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2016年8月18日 (木)

現代という作家を明かす…『村上春樹は、むずかしい』

気鋭の批評家東浩紀氏が「吉本(隆明)派」と呼んだのが加藤典洋氏。一般には早くから村上春樹の研究家として知られている有名な文芸評論家です。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。
「指示表出と自己表出の可能性」から

 吉本隆明の読者であればアレ?と思うかもしれません。たしかに、ちょっとヘンですが間違ってはいません。指示表出と自己表出という『言語にとって美とはなにか』の代表的な概念装置からすると足りないもの?がありますが、機能分析的に使うならOKなのではないでしょうか?

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。
「指示表出と自己表出の可能性」から


 加藤典洋氏がまるで吉本隆明のように村上春樹を批評しているのが『村上春樹は、むずかしい』だとすれば、吉本隆明がまるで文芸批評そのもののように春樹ワールドを分析してるのは『ハイイメージ論』で読むことができます。

 文芸ジャンルのプロからはdisられシカトされたのが村上春樹の初期でした。デビュー時に春樹ワールドに魅了され、その文体をマネしたり分析したりしていたのはコピーライターやサブカル系のジャンルのマガジンであって、文芸ジャンルではありません。サブカルの領域では“エヴァンゲリオンの登場で文芸は終わった”という説得力のある言説が流れいて、当然だと思っていた人は少なくないでしょう。事実、当然です。

 明治以来の12音階への洗脳教育のなかで登場したTK=小室哲哉の登場でもそうでした。小室氏も著名な音楽家や作曲家から激しくdisられたのです。それは“音楽の理論にあっていない”という爆笑ものの非難に象徴されていました。自らの依って立つ12音階理論だけが正しいのだというのでしょう。そこには―あらゆる理論は現実から抽象されるもの―という科学の初歩がありません。ただ自分にだけ都合のいい狭量な宗教になってしまっています。


           
村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

著:加藤 典洋
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 加藤典洋氏はきっぱりと入り口で宣言しています。

     世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、
     彼は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、
     大事な存在なのだと知らしめたい。
(『村上春樹は、むずかしい』「はじめに」P13)

 これは本書で繰り返し指摘されるある事態を示しています。
 それは東アジアで村上春樹が読まれているにもかかわらず、その東アジアの知識層には春樹もそのワールドも支持されていない、評価されていない…という事態です。

 この指摘は“左右両翼から十字砲火にあった四面楚歌の評論家”と自称する加藤氏ならではの分析であり批評だからこそ可能なもの。そして加藤氏と同じ知識層に対して自覚を促すクリティカルとなっています。エヴァンゲリオン以降の世代であればシカトしておけばイイような相手を丁寧に導こうとする氏の真面目なスタンスは、常に自らを振り返りつつ思索している氏ならではのものからかもしれません。

 大衆と知識層の乖離は吉本隆明にあっては大前提であり、社会を見るときの基本となるものであることは吉本の読者には常識でしょう。資本主義のすべてのプロダクトを指示表出として批評したハイイメージ論では、すでに知が無効であること倫理がないこと…が基本的なモチーフであるとともに結語でした。それは商品という指示決定に対して自己確定するとはどういうことなのか?それは可能なのか?それは正常に行われているのか?その最適解はあるのか?という高度資本主義の圧倒的なボリュームの環界をめぐる思索でした。それが知識層が誰もタッチできず言及することさえできなかったエビデンスなのでしょう。

 そこには大衆の指示表出を自己確定できない知識層の姿があります。

2014年10月27日 (月)

入力が無い時の<受容>と<了解>

 知覚が受容するものは感覚器官の対象ごとにそれぞれですが、いずれも時空間=マテリアルな制約の範囲内です。閾値としての最低刺激量以上であれば感覚が破損するほどの刺激量を上限として、それらは計量可能なマテリアルな現象ですが…。
 逆に、知覚するものがない場合、感覚や知覚はどのように対応するのでしょう?


   一般的に感官による対象物の<受容>とその<了解>とは、
   別の異質の過程とかんがえることができる。
   ある対象物がそのように<視える>ということと、
   視えるということを<了解>することとは別のことである。

                         (『心的現象論本論』P10)

           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
参考価格:¥8,640
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 感覚による<受容>とトータルな認識による<了解>を峻別したうえで、<受容>する対象が無い場合の<了解>(認識)に何が生起するのか…という問題が心的現象の多くを占めているのかもしれません。

 いちばん大きな問題は、入力が無い場合に対する応答や反応はどういうものなのか?ということ。基本的に物質として摂取するエネルギーはともかく、情報が入力されない場合あるいは入力される情報が無い場合、生命システムはどうするのでしょうか?

 個別の実験では明らかになりつつある問題にミッシング・ファンダメンタルがあります。入力されない状態ではどうするかという問題、無入力の問題ですね。何も入力されない場合、生命システムはどう対応しているのか?…

 答えとしては…

   脳は、情報が抜けているところを、その周辺の情報、前後の文脈から補う…
                                    (『空耳の科学』P141)

           
空耳の科学 ~だまされる耳、聞き分ける脳~

著:柏野 牧夫
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 情報については、以上のような実験心理学や神経生理学やで明らかになっている事実があります。デジタル機器でいえばエラーキャンセラーのようなもの…というよりそのものかもしれません。

   情報の空白が生じたとき、埋めるものを「空間的な周辺」からもってくる場合と、
   そうではなくて「時間的な周辺」から持ってくる場合の二通りがある。

                                    (『脳を知りたい!』P204)

           
脳を知りたい! (講談社文庫)

著:野村 進
参考価格:¥751
価格:¥751

   

 人間にとっての無入力や情報がないという状態では、結果は複雑なアウトプットとなります。情報がフレームアップされるだけではなく、それを正当化(最適化)する論理そのものも生成してしまいます。この論理を生成してしまうことそのものが、文化や宗教、道徳といったものに典型的に現れているといえるでしょう。

 

 左右の視覚を分断して優位な方の目だけに物を見せても、見えなかったほうの目でも「見えた」と認識するのが脳であり、常に欠落した情報を補っているという事実があります。この「見えた」は嘘なのですが、合理的な自覚のない嘘であり幻覚や幻想に近似し、相当するもの。心身の合理性と物理的な合理性はイコールではなく、それを媒介する論理的な合理性そのものにも?がつきまといます。可能性としては、そのことによってシステムの安定を確保することや均衡を維持することが目的なのだ…ということが推定できます。

   …それぞれの生存に適したように世界を捉えている。
   それぞれの知覚システムが、世界の現れ方を決めている…

                          (『空耳の科学』P145)

 人間の個体はそれぞれの個体に特有のTPO(場所的限定)から規定を受け、そのなかで認識し行為し生きています。そのために、そこで発現するエラーキャンセラーもさまざまであり、個性的でしょう。それは共同性でいえば文化の多様性となります。

       -       -       -

 これが人間関係だとどうなるのか? このような問いにダイレクトの答えたのが心的現象論や共同幻想論だともいえます。

 そこには人間{関係がなければ<関係がある>と認識する}という基本的な認識構造があるといえるでしょう。社会や共同体が存立する前提には関係のエラーキャンセラーともいうべきものがあるわけです。

 そもそも社会という不特定多数との人間関係は物理的につまり感覚的に認知し確認できるものではありません。毎日いっしょである家族以外では、友だちを知っている、バイト先の知っている人、いつも通る場所にいるいつも見かける人…など<知る>ことを通してそれこそ認知しているだけです。家族のように感覚的に恒常的に感知しているわけではなく、多くの場合ほとんどの他者は記憶との照合によって認識されているのが実態でしょう。他者に向けて日常的に行使されている感覚は視覚と聴覚。そのイメージと記憶が他者認知のベースになっています。それは幻想や幻覚あるは幻聴などの現象も病も、視聴覚によるものが多いという事実に現れています。

 人間のあらゆる認識を支えているのは、このエラーキャンセラーなのだといえます。部分的には錯覚などともいわれていますが、それは錯誤ではなく<そう認知できる何か…>だといえるもの。この問題にむかって探究をすすめたひとつの思索として吉本隆明の壮大な仕事があるような気がします。

 エラーキャンセラーとしての認識は、エラーに代替するものを代入することで完成します。

 「すべては<代入される空間性>」とは、そういうことです。

       -       -       -

 自然界の音、あるいは音の自然状態に近似するのがホワイトノイズ心身そのものをフィルターとしてパスする人間は、このホワイトノイズから(でも)いくらでも有意な、つまり価値の対象としての音を生成し創作しています。ここに、音階を見出す契機を発見し、論考をすすめているのが『ハイ・イメージ論Ⅰ』の「像としての音階」です。*J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

 身体をフィルターにしてホワイトノイズを価値化するのは、わかりやすい見解ですが、ハイ・イメージ論は心的現象、典型的な精神疾患としても、これを抽出しています。フリーハンドの創作された楽譜?と、グラフィカルな図解だけでも、専門家を圧倒する何かがそこにあり、この時期にコラボした坂本龍一でさえ、何かコンプレックスを感じるほどのものではなかったのか…と思いたくなるような、圧倒的なものが、ハイ・イメージ論にあります。
 クラフトワークのモフモフした音でさえ、ハイイメージ論で採譜されている姿には、GoogleEarthをはじめてのぞいた時のような、ウワッと思うような、しかしクールな何かが、そこにあります。それは、人間にとってはじめての<人工のもの>に挑むような迫力がそこにあることかもしれない…といってみたくなるようなものです。

           
アウトバーン

演奏:クラフトワーク
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  この日常的で、かつ恐ろしくラジカル?な思索(者)の、その価値は、誰がどうやって確認し、伝達するのだろう…という平凡な疑問な、やがて大きく問われる時があるだろうと思うことがあります。

2014年9月 5日 (金)

フーコーと吉本が補完し合った思想のパフォーマンス…『世界認識の方法』

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

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抽象と具体として補完し合う二人の思想巨人?吉本隆明の著作への理解度が評価を分ける対談。

2014/9/5       
       

        レビュー対象商品: 世界認識の方法 (中公文庫) (文庫)       

この本の冒頭50ページのミッシェル・フーコーと吉本隆明の対談「世界認識の方法」は、スレ違っている とか噛み合っていないという評価が多いものです。しかし、フーコーの以下の言葉ひとつでも、対談の内容は把握できるのではないでしょうか? 互いに相手に 可能性を見出そうとするスタンスと、それとともに自らの立ち位置も振り返ってみるという思索の醍醐味にもあふれた対談だともいえそうです。

   基本的な点で、
   私は吉本さんのお考えに賛成です。
   お考えに賛成というより、
   とりわけてその留保の部分に賛成したいと思います。
(P36)
   (注:「留保」の部分というのは吉本隆明がフーコーに同意できないと伝えた部分のこと)

対談の基本的な構図は、たとえば共産党をめぐる評価に端的に現れています。
“ヨー ロッパでキリスト教会以来の特別な存在である共産党”というフーコーの指摘と論考は鋭く、個人の意志が党の意志に収斂あるいは拘束されていく過程が、フー コーならではの手つきと認識で把握されていきます。そこでフーコーはマルクスやマルクス主義を否定しているのではなく、党や官僚という権力機構との結びつ きを問題にします。そして“マルクスの言葉と結びついた権力の発現形態をシステマティックに検討する必要がある…”というのが吉本の問いに対するフーコー の解答であり主張になっています。しかし考えてみれば、この権力の発現形態への分析こそ吉本における共同幻想論であり、その全体を貫く思想であることは吉 本の読者なら知るところでしょう。吉本がマルクスとマルクス主義を峻別したように、フーコーはマルクスとその政治的権力との結合を分けています。吉本は理 念において、フーコーは現実においてという相異はありますが、両者ともマルクスそのものを否定しているのではなく、むしろ逆に何らかの可能性を見出そうと してることが確認できます。

           
世界認識の方法 (中公文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥823
価格:¥823

   
対談中フーコーは自らの代表作である『言葉と物』への吉本による読解の深さに感謝すると同時に、吉本の指摘に 応じてこの著書への「ある種の後悔」を表明し、いまは「具体的な問題から出発」し「新たなる政治的イマジネーションを生じさせる」ことを目指したいと語っ ています。これはそのまま吉本の仕事(思索と著作)が目指しているものそのものと同じでもあるでしょう。

フーコーは吉本にとってのエグザンプルを語っており、吉本はフーコーの問題意識そのものを思索した…ともいえるスリリングが関係が対談に結実しているという見方さえできます。

フー コーのパラグラフでは確かに読みにくいおもむきがありますが、これは編集に負うところが多いものでは?とも思われます。対談の流れに実直であることは必要 かもしれませんが、読者の理解を得るための工夫はもっとできたのではないでしょうか。いずれにせよ、吉本への理解度が、この対談そのものへの理解に比例す るのは間違いなさそうで、そういった意味では読者そのものが試される本であり対談であるのかもしれません。そしてまた、この対談で提出された問題は、いま も糸口すら見つかっていないようなものである気がします。

吉本が共同幻想についての最後の思索をした、『ハイイメージ論Ⅲ』資本論を援用した 消費論では、現代社会の不安について「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」ことが根源にあるとしています。これはフーコーが 欧州では教会以来の特別な存在である共産党が問われていない…と指摘したこととパラレルな面がありそうです。

フーコーのスタンスをニー チェ風にいうと…神は死んだが、新しい言葉がない…というのがニーチェから授かりさらに思索したフーコーの認識ではないでしょうか。ディスクールの死、新 しいイマジネーションの貧困…フーコーは根源的な問題を吉本と共有できているという確信のもとに対談に臨んでいるように思えます。

異なる のは理念的か現実的か、日本か欧州か…という問題であり、そこには方法の問題がクローズアップされている…ということではないでしょうか? いずれにせよ 世界認識という俯瞰からしか理解できない問題であるとしても、それこそ2名の思想の巨人の対談として、もっともマッチしたパフォーマンスだったと思いまし た。


はじめに書きましたが、この対談を「スレ違い、成り立っていない」という指摘があり、なかには「吉本隆明はフーコーに相手にされていない」というものもあ ります。これらの指摘が何かの参考になるとすれば、そういう指摘をする人自身が実は本書を読んでいなかったり、単に理解力・認識力が無い場合が少なくな い…ということのようです。学問や思想の世界では、いまだに西欧コンプレックスがあるのかもしれませんが、本書を否定するようなタイプの人の言説では参考 になるものもなく、単語の逐次変換と文法だけで文意が解ると考えているような人ばかりなので、そういった人を振り分けるリトマス試験紙として本書を巡る評価を観察するのも面白いかもしれません。

対談での通訳(蓮實重彦)による幻想の間違った翻訳(幻想をfantasmeと誤訳。文脈からillusionが適正)を批判した中田平氏は、その後共同幻想論を仏語に訳しパリまで届けました。また竹田青嗣氏のように、この対談の他フランス現代思想を代表するガタリやリオタール、ボードリヤールらとの討論などをみても、現代思想をはるかに凌駕する吉本隆明の可能性を指摘した人もいます。何よりもフーコー自身が吉本の指摘をすべて受け入れており、「言葉と物」のラジカルな再考を表明していて、フーコー研究の最大のポイントとなる対談でもあるハズです。

*吉本の共同幻想はマルクスの公的幻想(上部構造の別称)に由来することを勁草書房の吉本隆明全集での吉本自身の説明からいちばんはじめにネットに紹介したのは羊通信の2003/5/15版です。

     ↓

「K,Marxの「public-illusion」つータームが共同幻想と意訳されたらとたんに混乱してるワケ?」

(2014/9/5,2015/8/6,2016/2/23)

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フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)

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追悼吉本隆明 ミシェル・フーコーと『共同幻想論』

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2014年8月31日 (日)

世界視線=イメージの生成

イメージ=心像というと視覚像を思い起こしますが、
視覚像とは全く違うイメージでも、そこには内容と形があります。
イメージは概念と形態にまたがって生成されます。
『心的現象論序説』の最終章であるⅦ章「心像論」の最後の
パラグラフで一度だけ〝心像〟に「イメージ」とルビがふられています)

           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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Mポンティが“イメージのパルテノンは柱を数えることができない”と指摘しているのが心的現象論序説に引用されています。逆の意味でヤスパースから援用されているのが直観像。サヴァン症候群などとして知られている視覚的直観像というのは、一見してすべてを記憶してしまうような知覚の能力。音楽も一度聴いいただけですべて憶えてしまい、そっくりそのまま再演できるような能力として話題にもなりました。一瞬にして細部まで数えることがきでる能力です。このサヴァンな能力は言語関係の能力と逆立する、シーソーすることも確認されています。一般的にも、この能力は成長すると失われていきます。

ところで、これらの点から考えると、Mポンティは矛盾?した主張をしているようなところがあります。たとえば“イメージの形象は知覚から借りている”という指摘がそれ。知覚したものは数えられるので、イメージは数えられないという先の主張とは矛盾しています…。

この矛盾を解きあかしていくのが心的現象論序説の論考です。序説では、この矛盾を、逆にエビデンスとして新たな探究の成果を獲得されていきます。典型的な弁証法の展開でもあり、方法(論)そのものから思索をめぐらす達成がここにあります。

“数えられない<イメージ>”と“数えられる<知覚>”とのカップリングが成り立つのか?その内容はどういうものであるのかが、序説では考察されていきます。

       -       -       -

イメージが数えられないのは、それが知覚ではないからであり、知覚ではないならば、それは何なのか?ここでもMポンティが引用されるなどして、イメージのラジカルな定義がなされていきます。

  イメージとは、実際には意識全体の作業であって、単なる意識内容ではない…
  想像するということは、不在な対象との或る関係の様式を設定することだ…

                                (『眼と精神』メルロオ=ポンティ)

           
メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)

原著:Maurice Merleau‐Ponty
参考価格:¥1,026
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吉本理論全体のなかで、この問題は2つの具体として取り上げられており、それぞれがとてつもなくラジカルで重要なことを示唆しています。

それは<夢>と<共同幻想>です。
夢も共同幻想も知覚に依拠しない認識であり、知覚を捨象したところに共通点(共通な基盤)があります。(共同幻想論でのその典型例は<他界>とされています)

入眠中の認識である夢は、入眠中であるために知覚から遮断されています。あるいは知覚から遮断されているので<夢>なのでしょう。知覚的な確認なしでも成立する認識として、そこには幻覚や幻想あるいは妄想への経路があります。

環界とのプラグである知覚が遮断され、外界との関係がない状態。そこでこそ生成する「不在な対象との或る関係の様式を設定することだ…」という事態は何を示しているのでしょう? Mポンティの思索はここまでですが、これほどラジカルな指摘はないともいえます。ここからさらに吉本隆明氏の探究は「不在な対象」へと進み、共同幻想論の他界論へ結実していきます。

これらは<死>といったものへの経路でもあり、共同幻想論では<死>=<他界>をめぐっての思索が展開されていきます。<死>は知覚することが絶対に不可能な現象? 世界に何十億人の人間が生きていても、死を経験する人は皆無。人間は死を経験することなく死を迎えます。そのために<死>について知ることや語ることは、ある種の特権的な意味があり、おそらくは宗教や神という言葉のもとに行使されるそれらは、そういった何らかの特別な意味を帯びているのでしょう。リアルには、特権性を帯びたいがために死について語ってみせたり、死に近づく修行をする…というのが実態になっていますが。マルクスでなくてもある種マジメな宗教者であれば、このことには自覚的であり、虚偽(死の可知性)を生成する機序について客観的に語っていたりします。無いものを見えるとする両眼視野闘争とまったく同じ構造(つまり理由なし)で…(もちろん自己の利益のために)と、正直に語る僧侶や牧師に会ったことがあります。

『共同幻想論』・他界論から考える

『共同幻想論』・他界論から2

           
共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

著:吉本 隆明
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       -       -       -

ところではじめに戻って、数えることができる認識であるイメージとは何なのか?
数えることができる知覚とは異なるもの…イメージでしかないもの。
たとえば、臨死体験では自己客体視し、死んでいる自分を見たりします。周囲には悲しんでいる家族や友だちがいたる光景を見るワケです。

 空を飛び地上を見下ろすことができなくても、ナスカの地上絵は描かれました。それは想像力によって可能になったもの。高いところから低いところを見下ろすなどの経験から演繹?して獲得した認識によるでしょう。想像力については経験したことしか想像できないと定義されますが、経験値から拡張することによって可能になることは小さくはないようです。そしてテクノロジーによる大きな拡張のあとでは、その可能性も飛躍的に大きくなります。それがランドサットによる視野から世界視線を説明するハイイメージ論になります。さらにはデータさえあれば想像どおりに視野は拡大深化できます。
 同じように、世界視線に、純粋に人間存在そのものからアプローチしたのが臨死体験への考察。臨死という身体統御の弱化の過程で、フリー?になった心身が獲得するイメージへの論考です。ランドサットというテクノロジーと臨死という心身の状態…この両者から、日常的な普通の知覚と想像(力)からは生成されることはないような、イメージによる疑似的な視線をフォーカスしていくのが世界視線になります。

通常の知覚に、純粋状態を媒介として、ある志向性にもとづいて生成されるイメージ(疑似視線)としての<世界視線>…。絶対に経験できない不可知な死も、マテリアルには存在しない共同幻想も、見てしまう視線=過視するものとしての世界視線 がそこにあります。(リアリティは<通常の知覚>量に担保されます)

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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2014年7月17日 (木)

シェアハウス的なもの=<大衆の原像>は現代をクリアするか?

みんなが生き、暮らしている、私的な空間(家族)と公的な空間(社会)の<純粋疎外>として提出されたのが<大衆の原像>。
「三人ぐらいでつくる集団」「そういうことでしか可能性はない」…と現代をクリアしていく方法を示しながら…「純粋ごっこ」ともいわれる思春期、青春期の心性に根ざした社会の可能性…シェアハウス的なトレンドに期待する巨大な思想家のリアルな思索…。憲法9条の価値と、9条でも介入できない対幻想の世界観が述べられていきます。

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現在の日本をどう読む、そのわかりやすい解『第二の敗戦期』

未帰還者となった吉本隆明さん。その半年後に出版されたのが本書『第二の敗戦期:これからの日本をどうよむか』。内容は「ぼくなんかが考える基本的なところ」。共同幻想への最後のアプローチであるハイイメージ論のスタートで現在の「情念」による「意味づけ」を「倫理によって作りだされた絶えまない説教」と「おなじ」と無効を宣言し、マテリアルとテクノロジーに託すスタンスを明確化(「映像の終わりについて」)。ラストに現在を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」(「消費論」)と示唆…。では、その解は? そのアバウトな応答が本書です。グローバリズムから<大衆の原像>をはじめ、わかりにくい現在が可視化されています。
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仲間で生き抜こうぜという本。もちろんひっきー&ニートOKでしょ。
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現代社会の解決はシュエハウス的なトレンドだけ? 2012/10/29

    By タマ73

Amazon.co.jpで購入済み

吉本隆明さん自身による“吉本ガイド”のように読める本。初期三部作(言語にとって美とはなにか共同幻想論心的現象論序説)のような理論的なものではな く、現代社会を乗り切るための、『アフリカ的段階』以降の思索が披露されています。“アメリカはオカシイ”からはじまってラストは“シェアハウスに期待す る”的な言葉…。シェアハウスという言葉は出てきませんが「三人ぐらいでつくる集団」に期待する、「そういうことでしか可能性はない」という強力なプッ シュが印象的なラストです。

フーコーを「まったく独立派だった」、シモーヌヴェイユを「単独者として自分の考えを述べていく」人と紹介。 「単独者」はもともとフーコーの言葉ですが、吉本さんにとってはひきこもりからフツーの人や思想家までつらぬく大切な定義。単独者同志が小さな集団を作 る…というと攻殻機動隊のスタンドアローンコンプレックスを思い出しますが、それっていいんじゃないかっと思えたりもします。

いちばん難 しい問題として指摘されているのが現在のネット社会を前提としたもの。先端技術のおかげなどで簡単に成功やお金に結びつく可能性とそのためにコツコツやっ ていく事がおろそかになっているという両極に覆われてしまっている社会について…。これらの現代の格差などの問題の解決は…政党をはじめインテリ?が何か (上から)指導したりすることにも否定的で“社会を変えるには下からがいい”と吉本さんの根本的な思想が炸裂してる感じで、元気です。

憲法9条をめぐる言葉では吉本さんの思想の最大の特徴である対幻想と共同幻想の差異からハッキリとした解釈がされ、9条の価値と、9条でも介入できない対幻想の世界観 が述べられています。

専門用語などがなくて読みやすく、しかも吉本さんの思想と現代社会の問題の解決の可能性がつかめる一冊といえます。『言語にとって美とはなにか』を「わらない」といったり、『アフリカ的段階』を「奇書」と呼んだりした人たちの感想はどんなものなのかな、と思いました。


          

               
第二の敗戦期: これからの日本をどうよむか

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,620
価格:¥1,620

   

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2014年7月10日 (木)

「イメージ論2.0」はマスイメージ論とハイイメージ論から

 マスイメージが『共同幻想論』の、ハイイメージ論が『言語にとって美はなにか』の、それぞれ現代版だという吉本さんの説明のとおりで、両方とも「イメージ」についての論考です。マスイメージ論ハイイメージ論はあわせて『イメージ論』として刊行されていました。そして「イメージ」を突きつめていけば、心的現象としての「イメージ」にその本質があります。

 政治という機能における国家論ではなく、言語の意味や概念を前提とする静態的な言葉でもなく、常時この瞬間にも生成しつつあるイメージとしての認識。思弁的な記号や象徴ではない、生き物ののレスポンスや感受性としてのイメージ…。それがイメージ論で探究されたもの。それは心的現象論の論考のとおり、モノゴトへの認識を構造的に媒介するものです。Mポンティやサルトルをはじめ多くの症例などエグザンプルを参照しながらイメージ=心像についての探究が展開されていきます。
 イメージについてラジカルな考察をしているのが『心的現象論序説』の最後の章であるⅦ章「心像論」。そこでは、シンプルにまとめると次のような説明がされています。

   

  <心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、
  それは<共同観念の世界の代同物>でもあるとされています。
(*「ベーシックな『序説』 その5」から)

 極論すると…心と現実を媒介するのは自己の妄想であり、それは共同の世界のことでもある…ということ。
 ここで「妄想」とされているのは、ある症例をサンプリングしているからで、通常の人間でも「心像」として同じであることは変わりありません。

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 心理現象(心的現象)としてフォーカスすれば、哲学的な説明にもなりますが、イメージ(の表出)は形と本質の2つのリソースから成り立っています。もちろんイメージが生成するキッカケがあり、その認識を亢進させてくれるのは感情によるドライブ。
 行動経済学が経済行動は合理性ではなく心理現象によるものであることをフォーカスしたように、人間のあらゆる行動も営為も心的現象によるものであるのは当然で、錯覚などまで心理的なレスポンスとの整合性や必然性として把握されるようになってきたのが最近の先端的な認識。

 人間がある時、ある場所、ある条件で、イメージするとき、それはナゼなのか、それは何なのか?ということを、どこまでも問い続けたのが吉本さんの探究といえます。

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 あらゆるモノゴトが商品化する資本主義のなかで、商品は無限に増殖する指示表出=モノゴトとしてあります。それを享受する人間の自己表出の多様化をフォローしていく思想や倫理はすでに存在しない…。これがハイイメージ論の結論でした。そして、その結論からのリスタートそのものもハイイメージ論が示唆するもの…。

 無限に増長する資本主義に対して、理念的に枠(臨界点?)を提示して見せたのがアフリカ的段階『アフリカ的段階について―史観の拡張』)。それは“自己幻想が共同幻想となりえた時代”への考察であり、現在、アートや文芸、症例などの中に垣間見えるそれらを<純粋疎外>概念として抽出するとともに、それを可視化させてくれる世界視線が示唆されていきます…。

  無限に増殖する指示表出=モノゴトに対して<純粋概念>を対置するハイ・イメージ論。この作業に並行して、有限な遡行であることの確信のもとに自己表出=個体への探究が『ハイ・エディプス論』『母型論』 として刊行されました。そして指示表出と自己表出、この二つへの探究が本来ひとつのものであり、しかも歴史的な(現実の)ものであることを証明するかのように『アフリカ的段階について』が発表されました。この自己幻想が共同幻想となりえた時代への考察はヘーゲルが〝歴史外〟としたそのものを〝歴史の初源〟として再把握するというものです。現在、共同化しうる自己幻想はアートや文芸として表出し、それはハイ・イメージ論のように把握されますが、自己幻想の表出が政治や権力たりえた時代への考察はプリミティブな世界への探究として刊行されたワケです。そしてもう一度自己幻想が自己表出のサイドから問われるものとして『芸術言語論』が発表され、1月4日放送のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」ともなりました。(*「現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』
から)

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2014年7月 7日 (月)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

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みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
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現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

           
ハイ・イメージ論〈3〉

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2014年7月 1日 (火)

「イメージ論2.0」の可能性…!?

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吉本theory独解のワケ

独解、吉本隆明さん ― 心的現象論で読む世界といろいろな理論の可能性

 80年代にリアルタイムの分析をとおして現代そのものを取り上げたのが『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』。この2つの理論では吉本理論の初期三部作をベースにして、現在のテクノロジーとメディアによる特徴的な理論の拡張がはかられています。
 吉本さん自身の説明(『イメージ論』あとがき・全撰集7・大和書房)によれば以下のようなポリシーのもとに思索されたようです。

   マス・イメージ論は現在版の『共同幻想論』である。
   ハイ・イメージ論は現在版の『言語にとって美とはなにか』である。

   言語の概念をイメージの概念に変換することによって
   三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。
   そして、
   イメージの概念によって総合することで、普遍領域についての
   批評概念を目指したい。

 また、そこで生じる問題を自らハッキリと把握し、その追究に力が注がれています。

   ここでいちばん問題になったのは、言語と、
   わたしがかんがえたイメージという概念が、
   どこで結びつき、どこで分離して遠ざかるかを、
   はっきりさせることだった。

 その前提であり不可分でもあるラジカルな問題が『ハイ・イメージ論』の当初からの課題である「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」こと。これはCGへの孝察から理論が展開されて「世界視線」の概念へと到達し、大きな成果を生んでいます。
 そこでは視覚作用と想像作用によるイメージとが同致されて受容されることへの可否が問われ、哲学や心理学で問われてきた認識論への全面的で根本的な解答がなされます。

 この部分は基本的に『心的現象論序説』において詳細に孝察され、認識の障害や異常、あるいは感情や夢への分析としても既に理論づけされています。そのため『イメージ論』は全般的に『心的現象論序説』の演繹として読むことのできる内容になっています。
 逆にいえば、『心的現象論序説』の射程の長さや深さは予想以上のものであり、またジャンルや領域を超えたものであることがわかります。
 それが、ここで『心的現象論序説』をメインに吉本理論を解読していくことの大きな理由です。
(2004年11月04日)

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2014年2月28日 (金)

母音も虫の音も言語野で聴く日本人とポリネシア系…

 日本語では母音の「あいうえお」のどれにも意味ある言葉をあてはめることができる…
 ポリネシア語にもこの特徴があるが、そのほかに近隣の言語でこの特質をもつものはない…
 日本人とポリネシア語圏の諸族だけがこおろぎの鳴き音を脳の言語優位の半球で聴いている…

                                     (『母型論』「連環論」P41から)

 以上は『母型論』で吉本隆明氏が角田忠信氏の『脳の発見』から援用しているものです。
 かんたんにいえば、自然音と声が同じように感受されることが日本語やポリネシア語の特徴として説明されています。単なる母音に意味を見出し、単なる虫の鳴き声も言語野で聴く日本人やポリネシア人。そこには子音の微妙な発音(の差異)に意味を見出すインド・ヨーロッパ語などとは異なる言語感があります。単なる発声でしかないようなシンプルな母音にも意味づけをする日本人やポリネシア系の人々。これらは何を示しているのでしょうか。

           
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 発音の仕方に左右されないということは、対象となる音声の質に左右されることなく感受することが可能なことを意味しています。相手の発音(あるいは自然音の属性)に左右されない感受性…。吉本理論で重視される主体としての受動性には、人間の原点でもあるその在り方そのものの大きな可能性がありそうです。(受動性のファクターとして考えられるものの一つは、セロトニン・トランスポート能力が低いs遺伝子の多さやドーパミン第四受容体多型の少なさというポリネシア系の遺伝的特徴があります。*「セロトニンとドーパミン」 そしてその生体のシステム(*「ポリリズムと自然音と人声と」) に還元できない特徴や属性への探究として心的現象(論)があるワケです)

 吉本理論の文脈でいえば、そこには、指示表出と自己表出(指示決定と自己確定)に分岐?する以前の音からも感受しているといえるものが示されています。別のいい方をすれば、規範と意味(概念)の渾然一体となったものを自然音や母音に見出しているともいえます。極論すると、日本人やポリネシア人のこの特徴は、すべてを自己表出だとするような繊細?な感性の現われでもあり、そこに人間という現存在の直接性の意味や価値=美があるのかもしれません。

 ある種、どんな自然音からも意味を見出せるなら、それは、どんな自然音を模倣してもコミュニケーションができる…ということを示唆しています。たとえば以前のエントリー*「規範に引き寄せられた言語、さえずるピダハン族」で取り上げたピダハンの言語がそれです。「「環境との緊張関係がないために対自意識そのものが表出すること」…つまり自己関係性の空間性がダイレクトに規範を生成する」と書きましたが、これは自然と自己の不可分性でもあり、以下のように吉本隆明氏が指摘するものに関係があると考えられるものです。



   旧日本語的な特性は、個体の言語の発達史からいえば、
   乳児期の「あわわ言葉」を離脱した直後の言語状態に対応している…

                          (『母型論』「起源論」P204から)



           
母型論

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2014年1月12日 (日)

犬のイメージをつくる形態<犬>、概念<犬>

「犬」という言葉からイメージ(「像」)されるものは、さまざまかもしれません。
でも、Aさんが思い描く<犬>とBさんの想像する<犬>がまったく異なることはありません。
まったく異なっていたら意思の疎通は不可能で、コミュニケーションができません。
しかし、AさんとBさんのそれぞれの<犬>がまったく完璧で同一であることもないでしょう。
デジタル信号ベースでデータをコピーするようなこと以外に、まったく同一の情報というものは
ありえないのではないかとも考えられます…。(アインシュタイン的な固有時ではすべて異なりますが)

現実の実物の犬に対して、それを認識した(された)<犬>にはいくつかの位相が想定されます。
あるいは対象認識が成立するためには、いくつかのステップなりプロセスが必要です。
これらの認識の位相のバランスが、その時の(TPOの)リアルな認識になり、イメージとされます。
また、位相が変転し続ける状態では感情ともなります。

ある対象のイメージが成立するためには、その前提となる要素がいくつかあり、イメージ<犬>(像としての犬)が成立するためには、その要素になるいくつかのステップやプロセスとしての<犬>があります。

       -       -       -

形態としての犬
犬は犬の形態をしています。当たり前のようですが像のような犬やボールのような犬や、あるいは自動車のような犬がいるわけではありません。イメージ<犬>の前提には、犬の形態の把握があります。犬の形をした<犬>という認識があるわけです。

概念としての犬・犬の属性
犬は犬の属性をもっています。鳴き声だったり毛並みの色や模様、走り方、飼い主への忠誠などさまざまな特徴があるでしょう。これらを総合して<犬>の概念がつくられます。

ある形態とそれにともなう概念、あるいはある概念にともなうある形態。
形態は具体から抽象した帰納的なもの、概念は複数の属性から演繹される複合的なもの…と考えられます。

いずれもベースには個別具体的な現実の犬があり、その犬を認知するプロセスでのあるステップだといえます。

認識する主体との関係でいうと(認識論としていうと)、主体が知覚(認知)した<犬>と思念(命名)した<犬>でもあり、感覚の対象としての<犬>意識の対象としての<犬>です。不定冠詞(a)的な<犬>と定冠詞(the)的な<犬>もいえます。

       -       -       -

   概念をつくりあげる過程で、…
   実体に命名する過程が反復されている。

   実体に命名する概念形成の過程は、
   形態を識知する過程とはちがって、…
   かたちは、概念に対応する抽象度をもった
   共通の像として識知されている…

       『ハイ・イメージ論Ⅰ』「形態論」P351

 形態<犬>概念<犬>。この二重の<犬>の認識の上?にイメージ<犬>が成立します。それが一般的な認識上の<犬>であり、普通でいうところの犬です。

 言葉はこの二重の認識のバランスの上に形成されたイメージを指示するものであり、同時にそれは自己確定されるものです。指示表出と自己表出は、認識の動態的な過程としては<指示決定>と<自己確定>としても表さられるもので、心的現象論ではそのような文章表現がとられています。
 多様な環境とその大きな変化のなかを生きてきた人間は、認識(の方法)そのものの柔軟性を育んできたとも考えられます。その具体的な姿である認識の可塑性ともいうべき観念の運動。人間特有の認識であるべき乗化する観念、あるいは自己言及する意識という仕組みそのものがここにあるといえます。

   像は、人間が対象を知覚しているときには不可能な意識である…

   像とは…対象的概念とも対象的知覚ともちがっている…
   言語構造の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされる…

                      『言語にとって美とはなにか Ⅰ』P97

 言葉が生成するイメージは「指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされる」と同時に、イメージと知覚認識が逆立することが示されています。言語による規定や拘束があるものの、このイメージと知覚の逆立や形態と概念の上に生成するイメージの可変的な平衡は動的です。

 形式論理ではない人間の言語構造は、認識を規定するとともに、認識によって言語そのものが変転をきたすという歴史を経てきています。それは過去から現在におよぶ脳と身体の「来歴」の現時点での結果でもあり、マルクスのいう「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」という感覚とその統御にもよるもの…。同じ人間でありながらピダハンには2次元のメディアである写真が読めなかったり、アフリカ的段階では自己幻想と共同幻想の峻別が曖昧だったりします。いま現在の言葉のなかにも、そのフラクタル?な面がいきいきと活きていることを吉本理論は探究してきたのではないでしょうか。

 言語は認識にとってマテリアルな面をもっていますが、自然界のマテリアル(物質)に対する知覚も動的で可変な感受機能によって統合的な認識全般を担保していると考えられます。たとえばモノクロがカラーに見える現象などにそれを見出すことが出来ます。「モノクロをカラーにする<心>とシステム」

       -       -       -

 認識の位相が<心像><形像><概念>の3つに分けられ、それぞれの生成の過程と<形像><概念>にまたがって<心像>が構成されることが説明されます。あらゆる対象がこの3つの認識の位相の統御された構造として把握されて、この把握の仕方、3つの位相の統御のされ方の違いが一般的な認識であったり異常あるいは病的な認識であったりする…ことが解説されています。さらにそこに歴史的な解釈が導入されます。この認識の統御の仕方が未開人と現代人では違うこと指摘されるのです。ベーシックな『序説』 その5 Ⅶ章「心像論」…から)

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