あるはそういったことの原点だとも考えられるのが例えば統合失調症です。そこでは考えてもいないのに考えが浮かび、見てもいないのに幻覚が観え、聞いてもいないのに幻聴が聴こえます。

 吉本隆明さんこの統合失調症の由来を三木成夫さんの解剖学、フロイトの心理学などを援用して考察しています。
 それは逆に統合失調症的な症状から人間の可能性を探った論考だともいえます。ハイ・イメージ論などに結実したJ・ケージやニーチェ、カフカへの論考にそれらはダイレクトに表出しています。

 人間が植物系、動物系、神経系の3つの細胞から形成される事実からの論考は、身体に依拠しながらも身体に還元できない心的現象を、ギリギリまで追い詰めたものでもあるでしょう。


 日本のポストモダン的なトレンドのスタートを準備した市川浩身体論なども、三木解剖学の知見に大きな影響を受けています。(思想(史)的には中村雄二郎の『共通感覚論』がある)

 

『ハイ・イメージ論Ⅲ』で共同幻想への最後の思索を巡らせた吉本隆明さんは、『心的現象論本論』で個体への徹底的な考察に入ることになります。心的現象としても神経生理学や解剖学的な見地としての閾値の問題としても、リアルな個体の問題がフォーカスされていきます。



           
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 これら吉本さんの全体像を総合して考えると、そのスタンスは市井の思索者だったというよりは完全にノンジャンルのオールラウンドな知識人だったことがわかります。市井であるのは、倫理の問題としてであり、自ら肩書きを拒否し続けることによって“よき人々との別れ”を活かし?続けたようなイメージがあります。物語としての悲劇が永遠であるように、永遠の倫理を自らのものとしようとしたかのように、別れを反芻したのではないでしょうか。

2012年6月25日 (月)

モノクロをカラーにする<心>とシステム

 モノクロの微細な線で描かれた模様や絵が、部分的にカラーに見えることがあります。
 虹色のグラデーションが見え、際の方ではゆらゆらと動いて見えたりする現象です。心理学では錯覚だとされていますが、もちろん、これは錯覚ではありません。視力検査の時に多少ボヤけてる線の周辺がカラーに見える現象を体験した人は少なくないでしょう。
 これらは知覚として、“そう見えるようになっている”ために、そう見える現象です。つまり、そう見えるシステムがそこにはあるワケです。そのことを理論的に説明できるレベルの発見と思索は“最も難解な本”といわれる吉本隆明さんの『心的現象論序説』にしか手がかりがありません。

 ある感覚を刺激すると、他の感覚が変化して敏感になるような現象があります。文字を読む時に黒い文字に色が見えたり、音楽を聴くと景色が色彩豊かに見えたり、何かを想うと何かが見えてきたり…する、共感覚というものがあります。美味しい食べ物を思い浮かべると味覚がして唾液が出てくる…というのも単にパブロフの反応といわれるものだけではなく、これらの共感覚といわれる現象のせいもあるのではないでしょうか。詩人ランボーの文字には色がある…という有名な詩があるほどで、この共感覚という現象は珍しくはありません。

 ただし共感覚は共感覚を持っている者それぞれで千差万別。人ごとに異なる現象で普遍的ではありません。
 一方、モノクロの線がカラーに見える現象は普遍的で、誰でも経験できるもの。微細な線で描画されたものがあれば、誰でもすぐに確認できるものです。

 赤い色が“アハッ”と思うほど感動的な赤い色に見えるのも、この現象の延長にあるものだと考えられます。それが「クオリア」と呼ばれる現象の実態です。

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 問題はどうしてモノクロがカラーに見えるのか? その理由です。

 これは誰でも無刺激の部屋に入ると30分くらいで幻覚を見てしまうという心理実験で確認されている現象と似ています。感覚に刺激がないと、刺激の元(原因)をでっち上げてしまう心理作用が人間にはあり、物理的に存在しないものを観念的(心理的)にフレームアップしてしまうワケです。これは人間ならではの、想像力などの源泉となる能力の一つだと考えられるものでしょう。

 モノクロの微細な模様(だけ)では見極めがつかない…それを見極めようと、モノクロの視覚像に価値判断として着色してしまう…というのが、この現象の機序だと推論することができます。

 このことから2つの重要なことがわかります。
 人間は分からないことに対して分かろうとする強い志向性を持っている…そのために、見極められないモノクロの模様に対して、本来は知覚以降の価値判断の次元にある色彩の違いを、感覚の末端である視覚の領域にも影響させて視覚を過剰コントロールあるいはオーバードライブさせている、ということです。吉本理論の言語論の表現でいえば指示表出に自己表出が影響を与えてしまっているということであり、言語としては無価値である名詞に価値の志向を与える助詞のような意味作用が加わってしまった状態といえるでしょう。この状態がアートであり『言語にとって美とはなにか』の<美>が指し示すものになります。

 この心理的な作用=心的現象の根本には、心理を動かしている基礎となる感情があります。
 感情とは怒りとか悲しみだけではなく、むしろこういった心的現象をコントロールする動因としての機能があります。『心的現象論序説』で<中性の感情>と呼ばれるものがそれです。<純粋疎外>という概念装置を使えばこれは<純粋感情>というものになります。

 『心的現象論序説』を読むと、数行あるいは数ページにこれらの原理が提示されています。



   対象に対する知覚の空間化度と
   対象への了解の時間性が空間化した感情がシンクロした場合、
   これを<純粋感情>とする。

                           (『心的現象論序説』P135~36)


       -       -       -

 もうひとつ、感覚システムそのものの限界としてモノクロの微細な線の集合にカラーを感じる機序があります。これは『心的現象論本論』で詳細が説明されているもので、閾値の問題。微細すぎて感覚が受容しきれない結果としてオーバーフローした視覚情報がカラー化される過程が解説されています。



   人間は色知覚をもった他の動物とおなじように、
   白色光(画光)の統御下におかれながら、
   この統御にたいして<完備>できないとき、
   色相として対象を把握するということができよう。

                          (『心的現象論本論』P8)


       -       -       -


           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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 “人間は人間に解決できる問題しか提起しない”というのはマルクスのクールな言葉ですが、この言葉を幾度となく実感させてくれたのは吉本さんの著作でした。

       -       -       -

このエントリーの「分かろうとする強い志向性」と「閾値の問題」は認識全般のラジカルなものとして文系理系といったものを超えたノンジャンルで提起され、解を求められるもの。吉本隆明は大きなヒントを示し続けてくれています。

(2014/1/13)

2011年10月27日 (木)

『共同幻想論』・起源論から

 「起源論」ダイレクトに国家の起源を解き明かす論考です。国家の生成の要件を“血縁からの離脱”とシンプルに指摘した考察は共同幻想論を代表するものとなりました。国家の機能を分析したものにはレーニン『国家と革命』があり、吉本はファンクショナルなものとしてはこれを高く評価しています。国家間の関係については、個人と個人の関係が互いに表出されるファンクショナルな要件(表情、言葉、行動、約束など)に左右されるように、幻想性より物的要件(の機能へ)の把握が第一義となります。もちろん機能分析をいくら行なっても認識=心的現象の解明がなければ国家の起源は不明のままでしょう。

 命名の仕方には場所や形、機能を表すなどいくつか基本形(正確には段階)があり、アメリカンネイティヴの名=呼称ならば“小さな谷に住む人”“大きな熊”“鷲のような手の男”などというものがあるでしょう。公家の名前が職能を表しているように、文字どおり名は体を表します。起源論では初期天皇の名が諸国の大官(専門職)の名であるところから邪馬台国の歴史的な段階や規模が特定される可能性が示されています。

 「天つ罪」と「国つ罪」が混成する古代日本の共同性のレベル。そこには背理などではなく重層的非決定というべき構成のイメージがあります。この「共同幻想の<アジア>的特性」とされるものを解明しようとする方法論こそ、マルクスやニーチェが欧米語の外に見いだそうとし、ヨーロッパ諸学の危機を超えられる可能性となるものでしょう。

 マルクスが一つの商品から資本主義のすべてを鋭く洞察し、小林秀雄が一つの言葉から文学を探究しようとしたように、この『共同幻想論』も『遠野物語』『古事記』という限られた資料から論がすすめられています。それはデータの多寡ではなく思考能力がものをいう正統な考察の典型といえるでしょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【起源論】

P239
はじめに<国家>とよびうるプリミティヴな形態は、
村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも、
血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。

この条件がみたされたら村落社会の<共同幻想>ははじめて、
家族あるいは親族体系の共同性から分離してあらわれる。

そのとき<共同幻想>は家族形態と親族体系の地平を離脱して、
それ自体で独自な水準を確定するようになる。

P240
<国家>の本質は<共同幻想>であり、
どんな物的な構成体でもない…

論理的にかんがえられるかぎりでは、
同母の<兄弟>と<姉妹>のあいだの婚姻が、
最初に禁制になった村落社会では
<国家>は存在する可能性をもったということができる。

 いちばんシンプルでラジカルな絶対的な国家の定義がここにあります。「物的な構成体」への分析は一般的な経済学から政治学をはじめさまざまなものがありますが、国家の起源を問えたものは極めて少ないと思われます。萱野稔人のようなポストモダン批判を意図した丁寧?な国家論(『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』『国家とはなにか』)もありますが、それは現代思想そのままにファンクショナルなもの。国家の機能や現状への分析は必要ですが、それだけでは国家の起源を問うたことにはなりません。

P262
初期天皇群につけられた<ヒコ><ミミ><タマ><ワケ>などが、
いずれも邪馬台的な段階と規模の<国家>群での
諸国家の大官の呼称だという事実は、ここでとりあげるに価する。

 邪馬台国と同レベルの諸国家のテクノクラートの官名?が天皇の名だった…という事実から推測できることは少なくありません。最近の埼玉古墳群などの大規模な遺跡の発見や多くの鉄器の出土のように、畿内より大きく進歩した文明の証左は今後も続くでしょう。邪馬台国や天皇が絶対的な存在でも権力でもなく、その規模も100余りある国家の一つだったことそのものが、系統だった神話を必要としたのだと考えられます。アジア的な大規模な潅漑や土木ではなく、観念に持ち込まれた大工事であり大改造のサンプルが古事記や日本書紀なのです。「物的な構成体」の貧弱さを観念に大工事を持ち込むことでクリアしていったことが推論できます。

P262~263
太古における農耕法的な<法>概念は<アマ>氏の名を冠せられ(天つ罪)、
もっと層が旧いとかんがえられる婚姻法的な<法>概念は、
土着的な古勢力のものになぞらえられている(国つ罪)。
この矛盾は太古のプリミティヴな<国家>の
<共同幻想>の構成を理解するのに混乱と不明瞭さをあたえている。
これは幾重にも重層化されて混血されたとみられる
わが民族の起源の解明を困難にしている。

 同じ行為が天つ罪になりながらも国つ罪にならない、あるはその逆であるなどの事実から罪を認識するスタンスが少なくとも2系統あることを見出し、そこから思索が展開されていきます。少なくとも全く異なる2つ以上の系統の人間(部族、氏族)が一緒に共同体を形成していったことが解き明かさてれていきます。<高天が原>と<出雲>の両方を象徴するスサノオの存在がその代表的なひとつです。

2011年10月25日 (火)

『共同幻想論』・規範論から2

 「規範論」は古代日本において約束や掟、法というさまざまなレベルの<決まり>が<規範>と化す過程を追いながら、宗教や法、国家の生成を解き明かしていきます。

 天つ国、国つ罪の2つのレベルの法がキメラな国家の法を形成していく過程から2つの共同性の並列と混在が探究されます。

 宗教権力と政治権力の並列、神権的な勢力と農耕的な勢力の混在、祭と政…。狩猟と農耕…。それらにトーナリティをもたせていくもの。マルクスが示唆したアジア的なものとはまた別の「共同幻想の<アジア>的特性」 が考察されていきます。

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【規範論】

P234
人間のあらゆる共同性が、家族の<性>的な共同性から社会の共同性まで
すべて<醜悪な戯れ>だとかんがえられたとしたら、未開の種族にとって、
それは<自然>から離れたという畏怖に発祥している。人間は<自然>の
部分であるのに対他的な関係にはいりこんでしか生存が保てない。

 「<自然>から離れた」という認識は自然が対象化されたことを意味します。マルクスでは「組み込み」とか「埋め込み」といわれる概念で、<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく…というように考察されています。
 <醜悪な戯れ>を生みだした自然からの乖離とはどのようなものだったのでしょうか。マルクスが労働を媒介とするもの(その全般的な構造が下部構造)と考えたそれは、ここでは共同幻想(上部構造)として考察されています。

 「離れた」相当量が原生的疎外であり、そこからベクトル変容した観念から生成するのが「畏怖」です。心的現象論的には自我のエスからの離脱志向を自我を主体にすれば罪にエスを主体にすれば道徳になるもの。エスを人間個体にとっての自然とすれば、「<自然>から離れたという畏怖」というのはエスから離れた自我の罪(の意識)になるでしょう。
罪の意識が対象に投影されて畏怖として認識されるわけです。

P227
『古事記』のスサノオが二重に象徴している<高天が原>と<出雲>の両方での
<法>的な概念は、この解釈では大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接点を
意味している。それは同時に<天つ罪>の概念と<国つ罪>の概念との接続点を
意味していることになる。

 ローマ・カトリックがゲルマンのアニミズムを禁止し、やがてゲルマン側は神聖ローマの冠を戴いたように宗教と政治、権力のあり方は錯綜します。ユダヤ人の扱われ方から社会のレベルを解析したマルクスのように、社会(共同体)を時間性・空間性に解体しつつ不可逆な変遷(時間)と空間性の可換・不可換、時空間の変換を考察するというアプローチで古代日本の神話から日本という国家の成り立ちが明かされていきます。ルフェーブルが時空間性から都市問題を解析し、資本論をアルチュセールが時空間性で再読しようとしたように、それ以上の微分不可能なラジカルな概念装置による原理論は時空間概念を駆使したものです。

P229
氏族(前氏族)制の内部から部族的な共同性が形成されていくにつれて、
しだいに<天つ罪>のカテゴリーに属する農耕社会法を
<共同幻想>として抽出するにいたった…

このような段階では<法>はどんな意味でも垂直性(法権力)をもたず、
ただ<国つ罪>に属するものに、いくらかの農耕法的な要素を混入させた
習慣法あるいは禁制として、村落の共同性を堅持するものにすぎなかった。

 「垂直性(法権力)」をもたない法のあり方とは何か? 上から?見れば宗教的道徳的な、下から?みれば日常的な、(まだ)権力ではない法が治める状態つまり政治未然の法治というものが示されています。逆にいえば法治主義が絶対だと思わせる現況の社会がある種の異常でありうる可能性さえ演繹できる観点があります。ゲームや形式論理においてルール(法)は絶対ですが、リアル(現実)はゲームでも形式(論理)でもないからです。ルールはルールの設定者の最大利益に最適化されている、ルールの尊守はルール外への対応を不可能にする…この2つは、コンプライアンスが尊ばれる現況では隠蔽されています。それが法権力(法治)のリアルであることは宮台が指摘するとおりでしょう。
 マルクスはマテリアルな関係が社会を規定しそれが法を形成することを当初から見抜いていましたが、吉本はその関係を意識の問題=関係性として抽出しました。法権力の行使をともなわない法の錯綜した集積が古代の社会であることは、法権力(ルール・ワク組など)が絶対化しつつある現代社会の歪や異常性を可視化してくれる可能性があり、『アフリカ的段階について』はこの法が権力化する過程をフォローしています。それは共同体の構成を維持するためのトレードオフを象徴する生贄はどのように変遷していくのか?…というような認識へのトリガーともなるものです。
 2つ以上の共同性が錯綜する社会の状態で対立や緊張を回避しつつ百余りの国家を統一していったスキーム?がここにあります。アメリカの合衆国憲法がネイティブの各部族が共存するためにつくり上げた掟や約束をベースにしているように、重層的非決定ともいうべき様相の共同性は、現在にどう作用しているのか? たぶんこういった問いが吉本のハイイメージ論を可能にしたのでしょう。

2011年10月 4日 (火)

『共同幻想論』・規範論から考える

 「規範論」は宗教からはじまって法や国家に至るまで貫かれている<規範>の特定の位相についての考察です。約束から掟、法とさまざまなレベルの<決まり>がありますが、その決まりが生成する理由や意味への探究だともいえます。物象化の過程をフォローしたものともいえるかもしれません。

 別のいい方をすると、人間が自身をも含めて<自然>そのものを<疎外>していゆく過程への考察です。外化であり表出である<疎外>は、人間が産出するとともに人間を束縛し規定するもの。疎外論をベースとするマルクスの認識(方法)そのものがここにあるともいえます。共同性としては『ドイツ・イデオロギー』などで市民社会という動態から法という固定した社会の疎外態が生成する論理的な機序が描かれています。

 共同幻想は前段階の共同幻想を対幻想的なものへと抑圧することによって疎外することが指摘されます。社会の進歩(変遷)にともなう疎外態の変化を、あるいは疎外態の変化を社会の変化や進歩とみなすマルクスの鋭い洞察がありますが、ここではそれが古事記や日本書紀による日本の国家(像)の変化(共同幻想の変化)としてディテールへ踏み込んで論証されていきます。共同幻想が疎外されて家族(集団)的な幻想と化すというかたちで対幻想がフォーカスされる過程は吉本理論のオリジナルな成果でしょう。

 イザナギの物語の変遷が日本の共同幻想=国家(像)の変遷そのものを象徴していることの論証は、日本の国家論や訓詁学的なあらゆる検討のラジカルな解体を意味するものです。古事記や日本書紀の物語を編纂した古代の知識人のレベルや能力まで明らかにされ、知見の範囲までが特定されてしまう考察は吉本理論の破壊的な射程の深さを現しています。

 心的現象論において感覚から<形態>と<概念>が形成される過程は、この共同幻想論において<法>と<宗教>が形成される過程とパラレルでアナロジカルなイメージがあります。また、個体発生は系統発生を繰り返すという三木成夫の解剖学的な見地は三木を読む前から方法論的に吉本においても基礎的な認識として当然のものだったのかもしれません。

 ある行為が繰り返されるようになると、それを形態化(して把握する)する(ようになる)という合理的同調圧があります。常同反復行為はすぐに規範化します。社会においても市民社会で繰り返されたモノゴトに関してそれを形態化して把握するというのは法化のラジカルな哲学?でもあるでしょう。

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『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

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【規範論】

P231
経済社会的な構成が、
前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、
<共同幻想>としての<法>的な規範は、
ただ前段階にある<共同幻想>を、
個々の家族的あるいは家族集団的な
<掟><伝習><習俗><家内信仰>的なものに蹴落とし、
封じこめることで、
はじめて農耕法的な<共同規範>を生みだした…

<共同幻想>の移行は一般的にたんに<移行>ではなくて、
同時に<飛躍>をともなう<共同幻想>それ自体の疎外を意味する…

 「前段階にある<共同幻想>」を「封じこめる」ことで発展する…歴史の進行?というものが簡明に描かれています。ある意味で世界の進展と歴史の真理が簡明に描かれていることそのものが驚異的だと思わせます。
 「個々の家族的あるいは家族集団的」というのはそのまま<対幻想(的)>ということであり、「前段階にある<共同幻想>」が対幻想化されていくという過程が説明されています。驚異的なのはそれこそが歴史だという事実でしょう。世界の変遷とは共同幻想の変遷ですが、それは、いかなる共同幻想がいかに対幻想化されたかという視点から捉えることができるというこの宣言の射程と破壊力は凄まじいものがあります。

P231
『古事記』の神話で<法>的な共同規範としてもうひとつ問題なのは、
清祓行為の意味である。

…清祓行為は<共同幻想>が、
宗教から<法>へと転化する過渡にあるものとみなされる…

 <清祓行為>とカップリングされているのは<醜悪な戯れ>。こういうアプローチそのものがユニークであり興味深いものですが、その方法そのものが唯一のものである可能性が吉本のスゴサそのものを現しているといえそうです。
 <醜悪な戯れ>と<清祓行為>をアナロジカルに心的現象論の<原生的疎外>とその打ち消しとしての<生そのもの>(エロス・タナトス)の関係として考えると思索の可能性が拡がります。
 必然で常同的な観念が行為化し何らかの象徴性をまとっていく過程の分析はマルクスによる市民社会の分析とパラレルです。

P234
あらゆる対他的な関係がはじまるとすぐに、
人間は<醜悪な戯れ>を<法>または<宗教>として疎外する。


 日常の常同反復される行為はその度に新たに意識される必要がないために疎外態と化します。意識されない行為、自然に常同反復される行為がもっとも遠隔化された共同幻想として法や宗教となるわけです。“終わりなき日常”はこうして絶えず新たな法や宗教を生みつつあるのでしょう。<醜悪な戯れ>の理由を考えることは、ほとんどすべてのことを対象に探究することであり、ハイイメージ論はその現在の展開になります。

P238
<福祉>には<物質的生活>が対応するが
<共同幻想>としての<法>に対応するのは、
いぜんとしてその下にいる人間の<幻想>のさまざまな形態である。

 ニーチェの指摘にマルクスで返答しながら吉本自らの問題意識が提示されています。「その下にいる人間」と大衆を示唆し、「<幻想>のさまざまな形態」に戯れていこうとする密かな決意を読み取りたくさせる吉本ならではのテキストでしょう。“世界を凍らせる”という言葉の根源となる認識の一つのがここにあります。

2011年9月 8日 (木)

『共同幻想論』・罪責論から2

 「罪責論」は<神話>に表出する「罪」(倫理の問題)についての考察で、神話の表出の仕方(共同幻想の語られれ方)から原理的な考察がされています。共同幻想論としては共同体とその構成員の関係としての「罪」になります。
 一方個人の心的現象としての「罪」(の意識)としては『心的現象論序説』での原理的な考察があります。そこではフロイトを援用しながらエスと自我の二重性である原形意識を想定され、エスから離脱しようとする自我の問題として<>と<道徳>が説明されています。<エス→自我>というベクトルは自我を主体にすれば罪に、エスを主体にすれば道徳になる志向性として把握されています。

 また罪の意識が受動的(受苦的)であることには人間の原理として決定的であることが表出しています。精神病理から社会一般の関係まで、この意識が基礎になっていることが最重要なポイントでしょう。被害妄想から作為の契機まで人間の意識(関係意識)が受動性ベースなのはナゼか?という問題は、心的現象の原理であるとともに、そこから遠隔化するあらゆる関係性(極点としの共同幻想)の基礎にもなっています。宗教が主張する原罪的なものから近代国家が法化した国家反逆罪まで、個が負わされる(という認識をもつ)という共通点があります。それはナゼか?

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【罪責論】

P214
あらゆる政治的な統一権力が存在する社会を、
いちばんプリミティヴな形態までさかのぼれば、
そこでの<倫理>は一対の男女の<性>的な関係の
あいだに発生の起源をもとめるほかはない。

 『経済学・哲学草稿』で提起された人間は個人でしかないのになぜ人類が成り立つのか?などの問題のもっともダイレクトな解答にもなる認識で、「人間の人間にたいする直接的で自然的で必然的な関係とは、男の女にたいする関係である」というマルクスの言葉を踏まえたものでしょう。また「どんな人間同士でも、2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」と権力の予期理論の基礎を説明した宮台真司さんと吉本とのラジカルな共通認識が見いだせるかもしれません。

P214~215
<父>はじぶんが自然的に衰えることでしか
<子>の<家族>内での独立性をみとめられない。
また<子>は<父>が衰えることでしか
<性>的にじぶんを成熟させることができない。
こういった<父>と<子>の関係は、
絶対に相容れない<対幻想>をむすぶほかありえないのである。

 ルソーからフロイトまで欧米思想に散見するエディプス・コンプレックスの解と(も)なる認識でしょう。
 「絶対に相容れない<対幻想>」の設定が吉本理論らしい原理と圧倒的な何かを示しています。{相容れない<度合い>}(あるいは{相互に肯定される(ハズの)<度合い>})をバリアブルなものとして設定すれば遠隔化の度合いを示すものとなり、その究極に共同幻想の極点が想定できます。
 この父子相伝の西欧的に表象しがちな関係ですが、神話からアニメまで多くの物語がベタにこの構造をそのまま展開させています。またリアルな権力(者)のヒエラルカルな構造(関係)も同様なものとして考えることが可能かもしれません。

P216
…もともと<家族>内の<対幻想>の問題であるはずのものが、
部族国家の<共同幻想>内のあつれきにのりうつったとき
<倫理>の本質があらわれる。

 

 マイケル・サンデル的にいえば「家族への忠誠」か「普遍的な正義」か?という問題です。殺人を犯した弟を、姉はどうするか?という設定でサンデル教授は問いましたが、そこには「議論を続けよう」という暫定的な解しかありませんでした。安寿と厨子王のように姉が弟を守れる(という)のは夢想的な空間か封建制以前の社会であり、近代国家では法(普遍的な正義?)がすべてをジャッジします。

 <対幻想>の問題が<共同幻想>内の出来事として表出するときに<倫理>が問われますが、多くの物語の悲劇というものがこれに属するものでしょう。個人の心的現象として作為に対して受動態としてしか表象しないという事実から、物語の究極が悲劇であるのは論理的な帰結でしかありません。マルクスがそれを笑うことを奨めたのは諦念以外の何ものでもないのかもしれません。

2011年8月29日 (月)

『共同幻想論』・罪責論から考える

 

 「罪責論」<神話>に表出する「罪」(倫理の問題)についての考察です。とても原理的で神話や物語、歴史の解釈の基本としての認識でもあり、現象学や実存哲学がもっともベースに据えている「罪」(倫理の問題)をキーに読解し、共同幻想の展開との関連が示されます。

 大前提となっているのは共同幻想の構成(ゲシュタルト)。あらゆる神話から普遍的な共通性をとりだせるとしたら、それが共同幻想の構成だ、という結論を前提にしています。 逆に、共同幻想の構成以外はすべて恣意的でありうるという指摘が、この共同幻想論の根幹を支える認識であることを(も)示しています。

 『古事記』のスサノオとアマテラスのエピソードをもっともプリミティヴだとする視点から日本の社会の発展段階がサンプルとして示されていきます。どのような歴史分析とも哲学とも史学とも違う、圧倒的で原理的な認識手法がここにあります。また対幻想の変遷や自己幻想の表出という問題へと経路をもったテーマは、吉本理論の驚異的なトーナリティを示しています。

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『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

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【罪責論】

P200
…<神話>はその種族の<共同幻想>の構成を語る…

そして<共同幻想>の構成を語っている点をのぞけば、
どんなことも<神話>では恣意的だといえる。

 乱暴にいえば、共同幻想の語り方そのもの以外は恣意的だ…という可能性を示しています。これは『心的現象論序説』における<夢>への考察(『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」)を想起させるものです。

 

 「夢では〝対象が<身体>の外部に実在しない〟」ために「夢はいきなり〝了解する〟ところ(対象外・意識外のもの)からはじまる」と説明したように、神話では(現時点でそれを読解する者にとっては)あらゆる対象が実在ではないために、神話の語られ方そのものだけがマテリアルである、ということになります。
 サルトルなどが「方法の問題」とした問題意識がクローズアップしたものも同じような面にフォーカスしています。歴史だけではなくさまざまな事象が世界レベルで表出する現在、あるいは個人にとってもあらゆる関係性が世界レベルに拡張しつつある現在、直接に個人が認知できるものは対象への認識方法そのもの(だけ)だからです。対象を知覚をとおして直接認識する機会や、対象の属性を構成する要因を直接に知る可能性は無くなってきています。そこではまず認識の方法そのものが問われるわけです。同じように神話では、神話の語られ方そのものが問われるということです。西欧外の認識方法や分類方法に興味をもったフーコーは同じことに気がつきつつあったのでしょう。

P200~201
<神話>を解釈するばあい、いちばんおちいりやすい誤解は、
それがある<事実>や<事件>の象徴だとかんがえることだ。
そして空間的な場所や時間的な年代を現実にさがして
<神話>との対応をみつけだそうとする。
しかし、
<神話>に登場する空間や時間は、
ただ<共同幻想>の構成に関するかぎりでしか、
現実の象徴にならないといえよう。

 壮大な神話からネタとしての都市伝説まで、その根拠の正当性?が木っ端微塵になるのはいうまでもなく、観念から表出するあらゆる論理の展開の仕方そのものが問われてもいるのでしょう。この「象徴だとかんがえる」ことや「対応をみつけだそうとする」ことをラジカルに批判する観点はあらゆる方面で行使されている吉本隆明の思索と批評の基本となるスタンスを示しています。すべての解釈が恣意的だとすれば認識を再構築するために必要なのは作為への自覚マテリアルな認識であるはずです。

P212
サホ姫は<兄>に殉じながら、じぶんの生んだ子供を<夫>にゆだねる。
母系的、氏族的、農耕的な<共同幻想>はここで、
部族的な統一社会の<共同幻想>に飛躍する。
その断層のあいだの軋みが<倫理>の問題としてあらわれる。

 

 家族から国家までの発展段階の途中でもっとも重要で直接的な血縁(家族)からの離脱のシーンが、母系社会から部族的な統一社会への飛躍として抽出されます。空間的にはたとえば奈良盆地内の豪族が盆地外の豪族との婚姻を始めたような事態(『ハイ・イメージ論』など参照)を指しています。

 たとえば姉が犠牲になり弟を助ける“安寿と厨子王”の物語。死んだ安寿は守護霊として厨子王を守っていきます。厨子王は盲目の母と再会をはたし、母は再び目を開きます…。この物語もサホ姫の物語と同じで女性が犠牲になりつつ現世で男性が力を行使していきます。そして一度は犠牲になった女性=母が快復するという展開が示しているものは何でしょうか? 前段の実効力であった母や姉は他界化するとともに象徴や規範として現実に関与していくと考えることができそうです。(他界化したものはやがて神化(宗教化)する可能性もあります。社会でいえば市民社会という実効力が国家(法治社会)という象徴と規範にカバーされていく事態。ただし市民社会からのフィードバック(無制限の言論の自由と民主主義)なしには国家がまたたく間に絶対化し官僚が支配階層化する過程はマルクスで探究されています。)

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