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2018年7月28日 (土)

S字曲線と呼ばれるグラフで示されるもの…

     ある生存に適した有限の生態系の中に放たれた生命種が
     その環境内で増殖を続けた場合にたどる変異を示すグラフに、
     生物学でロジスティック曲線と呼ぶS字型生命曲線がある。

     (『人類が永遠に続くのではないとしたら』(加藤典洋・新潮社)P190)

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋 , 他
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価格:¥888
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ある生物種と、その種が生きていく環境とのもっとも基本的な関係を現したS字曲線(シグモイド曲線)。一定環境での個体群の増加などに見られる典型的な関数の形…そこから何を読み取り、何を発想できるのでしょうか…?

S字曲線と呼ばれるグラフで示される、とは…Sという文字の上辺?と下辺?に当たる部分が水平に近いわずかな傾斜で右上がり、上下を結ぶ真ん中の線が垂直に立ち上がある形を示しているもの。上下の辺は両方ともわずかな傾斜で右上がりになっているが、トレンドがまったく異なり、下辺はだんだん立ち上がっていき、上辺はだんだん立ち上がりの傾斜がフラットになっていくもの。

自らの生きる環境が有限であり、その閉鎖系内で生産と消費を繰り返す…というシンプルな事実。それを認識しているかいないか…。自らの生きる環境の状態を知るには、あるいは自らの環界の限界=有限であることを知るには、環境からの情報のフィードバックとその情報を理解できる認識能力が必要です。


 世界を東西に二分した冷戦よりもよりリアルに資本主義国を直撃した石油ショック。
 重要であるとともに有限なエネルギー源である石油を利用したすさまじいコンフリクト…。しかしそれより以前に、この地球が有限なマテリアルであるという当然で自然な、そしてラジカルな研究をしたのがマサチューセッツ工科大学でした。
 その成果は『成長の限界』として公表され、東西陣営を問わず全世界に衝撃を与えました。特に西側=資本主義世界では重化学工業の急成長から一般消費へのシフトがはじまりつつあり、『成長の限界』は想定外あるいは論外といった反応をも招きました。誰も<限界>など感じてはいなかったし、そんなものは<あり得ない>はずのことでした…。

 この<あり得ない>ことが、次から次へと起こってしまう事実を直視したのが、「リスク社会」のウルリヒ・ベックです。
 ベックが指摘するリスク社会とは、リスクテイクすることが生産コストより大きくなるような事象に満ちた社会です。たとえば原子力発電…原子力発電所の建設費より、その寿命が来て安全に解体処理する費用のほうがはるかに大きくなってしまいます。もちろん運行途中の事故はマネーゲームのバブル崩壊のように、常に想定外という言い訳がされてきました…。


           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
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 加藤典洋氏は見田宗介氏に「リスク社会」のウルリヒ・ベックには無い可能性を見出していきます。それは<世界視線>の有無ともいえるもの。リスクを解決すべき課題として捉えるベックは再帰性をベースにしながらもリスクを解決すべき問題として対象化しています。見田は世界の有限性への認識から、内在する関係性へと旋回することによってリスクをヘッジする経路を見出そうとします。これは科学と宗教ともいえる面をも内包したものといえるもの…。

 吉本隆明的に言えば、先験的理性であるかのように見えるものへの絶え間ない問いかけ…。科学が蓋然性でしか無く、数理概念さえ自然認知に従うことをベースにした、終わりのない思索…。

 そんな思索に、とりあえず設定された目標?について吉本隆明は語っています。



     「日本人とは何か」という問題意識と、
     「現代社会はどこへ行くか」という問題意識を
     同じ方法でやらなければいけないとも思っています。

     さもなければ、進歩と保守とか、
     歴史学と未来学というような対立になってしまいますから…

     そのとき、見田さんの社会論なんかを
     取っ掛かりにできればと思っているんです。

     (『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』
          「吉本隆明+見田宗介 世紀末を解く」P77)

2017年7月31日 (月)

現在はナゼ不可視なのか?…ハイイメージ論

 共同幻想論の現在版であるハイイメージ論は、現在はナゼ不可視なのか?という問いからスタートします。

 「高度情報化」の社会像の像価値は・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・それはわたしたちが、社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、わたしたちを安堵させているからだ。
 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P31,32)

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P24)


 フランス最高の知性といわれ左翼政権の最高顧問として登場したジャック・アタリの著作『情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)』。それを思わせ、そしてはるかにそれを超えるのがハイ・イメージ論Ⅰのスタートを切るこの30頁ほどの論考、「映像の終わりから」。すべては、現在が不可視であることを確認するところからはじまります…。

 産業構造の進展を時空間とその構造の差異の変容から説明しながら、わたしたちがいかにして不可視であるかを解いていく論考は、あの共同幻想論の現代版として思索されてきたもの…。「情念」や「倫理」を排したクールな思索と探究は情報理論なども踏まえて展開されています。

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,404
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情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)

翻訳:平田 清明 , 他
参考価格:¥ 1,255
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改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明 , 他
参考価格:¥ 778
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 共同幻想論は人はなぜ、どうしてどのように共同幻想を見てしまうかが探究されていますが、このハイ・イメージ論では問いが逆転し、なぜ見えないのか?が問われていきます。不可視であることの理由…。安堵し覚醒をさまたげるものとの永続的な闘い…詩人であり思想家である吉本隆明のノンジャンル、ノンリミットの思索がハイイメージ論に溢れています。


 安堵し覚醒をさまたげられている現代人へ、遠野物語の序文の「之を語りて平地人を戦慄せしめよ」というアプローチがハイ・イメージ論が書かれた動機のひとつでもあることは間違いないでしょう。

 国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。
 願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。

                          (『遠野物語』「序文」 柳田國男」)

           
新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺 柳田国男コレクション (角川ソフィア文庫)

著:柳田 国男 , 他
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2017年6月30日 (金)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?(再掲)

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

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みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
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現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎や村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

    ハイ・イメージ論〈3〉

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,677
価格:¥ 1,677

   

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2016年8月18日 (木)

現代という作家を明かす…『村上春樹は、むずかしい』

気鋭の批評家東浩紀氏が「吉本(隆明)派」と呼んだのが加藤典洋氏。一般には早くから村上春樹の研究家として知られている有名な文芸評論家です。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。
「指示表出と自己表出の可能性」から

 吉本隆明の読者であればアレ?と思うかもしれません。たしかに、ちょっとヘンですが間違ってはいません。指示表出と自己表出という『言語にとって美とはなにか』の代表的な概念装置からすると足りないもの?がありますが、機能分析的に使うならOKなのではないでしょうか?

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。
「指示表出と自己表出の可能性」から


 加藤典洋氏がまるで吉本隆明のように村上春樹を批評しているのが『村上春樹は、むずかしい』だとすれば、吉本隆明がまるで文芸批評そのもののように春樹ワールドを分析してるのは『ハイイメージ論』で読むことができます。

 文芸ジャンルのプロからはdisられシカトされたのが村上春樹の初期でした。デビュー時に春樹ワールドに魅了され、その文体をマネしたり分析したりしていたのはコピーライターやサブカル系のジャンルのマガジンであって、文芸ジャンルではありません。サブカルの領域では“エヴァンゲリオンの登場で文芸は終わった”という説得力のある言説が流れいて、当然だと思っていた人は少なくないでしょう。事実、当然です。

 明治以来の12音階への洗脳教育のなかで登場したTK=小室哲哉の登場でもそうでした。小室氏も著名な音楽家や作曲家から激しくdisられたのです。それは“音楽の理論にあっていない”という爆笑ものの非難に象徴されていました。自らの依って立つ12音階理論だけが正しいのだというのでしょう。そこには―あらゆる理論は現実から抽象されるもの―という科学の初歩がありません。ただ自分にだけ都合のいい狭量な宗教になってしまっています。


           
村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

著:加藤 典洋
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 加藤典洋氏はきっぱりと入り口で宣言しています。

     世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、
     彼は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、
     大事な存在なのだと知らしめたい。
(『村上春樹は、むずかしい』「はじめに」P13)

 これは本書で繰り返し指摘されるある事態を示しています。
 それは東アジアで村上春樹が読まれているにもかかわらず、その東アジアの知識層には春樹もそのワールドも支持されていない、評価されていない…という事態です。

 この指摘は“左右両翼から十字砲火にあった四面楚歌の評論家”と自称する加藤氏ならではの分析であり批評だからこそ可能なもの。そして加藤氏と同じ知識層に対して自覚を促すクリティカルとなっています。エヴァンゲリオン以降の世代であればシカトしておけばイイような相手を丁寧に導こうとする氏の真面目なスタンスは、常に自らを振り返りつつ思索している氏ならではのものからかもしれません。

 大衆と知識層の乖離は吉本隆明にあっては大前提であり、社会を見るときの基本となるものであることは吉本の読者には常識でしょう。資本主義のすべてのプロダクトを指示表出として批評したハイイメージ論では、すでに知が無効であること倫理がないこと…が基本的なモチーフであるとともに結語でした。それは商品という指示決定に対して自己確定するとはどういうことなのか?それは可能なのか?それは正常に行われているのか?その最適解はあるのか?という高度資本主義の圧倒的なボリュームの環界をめぐる思索でした。それが知識層が誰もタッチできず言及することさえできなかったエビデンスなのでしょう。

 そこには大衆の指示表出を自己確定できない知識層の姿があります。

2014年10月27日 (月)

入力が無い時の<受容>と<了解>

 知覚が受容するものは感覚器官の対象ごとにそれぞれですが、いずれも時空間=マテリアルな制約の範囲内です。閾値としての最低刺激量以上であれば感覚が破損するほどの刺激量を上限として、それらは計量可能なマテリアルな現象ですが…。
 逆に、知覚するものがない場合、感覚や知覚はどのように対応するのでしょう?


   一般的に感官による対象物の<受容>とその<了解>とは、
   別の異質の過程とかんがえることができる。
   ある対象物がそのように<視える>ということと、
   視えるということを<了解>することとは別のことである。

                         (『心的現象論本論』P10)

           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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 感覚による<受容>とトータルな認識による<了解>を峻別したうえで、<受容>する対象が無い場合の<了解>(認識)に何が生起するのか…という問題が心的現象の多くを占めているのかもしれません。

 いちばん大きな問題は、入力が無い場合に対する応答や反応はどういうものなのか?ということ。基本的に物質として摂取するエネルギーはともかく、情報が入力されない場合あるいは入力される情報が無い場合、生命システムはどうするのでしょうか?

 個別の実験では明らかになりつつある問題にミッシング・ファンダメンタルがあります。入力されない状態ではどうするかという問題、無入力の問題ですね。何も入力されない場合、生命システムはどう対応しているのか?…

 答えとしては…

   脳は、情報が抜けているところを、その周辺の情報、前後の文脈から補う…
                                    (『空耳の科学』P141)

           
空耳の科学 ~だまされる耳、聞き分ける脳~

著:柏野 牧夫
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 情報については、以上のような実験心理学や神経生理学やで明らかになっている事実があります。デジタル機器でいえばエラーキャンセラーのようなもの…というよりそのものかもしれません。

   情報の空白が生じたとき、埋めるものを「空間的な周辺」からもってくる場合と、
   そうではなくて「時間的な周辺」から持ってくる場合の二通りがある。

                                    (『脳を知りたい!』P204)

           
脳を知りたい! (講談社文庫)

著:野村 進
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 人間にとっての無入力や情報がないという状態では、結果は複雑なアウトプットとなります。情報がフレームアップされるだけではなく、それを正当化(最適化)する論理そのものも生成してしまいます。この論理を生成してしまうことそのものが、文化や宗教、道徳といったものに典型的に現れているといえるでしょう。

 

 左右の視覚を分断して優位な方の目だけに物を見せても、見えなかったほうの目でも「見えた」と認識するのが脳であり、常に欠落した情報を補っているという事実があります。この「見えた」は嘘なのですが、合理的な自覚のない嘘であり幻覚や幻想に近似し、相当するもの。心身の合理性と物理的な合理性はイコールではなく、それを媒介する論理的な合理性そのものにも?がつきまといます。可能性としては、そのことによってシステムの安定を確保することや均衡を維持することが目的なのだ…ということが推定できます。

   …それぞれの生存に適したように世界を捉えている。
   それぞれの知覚システムが、世界の現れ方を決めている…

                          (『空耳の科学』P145)

 人間の個体はそれぞれの個体に特有のTPO(場所的限定)から規定を受け、そのなかで認識し行為し生きています。そのために、そこで発現するエラーキャンセラーもさまざまであり、個性的でしょう。それは共同性でいえば文化の多様性となります。

       -       -       -

 これが人間関係だとどうなるのか? このような問いにダイレクトの答えたのが心的現象論や共同幻想論だともいえます。

 そこには人間{関係がなければ<関係がある>と認識する}という基本的な認識構造があるといえるでしょう。社会や共同体が存立する前提には関係のエラーキャンセラーともいうべきものがあるわけです。

 そもそも社会という不特定多数との人間関係は物理的につまり感覚的に認知し確認できるものではありません。毎日いっしょである家族以外では、友だちを知っている、バイト先の知っている人、いつも通る場所にいるいつも見かける人…など<知る>ことを通してそれこそ認知しているだけです。家族のように感覚的に恒常的に感知しているわけではなく、多くの場合ほとんどの他者は記憶との照合によって認識されているのが実態でしょう。他者に向けて日常的に行使されている感覚は視覚と聴覚。そのイメージと記憶が他者認知のベースになっています。それは幻想や幻覚あるは幻聴などの現象も病も、視聴覚によるものが多いという事実に現れています。

 人間のあらゆる認識を支えているのは、このエラーキャンセラーなのだといえます。部分的には錯覚などともいわれていますが、それは錯誤ではなく<そう認知できる何か…>だといえるもの。この問題にむかって探究をすすめたひとつの思索として吉本隆明の壮大な仕事があるような気がします。

 エラーキャンセラーとしての認識は、エラーに代替するものを代入することで完成します。

 「すべては<代入される空間性>」とは、そういうことです。

       -       -       -

 自然界の音、あるいは音の自然状態に近似するのがホワイトノイズ心身そのものをフィルターとしてパスする人間は、このホワイトノイズから(でも)いくらでも有意な、つまり価値の対象としての音を生成し創作しています。ここに、音階を見出す契機を発見し、論考をすすめているのが『ハイ・イメージ論Ⅰ』の「像としての音階」です。*J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

 身体をフィルターにしてホワイトノイズを価値化するのは、わかりやすい見解ですが、ハイ・イメージ論は心的現象、典型的な精神疾患としても、これを抽出しています。フリーハンドの創作された楽譜?と、グラフィカルな図解だけでも、専門家を圧倒する何かがそこにあり、この時期にコラボした坂本龍一でさえ、何かコンプレックスを感じるほどのものではなかったのか…と思いたくなるような、圧倒的なものが、ハイ・イメージ論にあります。
 クラフトワークのモフモフした音でさえ、ハイイメージ論で採譜されている姿には、GoogleEarthをはじめてのぞいた時のような、ウワッと思うような、しかしクールな何かが、そこにあります。それは、人間にとってはじめての<人工のもの>に挑むような迫力がそこにあることかもしれない…といってみたくなるようなものです。

           
アウトバーン

演奏:クラフトワーク
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  この日常的で、かつ恐ろしくラジカル?な思索(者)の、その価値は、誰がどうやって確認し、伝達するのだろう…という平凡な疑問な、やがて大きく問われる時があるだろうと思うことがあります。

2014年9月 5日 (金)

フーコーと吉本が補完し合った思想のパフォーマンス…『世界認識の方法』

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

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抽象と具体として補完し合う二人の思想巨人?吉本隆明の著作への理解度が評価を分ける対談。

2014/9/5       
       

        レビュー対象商品: 世界認識の方法 (中公文庫) (文庫)       

この本の冒頭50ページのミッシェル・フーコーと吉本隆明の対談「世界認識の方法」は、スレ違っている とか噛み合っていないという評価が多いものです。しかし、フーコーの以下の言葉ひとつでも、対談の内容は把握できるのではないでしょうか? 互いに相手に 可能性を見出そうとするスタンスと、それとともに自らの立ち位置も振り返ってみるという思索の醍醐味にもあふれた対談だともいえそうです。

   基本的な点で、
   私は吉本さんのお考えに賛成です。
   お考えに賛成というより、
   とりわけてその留保の部分に賛成したいと思います。
(P36)
   (注:「留保」の部分というのは吉本隆明がフーコーに同意できないと伝えた部分のこと)

対談の基本的な構図は、たとえば共産党をめぐる評価に端的に現れています。
“ヨー ロッパでキリスト教会以来の特別な存在である共産党”というフーコーの指摘と論考は鋭く、個人の意志が党の意志に収斂あるいは拘束されていく過程が、フー コーならではの手つきと認識で把握されていきます。そこでフーコーはマルクスやマルクス主義を否定しているのではなく、党や官僚という権力機構との結びつ きを問題にします。そして“マルクスの言葉と結びついた権力の発現形態をシステマティックに検討する必要がある…”というのが吉本の問いに対するフーコー の解答であり主張になっています。しかし考えてみれば、この権力の発現形態への分析こそ吉本における共同幻想論であり、その全体を貫く思想であることは吉 本の読者なら知るところでしょう。吉本がマルクスとマルクス主義を峻別したように、フーコーはマルクスとその政治的権力との結合を分けています。吉本は理 念において、フーコーは現実においてという相異はありますが、両者ともマルクスそのものを否定しているのではなく、むしろ逆に何らかの可能性を見出そうと してることが確認できます。

           
世界認識の方法 (中公文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥823
価格:¥823

   
対談中フーコーは自らの代表作である『言葉と物』への吉本による読解の深さに感謝すると同時に、吉本の指摘に 応じてこの著書への「ある種の後悔」を表明し、いまは「具体的な問題から出発」し「新たなる政治的イマジネーションを生じさせる」ことを目指したいと語っ ています。これはそのまま吉本の仕事(思索と著作)が目指しているものそのものと同じでもあるでしょう。

フーコーは吉本にとってのエグザンプルを語っており、吉本はフーコーの問題意識そのものを思索した…ともいえるスリリングが関係が対談に結実しているという見方さえできます。

フー コーのパラグラフでは確かに読みにくいおもむきがありますが、これは編集に負うところが多いものでは?とも思われます。対談の流れに実直であることは必要 かもしれませんが、読者の理解を得るための工夫はもっとできたのではないでしょうか。いずれにせよ、吉本への理解度が、この対談そのものへの理解に比例す るのは間違いなさそうで、そういった意味では読者そのものが試される本であり対談であるのかもしれません。そしてまた、この対談で提出された問題は、いま も糸口すら見つかっていないようなものである気がします。

吉本が共同幻想についての最後の思索をした、『ハイイメージ論Ⅲ』資本論を援用した 消費論では、現代社会の不安について「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」ことが根源にあるとしています。これはフーコーが 欧州では教会以来の特別な存在である共産党が問われていない…と指摘したこととパラレルな面がありそうです。

フーコーのスタンスをニー チェ風にいうと…神は死んだが、新しい言葉がない…というのがニーチェから授かりさらに思索したフーコーの認識ではないでしょうか。ディスクールの死、新 しいイマジネーションの貧困…フーコーは根源的な問題を吉本と共有できているという確信のもとに対談に臨んでいるように思えます。

異なる のは理念的か現実的か、日本か欧州か…という問題であり、そこには方法の問題がクローズアップされている…ということではないでしょうか? いずれにせよ 世界認識という俯瞰からしか理解できない問題であるとしても、それこそ2名の思想の巨人の対談として、もっともマッチしたパフォーマンスだったと思いまし た。


はじめに書きましたが、この対談を「スレ違い、成り立っていない」という指摘があり、なかには「吉本隆明はフーコーに相手にされていない」というものもあ ります。これらの指摘が何かの参考になるとすれば、そういう指摘をする人自身が実は本書を読んでいなかったり、単に理解力・認識力が無い場合が少なくな い…ということのようです。学問や思想の世界では、いまだに西欧コンプレックスがあるのかもしれませんが、本書を否定するようなタイプの人の言説では参考 になるものもなく、単語の逐次変換と文法だけで文意が解ると考えているような人ばかりなので、そういった人を振り分けるリトマス試験紙として本書を巡る評価を観察するのも面白いかもしれません。

対談での通訳(蓮實重彦)による幻想の間違った翻訳(幻想をfantasmeと誤訳。文脈からillusionが適正)を批判した中田平氏は、その後共同幻想論を仏語に訳しパリまで届けました。また竹田青嗣氏のように、この対談の他フランス現代思想を代表するガタリやリオタール、ボードリヤールらとの討論などをみても、現代思想をはるかに凌駕する吉本隆明の可能性を指摘した人もいます。何よりもフーコー自身が吉本の指摘をすべて受け入れており、「言葉と物」のラジカルな再考を表明していて、フーコー研究の最大のポイントとなる対談でもあるハズです。

*吉本の共同幻想はマルクスの公的幻想(上部構造の別称)に由来することを勁草書房の吉本隆明全集での吉本自身の説明からいちばんはじめにネットに紹介したのは羊通信の2003/5/15版です。

     ↓

「K,Marxの「public-illusion」つータームが共同幻想と意訳されたらとたんに混乱してるワケ?」

(2014/9/5,2015/8/6,2016/2/23)

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フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)

編集:小林 康夫 , 他
参考価格:¥1,728
価格:¥1,728

   
           
追悼吉本隆明 ミシェル・フーコーと『共同幻想論』

編集:中田 平
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2014年8月31日 (日)

世界視線=イメージの生成

イメージ=心像というと視覚像を思い起こしますが、
視覚像とは全く違うイメージでも、そこには内容と形があります。
イメージは概念と形態にまたがって生成されます。
『心的現象論序説』の最終章であるⅦ章「心像論」の最後の
パラグラフで一度だけ〝心像〟に「イメージ」とルビがふられています)

           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,028
価格:¥1,028

   

Mポンティが“イメージのパルテノンは柱を数えることができない”と指摘しているのが心的現象論序説に引用されています。逆の意味でヤスパースから援用されているのが直観像。サヴァン症候群などとして知られている視覚的直観像というのは、一見してすべてを記憶してしまうような知覚の能力。音楽も一度聴いいただけですべて憶えてしまい、そっくりそのまま再演できるような能力として話題にもなりました。一瞬にして細部まで数えることがきでる能力です。このサヴァンな能力は言語関係の能力と逆立する、シーソーすることも確認されています。一般的にも、この能力は成長すると失われていきます。

ところで、これらの点から考えると、Mポンティは矛盾?した主張をしているようなところがあります。たとえば“イメージの形象は知覚から借りている”という指摘がそれ。知覚したものは数えられるので、イメージは数えられないという先の主張とは矛盾しています…。

この矛盾を解きあかしていくのが心的現象論序説の論考です。序説では、この矛盾を、逆にエビデンスとして新たな探究の成果を獲得されていきます。典型的な弁証法の展開でもあり、方法(論)そのものから思索をめぐらす達成がここにあります。

“数えられない<イメージ>”と“数えられる<知覚>”とのカップリングが成り立つのか?その内容はどういうものであるのかが、序説では考察されていきます。

       -       -       -

イメージが数えられないのは、それが知覚ではないからであり、知覚ではないならば、それは何なのか?ここでもMポンティが引用されるなどして、イメージのラジカルな定義がなされていきます。

  イメージとは、実際には意識全体の作業であって、単なる意識内容ではない…
  想像するということは、不在な対象との或る関係の様式を設定することだ…

                                (『眼と精神』メルロオ=ポンティ)

           
メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)

原著:Maurice Merleau‐Ponty
参考価格:¥1,026
価格:¥1,026

   

吉本理論全体のなかで、この問題は2つの具体として取り上げられており、それぞれがとてつもなくラジカルで重要なことを示唆しています。

それは<夢>と<共同幻想>です。
夢も共同幻想も知覚に依拠しない認識であり、知覚を捨象したところに共通点(共通な基盤)があります。(共同幻想論でのその典型例は<他界>とされています)

入眠中の認識である夢は、入眠中であるために知覚から遮断されています。あるいは知覚から遮断されているので<夢>なのでしょう。知覚的な確認なしでも成立する認識として、そこには幻覚や幻想あるいは妄想への経路があります。

環界とのプラグである知覚が遮断され、外界との関係がない状態。そこでこそ生成する「不在な対象との或る関係の様式を設定することだ…」という事態は何を示しているのでしょう? Mポンティの思索はここまでですが、これほどラジカルな指摘はないともいえます。ここからさらに吉本隆明氏の探究は「不在な対象」へと進み、共同幻想論の他界論へ結実していきます。

これらは<死>といったものへの経路でもあり、共同幻想論では<死>=<他界>をめぐっての思索が展開されていきます。<死>は知覚することが絶対に不可能な現象? 世界に何十億人の人間が生きていても、死を経験する人は皆無。人間は死を経験することなく死を迎えます。そのために<死>について知ることや語ることは、ある種の特権的な意味があり、おそらくは宗教や神という言葉のもとに行使されるそれらは、そういった何らかの特別な意味を帯びているのでしょう。リアルには、特権性を帯びたいがために死について語ってみせたり、死に近づく修行をする…というのが実態になっていますが。マルクスでなくてもある種マジメな宗教者であれば、このことには自覚的であり、虚偽(死の可知性)を生成する機序について客観的に語っていたりします。無いものを見えるとする両眼視野闘争とまったく同じ構造(つまり理由なし)で…(もちろん自己の利益のために)と、正直に語る僧侶や牧師に会ったことがあります。

『共同幻想論』・他界論から考える

『共同幻想論』・他界論から2

           
共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

著:吉本 隆明
参考価格:¥637
価格:¥637

   

       -       -       -

ところではじめに戻って、数えることができる認識であるイメージとは何なのか?
数えることができる知覚とは異なるもの…イメージでしかないもの。
たとえば、臨死体験では自己客体視し、死んでいる自分を見たりします。周囲には悲しんでいる家族や友だちがいたる光景を見るワケです。

 空を飛び地上を見下ろすことができなくても、ナスカの地上絵は描かれました。それは想像力によって可能になったもの。高いところから低いところを見下ろすなどの経験から演繹?して獲得した認識によるでしょう。想像力については経験したことしか想像できないと定義されますが、経験値から拡張することによって可能になることは小さくはないようです。そしてテクノロジーによる大きな拡張のあとでは、その可能性も飛躍的に大きくなります。それがランドサットによる視野から世界視線を説明するハイイメージ論になります。さらにはデータさえあれば想像どおりに視野は拡大深化できます。
 同じように、世界視線に、純粋に人間存在そのものからアプローチしたのが臨死体験への考察。臨死という身体統御の弱化の過程で、フリー?になった心身が獲得するイメージへの論考です。ランドサットというテクノロジーと臨死という心身の状態…この両者から、日常的な普通の知覚と想像(力)からは生成されることはないような、イメージによる疑似的な視線をフォーカスしていくのが世界視線になります。

通常の知覚に、純粋状態を媒介として、ある志向性にもとづいて生成されるイメージ(疑似視線)としての<世界視線>…。絶対に経験できない不可知な死も、マテリアルには存在しない共同幻想も、見てしまう視線=過視するものとしての世界視線 がそこにあります。(リアリティは<通常の知覚>量に担保されます)

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,404
価格:¥1,404

   

2014年7月17日 (木)

シェアハウス的なもの=<大衆の原像>は現代をクリアするか?

みんなが生き、暮らしている、私的な空間(家族)と公的な空間(社会)の<純粋疎外>として提出されたのが<大衆の原像>。
「三人ぐらいでつくる集団」「そういうことでしか可能性はない」…と現代をクリアしていく方法を示しながら…「純粋ごっこ」ともいわれる思春期、青春期の心性に根ざした社会の可能性…シェアハウス的なトレンドに期待する巨大な思想家のリアルな思索…。憲法9条の価値と、9条でも介入できない対幻想の世界観が述べられていきます。

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現在の日本をどう読む、そのわかりやすい解『第二の敗戦期』

未帰還者となった吉本隆明さん。その半年後に出版されたのが本書『第二の敗戦期:これからの日本をどうよむか』。内容は「ぼくなんかが考える基本的なところ」。共同幻想への最後のアプローチであるハイイメージ論のスタートで現在の「情念」による「意味づけ」を「倫理によって作りだされた絶えまない説教」と「おなじ」と無効を宣言し、マテリアルとテクノロジーに託すスタンスを明確化(「映像の終わりについて」)。ラストに現在を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」(「消費論」)と示唆…。では、その解は? そのアバウトな応答が本書です。グローバリズムから<大衆の原像>をはじめ、わかりにくい現在が可視化されています。
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仲間で生き抜こうぜという本。もちろんひっきー&ニートOKでしょ。
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現代社会の解決はシュエハウス的なトレンドだけ? 2012/10/29

    By タマ73

Amazon.co.jpで購入済み

吉本隆明さん自身による“吉本ガイド”のように読める本。初期三部作(言語にとって美とはなにか共同幻想論心的現象論序説)のような理論的なものではな く、現代社会を乗り切るための、『アフリカ的段階』以降の思索が披露されています。“アメリカはオカシイ”からはじまってラストは“シェアハウスに期待す る”的な言葉…。シェアハウスという言葉は出てきませんが「三人ぐらいでつくる集団」に期待する、「そういうことでしか可能性はない」という強力なプッ シュが印象的なラストです。

フーコーを「まったく独立派だった」、シモーヌヴェイユを「単独者として自分の考えを述べていく」人と紹介。 「単独者」はもともとフーコーの言葉ですが、吉本さんにとってはひきこもりからフツーの人や思想家までつらぬく大切な定義。単独者同志が小さな集団を作 る…というと攻殻機動隊のスタンドアローンコンプレックスを思い出しますが、それっていいんじゃないかっと思えたりもします。

いちばん難 しい問題として指摘されているのが現在のネット社会を前提としたもの。先端技術のおかげなどで簡単に成功やお金に結びつく可能性とそのためにコツコツやっ ていく事がおろそかになっているという両極に覆われてしまっている社会について…。これらの現代の格差などの問題の解決は…政党をはじめインテリ?が何か (上から)指導したりすることにも否定的で“社会を変えるには下からがいい”と吉本さんの根本的な思想が炸裂してる感じで、元気です。

憲法9条をめぐる言葉では吉本さんの思想の最大の特徴である対幻想と共同幻想の差異からハッキリとした解釈がされ、9条の価値と、9条でも介入できない対幻想の世界観 が述べられています。

専門用語などがなくて読みやすく、しかも吉本さんの思想と現代社会の問題の解決の可能性がつかめる一冊といえます。『言語にとって美とはなにか』を「わらない」といったり、『アフリカ的段階』を「奇書」と呼んだりした人たちの感想はどんなものなのかな、と思いました。


          

               
第二の敗戦期: これからの日本をどうよむか

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,620
価格:¥1,620

   

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2014年7月10日 (木)

「イメージ論2.0」はマスイメージ論とハイイメージ論から

 マスイメージが『共同幻想論』の、ハイイメージ論が『言語にとって美はなにか』の、それぞれ現代版だという吉本さんの説明のとおりで、両方とも「イメージ」についての論考です。マスイメージ論ハイイメージ論はあわせて『イメージ論』として刊行されていました。そして「イメージ」を突きつめていけば、心的現象としての「イメージ」にその本質があります。

 政治という機能における国家論ではなく、言語の意味や概念を前提とする静態的な言葉でもなく、常時この瞬間にも生成しつつあるイメージとしての認識。思弁的な記号や象徴ではない、生き物ののレスポンスや感受性としてのイメージ…。それがイメージ論で探究されたもの。それは心的現象論の論考のとおり、モノゴトへの認識を構造的に媒介するものです。Mポンティやサルトルをはじめ多くの症例などエグザンプルを参照しながらイメージ=心像についての探究が展開されていきます。
 イメージについてラジカルな考察をしているのが『心的現象論序説』の最後の章であるⅦ章「心像論」。そこでは、シンプルにまとめると次のような説明がされています。

   

  <心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、
  それは<共同観念の世界の代同物>でもあるとされています。
(*「ベーシックな『序説』 その5」から)

 極論すると…心と現実を媒介するのは自己の妄想であり、それは共同の世界のことでもある…ということ。
 ここで「妄想」とされているのは、ある症例をサンプリングしているからで、通常の人間でも「心像」として同じであることは変わりありません。

       -       -       -

 心理現象(心的現象)としてフォーカスすれば、哲学的な説明にもなりますが、イメージ(の表出)は形と本質の2つのリソースから成り立っています。もちろんイメージが生成するキッカケがあり、その認識を亢進させてくれるのは感情によるドライブ。
 行動経済学が経済行動は合理性ではなく心理現象によるものであることをフォーカスしたように、人間のあらゆる行動も営為も心的現象によるものであるのは当然で、錯覚などまで心理的なレスポンスとの整合性や必然性として把握されるようになってきたのが最近の先端的な認識。

 人間がある時、ある場所、ある条件で、イメージするとき、それはナゼなのか、それは何なのか?ということを、どこまでも問い続けたのが吉本さんの探究といえます。

       -       -       -

 あらゆるモノゴトが商品化する資本主義のなかで、商品は無限に増殖する指示表出=モノゴトとしてあります。それを享受する人間の自己表出の多様化をフォローしていく思想や倫理はすでに存在しない…。これがハイイメージ論の結論でした。そして、その結論からのリスタートそのものもハイイメージ論が示唆するもの…。

 無限に増長する資本主義に対して、理念的に枠(臨界点?)を提示して見せたのがアフリカ的段階『アフリカ的段階について―史観の拡張』)。それは“自己幻想が共同幻想となりえた時代”への考察であり、現在、アートや文芸、症例などの中に垣間見えるそれらを<純粋疎外>概念として抽出するとともに、それを可視化させてくれる世界視線が示唆されていきます…。

  無限に増殖する指示表出=モノゴトに対して<純粋概念>を対置するハイ・イメージ論。この作業に並行して、有限な遡行であることの確信のもとに自己表出=個体への探究が『ハイ・エディプス論』『母型論』 として刊行されました。そして指示表出と自己表出、この二つへの探究が本来ひとつのものであり、しかも歴史的な(現実の)ものであることを証明するかのように『アフリカ的段階について』が発表されました。この自己幻想が共同幻想となりえた時代への考察はヘーゲルが〝歴史外〟としたそのものを〝歴史の初源〟として再把握するというものです。現在、共同化しうる自己幻想はアートや文芸として表出し、それはハイ・イメージ論のように把握されますが、自己幻想の表出が政治や権力たりえた時代への考察はプリミティブな世界への探究として刊行されたワケです。そしてもう一度自己幻想が自己表出のサイドから問われるものとして『芸術言語論』が発表され、1月4日放送のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」ともなりました。(*「現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』
から)

       -       -       -

           
イメージ論 (吉本隆明全集撰)

著:吉本 隆明
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ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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アフリカ的段階について―史観の拡張

著:吉本 隆明
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改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,028
価格:¥1,028

   

2014年7月 7日 (月)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

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みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
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現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

           
ハイ・イメージ論〈3〉

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,677
価格:¥ 1,677

   
           
第二の敗戦期: これからの日本をどうよむか

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,620
価格:¥1,620

   

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