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2018年12月25日 (火)

熱くても冷たく、冷たくても熱い、その理由

「38℃の日は暑いのに38℃の風呂に入ると熱くないのはなぜか」というシゼコン(自然科学観察コンクール)入賞の中学生の研究があります。とても大事な疑問で、人間が生きていくための最もラジカルで重要な問題がここにあります。専門家?にとっても、それは最大のテーマでありムズカシイもの。いままでちゃんと解明されたことがないような大きく深いテーマです…。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<脳−身体−環境>の<来歴>が認識を左右している…錯誤というものはない…!

 

モノクロがカラーに見える現象があります。その理由を丁寧に解説している本は、自分が探した範囲内では『心的現象論本論』(他に概念装置を解説した『…序説』があります)という本だけでした。そこではモノクロがカラーに見えるのは錯覚ではなく、そう見えるようになっている…その仕組がクールに説明されています。

心的現象論は膨大な量の精神疾患やLSDの服用実験などのエグザンプルを取り上げ、それを解説しています。思想や哲学の文脈で読まれることが多いようですが、うつ病や統合失調症への分析など、緻密な考察と一貫した観点が圧倒的な印象の本です。数学者野口宏のトポロジカルなニューロンによる頭脳モデルやデビッド・ボームによる量子力学的なホログラフィック仮説など、具体的な症例から理論物理学的なものまでノンジャンルで心理=心的現象についての解析が2段組500ページ以上も続きます。

本書『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』は、その心的現象論のエビデンスとして読みました。ナゼなら、まったく同じことが書かれているからです。フロイトやビンスワンガー、ヤスペルスといった精神病医学の古典的巨匠からMポンティやサルトル、ベルグソンといった知覚や感覚についての深い考察、フッサールなど言語への関係やヘーゲルやレヴィ=ストロースなど社会との関係、フランス現代思想のドゥルーズ=ガタリなどのスキゾ分析、そしてジャック・ラカンなど…以上の他にも多数の言説と実験論文なども参照しながらノンジャンルでとにかく心的現象への深い探究がされている心的現象論。それと本書はまったく同じことが指摘され同じことが主張されていたのです。異なっているのはタームだけといってもいいかもしれません。この発見は驚きでしたが、新たな可能性や期待をもつことができウレシクなりました。なんといっても心的現象論の思想的哲学的なタームで難しく記述されているものが、『「意識」とは何だろうか』では簡明に説明されているからです。

本書『「意識」とは何だろうか』では、「意識」を可能とする「地」として「無意識」をはじめとするさまざまなものがフォーカスされています。そしてその「地」を知ることで「意識」が拡大され、コントロールの可能性が向上することが示唆されています。それこそが本書の目標であり目的であるのかもしれませんが…。だとすれば、それはますます心的現象論と同じ主旨であることにもなりそうです。個人の「自由」といった認識(この逆が障害観など)も、これまで哲学的なアプローチはありましたが、心理学的なものは本書や心的現象論でしか読んだことがありません。逆に自由を抑制する社会や宗教、国家といったものについての言説は哲学から思想までたくさんあるようですが、どれも人間の心理については言及できていないものばかり。そこには社会科学や人文分野が説得力を失ってきた原因そのものがあるのではとも思われます。ようやく最近では行動経済学のようなダイレクトに人間の心理を起因とする社会科学的なアプローチもでてきましたが…。

心的現象論が思想的哲学的なアプローチをスタートとしているとすれば、本書は心理学からはじまり、両書は同じ結論にたどりついた…ということが言えるかもしれません。たとえば本書の最大のキーワードであるであろう「来歴」という言葉は、<本源的蓄積>や<「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」>というマルクスや資本論の認識ともイコールになります。

本書はプロザックのような向精神薬も含めて、人間の意識との関係をマクロに考察するとともにミクロや分子レベル(代謝など)での因果をもエビデンスとして取り上げています。そのスタンスは一見心理学の分野に見えますが、社会科学全体を見わたせるもので、古代ギリシャの哲学フィロソフィアが本来心理学であったことを思い出させるようなトーナリティのあるものです。

最終章では人工と自然の対立といったものから還流する意識までが取り上げられ、もっともリアルで現在的なものとしてベイトソン的な自己言及を社会全般へのものとしてフォーカスしています。…なのでやはり本書は心理学を超えた社会全般についての本なのでしょう。少なくとも著者のスタンスはそういったものであるようです。

「錯誤」を含めて「イリュージョン」が本書のポイントであり、そのイリュージョンは「来歴」によって生成する…という認識は心的現象論そのものなので、興味のある人は両書を読み比べてみると面白いかもしれません。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』(下條信輔:講談社現代新書)のレビューから(2014年5月14日

2015年11月30日 (月)

2つの表出…指示と自己

 「指示表出」と「自己表出」の2つは「共同幻想」という言葉とともに有名?な吉本ターム。

 沈黙は幹だ…この『「芸術言語論」への覚書』やその講演である『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~』で話題になった言葉「沈黙は幹だ」は自己表出を指したもので、幹に対して枝葉である指示表出との関係を示しています。詩人である吉本さんらしい文学的な換喩ですが、思索者あるいは理論家としては『言語にとって美とはなにか』『心的現象論序説』で緻密な考察がされています。特に心的現象論における言語への考察は、『序説』でも『心的現象論本論』でも人間の根源を解く鋭いものになっています。そこでは<自己>と<指示>という2つの概念へのアプローチも用法もより細分化されています。

 それは<自己確定>と<指示決定>という言葉に再定義できる内容となっています。

 自己表出というものは自らの価値判断を前提とするもので、いわゆる自分そのものの表出。そのために{<自己>が(自己を)<確定>するもの}という根源的な定義があります。自らの意志による価値判断に基づく表出ということです。その初源を抽象すれば(自己による)<自己抽象(性)>になり、これはあらゆる認識の<概念>形成のベースとなるものです。
 指示表出というものは自らの価値判断とは無関係に他からやってくるもので、他者によって{<指示>され<決定>されているもの}であり、初源の定義は他からやってくるという(自己による)<関係(性)>だけです。これはラジカルには<自己関係(性)>であり、あらゆる認識の<規範>形成のベースとなるものです。

 意志、価値、関係などのタームは最重要なものでありながら思想や哲学をはじめ一般的にも明確な定義をされていることがあまりありません。『言語にとって美とはなにか』では『心的現象論序説』の言語論などと照応しながら根本的な定義がされています。


     言語の意味とは意識の指示表出からみれば言語構造の全体の関係である。
            (『言語にとって美とはなにか』 第Ⅱ章 言語の属性 「1 意味」P73)

     意識の自己表出からみられた言語構造の全体の関係を価値とよぶ。
            (『言語にとって美とはなにか』 第Ⅱ章 言語の属性 「1 意味」P85)


 自己(身体と場)に対する認識があらゆる認識の原点にあることは発生学的にも遡行できますが、何より三木成夫氏の解剖学によるマテリアルな基礎づけのもとにフロイトやヘーゲルなどを参照しながら思索を深めた吉本理論のオリジンがここにあるといえるでしょう。

 吉本隆明さんの言語論であまりにも有名な指示表出と自己表出という2つのターム、。マルクスで有名になった上部構造/下部構造のように分析や思索するときの機能的なツールとしても便利なものなのではないでしょうか。それらを駆使した分析やクリティークの登場が待たれます。


           
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2015年8月26日 (水)

イメージをつくる概念と規範

たとえば、時空間概念で抽象すると
単位時間性A単位空間性Aとのカップリング=統合で、認識Aが生成されます。

認識Aの表出をイメージAと仮定するとします。
イメージAを可能にしている(構成している)ファクターとして、
イメージAの構成を別の位相から考えて、そこに概念と規範を想定できます。
イメージAには概念規範の位相がある、ということです。

概念は意味を含み、規範は形態を表象しています。
意味は意識による認識であり、形態は知覚の認知によるもの。

イメージは概念(意味)と規範(形態)にまたがって構成されています。
イメージAも、その別のいい方である認識Aも、入れ子構造として安定しています。
入れ子構造であることで動的平衡を維持しているワケです。

       -       -       -

この入れ子構造はある条件をキッカケに流動化し構造変換します。
あるいは、他の入れ子と接触することで影響され(あるいは影響をあたえ)ます。
そのキッカケとなるのが純粋疎外の状態です。
時間性からすれば<時点ゼロ>です。
空間性からすれば空間化度ゼロの状態が仮定されます。
この状態は冪乗化や自己言及性を前提にしたものです。

ポイントは<入れ子構造>の臨界と接触。
臨界と接触は、いずれも反復と同定(固定)により発現するもの。
入れ子構造内のエントロピー的なものは、臨界に達すれば構造変換を促します。
また入れ子構造は、他の入れ子構造と接触することで内容の伝達や変成がなされます。

入れ子構造の範囲内ではシステム論(オートポイエーシス)的な属性がメインであり、
構造の変換や内容の変成、あるいは他の構造との接触などにおいて、
時点ゼロとしての純粋疎外状態が発現します。臨界で発現するワケですが、
従来は境界やカオスあるいはノイズとされ(不問にされ)てきたものになります。
それは純粋疎外という特異点です。

       -       -       -

入れ子構造は自己言及を一つの単位として成り立っている、と考えられ、
分子生物学的には入れ子構造の最小単位を遺伝子に求めることができます。

遺伝子というものは、まず、自己の再生産=自己言及を目的としたもの。
自らが目的であり、自らが単位そのものである存在といえます。
遺伝子は自己を複製するために自己を記憶します。これを心の起源だとする論考が、
科学へのスタンスをポアンカレーのものと同じだと評される木下清一郎氏
『心の起源』です。

           
心の起源 生物学からの挑戦 (中公新書)

著:木下清一郎
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「自己を複製するために自己を記憶し」「これを心の起源だとする」ならば、
自己を記憶するということが心的現象の初源(スタート)になります。

それは空間的には自己言及であり、時間的にはゼロ(時点ゼロです。
これは時空間=場としては<いま/ここ>であり、TPOとして規定できるもの。

吉本隆明は遡行できるその極限として、受胎の瞬間と、その場までを想定しています。

それは固有時が生成する場であり、個別的現存が発生し、環界である母体との構造化した関係は自他不可分です。それは同時に自他分離の始まりでもあり、原生的疎外が新しい現実との臨界と受容を常同反復していきます。この時の受容とその反作用の錯合が固有時を特徴づけ、個別的現存は個体として成立していきます。

           
ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ

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2014年12月16日 (火)

「韻律がふくんでいる指示性」とは?

どんな表現も、あるワク組・規範がないと成立しません。当然ですが、何かを必死に訴えたところで、それが言葉にも声にも、あるいはサインや記号にもなっていなければ、それが何だかはわかりません。その必死の表現は、単に何かの表出であって、他者にまで伝わる表現(意味の伝達)ではありえないものとして終わってしまいます。

ある表出が表現と化す臨界を、吉本隆明は簡明に、鮮やかに描いています。

   <ウ><ワア>と<ウワア>が、もしちがった意味をあらわすとすれば、
   ふたつの韻律のちがいにその理由をもとめなければならない。
   すでに、韻律がふくんでいるこの指示性の根源を、
   指示表出以前の指示表出の本質とみなしてきた。

      (『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P108)

           
【合本版】定本 言語にとって美とはなにか (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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 ここではワク組や規範の機能それ自体が意味を表象させる根源であることが微分されています。単にシンプルな分節あるいは韻律の違いが、それだけで意味の違いを現しているというその根源について、指摘されています。この「指示性」はノエシス的なものも含意するもの。

 同じページにヘーゲルによる、詩についての有名な解説が『美学』から引用されています。

   詩は韻文で書かれることを本質的要件とする。
   …
   韻文を聴くひとには、それが通常の意識において気ままに語られたものとは
   別種のものなのだということがすぐわかる。
   それに固有の効果は内容にあるのではなく、対象面にあるのではなくて、
   これらにつけられた規定にあるのであり、
   この規定はこの内容にではなくてもっぱら主観に帰属することを直接に明示している。
   ここに存する統一性・均等性によってこそ、
   規則的な形式は自我性に諧和するひびきを発するのである。

   (『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P108~P109。
                                     ヘーゲルの『美学』から引用)

           
ヘーゲル美学講義〈上〉

翻訳:長谷川 宏
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 「本質的要件」というのは音楽と同じで、分節されている、リズムがあるということ。
 「規則的な形式」が「自我性に諧和するひびきを発する」というのは、直截?にいえば自我のリズムがシンクロする規則的な形式があることを示していて、日本語でいえば五・七の音数律がその規則性であり形式になります。五・七の音数律が奇数なのは、偶数では心拍をはじめとして基礎が2ビートである人間にとって安定的であり運動や行為の終息には適していますが、継続や前進には奇数がいいワケです。奇数には安定を求めてさらに進行するという属性があるといえるでしょう。

 韻律についてのヘーゲルの考察を評価するところでの指摘が以下。「みている」というのはヘーゲルがそうみているということです。
 「内容とも対象とも異なった」ものだけども「主観に帰属するもの」で、「意識それ自体」と不可分なもの…。いかにも吉本隆明らしく、ヘーゲルやあるいはマルクスとオーバーラップするようなポイントがフォーカスされています。しかもそれは「完全に対象的に固定化されない」といいます。

   …韻律としての言語が内容とも対象とも異なった「主観に帰属するもの」、
   いいかえれば意識それ自体に粘りついてはなれないもの、
   完全に対象的に固定化されないものとみている…

      (『言語にとって美とはなにか』第Ⅲ章 韻律・撰択・転換・喩P109)

 「対象的に固定化されない」つまり可変性のあるもの…。韻律の定義のこの部分は重要なことを示していそうです。認識のワク組の生成として“ベイトソンの学習”的なものがありますが、同じように表出から表現へ至る時のワク組の生成として固定化されないもの=ワク組の可変性があるワケです。

 このワク組の可変性には、環界への根源的な関係性が影響していると考えられます。

2014年5月30日 (金)

来歴、知覚残効、純粋疎外

左右の手を合わせてみて、どちらの手がどちらの手をどのように判断しているのだろうか?という問題がありました。四肢構造云々ではその説明をすることができませんでしたが…。


左手をお湯につけ、右手を冷水につけます。
しばらくしてから、今度は両手をぬるま湯につけると…。
左手はぬるま湯を冷たく感じ、右手は熱く感じます。
同じ身体の手でありながら、両手はそれぞれまったく違った判断をしています。
これは一つの脳の判断でさえなく、両手それぞれが独自の判断をしているとも思えるものですが…。脳との問題はさておき…。

   同じ1人の観察者が、2つの逆方向のイリュージョン(錯誤)を同時に経験している…
   (『<意識>とは何だろうか?』第1章「錯誤とは何か」「1-神経生態学的あぶりだし」P13~14)


同じ「ぬるま湯」に対して「冷たく」と「熱く」のまったく逆の2つの判断がされました。
お湯で温まっていた左手はぬるま湯を「冷たく」感じ、
冷水で冷えていた右手はぬるま湯を「熱く」感じたワケです。
ぞれぞれの手は、直前までのそれぞれの手の経験を基準にして判断した…といえます。
つまり、これまでの<来歴>が現在の判断そのものを左右していることになります。

   陰性残効は…温冷感覚、聴覚など、さまざまな感覚で見られる…感覚神経系の働きの一般原則だ…
   (同上「3-雪が白いのはどうしてか」P25)


この時<来歴>は判断そのものを左右していますが、
それは同時(既に)に判断そのものを可能にしていることが前提になっています。
前回のエントリー「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」でいえば、「ルビンの壷」で壺を可視化させてくれる顔(あるいは顔を可視化させてくれる壺)…
つまりターゲットを認識させてくれるグランドといえるもの、大局的には認識をアフォードしてくれるもの…としての<来歴>があります。


   「来歴」とは、…
   知覚だけでもなければ身体だけでもなく、ましてや脳神経の活動だけでもない。…
   過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体である。
   (『<意識>とは何だろうか?』第2章「脳の来歴」「4-脳の来歴―順応について再び考える」P94)

来歴について…
五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」というマルクスの言葉は、
<来歴>こそが人類のあらゆる判断のもととなるものであることが含意された考察だともいえるのでしょう。


       -       -       -


さらには<来歴>をも超えた受容の仕方?というものさえ考えられます。経験では享受できない(来歴にない?)対象へのアプローチとしての独特のレスポンスです。“経験したものしか想像できない”という基本的な定義のなかで、経験していないものはどう処理されるのか…。たとえばモノクロがカラーに見える現象には、そのような感覚の臨界的なアプローチが垣間見えているのかもしれません。たとえば<世界視線>とはそういった認識だと考えられます。


 モノクロがカラーに見える現象が示唆するものとは…
 問題はどうしてモノクロがカラーに見えるのか? その理由です。
 


 これは誰でも無刺激の部屋に入ると30分くらいで幻覚を見てしまうという心理実験で確認されている現象と似ています。感覚に刺激がないと、刺激の元(原因)をでっち上げてしまう心理作用が人間にはあり、物理的に存在しないものを観念的(心理的)にフレームアップしてしまうワケです。これは人間ならではの、想像力などの源泉となる能力の一つだと考えられるものでしょう。
 モノクロの微細な模様(だけ)では見極めがつかない…それを見極めようと、モノクロの視覚像に価値判断として着色してしまう…というのが、この現象の機序だと推論することができます。「モノクロをカラーにする<心>とシステム」


たとえば、これが「クオリア」と呼ばれる現象の実態です。


このような人間ならではの認識のシステムが、すべてを可視化していく(という幻想の)可能性を可能にしてくれる自己言及的な、べき乗化した観念としてある…といえるのではないでしょうか。人間の動物とは違う属性、過剰ともいえる何かがそこにはあります。


       -       -       -


「同じ身体の手でありながら、両手はそれぞれまったく違った判断」をしてしまうようなイリュージョンも、どこでもいつでもありうるものでしょう。それと同じように、何も判断できないという状態も日常的にもありうるもの。絶え間なく行使されているさまざまな判断、無意識に行われるあらゆる認識のベースに、この何も判断できない状態が想定できます。たとえば、ある判断からその対極にある反対の判断に移行するときには、その中間点のどこかに判断できない状態が特異点としてあることが類推できます…。判断できない・しないという状態こそが、次の判断への準備として、あるいは次の判断のグランドとしてあるのではないでしょうか…。


自分と同じ体温のぬるま湯に入ったとすると何も感じることができずに、水圧や水流といったものがなければ一瞬自他不可分の状態になります。何も判断できない状態です。これが<純粋疎外>のひとつの例です。認識が対象に対して自他不可分となり、何も認識(しない)できない状態になっているワケです。あらゆる状況と状態でこの<純粋疎外>は認識の過程として日頃から通過している特異点だと考えられます。「はじまりは<自他不可分>」


こういった<純粋疎外>状態や、知覚残効の錯合した状態として、たとえばデジャブが考えられます。


2014年4月 2日 (水)

<大洋>のTPOとしてのデジャブ…『母型論』

   素因子としていえば、すくなくともこれらの内臓系の感受性からくる心の触手と、
   筋肉の動きからくる感覚の触手とは、大脳の皮質の連合野で交錯し、
   拡張された大洋のイメージを形づくっているとみなすことができよう。

   この大洋のイメージの拡がりは、すこしも意味を形成しないが、
   その代りに内蔵(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべてと、
   感覚器官の感応のすべでを因子として包括していることになる。

                                (『母型論』「大洋論」P49)

 「内臓系の感受性」「筋肉の動きからくる感覚」(体壁系の感覚)という三木成夫の解剖学からの知見を援用しながら、それが脳において連合し認識となるときに<大洋>のイメージを生成することが説明されています。指摘されていることの重大さと、それに反比例するかのようなあまりにもシンプルな事実関係が示されていますが、思弁的で過剰な論理の再生産を繰り返し何もアプローチできていないよくある分野などの言説とは違って、真理へのダイレクトな言及は吉本理論ならではかもしれません。心的現象論の本論でも序説でも多くの具体例や症例といったもの、あるいは実験や実証の論文が参照されていますが、そういった認識に関して実証やテストを積み重ねてきているような分野(知覚心理学認知神経科学)では、このような吉本理論の基礎的な部分と同じ結論や仮説に達しつつあるのも事実です。

 上記の引用は胎児の状態(代謝的な関係)から離脱し、生存のすべてを授乳に依存するようになった乳児と母との関係から考察されたもの。母は対象化され、母と乳児(自分)との関係がすべてである状態。そこでは赤ちゃんがリーチングして母と乳房をまさぐり、授乳し、といった過程で発揮される「内臓系の感受性」「筋肉の動きからくる感覚」の世界です。母体への肌触り、母乳などへの嗅覚味覚、それらによる生存の欲求の充足…。ここに性と関係の原点を見出している吉本理論の基礎的な部分と、それが言語の生成や獲得となっていることを探究する『母型論』の基本があります。

 簡単にいえば空腹という生存をかけた内臓系の欲求があり、それを満たそうとする懸命に母を探し乳房をまさぐる触覚をともなう筋肉の運動があり、授乳するという嗅覚味覚による享受があります。内臓系の感受性を動機とし、体壁系の運動と触覚による感覚的なリーチングがあり、そして味覚や嗅覚による享受…。これらの約1年間におよぶ反復が赤ちゃんの生命を支えています。

 この赤ちゃんの生と営みをフォローしている母型的な大きな枠組は、反復することによって赤ちゃんにラジカルな規範を与えてもいます。そしてこれらがその人間個体の原型を形成していく基礎になるもの。個体にとっての価値や意味は、生命(維持)の営みであるこれらの反復が臨界に達しステージがアップする…ということの過程で獲得あるいは生成し定着していきます。それはリニアにおこなわれるものではなく、各パートや領域において入れ子構造単位で、しかも部分も全体もなく行為され、その特異点としてある個体が想定されるのではないでしょうか…? さらには個体の属性はあるTPOにおけるものなので、TPOのズレによって変異するとも考えられます。その象徴的なものが転地療法による統合失調症からの快復であり、日常的には気分の転換のようなことでしょう。あらゆる認識が例外なくこのTPOによる規定を受けています。たとえばそのエビデンスの一つが、初源のTPOである大洋に育まれていた頃の認識がデジャブとして感受されることです。

   この拡張された大洋のイメージは、言語に集約されるような意味をもたず、
   それだけで意味を形成したりはしない。
   だが、それにもかかわらず心の動きと感覚のあらゆる因子を結んだ
   前意味的な胚芽の状態をもっている。

                                 (『母型論』「大洋論」P49)

 「内蔵(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべて」と「感覚器官の感応のすべて」を「因子として包括している」とされる「大洋のイメージの拡がり」は、「言語に集約されるような意味をもたず」「それだけで意味を形成したりはしない」が「前意味的な胚芽の状態」であるとされます。

 <イメージ>というもののマトモな定義そのものがほとんどなされていない思想や哲学ほかのさまざまな言説の中で、わずかな手がかりを参照しながら吉本理論の思索はほぼ唯一のブレークスルーを成し遂げていきます。
 ポスモダニューアカと呼ばれたなかには良質の言辞もあり、可能性の中心を見出すことが不可能なワケではありません。『自己・あいだ・時間』木村敏)などに先進的な探究があったことが示されてもいます。そこには「分裂病こそが言語の陰画が言語の陽画(言語そのもの)に転化する過程の病気として発生するものにほかならない」(『母型論』P90)という吉本隆明氏の鋭利な指摘に準ずるものを見出すこともできるでしょう。

  純粋な差異化のエレメントとしてノエシス的な自発性の動きというものがあると考える。
  それがノエマ的な自己に逆規定されてはじめてノエシス的な自己になるのだと。
  この、自発性の場における差異化の運動というものは、まさしくスキゾフレニックな運動そのものですね。

            (『逃走論』<対話>「ドゥルーズ=ガタリを読む」P92今村仁司浅田彰

 

           
逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

著:浅田 彰
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自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)

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2014年3月21日 (金)

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』

ソシュールラカンの<シニフィアン>を臨界としてラジカルな評価をしながら、そこに(動因としての)<神>や<父>ではなく、意味を形成していくものとして<大洋>を想定するのが『母型論』です。

 そこではシニフィエを呼び込むための素因としてのシニフィアンとは何か?と検討されています。ここで吉本隆明氏の科学者としての才能と詩人としての素質が、本来蓋然性でしかない科学(サルトル)を超えてある方法にたどり着いていくところに、この思索者が最大の思想家といわれるそのものであるかのような姿を確認できます。

   シニフィアンははじめから何ものも意味する可能性がないものとして設定すれば、
   それは科学的な素因ではありうるだろうが、
   外界はすべてのっぺらぼうの自然界という以外になくなってしまい、
   物質の自然を対象としてつくることができなくなる。

                                    (『母型論』「大洋論」P47)

 これは吉本隆明がマルクスに対してもっていた唯一の、しかしラジカルな批判と同じもの。もっと広げていえば、思考するときの陥穽として必然的にともなう抽象化のワナに対する警鐘?になっています。具体からの抽象と、その論理化により理論(科学)は生成しますが、当然それはまったく現実とは異なるもの。どんな優れた理論も現実そのものではありません。科学的な認識あるいは論理上のものでしかない「のっぺらぼうの自然界」に人は生きているわけではないからです。具体から抽象して概念装置へ上昇する科学は、その逆に現実に向かって下降する方法も備えていなければ意味(価値)はないもの。このことまで意識されて書かれたものは「資本論」くらいしかなく、「資本論」の読解にはそれが担保されています。

           
母型論

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,890
価格:¥1,890

   

       -       -       -

 上記の『母型論』本文の引用の10行ほど前にあるのが以下のテキスト。

   母音がそれだけでは意味をなさない音声の波であるように、
   母音の波の拡がりであるイメージの大洋は、
   意味をもたず、言語ともいえない世界なのだが、
   それにもかかわらず言語優位の脳で感受されるとともに
   意味(前意味といってもよい)をもってしまう特異な領野に当面している。

                                   (『母型論』「大洋論」P47)

 この「それにもかかわらず言語優位の脳で感受される」というのは日本人の脳に特有の属性で角田テストで実証されたもの。その後の大脳生理学や脳神経学でも日本人の言語脳が“言語獲得以前(廃用性萎縮以前?)”は言語獲得にいちばん優れているということが確認されています。また1つの母音だけでも意味を与えられていることが多い日本の特殊性は際立っていて、欧米語圏だけではなく中国語や朝鮮語にもないもの。母音一つでも意味を見出だしているということは、虫の音や風の音など多くの自然音にも意味を見出していることが考えられます。別のいい方をすればそれらの音を言語として捉えているワケです。ここに言語生成の原領域あるいはシニフィアン以前というものの可能性の思索をめぐらせた吉本隆明の探究は圧倒されるものがあります。

   日本人は母音の方は左の脳が優位になり、純音は右の方が優位になる。
   「母音」と「純音」の脳のとらえ方がちょうど左右の脳で対称的になるんですね。
   そこで母音は確かに言葉の音として使えるということで研究を続けてきたんです。

    (『音楽の根源にあるもの』「音感覚と文化の構造」小泉文夫角田忠信P226)

   コオロギの「コロコロ音」は日本人は全部、母音と同じように
   言葉を解する左脳の方で聞いてしまうわけです。
   西洋人は、右脳の方にいっちゃうのですね。
   彼等は雑音を処理する脳の方で聞いている。

    (『音楽の根源にあるもの』「音感覚と文化の構造」小泉文夫・角田忠信P230)

           
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 さらに『母型論』ではソシュールラカンのシニフィアンの概念と比して<大洋>の概念が説明されています。胎児にとっての羊水を意識したかのような<大洋>の概念は『母型論』の基礎でもあり起点でもあるもの。しかし原生的疎外純粋疎外といったタームと比べても理解しやすいというよりは、その反対のような印象があります。実際にソシュールやラカンを援用しながらの説明は、その伝達のし難さのためかもしれません。純粋疎外は原生的疎外のベクトル変容である…といった確定記述が困難な概念です。

   ひとロに「神」の代りに擬人化され、
   命名されたすべての「自然」の事象と現象が登場し、
   「父」の代りに胎乳児に反映された「母」の存在が登場するところに、
   わたしたちの大洋のイメージがある。

   そしてわたしたちが設定させたいのは
   前意味的な胚芽となりうる事象と現象のすべてを包括し、
   母音の波をそのなかに含み拡張され普遍化された大洋のイメージなのだ。
   そのために完全な授乳期における母と子の心の関係と感覚の関係が
   織り出される場所を段階化してみなくてはならない。

                                   (『母型論』「大洋論」P48)

 空間的に確定記述が困難な<大洋>の概念ですが、それは同時に通時的な位相にこそ特徴があることを示してもいるといえます。変化そのものを表現や定義しようとするときの必然です。そこで吉本隆明氏ならではの基本的なアプローチとして「段階化してみなくてはならない」という方法がとられます。ヘーゲルやマルクスの基本的なスタンスが活かされていきます。

2014年2月28日 (金)

母音も虫の音も言語野で聴く日本人とポリネシア系…

 日本語では母音の「あいうえお」のどれにも意味ある言葉をあてはめることができる…
 ポリネシア語にもこの特徴があるが、そのほかに近隣の言語でこの特質をもつものはない…
 日本人とポリネシア語圏の諸族だけがこおろぎの鳴き音を脳の言語優位の半球で聴いている…

                                     (『母型論』「連環論」P41から)

 以上は『母型論』で吉本隆明氏が角田忠信氏の『脳の発見』から援用しているものです。
 かんたんにいえば、自然音と声が同じように感受されることが日本語やポリネシア語の特徴として説明されています。単なる母音に意味を見出し、単なる虫の鳴き声も言語野で聴く日本人やポリネシア人。そこには子音の微妙な発音(の差異)に意味を見出すインド・ヨーロッパ語などとは異なる言語感があります。単なる発声でしかないようなシンプルな母音にも意味づけをする日本人やポリネシア系の人々。これらは何を示しているのでしょうか。

           
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 発音の仕方に左右されないということは、対象となる音声の質に左右されることなく感受することが可能なことを意味しています。相手の発音(あるいは自然音の属性)に左右されない感受性…。吉本理論で重視される主体としての受動性には、人間の原点でもあるその在り方そのものの大きな可能性がありそうです。(受動性のファクターとして考えられるものの一つは、セロトニン・トランスポート能力が低いs遺伝子の多さやドーパミン第四受容体多型の少なさというポリネシア系の遺伝的特徴があります。*「セロトニンとドーパミン」 そしてその生体のシステム(*「ポリリズムと自然音と人声と」) に還元できない特徴や属性への探究として心的現象(論)があるワケです)

 吉本理論の文脈でいえば、そこには、指示表出と自己表出(指示決定と自己確定)に分岐?する以前の音からも感受しているといえるものが示されています。別のいい方をすれば、規範と意味(概念)の渾然一体となったものを自然音や母音に見出しているともいえます。極論すると、日本人やポリネシア人のこの特徴は、すべてを自己表出だとするような繊細?な感性の現われでもあり、そこに人間という現存在の直接性の意味や価値=美があるのかもしれません。

 ある種、どんな自然音からも意味を見出せるなら、それは、どんな自然音を模倣してもコミュニケーションができる…ということを示唆しています。たとえば以前のエントリー*「規範に引き寄せられた言語、さえずるピダハン族」で取り上げたピダハンの言語がそれです。「「環境との緊張関係がないために対自意識そのものが表出すること」…つまり自己関係性の空間性がダイレクトに規範を生成する」と書きましたが、これは自然と自己の不可分性でもあり、以下のように吉本隆明氏が指摘するものに関係があると考えられるものです。



   旧日本語的な特性は、個体の言語の発達史からいえば、
   乳児期の「あわわ言葉」を離脱した直後の言語状態に対応している…

                          (『母型論』「起源論」P204から)



           
母型論

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2011年2月18日 (金)

「私としての私」・「我々としての私」

『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』P25から

 功利主義は、…
 自分の前に特定の他者たちが出現した場合、選好構造が変わってしまう。
 …功利主義が意味を失う。

 社会学の言葉でいえば自己包絡の範囲が、
 特定の他者たちとの近接性によって変わるのです。
 廣松渉的に言えば「私としての私」と、
 特定の他者たちに関する「我々としての私」が異なる選好を持つ。

●3つの位相の異なる判断

 「自己包絡の範囲が、特定の他者たちとの近接性によって変わる」…吉本理論に転移?しているこのblog的に結論をいうと共同性(に関する意識の)の(3つの)それぞれの次元(位相)で選好構造は違うということ。つまり、公的関係と親和的関係、自己関係ではそれぞれ判断が違うということです。たとえば合成の誤謬とはこのそれぞれ異なる次元をひとつの基準でジャッジするために起こるコーディネーションの失敗であって、単一の価値基準(の設定)こそが間違いだといえます。 

 他者の自己への近接(の度合い)によって、その他者の意味が変わります。
 胎児期の自己とシンクロ率100%である母(体)は他者性ゼロ。
この自他不可分の状態から母(体)が分離してこれが対象化され、やがて自己にとっての自己も対象化されて認識構造が完成します。それまでの段階ごとに異なる認識構造があり、それぞれは3つの位相のいずれかに収斂できる構造をもっていると考えられます。少なくともその3つの位相の錯合がある特定の認識そのものであるワケです。

●自他不可分から自己対象化まで

 「私としての私」は自意識(対自認識)よるものですが、もう一次元の微分が可能です。
受胎以降の自他不可分(母体あるいは環界と自己が分離していない)な自意識は自己を対象化するという段階を経ないと完全なものになりません。認識は対象(具象)を抽象化して成立するものなので抽象化の度合いが問われます。自己抽象化と自己対象化(自己関係化)に分岐した認識構造の成立が認識の正常な展開の前提となります。四肢構造による「私としての私」「我々としての私」のより微分した解析が必要だということです。

 「我々としての私」はいうまでもなく共同性(共同体のなか)の観念における自分であり、共同幻想内における自己、公的関係の中での自己の位置づけを通した認識です。そこでは「私としての私」と「我々としての私」は並列しシーソーのようにバランスしていると考えられます。このバランスのためにも前段で触れた自己意識の完成(自己の抽象化と対象化)が前提となります。

●「我々」という構造のバリエーション

 この「私」や「我々」の属性を把握し定義ができないと、その上に展開する認識(意識)は偏差が大きくなりアヤフヤになってしまいます。これらの前提となる自意識が確定的でないと自閉症や統合失調症にみられるような人称による大きな差異や、環境や他者に対するレスポンスの分析が困難になります。なによりも作為への認識とスタンスを確定したうえでないとブレのない認識ができません。

 特に公的関係(共同幻想、「我々」…)を前提とした認識は観念の冪乗化した基本構造(その具現化した典型例が<他界>認識の構造)という共通点以外はすべて現象ごと現象の数だけ想定できます。そのため、この場合は逆に環界のマテリアルな構造を把握するほうが(認識構造へ)フォーカスしやすくなり、マテリアルな構造の科学(たとえば『資本論』)として論理がクローズアップされます。

 「我々」(という認識構造)の瓦解は「悲劇」ですが、「悲劇の共有」こそが作為の最強の形態?である近代と国家への認識であることを宮台真司さんは繰り返し主張しています。歴史から文芸、昼メロまでありきたりの「悲劇」。音韻と韻律が解離しメロディと歌詞が分離するように、すべての指示表出(とその自己表出)の細分化・微分化が歴史とともに全領域にわたるなかで悲劇の共有はますます困難になっているでしょう。現在では楽しいコトの共有こそが大衆社会の表層をリードし覆っています。楽しいコトの共有を現代の共同性の根源に見出したのがオタキングの『ぼくたちの洗脳社会』で、発刊当時は全く新しい社会学として提示されたようです。

●<死>という最強の作為?

 もっとも強い作為あるいは最も強度のあるアプローチ?は自己への否定です。その代表は<死>。他者によってもたらされる死(殺される)から、自らの死(自然死、病死、自死)まで。
 <死>は最も個体に変成(変性)をもたらすものと考えられます。特に他者によってもたらされる<死>は、最強度の作為といえるでしょう(最強の作為である国家が戦争と死刑を権利として行使できる理由はこれを行使できるということそのものにあります)。
 あらゆる物語はその死に対するレスポンスとその集積であり、逆にいえば死(へ)の(レスポンスの)考察はあらゆる物語の考察でもあり、空間的には世界を知ることでもあるでしょう。共同性のレベルでは歴史といわれるものです。

 この<死>に対する調査と考察ではキューブラー・ロスのものが量質ともに充実しているといえそうです。それは多くの臨死の患者への膨大なインタビューであり、そこから人間の死に対する反応が類型化できるまでサンプリングされ調査されています。

 自己に対する否定的な作為はすべて価値観の変性を触発します。変性意識とは自己否定の意識に他ならず、否定された自己を変性(変成)することによって否定された状況を超えようとする何かでもあるでしょう。

2009年4月26日 (日)

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

フーコーと吉本が補完し合った思想のパフォーマンス…『世界認識の方法』

 3つのある種エポックメークな(大きな)問題?があるのが本書。
 1つは本書をキッカケに対幻想や共同幻想という言葉とともに吉本理論が注目をあびたこと。理由は簡単で<対幻想><共同幻想>といったある種キャッチなタームがシンプルに説明されたことです。
 2つめはそのタームの紹介が簡明過ぎたこと。ヘーゲル-マルクスという王道をベースとした質疑応答による説明のために〝序説的なもの〟は捨象されています。逆にいえば『心的現象論本論』が刊行されるまで『心的現象論序説』で示された原理論は顕在化せず、ハイイメージ論などの個別具体的な批評においてバックボーンとなる概念として作動するのみでした。
 3つめがフーコーとの対話です。賛否両論あるものの対談のテープの紛失などの事故?は別としても実りは大きかったと思います。フーコー自身は『言葉と物』など自らの方法についての懐疑ももちはじめていて非常にスリリングで価値のある内容になっています。

 サルトルメルロポンティとともに吉本さんがよく参照し検討する思想家ですが、『方法の問題』という非常にラジカルなテーマの本を出しています。科学というものはその方法(論)によってはじめから規定されてしまうワケですが、サルトルのマルクス主義批判はそういった科学批判そのものであり、あらゆる認識が免れない批判でもあったワケです。それはポパーの反証可能性よりも徹底した批判です。
 本書ももっともラジカルな意味で方法を問う内容になっています。吉本理論の全体像を俯瞰しながらの総括的な説明と、フーコーへの根源的な問いは、それぞれに大きな問題提起ともなっていてスリリングなのです。

 

  吉本さんのお話は、私にとって本当に有益なものでした。
  というのは、一つには、
  自分のいままでの仕事の限界だとか、
  それから

  まだ充分に考えがまとまらずに欠けている部分などを、
  吉本さんが、問題の提起のしかたそのものによって、
  はっきりと示して下さったからです。

  そして特に吉本さんの意志論という形での問題ですね、
  それが私にとっては、ことのほか興味深く、
  多くの問題を進展させる有意義な契機となると

  確信致しました。(P47)

 

 最後にフーコーは以上のように述べ、国家に対する経済や制度や文化などへの分析では「どうしても考えられないような、ある謎の部分につきあたってしまいました」とまとめています。だから「吉本さんの書物が、フランス語なり、あるいは英語なりに紹介されますよう」「強く希望いたします…」となったのでしょう。

 フーコーに併せる形で中心的な課題が<意志論>となっていますが、問題の根源は〝人が共同性を求めてしまうのはナゼか?〟ということに収斂しており、むしろフーコーの言葉どおりの問いとして考えた方がダイレクトなルートが見いだせるハズです。

 

     国家の成立に関しては、
     …
     どうにもわからない大きな愛というか
     意志みたいなものがあったとしか
     いいようがないのです。
(P48)

 

本書は自らの指示表出をできる限り忠実に伝えようとする吉本隆明と、自らの思想を明白な自己表出として衒いなく語るフーコーの、互いに相手の方法論に乗っ取ったかのようなやり取りで構成されています。吉本理論の解説においても同様で、この製序された吉本理論(の解説)には賛否両論があるのではないでしょうか。ただ間違いなく吉本理論の全体像が自身によってほぼ初めて俯瞰されており、その方法に自覚的である限りとても有用でコンパクトな一冊です。フーコー研究の分野の周辺では本書は除外されているようなので、まさしくその可能性の中心はドーナツの穴のようにカラッぽなのかもしれません…。



           
世界認識の方法 (中公文庫)

著:吉本 隆明
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