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2016年8月13日 (土)

純粋疎外…何も引かない、何も足さない

 科学はさまざまな具体的な現実から抽象された見解だ。この具体と抽象のギャップにはリスクのシーズとなるものがある。捨象するものが多いほど、その見解(理論)と現実のギャップは大きく、理論オタクだけがヨロコブような机上の空論と化してしまう。

 吉本はマルクスの<組み込み>概念とラカンの<シニフィアン>を同じスタンスから批判している。これはある意味でラジカルな科学批判だ。どちらも“自然ではない”という疑問になっている。
 まったく別の言い方をすれば“考えられたものは、自然そのものではない”と指摘されていることになる。<知>は<自然>そのものではないからだ。


   純粋疎外の概念は、原生的疎外からのベクトル変容であり、
   環界としての現実をも、生理的基盤としての<身体>をもすこしも排除していない。
   また、どのような還元をも行っていない。

                     (『心的現象論序説』「Ⅲ.心的世界の動態化」P106)

 科学から現象学までもが思索されていくなかで純粋疎外が説明されている。
 <現実>と<身体>をすこしも排除していないのが、その特徴だ。原生的疎外から何も引かないし何も足さないし、何も還元しないという方法としての純粋疎外。
 それは、ただ<在るコト>が<居るコト>になるベクトル変容として定義されている。原生的疎外に(は)ベキ乗化する観念の変数がかけられるだけなのだ。

 初源の変数はとりあえずゼロといえるだろう。
 原理的にはシンプルな関数としての観念がここにある。

   実在することが疑えないのは、
   いまのところ人間の<身体>と現実的な環界だけであり、
   観念の働きはなんらかの意味でこの二つの関数だといえることだけである。

              (『心的現象論序説』「Ⅱ.心的世界をどうとらえるか」P49)

 この関数がトポロジカルにはベクトル変容なのだ。


   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

      (『心的現象論序説』「Ⅴ.心的現象としての発語および失語」P168)

 もっとも抽象度の高い数理さえ「自然認知の程度にしたがう」とするところに、人間さえ自然であるとするマルクスからの基本的な認識があるのだろう。ちなみにマルクスは数学の本も書いているが…。
 マルクスの「組み込み」は自然の部分的な人為化だが、吉本には自然の全的な人為化と人間の自然化が相互に自在に転換するものとして把握されていそうだ。それは人間と自然が不可分である現実世界そのものでもある。それは、あらゆる方向への展開が秘められたゼロ地点になるのだろう。言語の自由のために場所を捨象するデリダとは真反対のアプローチだ。
 吉本にとっては世界そのものがゼロなのであり、それは、あらゆる可能性とそのスタートをも示しているハズなのだ。

2016年7月15日 (金)

<世界視線>…可能性の視線として

 可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だ。
 たとえば景色の中に白い○があるとする。この景色に関する周辺知識や予備知識がなければ、この白い○が何であるかはわからない。白い○の不可知さゆえに、それはUFOに見えるかもしれないし、遠方のガスタンクか何かかもしれない。あるいは気象観測器かもしれないし、制作途中の変わった広告看板なのかもしれない。この対象を眼前にしながら判然としない状態が純粋疎外なのだ。
 認識する対象の形態や、あるいは認識にともなう知見が予めには何もない状態…このような状態での認識は、予めの形態も知見もないために、そこに連合し得るあらゆる観念が錯綜してしまう可能性をもっている。別のいい方をすれば、逆に、そこではあらゆる認識が可能な状態なのだ、ともいえる。その可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だった。それは共同幻想を見る、その視線のことだ。

 人が空を飛べない時代に描かれたナスカの地上絵を可能にした眼差しも、世界視線だ。臨死体験にデジャブ、予兆予見…あらゆるものを見てしまう視線としての可能性。人間はあらゆるものを解決するとしたマルクスのように、あらゆるものを見ることができるという確信がここにはありそうだ。全面肯定の思想ともいわれる吉本隆明は、そこに人間の、世界の可能性を見出していた。その<世界視線>は<純粋疎外>を前提にあるいは契機に生成するものだ、ということを吉本は膨大なエグザンプルを取り上げながら繰り返し書き続けている。

 

 世界視線という問題は、視覚の対象とそれ以外が視覚認識の過程でどのように峻別され、あるいは統合されているのか?という問題であり、これこそ<純粋疎外>が援用されるべき典型的な問題になるだろう。つまり、視覚でいえば<純粋視覚>が指し示すとともに解となるものであり、それは視覚に関連するあらゆる対象を包含する可能性になるのだ。だからこそ、そこを起点にする認識のあらゆる問題をカバーすることができる。あたかも、数理におけるゼロやアスタリスク、トランプのジョーカーに、あらゆるものが代入できるように、だ。(直裁には認識不可能な領域に代入されるあらゆるものは、そのまま共同性となりうるもので、これが共同幻想のシーズだ。ラカンの象徴界もこれに相同といえる)

 こういった問題に<純粋疎外>概念は明確な根拠を与えることができる。それは<わからないモノゴト>を{<わからないモノゴト>そのもの}として定義できるダイナミクスなのだ。数理哲学では<無いコト>を現すために、自然数にゼロという概念が導入された。そうした<無いコト>の明白化(あるいは可視化といってもいい)が、<有るコト>だけで成り立っていた自然数だけの思准を飛躍的な発展させた。<純粋疎外>も同様に、定義できないこと、把握できないことを可視化あるいは有化し、対象化したのだ。純粋疎外はあらゆるものを思索の対象にすることを可能にした。

 そして世界視線はあらゆるものを視ることを可能にした。国家も、ゴーストも、クオリアも自在に視ることができる。その機序は共同幻想論であきらかだが、最大の特長は自分を視ることができること。自己客体視であり、それは、ある意味で、自分を外から視ているのであり、デジャブや臨死体験としても知られている。

 あらゆる可能性を数理において約束したのが<ゼロ>という概念だったように、吉本は<ゼロ>を認識の基本に据えているといえる。

2016年6月28日 (火)

<共同幻想>…第一章「禁制論」での柳田国男

ポトラッチ族の贈与のシステムから「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念を駆使して「信用」まで関連づけ、未開社会の贈与のシステムから現代に続くまでの資本(主義)の変遷や関係を語れるかのようなスタンスと可能性が、モースやマリウノスキーにはあるのかもしれない。

そうやって世界のすべてを観察するかのような西欧のスタンスと概念からは、世界のすべてがそう観えるだろう。ただし西欧式に…。そこでは既存の知識と概念を基礎に置いた思索が巡らされ、「初めに言葉あり」に代表され象徴される世界観が展開される…。もちろんそれではホントの世界や社会や国家を把握しきることが出来ないことを、吉本隆明はさり気なく、しかし執拗に繰り返し指摘する…<日本は壊れている>という指摘はアイロニカルでしかもダイレクトな、そういった事実への表現として貴重な指摘になるのだろう。正確には西欧的なスタンスからは日本は壊れて観える…というイロニーなのだ。

「強制」や「義務」「権利」といった概念装置で未開の部族や民族を明瞭に分析することが出来るだろう。問題は簡単で、そうやって明晰に思索されるとき、明晰でないにものはどう扱われ、どう処理されるのだろうか?…ということだ。 

あっさり語れることによって語れないものが抜け落ちてしまうことを指摘する。たとえばそれは<神威>について。母系社会の特徴である<父>を崇敬する理由は、欧米概念で贈与を微分したところで見出すことはできない。「権利」「義務」「強制」という概念でポトラッチを語ってしまうモースに欧米知の限界を指摘するのが吉本隆明の『母型論』だ。そこでは母系社会の成立と(その現代への)継続の意味が問われていく…。

もちろん、この語れないものというモチーフこそ共同幻想論から始まり、その思索の全段そのものであったのが吉本隆明の思想だろう。


           
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現代的にはモースらが指摘する「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念で現在の金融資本主義の「信用」までは説明できる。だが「バブル」にはタッチさえできない。100年に一度といわれるバブルとその崩壊が数年ごとに起こっているその事実だけで、ほとんどの経済言説が無効だということはシロウトの方がよく分かっているのだろう。

<父>を崇敬し、母系の全勢力をかたむけて贈与される、その理由は何か?  この問いは、心的現象論的には<父>のイメージを拡散増大(異常の拡散)させればとりあえずの直接的な答えに近づくことが可能だ。<バブル>とは何かへ向 かっての無限の贈与でもあり、現代ではその崩壊は凸した分だけ凹む現象にすぎないことがコメンテーターレベルでの指摘でも明らかだ(たとえばホリエモ ン)。真面目な吉本隆明は、それを『母型論』の「定義論Ⅱ」で説明してみせた。そこからは、すでに大衆がすべてを握った、何も心配しなくていい遠くはない未来が見渡されている。すくなくとも楽観することは禁じられていない。

ホントは4分の3あるいは半分まで縮小しても生活水準を落とす必要がない日本の経済


           
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 …現実にありうべくもない語り伝えから成り立っているとすれば、

 それを伝承する語り手も空想癖のつよい人物でなければ、語りのリアリティは保存されな い。
 
 語り手の空想癖が民話の根源にある共同的な幻想にもどっていくとき、
 伝承という心的な転移が成就される。

 語り手の夢が、語られた山人譚とパターンをおなじくしているとき、
 このパターンのなかに共同的な幻想の本質がよこたわっている。

 入眠幻覚のなかで『遠野物語』の語り手が娘の死をかなしんでたどろうとしたのは、
 村落共同体を支配する禁制の幻想であった。しかし柳田国男はそうかんがえなかった。
 かれは、むしろタイラーやフレーザーがはっきりと分類した高地崇拝や呪術の原始的な心性これに結びつけたのである。(『共同幻想論』「禁制論」P62)


モースやマリウノスキーが「強制」「義務」「権利」といった概念装置から贈与の社会システムを語ろうとしたように、柳田国男はタイラーやフレーザーの用意した知見から語り、禁制の幻想を観ようとしなかった。その、観ようとしない・観ることができないという禁制そのものがターゲットであることが不可視にされてしまう…そこにホントの意味での禁制があることを『共同幻想論』は第一章から繰り返し指摘し続けている。そしてそれは、吉本隆明の思想的営為のスタートから未帰還までをつらぬいている。

2016年6月 1日 (水)

<共同幻想>という有名な言葉…増幅・過視化

 不可視なものは<増幅>されて伝わります。
 実際に見たり触れたりして確かめることができないものは想像だけでどこまでも増幅できるので、最終的には怪物やお化けになってしまうものも少なくありません。たとえばリヴァイアサンやゴーストとはそういもの。ミクロではクオリアも同じ…。聖書において、地上最強の怪物=リヴァイアサンが国家を表したものであるのは示唆的といえ、もっともワケのわからないものがもっとも増幅されることがわかります。

 そして、それはもっとも根拠の希薄なもので、「想像だけでどこまでも増幅できる」ということそのもの以外には確実な理由を見つけられない、バタフライ効果というべきほど、根拠の希薄それ自体が根拠となり、その再帰性が現代という幻想=上部構造をつくっています。ベキ乗化する観念を人間の本質とみた吉本の主張において、自己言及そのものがある大きな意義をもっているのは、心的現象論序説であきらかにされたところのものです。


 ただ増幅され、伝えられていく…。
 そこからわかるのは<増幅される>ことと<伝えられる>ことの方法やバリエーションです。「共同幻想論」はこの<増幅する(される)>こと<伝えられる>ことから国家を探究したもの。

 そこでは小さなエピソードが増強されて伝えられていくさまざまな物語が分析されています。
 サンプリングされるのは「遠野物語」と「日本書紀」「古事記」のエピソードであり、それらが心的現象論の方法で分析されています。

 つまり観念のベキ乗化から<増幅>していくその理由と、その<伝わり>方の特徴が明らかにされ、<増幅>の理由や要因、<伝達>の仕方や方法が考察される。それが共同幻想を成立させる仕組みだからです。

 基本となるのは人間で、人間がどのように他者に情報を伝達するか?ということと、どのように他者から情報を得ようとするか?ということがメインになっています。そこでは壮大な神話や美しい物語…といったものではなく、日常の、反復されるエピソードが数多くフォーカスされています。現代でいえば、それらは都市伝説でもあるでしょう。


 ゼロというものは見ることができません。しかし、逆に、見ることができないものをゼロとしてしまえばどうでしょうか? 把握できないものを、とりあえず<ゼロ>としてしまう…。
 そのように虚を実としてしまう方法を、吉本は観念の運動と述べています。マルクスがヘーゲルから継承したのは、そのような方法であって唯物論的転倒などと呼ばれるものではない…マルクスがいまだに有効だとすれば、それはその方法だという吉本の哲学が、ここにあるのではないでしょうか。

 根拠の希薄さにはニーチェやフーコーがいう偶然も含意されているのでしょう。
 それらも踏まえて、既に実体と化した現実を俯瞰するのが、あの<世界視線>です。

2016年5月20日 (金)

<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 <共同幻想>という言葉は知らない者がいないほど有名です。
 そして不思議なことに、その理解者はその言葉の有名さに反比例して、あるいは吉本式にいえば逆立して少ないのかもしれません。その理由が<ゼロ>にあります…。1から9までの自然数をいくら駆使しても、0(ゼロ)が導入された数理の考察に及ぶことはありません。吉本隆明はその<ゼロ>を思索の中心に据えて、ほぼ全理論を構築しています。初期3部作といわれる「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論序説」から超高度消費社会を資本論の援用で締めくくったハイイメージ論まで、駆使されている概念装置は<ゼロ>なのです。

 もちろん<ゼロ>と表記された概念が行使されているのではありません。あらゆるものに共同幻想がまとわりつくように、<ゼロ>の概念はさまざまな言い方をされています。たとえば共同幻想の代表的なものとして国家があり、社会も会社も、村落も、町内会も知人友人の仲間内の関係にも共同幻想は発現しています。直裁には吉本自らが共同幻想とはマルクスの「上部構造」のことだと説明しているほど、その対象は広く普遍的であり、それだからこそ共同幻想は問われる価値があるのでしょう。共同幻想はあらゆる事象で問われる普遍性そのものといえるほどのもの。同じように<ゼロ>もあまねく存在する事象であり、想定される状態を指しています。それは数理における<ゼロ>そのもののようにであり、ある意味でそのものなのです。


 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。


 吉本隆明の幻想論は幻想の3つの位相に関する考察ですが、逆に社会的事象も個人的な何事かも、この3つの位相に微分?して解析すれば、それなりの解を見つけることができるでしょう。マルクスが欧米の国家をそれぞれの政治と社会の発展成長の度合いの違いから考察した視点は、この吉本の幻想論とパラレルな印象があります。ユダヤ人がそれぞれの国家でどのような問題となっているかというマルクスの論考がそれ。国家と宗教の分離の度合いによってユダヤ人の扱われ方が異なり、つまり機能(政治)と心理(信仰)の分離の度合によって、ユダヤ人がどう見えるか、どう感じられるかが異なってくるということを論証したもの。いわゆる「ユダヤ人問題」です。この時、機能と心理が不可分になり、ひとつのイメージとしてしか感じられない段階や瞬間が想定できます。それが純粋疎外の状態、つまり<ゼロ>です。後で説明しますが個体の認識でいえば「環境と認知の問題」であり、それが不可分になる瞬間のこと。そこには<時点ゼロの双数性>が想定できるでしょう。

2016年3月 5日 (土)

時間性・リズムという科学

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時間性・リズムという科学

 心的現象とともに人間の根源を問い、言葉の発生までをターゲットにしている「母型論」では、胎内の胎児からフォローしながら、根源に時間性(リズム)があることが示されている。ここで考察されるのは共同幻想論のように上部構造(観念によって構成される)といわれるものではない。ある意味で生物的な意味合いに満ちている言語獲得以前の人間個体の発生と発達の段階での物語だ。これを発生学者である三木成夫に着想を得て吉本は展開する。睡眠・覚醒と代謝・分泌などのバイオリズムがベースにあることを<大洋>のイメージの前提に、羊水にまどろむ胎児の心的世界である大洋と、羊水に浮かぶその状態そのものが分かちがたく論じられていく。それはフロイトにおけるエロスの概念でもあり、生そのもの。羊水に浮かぶことは生の欲動に身を任せることであり、そこにはバイオリズムを根源で統御する大洋の<波動>が表出される。
 生そのものは<原生的疎外>と表現され、現存在分析の延長線上に恣意的に語られるようなことはない。形而上学的思弁は排除されているからだ。「H2Oと表現したい」とはこういうことだろう。古典であろうと何であろうと、論者によって定義が異なるような理性や悟性や感性というアバウトなものは、ここにはない。

   心的な領域を原生的疎外の領域とみなす
   わたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは
   区別されない。

       (『心的現象論序説』「Ⅲ心的世界の動態化」P93)

 心は身体に依拠するが還元はできない、と定義される心=観念、精神。その心を可能なかぎりマテリアルなものに還元しようとしたのが心的現象論であり、吉本の各理論はその基礎の上に立っている。
 もっとはやく三木成夫を知っていれば…と吉本隆明は述べている。三木成夫の発生学者であり解剖学者である知見が吉本に与えたマテリアルで機能的な根拠は、読者が想像するよりはるかに大きいのかもしれない。
 生物の形態とその変化を解剖学から見つめた三木の眼差しは、吉本の何をインスパイアしたのだろうか…。

   感受性の薄れの度合いの極限で、心の動きは記億として認知されるといっていい。
   もうひとつ発生学者の考え方から汲みとるべきことがあるとすれば
   内臓感覚には自然な自動的なリズムがあり、
   これは心音や呼吸のような小さな周期のリズムから、
   日のリズムや季節のリズムまで多様なリズムを表出し、
   体壁系の感覚もまた睡眠と覚醒のようなリズムをもち、
   これは心の動きに規範を与えることに加担し、
   やがて大洋のイメージが意味形成にむかうことにっながってゆく。

                         (『母型論』「大洋論」P49~50)

 「心の動きに規範を与え」「意味形成にむかう」ことの根本に生体のリズムがおかれている。ここに完全なるサイエンスである吉本隆明の思索を読む取ることができるだろう。心的現象論序説の時間性に関する記述ではサイエンスはさらに徹底されている。また規範と意味形成というノエシスな作用の根本にリズムがおかれていることは注目すべきだ。

   …思考の固有時間性にともなって<身体>の時間性は変容させられ、
   この変容の態様にしたがって、<身体>はその<クロナクシー>をすてて
   変容された時間性に対応する変形と、変形された行動とを体験する…

                (『心的現象論序説』「Ⅲ.心的世界の動態化」P110)

 神経生理の閾値である最低刺激量=クロナクシーを基礎にあらゆる認識が生成することが簡明に記されている。
 固有時間性は個別的現存=個体のパーソナルな時間性だが、その前提に認識を統括する普遍的な身体の時間性があることが宣言されている。難解といわれる心的現象論序説だが、これほどキッチリと書かれたサイエンスの書も珍しいかもしれない。
 時間性をコンピュータでいうクロック=作動周波数とすれば、マザーボードと中央演算回路の関係のようにクールでデジタルなモデルがここに登場するだろう。心身問題をOS(オペレーションシステム)の問題として把握しようとする学術分野があるほどだが、デジタルや数理理論オタクにありがちな偏りとは異なり、吉本のアプローチはまったく領域やボーダーさえ感じさせない普遍的な何かがあるのではないだろうか。
 その根幹にあるのは<ゼロ>という概念の導入による思索そのものだ。
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2016年2月21日 (日)

世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ

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<身体>とシンクロする=ゼロ

 神経生理の閾値である最低刺激量から離脱するほど高度な時間性(つまり観念性が高いこと)であることとともに、<身体>の時間性により心的現象が統括されていることが心的現象論序説で示されているが、本論の方ではそのより根源的な了解の構造の基礎が説明されていく…。

   いっさいの了解の系は<身体>がじぶんの<身体>と関係づけられる<時間>性に原点を獲得し、
   いっさいの関係づけの系は<身体>がじぶんの<身体>をどう関係づけるかの<空間>性に原点を
   獲得するようになる。

            (『心的現象論本論』「身体論」<11 身体という了解―関係系>P73)

 そして心的現象論の序説や本論による思索に対して別の位相からアプローチし、文字通り人間の発生・発達段階を遡行するかのように探究された『母型論』では、三木成夫をはじめとするいくつかの原理的な知見を参照しつつ生物学的・生理学的な認識がベースに置かれている。『母型論』および内容がオーバーラップする『心とは何か―心的現象論入門』などには以下のような基本的な認識が示されている。

   犬、猿、人間など延髄をもった動物はかならず16秒のリズムをもっている
   臨終のときのいびきの周期は25秒だ

   人間(ヒト)の睡眠と覚醒の周期は25時間
   これは地球と月の関係、潮汐のリズムだ
   地球と太陽の関係、昼夜の周期は24時間
   睡眠障害や覚醒障害は、この2つのリズムのズレに由来する

 生物の種類をも超えて説得力があるバイオリズムや時間遺伝子的な観点からのアプローチは、吉本においてさえ根本的な知見として援用されている。しかもこの『母型論』は哲学の本ともされていて、その宣伝コピーは「言語は[母]から来る」だ。言語を根本に据えながら胎児と高度消費資本主義への論考を並列できる理由は、やはりゼロという根源的な方法論によるからこそではないだろうか…?

 

 言語のゼロ(指示決定と自己確定の不可分)と現代日本の経済のゼロ(生産と消費の不可分)が説明され、それらは父権と母権がゼロで均衡するところからスタートする母系社会が循環的に支えている…。母型論の内容と構成は、それまでの言語論、共同幻想論、心的現象論を包括し構成されるもので、しかも解剖学的な事実と、発声の変成、母音の変化、経済現象の到達点といった領域を超えた、世界そのものを把握しようとするものになっている。世界視線に象徴される世界把握の方法そのものだけを捨象して、多くの吉本理論の、ある意味で背理であるかのようなアプローチが感じられる。H2Oと表現したいというときの吉本の思想の究極、哲学がここにはあるようだ。

   素因子としていえば、すくなくともこれらの内臓系の感受性からくる心の触手と、
   筋肉の動きからくる感覚の触手とは、大脳の皮質の連合野で交錯し、
   拡張された大洋のイメージを形づくっているとみなすことができよう。

   この大洋のイメージの拡がりは、すこしも意味を形成しないが、
   その代りに内蔵(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべてと、
   感覚器官の感応のすべてを因子として包括していることになる。

   この拡張された大洋のイメージは、言語に集約されるような意味をもたず、
   それだけで意味を形成したりはしない。
   だが、それにもかかわらず心の動きと感覚のあらゆる因子を結んだ
   前意味的な胚芽の状態をもっている。

                                    (『母型論』「大洋論」P49)

 人間が根本的に自他不可分であり、すべてがまるでゼロでしかないような状態から析出する大洋に浮かぶ個体(器官なき身体)というレベルから、大洋の波動=母型という枠組みをノエシスとして個を確立しようと成長していく…といった階ていが描かれる。

 胎盤に育まれ羊水に浮かぶ初源の状態は、胎児からの欲求(需要)がそのまま母体からのアフォード(供給)でもある身体的にも認識上も差異のない状態=ゼロであり、そこからどのように母子が分離していくか、認識として自他が分岐していくか…という延長線上に吉本の思索と主張のほとんどすべてが展開されている。原点に設定されているのはゼロだ。

 羊水に浮かぶそれが自身の全面肯定であるのはわかりやすいことかもしれない。自他不可分の胎児には自分が全面肯定されているという認識しかないはずだ。もがくことも、力むこともなく、何の不安も心配もなく漂う自分がそこにいることを自覚なしに知るということ。ここから吉本のいう<大洋>がはまじる。

 自覚させてくれるのは、むしろ、自身への否定性だ。
 自身への否定は、他者の出現、あるいは自由への侵犯として生成する。自らが浮かぶ大洋が乱れ、胎児はその波を超えていかなければならない。
 原生的疎外ははじめて現実と対峙する。だがそれは対立ではなく対象の受容であり、内化であり、そして変成した自己の外化なのだ。

 

 この原生的疎外の無定型な現実に即した変化に対して枠をはめるのが純粋疎外であり、吉本はそれを「先験的理性のように」という。
 この<枠>は2つの位相をもっている。
 1つは原生的疎外が現実と接触するというその関係性そのものであり、もう1つは、その反復によって生じる規範だ。そしてトポロジカルには、それらを<境界>として捉えることができる。

 あらゆる環界(個体にとっての対象としての環境世界)の作動を抽象すれば、それはある特定の時間性・リズムとして表現される。それらの時間性との同調あるいは同期が生物的な前提だ。この同調同期は個体にとってもっとも生物として大切なシンクロである。シンクロつまり両者の時間性に異和がないこと=ギャップがゼロの状態。吉本は個体をめぐるあらゆる位相で、こういった状態を想定あるいは類推しては<純粋疎外>として同定してきた。純粋疎外、それこそが<ゼロ>の状態なのだ。

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