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2017年4月24日 (月)

<共同幻想>を生む禁制と自己言及

 共同幻想は何らかの禁制(Tabu)を前提としますが、禁制の対象は個体の意識のなかで措定されているハズです。
 この措定する意識も自己の意識なので、対象化するということそれ自体で意識×意識(自己言及性)が前提となっています。心的現象論序説で示唆されているように<観念のべき乗化>です。共同幻想は自己言及や再帰性を前提として生成するものです。


   ある事象が、事物であっても、思想であっても、
   人格であっても禁制の対象であるためには、
   対象を対象として措定する意識が個体のなかになければならない。
   そして対象はかれの意識からはっきりと分離されているはずである。
   かれにとって対象は、怖れでも崇拝でも、そのふたつでもいいが、
   かれの意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている。

                      (『共同幻想論』禁制論P46)


 個体のあらゆる認識が統覚からみて自己言及である(orでしかない)ということは、入れ子構造を仮構することで安定が担保されています(この自己言及をひとつの単位とし、そのアトラクタブルな領域をひとつの入れ子構造と想定できます)。
 自己言及による不確定領域は仮に空間性を代入することで安定しますが、それは仮定(or過程)であり絶えず更新され続けています。
 この更新をせまるものが「身体組織としての生理的な自然そのもの」であり心的現象論序説でいう<身体の時間性>です。

         
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   じぶんにとって、じぶんが禁制の対象であったとすれば、
   対象であるじぶんは酵母のように歪んでいるはずである。
   そしてこの状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、
   かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。

              (『共同幻想論』禁制論P46~47)


           
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 吉本式にいえば原生的疎外純粋疎外に絶えず是正を迫っているともいえるもの。
 「意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている」ために、その歪みを是正する必要がある…のであり、同時にその是正への抵抗としても生は意味づけられていくものだと考えられます。

2017年3月31日 (金)

利他的な行為の停止からはじまる共同性

 共同性の前提とは、ある意味で、自他を分けることです。
 自分サイドの人とそうでない人を分けるのがもっとも重要なポイントで、このことそのものが自分の所属する共同体と共同体外とのボーダーにもなります。

 具体的には、利他的な行為の停止が共同性の前提となります。

 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けていたのに、それが3才くらいからケースバイケースになるのです。この時、自分にプラスのものとマイナスのものを峻別することが基本になっています。

   生後六~八か月の赤ん坊も、
   社会的行動で相手を評価している…

   (『<わたし>はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』 第5章 ソーシャルマインド P183)

   幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制することを覚える。
   過去に何か分けあってくれた者を優先するなど、
   手助けする相手を選別するようになるのだ。

   (同上 P182)

           
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 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けるものを選ぶことがテストで確認されています。
また、他者が何かを探していると、それを指さしして教えてあげるという利他的な行為もします。

 生後6~8ヶ月の乳児が利他的だということは、人間のデフォルトが利他的であることのエビデンスになりうるもの。

 人間は元来から社会的な生き物だということでしょう。

   他者を肯定するものを肯定する…ということ。
   他者が何か求めていたら助けてあげる…ということ。

 この2つが人間の基本にあるということ、すくなくとも3才までは、利他的な行為が基本にある…。いいかえると、この2つは他者どうしが肯定しあうこと、とまとめることができるでしょう。

 これはつまり<相互に全面肯定である>という対幻想そのもの

 母子一体、自他不可分、世界=自分であるというスタート時の心の原形(時点ゼロの観念=)がそこにあるといえるでしょう。

 そして「幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制する」ようになり、ここから他者とともに生きていく現実に対応した社会性を身につけ、それは具体的には共同性そのものの発現として生成されるものだと考えられます。

2017年2月28日 (火)

対象との<関係そのもの>と想像するときの<根源にある枠組み>

対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

…というのが現象学の要諦だとされています。

 それは主体-客体に代表される二元(論)的な発想をブレークスルーするための画期的な方法でもあったのだと、それらについて『心的現象論本論』(P30)では「この種の現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と結論しています。欧米思想にとって「有効」であり、しかもそれは「遁走」だというところに、いつもの臨界を極めていく鋭利な思索があるようです。

 考えてみると、ここには2つ以上の?があり、それそのものが「有効」であるというレベルと「遁走」であることの理由を示してもいます。

 大きな問題は「不変」が「本質」であるという誤解と、「本質」が「直観」できるという錯誤の2つ。


           
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 「本質」というものについてはヘーゲル以来のあるいは哲学全体の思索があり、「直観」についてはすでに『心的現象論序説』で解体されてもいます…。悟性や理性の定義をしない(できない)で論を進めている多くのナントカ学の無効が宣言される一説なのかもしれません。もちろん古典という形容で免罪されるものは吉本の思索にはないでしょう。

   心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。

   心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
   ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…

                     (『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93)


           
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対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

「想像に左右されないで不変なもの」が「本質直観である」というのは、
「本質直観」は「想像に左右されないで不変なもの」ともいえます。
…つまり、そういったものを探せばいいワケです。



対象認識をするときに想像に左右されないものといえば、
たとえば、
対象認識をするときも想像するときも不変的もの…
それは、突き詰めれば対象との<関係そのもの>想像するときの<根源にある枠組み>
になります。

心的現象論の読者には基礎知識でしかないことですが、哲学をはじめさまざまな思索が自己言及の不可能性ゆえにアンタッチャブルのままきたものがここにあります。少なくともポストモダンやニューアカや自己言及というものがブレークスルーすべきものであることは見出していました。その後の沈黙は方法が見当たらないためであり、ターゲットが把握できなかったわけではないと思われます。

2017年1月31日 (火)

マテリアルとしての<共同幻想>

‘対象に投影された自己像の不可知性’つまり自己言及による決定不能性はゲーデルの定理やチューリングマシンの問題としても有名ですが、人間の心理現象としては強力な防衛機制?としてこれらの問題はクリアされています。不可知な部分に何かが代入されて処理されていくからです。代入されたものはマテリアルな属性をともなって意識に影響をあたえます。これが共同幻想です。
「すべては<代入される空間性>」

共同幻想は意識がおよばないという意味ではマテリアルであり、ラカンの象徴界(「三界論と<力>と」)オーバーラップするもの。また論理的にその因果を探せば(自己言及の限界として)自己言及できない領域として抽出できます。ポスモダ的な論議の可能性はそこにありましたが、どこからも誰からも解が指し示されることはありませんでした。タームのブリコラージュだけの衒学では言及することさえ不可能だったのでしょう。構成同一性(「<思考>のはじまるところ」)が行使されない認識は思索にはなりえないという(ベイトソン的な)エビデンスそのもののようですが…。
「言葉を生むもの…とは?」

このマテリアルとしての属性は哲学的には先験的理性のようと表現されるものです。この先験的理性のようなものを<純粋疎外>とした説明が「心的現象論序説」による基礎的な定義になります。このことから理論的にあるいは論理的な帰結として共同幻想が純粋疎外に由来あるいは依拠するものであることが分かります。あるいは純粋疎外状態から生成するのが共同幻想だということになります。「共同幻想論」そのものでは入眠状態あるいは夢幻様と説明される心理状態です。「共同幻想論」での入眠時の状態あるいは夢幻様とよばれる心理状態は、別のいい方をすれば全般的な<純粋疎外>の状態であることを指しています。
「世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ」



           
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入眠時あるいは夢幻様とよばれる、この睡眠と覚醒の混融した状態は、脳科学的には脳幹網様体がコントロールしているもの。脳幹網様体は機構的には感覚、意識、内分泌系の情報が相互にフィードバックする領域で意識の覚醒のレベルを決定しています。個体の心理を探究した心的現象論から、個体を母体との関係で解いていく「母型論」では大洋の概念をモチーフに思索されていくものが、これに対応するところがあると考えられます。この<大洋>でイメージされるものがフロイトにおいては羊水であることはある程度オーバーラップします。
「<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの」
「時間性・リズムという科学」

脳幹網様体の機構が感覚からの情報、皮質からのフィードバック情報といった神経系の情報とともに、内分泌系からの情報が加わっていることに大きな意味があります。細胞膜やレセプターを通じた内分泌系の情報は神経のパルスより一桁も二桁も速いスピードで作用します。たとえば角田テストによると実母の声に脳幹が反応するのは10000分の1秒というスピードであり、これは細胞膜でのイオンのやり取りの速度に相当します。しかもそれは意識という自覚なしに行使され、事後的にも意識化されることはありません。
「ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明」

脳神経学的にいえば、胎児は羊水に浸かっていますが、脳幹網様体(そしてすべての細胞)は内分泌系の液性環境に浸かっています。そしてこの液性環境での情報のやり取りがラジカルに個体の活動をコントロールしています。神経反応どころか精神活動さえもその完全な影響下(コントロール下)にあります。これは地上の全生物とその全生命が液性環境に依拠しているという普遍的な事実そのものの象徴的なエビデンスでしょう。液性環境の均衡を気分として探究する木下清一郎の考察は斬新で大きな可能性がありそうです。液性環境での情報のやり取りにリン脂質を利用していることを人間の(脳と心の)大きな特徴として研究した木下清一郎の指摘のように、各種リン脂質であるホルモンやサイトカイン、痛み物質であるプラスタグランジン、痒み物質であるヒスタミン…の液性環境に浸かって10000分の一秒で代謝する細胞を心の原点とした論考はラジカルなもの。もちろんその対極に観念の運動としての人間活動を探究し続けた吉本隆明がいます。
「言語とイメージが探究される理由は? 2」

2016年12月31日 (土)

先験的理性のようにみえる<純粋疎外>≧共同幻想

 先験的理性のようにみえると説明されている<純粋疎外>。
 先験的であり理性的であるとしたら…そこに思考が介在することは可能でしょうか?
 あらかじめ思念することが不可能であるような印象があります。
 そして、それこそが共同幻想(が成立する)の基本的な根拠になるもの。

 逆の説明も可能です。思考できない領域だからこそ先験的理性のように感受されてしまう…ということです。
 いずれにせよ、ここに共同幻想の根拠があります。(思念や想像がおよばないものだとすれば、それはラカンの象徴界にも似ているかもしれません…)


 マルクスはこの思索しづらい領域をいっきょに把握しようとしました。それが経済分析でした。いわゆる下部構造へのアプローチです。下部構造のマテリアルとテクノロジカルな解析ができれば、その上部構造である宗教や文化や国家は把握できると考えたワケです。
 マテリアルな関係を分析できれば、それを基礎にしている関係(社会や文化、国家や宗教)は理解できる…ということ。

 ところが現実には、そうカンタンには社会や文化のさまざまな現象は理解できません。物質的基盤が同じであれば、同じような社会や文化になるか…現実にはなりません。同じ環境でも宗教や国家は異なるものになるし、習慣や風習も違っていたりします。
 そもそも人間にとっていちばん基本的な言語や家族の形態も場所が異なれば異なっている方が普通です。

 この異なっているものをサンプルの数だけ、現実の数だけ蒐集しアプローチする社会学、人類学や民俗学、あるいは歴史学のようなものがあります。ブルデュートッド阿部謹也のようなアプローチが結果として、科学や法則として社会にアプローチしたマルクスのものと近似したものでもあることは、大切なことだと考えられます。アプローチの方法論ではなく結果を考えるとき、さまざまな方法を試してみることは価値があることでしょう。開かれているスタンスでなければ、どんな問題も根源へ至ることはムズカシイでしょうから。


 マルクスがモノゴトを媒介とする関係(下部構造)に思索をめぐらせたように、関係そのものに思索をめぐらせ探究したものが心的現象論です。
 先験的理性のようにみえる…ということの原理から思索し直したのが心的現象論のアプローチです。

 <先験的>というように経験を超え、<理性のように>という思考を制する規範であるかのようなイメージ。

 これらの超越性とイメージが生成する根拠を探究すること…
 それが心的現象論のモチーフになります。



『心的現象論序説』から…


   <精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…
   この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、
   あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)

   人間の<関係>の総体としてのこの世界は、
   フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、
   異なった位相の世界として存在している。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)


   生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、
   時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、
   現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域は、
   空間性(空間化の度合)によって抽出することができる…

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P50)


   人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は…
   生活史と精神史との歴史的な累積を、
   心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、
   この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P70)



           
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2016年11月21日 (月)

<価値>を生む、対幻想2

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想に非肯定=否定が介入、生成して認識がはじまります。母子一体(自他不可分)の状態からの分節化であり、ここに他者、世界、自己が生まれます。


fr  2015年5月17日 (日)<内コミュニケーション>のトレードオフ

 “想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。

 

リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。

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 あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?

 さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。

 ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。

   

相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
   一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

   

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
   母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。


       -       -       -

fr  2016年4月 2日 (土)<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?


fr  2016年5月 6日 (金)認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

 

自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』

 

「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>


fr  2016年5月20日 (金)<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。

2016年10月29日 (土)

<価値>を生む、対幻想

対幻想は<個別的現存>でしかない人間が<人類>であることを可能にするもの。シンプルにいえば人間にとっての根源的な価値を産出するもの。そして認識の初源になるものです。認識は対幻想から遠隔対称化する…と考えてきた過去のものを並べてみました。


fr  物語の生まれとはじまり

●母との物語はいくつかのパターンに分けることができます。

●そのパターン化する以前、分岐する前の基本となる認識(感情、気持ち、思考などの原点となるもの。数学でいえばゼロの状態に相当するものです)があります。

●このゼロの状態が減算され微分されてパターン化し分岐します。
 自分が全面肯定される(ハズだ)という<対幻想>=<時点ゼロの双数性>が否定されることによって拡散するわけです。

●対象に投映された<自己が全面肯定される(ハズの)志向性>が、否定(去勢)されることによって拡散します。

●(自己)肯定のイメージが微分されるワケですが、この時絶対に微分されない拡散されない領域があります。前述にもどれば否定(去勢)されない領域があります。
 それは自己の観念からいえば対象に投映された時に自覚できない領域です。自覚できないために否定されることもありません。(否定を自覚できない)
この領域に対する否定は身体的な否定に相当し、それは観念にとって依拠する環境そのものの否定になります。


fr  『心的現象論序説』 P30

自己観察によって確かめられる部分でさえも、
自己が自己に対置されるという幻想的な一対一の分化が、
観察の前提をなしている。


fr  『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
  第5章 脳と心  1―構造としての階層  (4)前頭葉  P153

脳の最終の統合領域である連合野が脳のなかに一つではなく、
いくつか同時にあらわれたことは重要である。
なぜかといえば、
連合野どうしのあいだに想念のやりとりがおこなわれうる基礎ができたからである。
考えることの本質は、自分が自分に問いかけ、これに答えるところにあるならば、
ここにはじめて脳は考えることのできる存在となったわけである。
観念の対話があって、はじめて認知や判断といったいわゆる知能とよべるはたらきが
生まれてくるのであろう。


fr  2007年2月17日 (土)独解=<ゼロ>の発見

 人間は個別的現存でしかないのになぜ人類が成り立つか?という若きマルクスの疑問に、吉本さんは<対幻想>という根拠を示しました。ニューアカに影響された自分は、それを<時点ゼロの双数性>とニューアカ風に表現してみました。相互に全面肯定=絶対認知される(ハズ)という幻想と、非肯定性による対幻想(全面肯定性)の非対幻想化(遠隔化)が考えられます。遠隔化された結果として共同幻想や個人幻想の属性を措定する吉本理論のスゴサは驚くばかりです。アルチュセールが毛沢東の矛盾論からインスパイアされたように、フーコーなどもこういった(理論化された)論理的な機序を知りたかったのではないでしょうか。


fr  2011年3月25日 (金)『共同幻想論』・祭儀論から考える

P139
…<死>では、ただ喪失の過程であらわれるにすぎなかった対幻想の問題が、
<生誕>では、本質的な意味で登場してくる。
ここでは<共同幻想>が、社会の共同幻想と<家族>の対幻想という
ふたつの意味でとわれなければならない。

 ここに対幻想と共同幻想が逆立する契機があります。
 <生誕>をめぐる村落の共同幻想(公的関係)と対幻想(親和的関係)は相互に移行可能であることが指摘されています。家族は親族や部族に遠隔化しやがて民族や国家まで至る可能性もあるとともに、一対の男女はそのすべての起源たりうるからです。


fr  2011年7月15日 (金)『共同幻想論』・対幻想論から考える

P176
…<対なる幻想>はそれ自体の構造をもっており、
いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、
集団の共同的な体制と独立しているといってよい。

共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった水準に分離したとき、
はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が
おおきく登場するようになったのである。 
もちろんそれは近代以降の<家族>の問題である。

 対幻想は集団からは「独立している」という断定はわかりやすく、多くの読者が共有する対幻想への理解がここにあります。それはまた同時に共同幻想そのもの(への理解)を難しくしているものでもあるでしょう。親(子)に対する対幻想(家族)と男女間の対幻想(性)は異なりますが、それは時間への関係性の違いです。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。


fr  2011年9月 8日 (木)『共同幻想論』・罪責論から2

P214~215
<父>はじぶんが自然的に衰えることでしか
<子>の<家族>内での独立性をみとめられない。
また<子>は<父>が衰えることでしか
<性>的にじぶんを成熟させることができない。
こういった<父>と<子>の関係は、
絶対に相容れない<対幻想>をむすぶほかありえないのである。

 ルソーからフロイトまで欧米思想に散見するエディプス・コンプレックスの解と(も)なる認識でしょう。
 「絶対に相容れない<対幻想>」の設定が吉本理論らしい原理と圧倒的な何かを示しています。{相容れない<度合い>}(あるいは{相互に肯定される(ハズの)<度合い>})をバリアブルなものとして設定すれば遠隔化の度合いを示すものとなり、その究極に共同幻想の極点が想定できます。
 この父子相伝の西欧的に表象しがちな関係ですが、神話からアニメまで多くの物語がベタにこの構造をそのまま展開させています。またリアルな権力(者)のヒエラルカルな構造(関係)も同様なものとして考えることが可能かもしれません。


2016年9月17日 (土)

エディプス・コンプレックスが届かない無意識の<核>

 母から生まれ、母に育てられる人間の存在のあり方と比べて、子にとって父が意味をもってくるのは社会化し始めるころから。吉本的あるいは母型論的には外コミュニケーション以降だと考えられます。それ以前の、胎内から言語以前までのコミュニケーションは代謝なども含む内コミュニケーションとして最重要のもの。この内コミュニケーションこそ無意識とその核を生成し形成するステージでありレイヤーであり、<大洋>という言葉で表された状態になります。


   問題児を抱えた家族から委嘱されれば、
   非常に厳しい訓練を課して、
   父親代理人となって立ちふさがる…
   …
   それで解けるのは、たぶん心の表面層と中間層のあいだくらいまでだと思います。

                                                                                      (『人生とは何か』P61)


 ファザコンからアプローチしても、その分析は深くならず「無意識の核」までは届かない…把握でき解決できるのは「表面層と中間層のあいだくらい」まで…。このシンプルですが、とても大きな意味のある指摘は、吉本隆明が無意識についての思索を巡らせた90年前後のものと思われ、まだ中途のもののようです。一時期流行ったスパルタ式の教育や訓練セミナー的なものについての論評の一部。



 ファザーコンプレックスは有名な言葉であり概念ですが、現実にどのような意味を持って心理や精神医療の世界で使われているのでしょうか。

 日本のポスモダ、ニューアカでもファザーコンプレックスは重要な概念でした。資本主義のパラノドライブをドゥルーズ=ガタリを手がかりエディプスコンプレックスで説明してみせたニューアカのスタートは、バブルへ突入する時代を素直に反映した上部構造現象ともいえます。日本初のラカンの解説でもあった『構造と力』がニューアカの聖典なのだから当たり前かもしれませんが(同書の時点ですでに浅田彰氏はラカンの限界を指摘しているのは、さすがの才だと思われます。しかし、それに注目した論者がいないというのも日本のリアルなのでしょう)、人気のある何名かのラカニアンによる仕事も貴重だと思います。システム論との融合のような試みもあったようで、その元気さは思索を遊ぶ人たちにスノビッシュな刺激となりました。ウオール街の占拠デモを計画した共産主義者のジジェクも日本ではラカニアンとしても人気があります。

           
構造と力―記号論を超えて

著:浅田 彰
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   フロイト的に云うと、無意識の世界、あるいは前意識の世界でもいいんですけど、
   それを3つの層に分けるのがとても分かりやすいと考えています。
   つまり、1つは表面層、1つは中間層、もう1つは核です.
   非常に奥深くこしらえられたその人の無意識の核というものがあります。

                                                                                     (『人生とは何か』P25)


 ラカンは無意識は構造化されているとしていますが、どう構造化されているのか説明がされていないようです。吉本隆明=心的現象論的には、『人生とは何か』『心とは何か』などで無意識を3つの層に分けた思索がされています。ある意味で汎用的な思索の枠組を当てはめた試論ですが、それだけに、思索の方法に長けている吉本らしく間違いのない展開がなされています。

 無意識の領域と現実界の間に境界領域を設定し、現実界側に意識の領域が設定されています。無意識の領域には現実界に接したところから順に表面層中間層が設定されています。現実界側に意識の領域が設定されているのは現実を認識しているものとしての意識という意味でありラカン的な意味での現実界ではないということなのでしょう。

 ファザーを対象化した場合の分析と解決への経路の限界は、当然ですが全ての人間とファザーより先験的ではるかに質的に深い関係であるマザーとの関係への探究によって解(説)かれていきます。 『人生とは何か』『心とは何か 心的現象論入門』『母型論』では母子関係からの分離、大洋からの析出が言語の獲得をはじめ人間が人間であることのエビデンスであること、その困難さそのものから描かれていきます。



           
人生とは何か

著:吉本 隆明
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心とは何か―心的現象論入門

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2016年8月13日 (土)

純粋疎外…何も引かない、何も足さない

 科学はさまざまな具体的な現実から抽象された見解だ。この具体と抽象のギャップにはリスクのシーズとなるものがある。捨象するものが多いほど、その見解(理論)と現実のギャップは大きく、理論オタクだけがヨロコブような机上の空論と化してしまう。

 吉本はマルクスの<組み込み>概念とラカンの<シニフィアン>を同じスタンスから批判している。これはある意味でラジカルな科学批判だ。どちらも“自然ではない”という疑問になっている。
 まったく別の言い方をすれば“考えられたものは、自然そのものではない”と指摘されていることになる。<知>は<自然>そのものではないからだ。


   純粋疎外の概念は、原生的疎外からのベクトル変容であり、
   環界としての現実をも、生理的基盤としての<身体>をもすこしも排除していない。
   また、どのような還元をも行っていない。

                     (『心的現象論序説』「Ⅲ.心的世界の動態化」P106)

 科学から現象学までもが思索されていくなかで純粋疎外が説明されている。
 <現実>と<身体>をすこしも排除していないのが、その特徴だ。原生的疎外から何も引かないし何も足さないし、何も還元しないという方法としての純粋疎外。
 それは、ただ<在るコト>が<居るコト>になるベクトル変容として定義されている。原生的疎外に(は)ベキ乗化する観念の変数がかけられるだけなのだ。

 初源の変数はとりあえずゼロといえるだろう。
 原理的にはシンプルな関数としての観念がここにある。

   実在することが疑えないのは、
   いまのところ人間の<身体>と現実的な環界だけであり、
   観念の働きはなんらかの意味でこの二つの関数だといえることだけである。

              (『心的現象論序説』「Ⅱ.心的世界をどうとらえるか」P49)

 この関数がトポロジカルにはベクトル変容なのだ。


   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

      (『心的現象論序説』「Ⅴ.心的現象としての発語および失語」P168)

 もっとも抽象度の高い数理さえ「自然認知の程度にしたがう」とするところに、人間さえ自然であるとするマルクスからの基本的な認識があるのだろう。ちなみにマルクスは数学の本も書いているが…。
 マルクスの「組み込み」は自然の部分的な人為化だが、吉本には自然の全的な人為化と人間の自然化が相互に自在に転換するものとして把握されていそうだ。それは人間と自然が不可分である現実世界そのものでもある。それは、あらゆる方向への展開が秘められたゼロ地点になるのだろう。言語の自由のために場所を捨象するデリダとは真反対のアプローチだ。
 吉本にとっては世界そのものがゼロなのであり、それは、あらゆる可能性とそのスタートをも示しているハズなのだ。

2016年1月31日 (日)

すべては心からという問題提起…32年以上も継続した『心的現象論本論』

●人間は心=観念のある生き物…
 政治も経済も科学も宗教も、人間の心が無ければ機能しないし、そもそもそういうシステムや装置はこの世界に生じない。ただの紙切れや金属片に<通貨>としての価値を認め、それを使って生活を営み、それのために働くのも<心>があるからで、時には<国家>のために戦争という名目で人を殺し、あるいは革命やテロというカタチで国家や体制に戦いを挑む。あるいは恋愛や家族のために国家を捨てることもあるし、命をかけて争うこともある。
 すべての原因は<心>にある。そして、すべてに<心>が(反映されて)ある。本書はこのシンプルな事実を突きつめ続けた32年以上にわたる未完の記録。

 「共同幻想」で革命を説き「対幻想」で家族を考え「自立」「大衆」近年では「ひきこもり」などのコトバで人間を考え続けた戦後最大の思想家。現代思想の張本人?であるフーコーやボードリヤールとの討論を通して絶賛されつつ、あくまで在野をつらぬいた思想の巨人。今や世界的な作家となった吉本ばななの父でもあり、頑固な東京下町のオヤジでもある人。本書はそういう人の未完に終わったライフワークの成果ともいえるもの。

●うつ病から解いていく驚異の展開…
 本書のメインのひとつがうつ病への緻密な解釈。本書は『本論』であり『序説』とは趣きが違っているけど、見事に『序説』から演繹された内容となっています。序説では読解に高度な抽象力が問われ、本書ではより簡明な(理論の)展開となって(これでも!)丁寧に読めば読者の思索を刺激してくれるものが全ページで確認できます。

 たとえば冒頭にある「目の知覚論」では縄文土器の文様から直線がプリミティブな抽象であることが指摘されています。その直線の形成は知覚の感情によることが示され、前段では心理には錯覚など無いことが説明され、そのように見え、そのように見ようとする視覚の必然性が説明されています。ここに感覚から観念に至る最初のルートが明解に示されているワケです。
 この最初の16頁分だけで、この書がただものではないことが解るでしょう。あるいは心理学や各種の認識論、哲学などジャンルを超えたあらゆる分野でとてつもない衝撃やコンプレックスが、しかし顕在化しないで沸き起こることが予感されるかもしれません…。
 ただ、難解で有名?な『心的現象論序説』がプロ?からは論評さえされないことで読者に継承されてきたように、今回も何の論評も無いのかもしれません。少なくとも、論評にはそれなりの能力が必要だとすれば、それは理解も予測もできる事態なのかもしれません。

 次の「身体論」ではいきなり「古典ドイツの身体論」としてフォイエルバッハへの孝察からヘーゲルの観念論までの広がりを射程とする探究がはじまり、緻密な検討と驚異的な広がり、それらを支えているオリジナルな観点への自問自答が繰り返されています。
 そして『心的現象論序説』『ハイイメージ論』『アフリカ的段階』などで示されてきた欧米思想への孝察とその成果が縦横無尽に駆使され、フロイトからライヒ、ドウルーズ・ガタリからラカン、三木成夫からホログラフィ理論までが引用され検討される世界は単なる読書家にもスリリングです。

●<手>からすべてを考えたり…
 よくカントの言葉として「手は外部の脳だ」といわれますが、本書の<手>への孝察は哲学的な瞹昧さが無く、人間という観念をもった生物の、その<手>という器官が認識と行動を媒介し統御し内化することを機能としていることが解き明かされます。<手>の知覚は触覚だけだが、<手>は<了解>するものだ…とマルクスが1つの<商品>から資本主義のすべてを読み取るように、ひとつの器官である<手>が孝察されます。
 人間が自然に働きかけるのが<労働>であり、それを通して<自己実現>し、その成果が<商品>だとするのがマルクス。本書では『資本論』や進化論を踏まえ、認識論として哲学的に<手>が考察されています。


 <手>の特異性が<時間>の拡大と構築に関与する…


 それは外化された<了解>であり
 …個体の生涯が限る<時間>を超えようとする作用に根ざしている。


 <手>がつくりあげるのは
 物質的であっても観念的であっても<了解可能>あるいは<了解希望>であって…


 吉本隆明の手が作り上げつつあった本書は未完のまま刊行されましたが、その読解は読者に任せられています。戦後最大の思想に対して戦後最大の読解は提示されるのでようか? 「社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?」といった橋爪大三郎氏の重い指摘は…。

●この潔癖さは邪魔かも?
 『ひきこもれ』『13歳は二度あるか』『中学生のための社会科』などでまったく新しい若い読者もでてきた吉本隆明氏ですが、その理論的な成果を解説するガイドは見当たりません。団塊の世代がメインを占めるであろう従来の読者層では論壇的な政治談議が目立ちます。
 最近では渋谷陽一と糸井重里が若い読者を吉本ワールドに導く数少ない仕事をしているだけなのかもしれず、本書の刊行など歓迎できるデキゴトはありますが、ノンジャンルでラジカルな著者の思想理論やフーコーほか欧米思想家とのやりとり、本書をはじめとする心的現象論関係の成果に対する研究と検討…などは本格化していません。

 著者に失敗?があるとすれば任官しないこと?。最高学府をはじめいくつもの大学から教授への就任を求められながら著者は固辞しつづけました。もし東大や東工大の教授等の肩書きでも受ければ、<戦後最大の思想>が正式?に研究対象となり得たでしょう。ヘーゲルかフロイトか柳田國男か心理学か言語学か、マテリアルな根拠を社会科学というジャンルで問いながら、そのベースには理系のクールなスタンスがあり、用語の一つからして他者に否定されることもなかったとはいえ、問題なのはむしろ理解さえされなかったということ…。理解できなかったことを正直に認めた浅田彰氏などは小数派で多くは驚くほどの曲解や誤読から批判や否定が繰りだされました。だからこそ、多くの者による理解の可能性と思索の広がりのためにも、最高学府名誉教授なりの肩書きを受けるべきだったと考えられます。この点においては、吉本氏の潔癖さが大衆への知の可能性の障害となってしまった事実は無視できないのではないでしょうか?


           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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ある意味、エグザンプルの多さはハイイメージ論的でもあり、最後に日本語の造語可能性を日本の古語であり基層である琉球周辺の言語(あるいは奈良時代以前の大和言葉)に求めた本書はノンジャンルの大著としても読める稀有な書籍といえるものかもしれません。

(2008/11/28、2016/01/31)

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