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2017年2月28日 (火)

対象との<関係そのもの>と想像するときの<根源にある枠組み>

対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

…というのが現象学の要諦だとされています。

 それは主体-客体に代表される二元(論)的な発想をブレークスルーするための画期的な方法でもあったのだと、それらについて『心的現象論本論』(P30)では「この種の現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と結論しています。欧米思想にとって「有効」であり、しかもそれは「遁走」だというところに、いつもの臨界を極めていく鋭利な思索があるようです。

 考えてみると、ここには2つ以上の?があり、それそのものが「有効」であるというレベルと「遁走」であることの理由を示してもいます。

 大きな問題は「不変」が「本質」であるという誤解と、「本質」が「直観」できるという錯誤の2つ。


           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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 「本質」というものについてはヘーゲル以来のあるいは哲学全体の思索があり、「直観」についてはすでに『心的現象論序説』で解体されてもいます…。悟性や理性の定義をしない(できない)で論を進めている多くのナントカ学の無効が宣言される一説なのかもしれません。もちろん古典という形容で免罪されるものは吉本の思索にはないでしょう。

   心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。

   心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
   ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…

                     (『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93)


           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

「想像に左右されないで不変なもの」が「本質直観である」というのは、
「本質直観」は「想像に左右されないで不変なもの」ともいえます。
…つまり、そういったものを探せばいいワケです。



対象認識をするときに想像に左右されないものといえば、
たとえば、
対象認識をするときも想像するときも不変的もの…
それは、突き詰めれば対象との<関係そのもの>想像するときの<根源にある枠組み>
になります。

心的現象論の読者には基礎知識でしかないことですが、哲学をはじめさまざまな思索が自己言及の不可能性ゆえにアンタッチャブルのままきたものがここにあります。少なくともポストモダンやニューアカや自己言及というものがブレークスルーすべきものであることは見出していました。その後の沈黙は方法が見当たらないためであり、ターゲットが把握できなかったわけではないと思われます。

2016年1月31日 (日)

すべては心からという問題提起…32年以上も継続した『心的現象論本論』

●人間は心=観念のある生き物…
 政治も経済も科学も宗教も、人間の心が無ければ機能しないし、そもそもそういうシステムや装置はこの世界に生じない。ただの紙切れや金属片に<通貨>としての価値を認め、それを使って生活を営み、それのために働くのも<心>があるからで、時には<国家>のために戦争という名目で人を殺し、あるいは革命やテロというカタチで国家や体制に戦いを挑む。あるいは恋愛や家族のために国家を捨てることもあるし、命をかけて争うこともある。
 すべての原因は<心>にある。そして、すべてに<心>が(反映されて)ある。本書はこのシンプルな事実を突きつめ続けた32年以上にわたる未完の記録。

 「共同幻想」で革命を説き「対幻想」で家族を考え「自立」「大衆」近年では「ひきこもり」などのコトバで人間を考え続けた戦後最大の思想家。現代思想の張本人?であるフーコーやボードリヤールとの討論を通して絶賛されつつ、あくまで在野をつらぬいた思想の巨人。今や世界的な作家となった吉本ばななの父でもあり、頑固な東京下町のオヤジでもある人。本書はそういう人の未完に終わったライフワークの成果ともいえるもの。

●うつ病から解いていく驚異の展開…
 本書のメインのひとつがうつ病への緻密な解釈。本書は『本論』であり『序説』とは趣きが違っているけど、見事に『序説』から演繹された内容となっています。序説では読解に高度な抽象力が問われ、本書ではより簡明な(理論の)展開となって(これでも!)丁寧に読めば読者の思索を刺激してくれるものが全ページで確認できます。

 たとえば冒頭にある「目の知覚論」では縄文土器の文様から直線がプリミティブな抽象であることが指摘されています。その直線の形成は知覚の感情によることが示され、前段では心理には錯覚など無いことが説明され、そのように見え、そのように見ようとする視覚の必然性が説明されています。ここに感覚から観念に至る最初のルートが明解に示されているワケです。
 この最初の16頁分だけで、この書がただものではないことが解るでしょう。あるいは心理学や各種の認識論、哲学などジャンルを超えたあらゆる分野でとてつもない衝撃やコンプレックスが、しかし顕在化しないで沸き起こることが予感されるかもしれません…。
 ただ、難解で有名?な『心的現象論序説』がプロ?からは論評さえされないことで読者に継承されてきたように、今回も何の論評も無いのかもしれません。少なくとも、論評にはそれなりの能力が必要だとすれば、それは理解も予測もできる事態なのかもしれません。

 次の「身体論」ではいきなり「古典ドイツの身体論」としてフォイエルバッハへの孝察からヘーゲルの観念論までの広がりを射程とする探究がはじまり、緻密な検討と驚異的な広がり、それらを支えているオリジナルな観点への自問自答が繰り返されています。
 そして『心的現象論序説』『ハイイメージ論』『アフリカ的段階』などで示されてきた欧米思想への孝察とその成果が縦横無尽に駆使され、フロイトからライヒ、ドウルーズ・ガタリからラカン、三木成夫からホログラフィ理論までが引用され検討される世界は単なる読書家にもスリリングです。

●<手>からすべてを考えたり…
 よくカントの言葉として「手は外部の脳だ」といわれますが、本書の<手>への孝察は哲学的な瞹昧さが無く、人間という観念をもった生物の、その<手>という器官が認識と行動を媒介し統御し内化することを機能としていることが解き明かされます。<手>の知覚は触覚だけだが、<手>は<了解>するものだ…とマルクスが1つの<商品>から資本主義のすべてを読み取るように、ひとつの器官である<手>が孝察されます。
 人間が自然に働きかけるのが<労働>であり、それを通して<自己実現>し、その成果が<商品>だとするのがマルクス。本書では『資本論』や進化論を踏まえ、認識論として哲学的に<手>が考察されています。


 <手>の特異性が<時間>の拡大と構築に関与する…


 それは外化された<了解>であり
 …個体の生涯が限る<時間>を超えようとする作用に根ざしている。


 <手>がつくりあげるのは
 物質的であっても観念的であっても<了解可能>あるいは<了解希望>であって…


 吉本隆明の手が作り上げつつあった本書は未完のまま刊行されましたが、その読解は読者に任せられています。戦後最大の思想に対して戦後最大の読解は提示されるのでようか? 「社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?」といった橋爪大三郎氏の重い指摘は…。

●この潔癖さは邪魔かも?
 『ひきこもれ』『13歳は二度あるか』『中学生のための社会科』などでまったく新しい若い読者もでてきた吉本隆明氏ですが、その理論的な成果を解説するガイドは見当たりません。団塊の世代がメインを占めるであろう従来の読者層では論壇的な政治談議が目立ちます。
 最近では渋谷陽一と糸井重里が若い読者を吉本ワールドに導く数少ない仕事をしているだけなのかもしれず、本書の刊行など歓迎できるデキゴトはありますが、ノンジャンルでラジカルな著者の思想理論やフーコーほか欧米思想家とのやりとり、本書をはじめとする心的現象論関係の成果に対する研究と検討…などは本格化していません。

 著者に失敗?があるとすれば任官しないこと?。最高学府をはじめいくつもの大学から教授への就任を求められながら著者は固辞しつづけました。もし東大や東工大の教授等の肩書きでも受ければ、<戦後最大の思想>が正式?に研究対象となり得たでしょう。ヘーゲルかフロイトか柳田國男か心理学か言語学か、マテリアルな根拠を社会科学というジャンルで問いながら、そのベースには理系のクールなスタンスがあり、用語の一つからして他者に否定されることもなかったとはいえ、問題なのはむしろ理解さえされなかったということ…。理解できなかったことを正直に認めた浅田彰氏などは小数派で多くは驚くほどの曲解や誤読から批判や否定が繰りだされました。だからこそ、多くの者による理解の可能性と思索の広がりのためにも、最高学府名誉教授なりの肩書きを受けるべきだったと考えられます。この点においては、吉本氏の潔癖さが大衆への知の可能性の障害となってしまった事実は無視できないのではないでしょうか?


           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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ある意味、エグザンプルの多さはハイイメージ論的でもあり、最後に日本語の造語可能性を日本の古語であり基層である琉球周辺の言語(あるいは奈良時代以前の大和言葉)に求めた本書はノンジャンルの大著としても読める稀有な書籍といえるものかもしれません。

(2008/11/28、2016/01/31)

2015年10月31日 (土)

スタートでありゴールでもある…2つの心的現象論

 『心的現象論序説』は知の巨人が書いた最も難解な本…本書の宣伝コピーを書くなら、こんな風になるかもしれません。共同幻想などの言葉で有名な詩人吉本隆明氏の、原理論三部作のうちの一冊。個人の認識=心的現象からすべてを解き明かしていくもの。『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』とともに原理論を構成しています。

 原理論三部作はある意味で同じテーマをそれぞれ3つの位相から探究したもので、メインのテーマは<関係>。あらゆる意味で人間関係というものが究極のターゲットになっているといえます。マルクスでいう上部構造です。下部構造が生産緒関係という事物の関係=経済そのものであり、上部構造はその事物を媒介項とした人間関係(社会関係)であり、そこには文明や文化、そして商品としてのあらゆる生産物(との意味)が入るでしょう。心的現象論序説はそれらを人間の認識=観念の運動から解き明かしていきます。

 心的現象論序説の用語には原生的疎外純粋疎外などの哲学系のもの、ベクトル変容遠隔対称性などの位相幾何学系のものなど独特の概念が登場します。しかしソーカル事件で問題になったようなアバウトな趣きはなく、東工大出身というバリバリの理系の知見であることがわかります。著者は詩人ですが理論に関しては<水>を<H2O>(エイチツーオー)と表現したいと述べるほど徹底した科学者のスタンスが貫かれています。

 そのために数学や論理学といった理系的なクール?な概念の本質と由来が自然の過程として説明されています。たとえば非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学との認識論的切断があるとしても、それより本質的な同一性があることを自然過程として把握する吉本の思想があります。ライプニッツの神も自然が転換する契機となる変数だ…というのが吉本の認識(ハイイメージ論)であり思想なのです…。

   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

 数学や形式論理は指示表出だけの論理ですが、自然史的な過程を超えた認識はあり得ないことを前提に、数理概念も自然の一部でしかないという当たり前のことが当たり前に認識されています。…吉本の思索がある種無色透明に感じられることがあるのは、こんなところに理由があるのかもしれません。

           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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 吉本隆明の思索は<関係>とういうものをターゲットに、その一点にフォーカスしていきます。初期のマタイ伝をエグザンプルとした探究で<関係の絶対性>という言葉が評判になりましたが、このスタート時点で、ほぼラストまでを見切っていたともいえるのも、吉本隆明の思想家としての大きな特徴なのかもしれません。

           
共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

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定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

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 原理論である三部作それぞれから<関係>へのアプローチがされています。
 <共同幻想>は吉本理論で有名になった言葉ですが、これには3つの呼び方があります。『心的現象論序説』では<幻想的共同性>、『言語にとって美とはなにか』では<社会的幻想>と呼ばれ、<共同幻想>というのは『共同幻想論』での呼称です。それぞれのスタンスで同じ<関係>への呼び名が異なるようになっています。<公的幻想=Public Illusion>(マルクス)から(の)演繹?あるいは意識したものとしての、概念装置としてディテールまで考慮された用語でもあるといえるでしょう。

           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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 『心的現象論本論』は30年以上かかり未完に終わったとされていますが、吉本自身が想定どおりに終わったとも語っています。この本論はエグザンプルが豊富で、領域もノンジャンル。縄文の土偶からLSD投与実験、錯覚心理学やニューエイジの生命論のようなものまで詳細に思索されていて、同じように資本主義の商品すべてを扱ったハイイメージ論を思わせるものがあります。
 ハイイメージ論は共同幻想論の現代版として、現在に共同性の倫理が不在であることを結語としています。現在はある意味で共同性としては“終わっている”…という認識。しかし固有時をかかえた人間は過剰ななかを生きている…。そこで心的現象論本論はあらゆる症例を、あるいはすべてを症例と捉え、人間の可能性を探究しつつ展開されていきます。最期には心的現象のもっとも共同性をまとったものとして言葉の可能性が示され、日本語の自由な造語の可能性に期待を寄せているという印象のラストになります。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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 国家や社会という大きな共同性の倫理の不在を結論として示した『ハイイメージ論Ⅲ』。
 そういった情況のなかで、大きな共同性への最期の論考でもある『第二の敗戦期 これからの日本をどうよむか』では、「そういうことでしか可能性はない」という強力なプッシュで「三人ぐらいでつくる集団」に期待すると宣言されています。吉本さんの若い世代へ向けた言葉が印象的です。シェアハウスという言葉は出てきませんが、ネットや小さな共同性への期待は<大衆の原像>とオーバーラップさせることも出来るものではないでしょうか。まったく新しい世代に読まれているのも、吉本隆明の思想らしく、その可能性への探究もまだまだこれからだと思われます。そのスタートにもゴールにもあるのが2つの心的現象論ではないでしょうか。そこには、固有時をめぐる無限の思索がありそうです。

           
第二の敗戦期: これからの日本をどうよむか

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2014年10月27日 (月)

入力が無い時の<受容>と<了解>

 知覚が受容するものは感覚器官の対象ごとにそれぞれですが、いずれも時空間=マテリアルな制約の範囲内です。閾値としての最低刺激量以上であれば感覚が破損するほどの刺激量を上限として、それらは計量可能なマテリアルな現象ですが…。
 逆に、知覚するものがない場合、感覚や知覚はどのように対応するのでしょう?


   一般的に感官による対象物の<受容>とその<了解>とは、
   別の異質の過程とかんがえることができる。
   ある対象物がそのように<視える>ということと、
   視えるということを<了解>することとは別のことである。

                         (『心的現象論本論』P10)

           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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 感覚による<受容>とトータルな認識による<了解>を峻別したうえで、<受容>する対象が無い場合の<了解>(認識)に何が生起するのか…という問題が心的現象の多くを占めているのかもしれません。

 いちばん大きな問題は、入力が無い場合に対する応答や反応はどういうものなのか?ということ。基本的に物質として摂取するエネルギーはともかく、情報が入力されない場合あるいは入力される情報が無い場合、生命システムはどうするのでしょうか?

 個別の実験では明らかになりつつある問題にミッシング・ファンダメンタルがあります。入力されない状態ではどうするかという問題、無入力の問題ですね。何も入力されない場合、生命システムはどう対応しているのか?…

 答えとしては…

   脳は、情報が抜けているところを、その周辺の情報、前後の文脈から補う…
                                    (『空耳の科学』P141)

           
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 情報については、以上のような実験心理学や神経生理学やで明らかになっている事実があります。デジタル機器でいえばエラーキャンセラーのようなもの…というよりそのものかもしれません。

   情報の空白が生じたとき、埋めるものを「空間的な周辺」からもってくる場合と、
   そうではなくて「時間的な周辺」から持ってくる場合の二通りがある。

                                    (『脳を知りたい!』P204)

           
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 人間にとっての無入力や情報がないという状態では、結果は複雑なアウトプットとなります。情報がフレームアップされるだけではなく、それを正当化(最適化)する論理そのものも生成してしまいます。この論理を生成してしまうことそのものが、文化や宗教、道徳といったものに典型的に現れているといえるでしょう。

 

 左右の視覚を分断して優位な方の目だけに物を見せても、見えなかったほうの目でも「見えた」と認識するのが脳であり、常に欠落した情報を補っているという事実があります。この「見えた」は嘘なのですが、合理的な自覚のない嘘であり幻覚や幻想に近似し、相当するもの。心身の合理性と物理的な合理性はイコールではなく、それを媒介する論理的な合理性そのものにも?がつきまといます。可能性としては、そのことによってシステムの安定を確保することや均衡を維持することが目的なのだ…ということが推定できます。

   …それぞれの生存に適したように世界を捉えている。
   それぞれの知覚システムが、世界の現れ方を決めている…

                          (『空耳の科学』P145)

 人間の個体はそれぞれの個体に特有のTPO(場所的限定)から規定を受け、そのなかで認識し行為し生きています。そのために、そこで発現するエラーキャンセラーもさまざまであり、個性的でしょう。それは共同性でいえば文化の多様性となります。

       -       -       -

 これが人間関係だとどうなるのか? このような問いにダイレクトの答えたのが心的現象論や共同幻想論だともいえます。

 そこには人間{関係がなければ<関係がある>と認識する}という基本的な認識構造があるといえるでしょう。社会や共同体が存立する前提には関係のエラーキャンセラーともいうべきものがあるわけです。

 そもそも社会という不特定多数との人間関係は物理的につまり感覚的に認知し確認できるものではありません。毎日いっしょである家族以外では、友だちを知っている、バイト先の知っている人、いつも通る場所にいるいつも見かける人…など<知る>ことを通してそれこそ認知しているだけです。家族のように感覚的に恒常的に感知しているわけではなく、多くの場合ほとんどの他者は記憶との照合によって認識されているのが実態でしょう。他者に向けて日常的に行使されている感覚は視覚と聴覚。そのイメージと記憶が他者認知のベースになっています。それは幻想や幻覚あるは幻聴などの現象も病も、視聴覚によるものが多いという事実に現れています。

 人間のあらゆる認識を支えているのは、このエラーキャンセラーなのだといえます。部分的には錯覚などともいわれていますが、それは錯誤ではなく<そう認知できる何か…>だといえるもの。この問題にむかって探究をすすめたひとつの思索として吉本隆明の壮大な仕事があるような気がします。

 エラーキャンセラーとしての認識は、エラーに代替するものを代入することで完成します。

 「すべては<代入される空間性>」とは、そういうことです。

       -       -       -

 自然界の音、あるいは音の自然状態に近似するのがホワイトノイズ心身そのものをフィルターとしてパスする人間は、このホワイトノイズから(でも)いくらでも有意な、つまり価値の対象としての音を生成し創作しています。ここに、音階を見出す契機を発見し、論考をすすめているのが『ハイ・イメージ論Ⅰ』の「像としての音階」です。*J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

 身体をフィルターにしてホワイトノイズを価値化するのは、わかりやすい見解ですが、ハイ・イメージ論は心的現象、典型的な精神疾患としても、これを抽出しています。フリーハンドの創作された楽譜?と、グラフィカルな図解だけでも、専門家を圧倒する何かがそこにあり、この時期にコラボした坂本龍一でさえ、何かコンプレックスを感じるほどのものではなかったのか…と思いたくなるような、圧倒的なものが、ハイ・イメージ論にあります。
 クラフトワークのモフモフした音でさえ、ハイイメージ論で採譜されている姿には、GoogleEarthをはじめてのぞいた時のような、ウワッと思うような、しかしクールな何かが、そこにあります。それは、人間にとってはじめての<人工のもの>に挑むような迫力がそこにあることかもしれない…といってみたくなるようなものです。

           
アウトバーン

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  この日常的で、かつ恐ろしくラジカル?な思索(者)の、その価値は、誰がどうやって確認し、伝達するのだろう…という平凡な疑問な、やがて大きく問われる時があるだろうと思うことがあります。

2014年9月30日 (火)

<自己抽象>と<自己関係>の2つの系

現存在分析的にアプローチすると、人間の個体は2つの系から構成されています。
<自己抽象>と<自己関係>の2つの系です。

2つの系は、言語に表出するものとしては、
たとえば「は」と「の」という助詞に象徴的に表象していると考えられます。
「ワタシは…」(自己抽象)と「ワタシの…」(自己関係)の、「は」と「の」のようにです。

自己抽象は自己意識そのものであり、対象化されていない自己。
「ワタシは…」の「は」は自己を限定する機能であり、自己以外の何ものも指示していません。
自己関係は対象化された自己であり、その対象と主体にまたがる両価的な自己。
「ワタシの…」の「の」は自己を対象とする機能であり、自己の何ものかを指示しています。

自己抽象は対象のない意識そのものであり、それは時間(性)といえます。

自己関係は自己を対象とする関係であり、それは空間(性)といえます。

この時間性と空間性(の錯合)があらゆる認識のベースとなっていきます。


 いっさいの了解の系は
 <身体>がじぶんの<身体>と関係づけられる<時間>性に原点を獲得し、
 いっさいの関係づけの系は
 <身体>がじぶんの<身体>をどう関係づけるかの<空間>性に原点を獲得するようになる。
              

(『心的現象論本論』「身体論」<11 身体という了解―関係系>P73)

了解の系としての4つの時間性=クロック


意識の動きそのものである時間性。
対象との関係そのものである空間性。
この2つの総合として認識が構成されていきます。
「対象との関係」の初源の対象は自己の<身体>になります。


  人間の現存性を支えている根拠は
  <わたしは―身体として―いま―ここに―ある>という心的な把握である。

  <いま>は現在性の時間的な言い回しであり、<ここ>は空間的な言い回しである。
  このばあいもっとも問題になるのは<ある>という概念である。

       (『心的現象論本論』「関係論」<33 <うつ>という<関係>(3)P177)


<ある>に析出する原認識ともいうべきもの。
探究されるのは現存在として既に錯綜している<ある>の内容…。
数理的に追究されそうな定理ともいうべきものが、
心的現象論では数行の論述で把握されていきます。

冪乗、遠隔化、逆立といったファンクショナルな(ものの)動因も、
その構造そのものにある…
という思索が可能な根源へのアプローチです。


  <わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性の識知は、
  その次元を自己の<身体>にたいする自己の
  <自己了解づけ>と<自己関係づけ>の位相においている。
  これは、「自然現象」でもなく「観念現象」でもなく、いわば、自然-観念現象に基づいている。

       (『心的現象論本論』「関係論」<33 <うつ>という<関係>(3)P178)


身体(という自然)に依拠しながら、そこには還元できない観念の現象…。
身体への自己言及が不可能だが必然な領域としての純粋疎外…。
自然へプラグしようとする知覚と、対象をリーチングする運動…。
行動と観念が未分化の胎児からはじまる心的現象の自然過程…。
それらを環界として覆っていく言語そのものの展開…。


   心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。

   心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
   ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…

                     (『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93


現象学の遁走を追究しながら展開される、心的現象論の異様ともいえるほどラジカルな射程。
難解で有名な思索の、意外にシンプルな論述が心的現象論に結実していきます。


心的現象論本論

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2013年3月29日 (金)

<写像>ということの意味?ウイットゲンシュタイン・吉本隆明

   人間は言葉に従って図面を描くことができる。
   言葉を図面に翻訳するのである。
   それはある言葉を他の言葉に翻訳するのと同じだ。

....というのはウイットゲンシュタイン『哲学的孝察』における問題意識。

 思考を前提とした言語による表出を、図形という視覚による表象に置き換えるのは、言語を別の言語に置き換えるのと同じだ、ということ…。
 ここで問題になるのは概念を視覚象に置き換える能力。そこには、どんな認識の過程があるのか?
 ハイイメージ論全般に通底するラジカルなテーマともいえるものがコレです。(それは同時にハイイメージ論へのマトモな論評が少ないことへの理由にもなっているのでしょう。)

 ところで、これは『ハイ・イメージ論Ⅱ』におさめられている「パラ・イメージ論」のテーマで、『言語にとって美とはなにか』の現在版であることを目指した『ハイ・イメージ論』のメインテーマにもなるもの。しかしハイイメージ論(マスイメージ論を含む)が結論として共同幻想=公的関係(性)を追究したものであるために、その解はそこにはありません。解があるのは『心的現象論本論』のなかです。ヘーゲリアンである見田石介のような問題意識(柄谷行人の問題意識を生んだともいえる)からすれば上昇と下降あるいは抽象と演繹のなかでマテリアルに帰着できるものを求めれば解として心的現象論に収斂するのは当然。マテリアルである以上求められているのは生物(学)的な合理性であり、それは膨大なエグザンプルや実験論文をサンプリングしている特異な論文となった心的現象論本論の形態の意味そのものを指し示しているともいえます。

 「思考を前提とした言語による表出を、図形という視覚による表象に置き換える」過程を分解すると、言語の生成と図形の形成になります。いいかえれば概念と視覚像のそれぞれの生成過程です。
 「図形という視覚による表象に置き換える」ことのラジカルなヒントは視覚像が生成される過程にあり、感覚器官としての視覚像が受容される位相ではなく視覚像を求める位相そのものとしての意義がありそうです。これは人間が最も合理的に視覚像を描こうとするという事実に至った論考に示されているといえるでしょう。

   <眼>の知覚はこの種の線分の集合から、
   いつも<さっぱりしたい>という感情を誘引し、
   知覚にみちびき入れる。

           「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P16)

       -       -       -

 「思考を前提とした言語による表出」の過程については以下のようなラジカルな問題提起が示されています。

   「犬」を文字に表すのに<犬>と書いても、
   <いぬ>でも<イヌ>と書いても、
   ソシュールのいう意義は変わらない。
   しかし、この表現の変化に応じて、
   微妙な価値の変化がある。

....これは『ハイ・イメージ論Ⅱ』の基礎となる論考の「拡張論」における問題提起。

 この微妙な価値の変化というのが芸術の意義だというのが、その主張です。

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