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2016年3月18日 (金)

<指示表出>と<自己表出>…文学系に気になる言葉

 <指示表出>と<自己表出>…共同幻想とともに知られているタームですが、これもまた定義をめぐって混沌としたものがあるかもしれません。プロの論者でも初歩の段階で理解に至っていないケースが多く、そもそも吉本用語はまったく理解できないと正直に嘆いてしまったアンファンテリブルがいるほどです。一方で、吉本の用語は理解しやすく現代思想を先駆けているという評価もあり、この両極は何を示しているのでしょうか…。

 言語にはさまざまなアプローチができますが、品詞に分けるのがカンタンです。
 品詞でいえば<指示表出>は名詞、<自己表出>は助詞。前者は<何か>を示していて、後者は<主体の意識>を示しています。前者はそれだけで完結しますが、後者は何(について)の意識なのかは<何か>をいっしょに示さなければわかりません。助詞だけで成り立つ文章や助詞だけで交わされるコミュニケーションはありえないでしょう。意識は絶えず何かについての意識であり、何かとの関係においてはじめて意味をもつもの。助詞が示すのは意識の、何かへ向かっての志向性であって、何かそのものではないからです。意識そのものは志向する対象である何かとともにでなければ具現化=概念化しません。この具現化されるものそのものを指し示すのが指示表出です。

           
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 名詞という指示表出は、名詞を指すことによって示すことができる自己表出とともにひとつにカップリングされたもの。あらゆる言葉は指示表出と自己表出の両価であり例外はありません。吉本は沈黙という指示表出ゼロであるかのような状態さえ、それは自己表出だとして大いなる価値を与えました。これにJケージの「4分33秒」を想起する方も少なくないでしょう。(ハイイメージ論収録の「像としての音階」のJケージ論は、聴覚の受容コードそのものの生成が解かれていて、該当ジャンルの専門家を圧倒するものになっています)。

 言語論として取り上げられることが多い<指示表出>と<自己表出>。文芸批評のツールとして考えられた概念装置なので当然かもしれません。名詞を指示表出、助詞を自己表出のそれそれ両極として解説した図表のせいか、品詞分類のひとつだと誤解されていることもあるようです。

 吉本が大きな影響を受けた三木成夫の最初の著作「解剖生理」にはアリストテレスとビシャの影響で人体を構成する諸器官が植物性器官=内臓系と動物性器官=体壁系の2つに色分けされて記述されている…ということを、文芸評論家の加藤典洋氏が指摘しています。
 この内臓系と体壁系の表出がそれぞれ自己表出と指示表出になるものです。

 ハイイメージ論では内臓へ由来する価値の経路を示した思想家としてA.スミスも取り上げられています。経済学でも限界効用は内臓に規定され、労働価値は体壁に規定されているワケで、考えてもみると興味深いものがあります。

           
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 加藤典洋氏が<自己表出><指示表出>についてとてもわかりやすい紹介をしていました。

 吉本は、1960年代に著した言語論の中で、
 言語を書き手の思いを負荷として担っている部分と、
 書き手の意図を負荷として担っている部分との「共存」として考えればいいと考え、
 そのそれぞれの部分を自己表出、指示表出と名づけた(『言語にとって美とは何か』)。

                                                   (「人類が永遠につづくのではないとしたら」P390)

           
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『言語にとって美とはなにか』…「自己表出」「指示表出」「共同幻想」

心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>

指示表出と自己表出の可能性

2つの表出…指示と自己

<内コミュニケーション>という無意識

イメージを生むもの…とは?

言語とイメージが探究される理由は? 2

2015年12月21日 (月)

<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの

 『母型論』の理念型の大胆な展開を支えるのが<大洋>という概念。
 羊水ともいえる<大洋>でまどろむ個体=胎児に次々とやってくる現実。その現実との<関係>こそがすべての要因として、その後を決定していく…胎児と環界とのさまざまな関係を空間とし、期間としては約10ヶ月の決定的な時間…。

 この<大洋>がメタフォアとなる現実の空間の1つとして胎内環境があります。
 もう一つ、<内コミュニケーション>に対応するともいえる生命としてとても重要な環境が、生理的な環境で、リン脂質に満たされたもの。リン脂質の大洋に浮かぶ生命のリアルな姿が多細胞生物としての細胞。そこでの細胞間コミュニケーションは<内コミュニケーション>を支えるものでもあり、そのものでもあるもの、です。

 <外コミュニケーション>を具体的にいえば概念によるコミュニケーション。概念(言語)を媒介にしたものであるために言語を記憶したり伝搬できれば、さまざまな形態でのコミュニケーションが可能なので、空間的な距離や時間的なズレを超えることができます。これが外コミュニケーションの特徴であり可能性として、この拡張がメディアとともに文化の拡張そのものだともいえます。

 <内コミュニケーション>は<外コミュニケーション>以前のコミュニケーションといえ、そのすべてが自己の心身に依拠するもの。ミクロでは細胞壁のイオンチャネルのレスポンスであり、レセプターの応答、神経の反応など。生物の生理としてその機構が明らかになりつつあるもです。<内コミュニケーション>をはじめとするこれらは、<外コミュニケーション>やあらゆる心的現象のグランドとなるもので、それらをアフォードするものでもあると考えられます。これらに依拠しながら、しかし、そこには還元できないものをターゲットにするのが心的現象論です。

           
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 人間の認識を言語のレベルでだけ考えても限界があります…

 <内コミュニケーション>は非言語によるコミュニケーションですが、それには2つの次元があります。一つは言葉によらない身振りや態度などの非言語コミュニケーション。もう一つは胎盤を通じた母体との関係に代表される生理的な反応でもある関係。これには母体内で感受する振動や音響など物理的な刺激、母体からの影響である生理化学物質を媒介とする関係まで、さまざまなものが考えられます。陣痛が胎児のアドレナリンで始まるように、この<内コミュケーション>とその究極でもある細胞レベルの関係は人間の生涯に影響を残していると考えられます。

 母の声(だけ)に10000分の1秒で脳幹が反応するのは内コミュニケーションの応答として典型的なものかもしれません。これは、もっとも無意識下でおこなわれているイオンチャネルのスピードでの応答です。心身ともに、その根本から人間存在に影響を与えているのが、この内コミュニケーションとその応答。雰囲気や気分や情動…これら感情として、概念規定できない、表現できない状態によって表象され象徴されているものこそ、そのTPOにおける全体像であり、価値や意味のベースになるもの。それは人間存在の根本にある状態そのものを現わしています。

 リン脂質に満たされた液状環境からはじまる生命の心はいかにあるか? 受胎の瞬間からのスタートする心。原生的疎外としてアメーバにさえある心、あるいはその起源。多細胞の細胞間コミュニケーションとして、内コミュニケーションそのもでさえある代謝レベルの応答。

 確認できるのは、既に形成されてしまった規範としての言語やそのコミュニケーションに、自己確定(表出)そのものは充足的に反映されているか?という問題がクローズアップされてくるということ。

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 むしろ表層でしかない言語レベルの認識をどう再把握するか…

 あらゆるビョーキが言語に表出とするラカンのような指摘は、既成の指示表出(規範)では充足できないしカバーできなかった場合の自己表出との関係を示しているといえます。規範に引き寄せられるほど自己表出から乖離していくものがあるならば、それは異常事態として発現するでしょう。規範=指示表出と自己表出との差異とその拡大こそ異常の発現でありビョーキです。

 規範寄りにしか作動できないことがビョーキの根源であり、異常そのものであることは心的現象論序説で列挙されるエビデンスのとおり。コミュニケーションする以上は規範(指示表出)が必然であっても、個体は規範どおりには発現できません。規範どおりに作動するための学習や訓練が前提であり、それが赤ちゃんから成人するまで、あるいは一生涯の多くの時間を占める営みそのものになっているのが人間という存在です。

 ドルゥーズなどが薬の効果やレセプターの受容の意味について何かの興味を持ったとしても、それが何であるか…明確な提起には至らなかった諸々は<内コミュニケーション>が照らし出す問題の一端であり、包括的には心的現象論が思索し探究するなか、並走するように行われてきたいくつかのジャンルでの日本の研究者や思索者の成果に見出すことができる可能性にも包含される問題です。

             
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細胞間コミュニケーションから個体と個体のコミュニケーションに至るまでの過程は、それぞれの段階における入れ子構造を基本にしてカスケード理論の階梯のように上昇していきます。このとき、各過程の入れ子構造の中心点(特異点)に純粋疎外が想定できます。

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 “想像できるのは経験したことだけだ”という心的現象論序説の指摘は、「すべての体験を再体験せしめるものとして作用する」「母子関係(直接母子交通)」つまり<内コミュニケーション>による根源的な規定そのものを示しています。細胞間コミュニケーションにフォーカスすれば、リン脂質に浮かぶ平衡状態(純粋疎外)から、カスケードとしての上位のレイヤーに対して「すべての体験を再体験せしめるもの」として作用している可能性です。日本のポアンカレーとも評される木下清一郎の研究と思索を、吉本隆明の母型論から再把握し検討すると生命系すべてにわたる主体と環界との関係性の基本的な姿が顕になってきます。レイヤーごとに内化される情報は、上位のレイヤーにとっては再体験として受容されることを一つの目標としていると考えられる からです。

 天才的な解剖学者、三木成夫に多大な影響を受けた吉本隆明の思索。これを木下清一郎のラジカルな探究から再アプローチすると、言語と観念で世界を形成している人間を根本から左右し、そしてその基礎そのものでもある生命としての遠大な本源的蓄積が明らかになってきます。
 来歴に左右されるということ…不可知なまま10000分の1秒で反応してしまう母子関係から始まって、神や国家を幻想してしまう人間の心的現象というものの真実の一端が解き明かされていくワケです。

 「極論すれば一次体験である内コミュニケーション=直接母子交通は、その後のすべての体験を再体験せしめるものとして作用する」ということの重大な意味と意義がクローズアップされます。

           
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2015年6月13日 (土)

<内コミュニケーション>という無意識

意識的な応答(媒介による間接的な母子交通)である言語による<外コミュニケーション>。
意識では把握できない、無意識下の代謝(直接的な母子交通)ともいうべき<内コミュニケーション>。さらには、<内コミュニケーション>は、無意識を生成し、それに影響を与えるものだともいえます。つまり「現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドとして、内コミュニケーションを考える」ことができるワケです。


<内コミュニケーション>は無意識そのものを生成し、左右する機能であり作動ですが、同時に<内コミュニケーション>の表出はイメージであり、ある時間の経過後に言語化される可能性があるもの…ということもいえます。

外コミュニケーションとしての言語化は指示表出(や文法などの規範)を前提とします。では、内コミュニケーションという無意識(の作動)はどのようなものなのでしょうか?


   <大洋>の分節化が言語化への経路であるように、
   内コミュニケーションのデフォルトは、
   器官なき身体としての人間(受精細胞から胎児まで)の存在のデフォルト=全面肯定であり、
   ある時間経過後に<価値>と(認識)されるものではないでしょうか。

 

自己の(存在の)全面肯定というデフォルトの価値=原価値へ向かう志向性を初源のものとする作動…。
この志向(性)や作動を<価値(あるもの)>とするのが初源の志向性そのもの。
これが価値化のパースペクティヴとして、その作動そのものが自己表出(自己確定)だと考えられます。
共同幻想をも射程に入れれば「2者関係(≦対幻想性)における充足をゴールとするのが価値化である」ともいえます。


 無意識そのものが何に制約され、どう規定されていくか…は不可視に見えますが、無意識も意識も身体に依拠しているという限定が、そこにはあります。また、この限定こそが時間(性)が発生するところであり、<固有時>として現存在と心的現象における基礎 となります。

 空間的には、身体は観念や意識(無意識も)という心的現象が依拠するところであり、しかもそこには還元できない、という矛盾としてそれらはあります。また、この矛盾の解消そのものとして観念や意識・無意識があるというラジカルな矛盾こそ<生>そのもの。身体に依拠するが還元できないという関連は、それが既に時間(性)であることそのもの を示してもいます。


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既出の2つのエントリーからカンタンにまとめると以下のようになります。

<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>

 <外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>は個体の発達段階に対応し、究極的には<応答>と<代謝>で属性が異なる。
<外コミュニケーション>は音や動作を媒介にし、主に乳児段階のもの。<内コミュニケーション>はホルモンなどの代謝をもベースとし、胎児段階のもの。

 胎児では内コミュニケーション=直接母子交通が全般化していますが、成人しても内コミュニケーション的な位相に絶えず影響されている。その影響は直接的にはイメージとしてしか表出しないものでもあり、不可視といえる。

 内コミュニケーションは身体内のもので、外コミュニケーションは身体外のもの。内コミュニケーションが細胞レセプターなどにより、外コミュニケーションは感覚器による。両者をつなぐのは神経反応と知覚であり、感情と思考がそれらに依拠しつつ発現している。<内コミュニケーション>と<外コミュニケーション>はそれぞれ三木成夫による植物的階程と動物的階程の作動に対応している。

 現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドが、内コミュニケーション。
 内コミュニケーションは不可視な来歴でもあり、共同幻想の生成を左右するものでもある。また自己表出を満たすものでもあり、内コミュニケーションによるイメージを外化し、規範化したものとして指示表出を考えることができる。


<内コミュニケーション>のトレードオフ

   <内コミュニケーション>による影響は
   個体の基本的な来歴として
   外コミュニケーション(言語使用)以降を左右する。

乳胎児期の影響が、言語獲得以降を左右していく…という“三つ子の魂百まで”的な認識は、日本では大衆の原像とともにあったありふれたもの。

   リアル体験は、母子関係を前提に、確定する。
   なぜなら<再体験>だからだ。

 “想像できるのは経験したことだけだ”という心的現象論序説における指摘は、母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束している関係性を指している。極論すれば一次体験である内コミュニケーション=直接母子交通は、その後のすべての体験を再体験せしめるものとして作用する、ということ。

 リアル体験は内コミュニケーション=母子関係(の経験・記憶)に照らして確定される。これが自己表出(自己確定)の初源。

2015年5月17日 (日)

<内コミュニケーション>のトレードオフ

「わたしたち人だけが精神分裂病になりうるとすれば」という吉本隆明の言葉には、人間の可能性と、そこでトレードオフされたものが何なのか…が可視化されようとしています。それが<言語>と<病>です。固有名が引き寄せる病…という類やその程度のファンクショナルな認識はポスモダ以降めずらしくはないですが、同時に原理に届く探究がないという情況も珍しくはないのかもしれません…。

   <内コミュニケーション>による影響は
   個体の基本的な来歴として
   外コミュニケーション(言語使用)以降を左右する。

乳胎児期の影響が、言語獲得以降を左右していく…という“三つ子の魂百まで”的な、日本ではありふれていた認識が、そこにはあります。大衆の原像とともにあったような、そういった優れた民の知見は民俗学や文化人類学的なサンプルとしてしか残っていないのかもしれませんが。

       -       -       -

吉本隆明はオソロシク困難な、フロイトさえ迷った経路を、粘り強く探究し、ある結論にたどりついてもしまっています。

ここでも、それをあっけなく書いてしまえば…

   リアル体験は、母子関係を前提に、確定する。
   なぜなら<再体験>だからだ。

…ということ。

 体験の確定の意味を求めれば、スピードがひとつの理由になるでしょう。
 なぜなら危機に対処するには早い対応が必要だからです。そこで母子関係(直接母子交通=内コミュニケーション)で感得していた、自らへの否定性の類の経験(記憶)に照応してリアル体験は即座に確定され、その後回避すべき案件として取り扱われていきます。これが不安や恐怖を動因にしたものであり、それによる神経症的な反応であり、その固定化が精神の病であることは分りやすい機序かもしれません。

 “想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。

 リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。

       -       -       -

 あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?

 さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。

 ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。

   相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
   一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

   {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
   母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。

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 <大洋>という全面肯定されるデフォルトの場所。
 この大洋に漂う「器官なき身体」にやってくる波は、<全面肯定>の一部を侵す<部分否定>に他なりません。
 この<部分否定>を受容し、経験値を上げていくことを心的現象論序説では<成長>の定義としています。
 問題は、この<部分否定>に圧倒されてしまう場合。<大洋>は荒れ、「器官なき身体」が危機に瀕する…。
 これが、病気なのです。

 吉本隆明のオリジナルの一つには、この否定の波に耐えられるかどうかという耐性に閾値を設定したことがあります。時空間理論を駆使する心的現象論序説では他にも「Grade」(グレード)の概念の導入により、心的現象の把握に数理的なアプローチがされています。
 このオリジナルな方法は、圧倒的な論理展開の可能性を準備したものともいえるでしょう。

           
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2015年4月28日 (火)

<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>

 一般的に言語は吉本理論の枠組でいえば<外コミュニケーション>(で使われるもの)の範疇になります。
 <外コミュニケーション>は言語の生成(獲得)の原理について深い考察をしている『母型論』のターム。<内コミュニケーション>とともに発達(発生)心理学的なアプローチにともなう重要なタームでしょう。

 これらは乳胎児が母親(母体)を対象としたコミュニケーションの定義に対応しています。
 <外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>は、個体の発達段階に対応し、その媒介となるものからすれば究極的には応答代謝という属性が異なるものともいえます。典型的には、<外コミュニケーション>は音や動作を媒介にした主に乳児段階のもの、<内コミュニケーション>はホルモンなどの代謝をもベースとしたもので胎児段階のものともいえます。

 応答=外コミュニケーション、代謝=内コミュニケーションとして、さらに考察すると…。
 <応答=外コミュニケーション>は間接的な母子交通であり、<代謝=内コミュニケーション>は直接的な母子交通ということになります。前者は交通の媒介となる空間性(物理的な)が介在し、後者は介在しない(正確には日常レベルでは不可視ということ)という違いがあります。またファンクショナルには前者は均衡を目指すものであり、後者は均衡を維持するものといえるかもしれません。前者は情報の非対称性を解消するもの(通常のコミュニケーション)であり、後者は需要=供給の恒常的なリバランス(を目標とするもの)です。

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 さらに別の位相から見れば外コミュニケーション=間接母子交通は個体としての子と母の交通ですが、内コミュニケーション=直接母子交通は細胞レベルの交通でありレセプターやイオンのレスポンスが介在するものです。たとえば脳幹は実母の声に1/10000秒で反応しますが、これはまったく意識されません。この実母の声を録音して人間の声と認識できないまで断片化して再生しても、それに脳幹は反応します。そしてそのスピードは細胞のイオンチャネルのスピードに等しいものです。

 胎児では内コミュニケーション=直接母子交通が全般化していますが、成人しても内コミュニケーション的な位相に絶えず影響されていることが類推できます。またそれらは直接的にはイメージとしてしか表出しないものでもあり、不可視といえるものとも考えられます。

 解剖学的にいえば内コミュニケーションは身体内のもので、外コミュニケーションは身体外のものです。内コミュニケーションが細胞レセプターなどによるとすれば、外コミュニケーションは感覚器によります。両者をつなぐのは神経反応と知覚であり、感情と思考がそれらに依拠しつつ発現していると考えられます。あるいは植物的階程と動物的階程ともいえます。

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 通常、一般的には外コミュニケーションは心理学や言語学あるいは社会学の対象となるものでしょう。それに対して内コミュニケーションは神経生理学だったり内分泌系、あるいはレセプターを介したリレーションとして把握されるものです。

 時系列的には当然ですが、内コミュニケーションによる個体形成の後に外コミュニケーションによる展開からさまざまに個体は構成がされていきます。

 現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドとして、内コミュニケーションを考えることができます。
 内コミュニケーションは不可視な来歴でもあり、共同幻想を生成させるものでもあるもの。また自己表出を満たすものでもありそうです。また内コミュニケーションによるイメージを外化し、規範化したものとして指示表出を考えることもできそうです。

2014年7月25日 (金)

指示表出から自己表出まで16年…自閉症児ドナ

<指示表出>と<自己表出>は根本的な概念で、また分析ツールとして万能のように使える便利なものです。すべての病は言語に表出するというラカンの指摘『母型論』で高く評価されている)があります。だとすると、逆に、言語の基本概念である表出の2つの位相(指示表出と自己表出)からは、すべての病への経路が見えてくるハズです…。

指示決定と自己確定という2つの位相は、ラジカルにもリアルにも個別的現存である人間を、その現存在分析の究極である2つの系(自己抽象と自己関係)からアプローチするときの概念装置にもなります。

 言語なり何なりの指示表出を認知しても、それを自己表出できないことは少なくありません。指示決定されているものを自己確定できないことは珍しくなく、日常的なデキゴトでしょう。
 たとえば、白い丸い印を見たとして、形態としての<白い丸>を確認できても、それが何であるか?何を示しているか?…はわからないことがあります。その白い丸は賛成の意を示しているのか? 何らかのチェックマークなのか? UFOを描こうとしたのか? …理解や解釈といった自己確定の可能性は多様で、カンタンには同定できないことはよくよくあること。
 その確定未然の空間に何かを代入する(という心的な防衛機制的な適応システム)のが共同幻想の基本的な機序になりますが…。*「すべては<代入される空間性>」 *「「空白」と精霊とピダハンの言葉と」


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自閉症児ドナのこと


自閉症児ドナは、大好きなお祖父さんが死んで、それに納得するまで16年かかっています。ドナは自己確定できないお祖父さんの死に、別の理由をみつけて、怒りました…。
あるいは真実は逆で、ドナは大好きなお祖父さんと別れたくないために、その死を認めなかったのでしょう。ここでは、両眼視野闘争などと同じで、不可視なものを可視化することで心理的な安定を得ている…という機序と同じように防衛機制的な適応システムが働いていると考えられます。つまり、認めたくない事実を、別のもので代替してしまう、認識不可能なものに別のものを代入して認知を仮構してしまうワケです。


   ドナは5才の時にお祖父さんが死んでるのを見つけました。
   でも、お祖父さんの死がわかったのはそれから16年後のある日のこと。
   21才になってからお祖父さんの死を自己確定したドナは泣きました。

   お祖父さんの死という事実を視覚情報として受容=指示決定してから、
   それを判断情報として自己確定するまで16年間の時間がかかってます。

   指示決定から自己確定まで16年間。

                            (*「自閉症児ドナのこと」から)

       -       -       -

   当時、お祖父さんが死んでるのを発見したドナは
   「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てたそうです。
   そこには死への理解や悲しみはありません。

                                           (同上)


「「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てた」という自閉症児ドナ。ここから、お祖父さんは死んでいて、そのことを自己確定して泣くまで16年の月日がかかっています…。

ここには関係への認識が存在の確認より先立っている事実がそのまま表象しています。
ドナにとっては、お祖父さんが自分を認め、肯定してくれることが、まず第一要件であって、そこからスタートするのがドナの世界(観)であることが推測できます。母子一体(自他不可分)の状態から成長(時間)とともに遠隔化していくのが正常な過程ですが、それに費やす時間的な量はさまざまなのでしょう。ドナには長い時間が必要だったのであり、自閉症はその意味では器質的な問題云々ではなく、心的現象論のように時-空間性の量質変化の問題として把握されます。(*「誰でもはじめは赤ちゃん」「はじまりは<自他不可分>」


 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
 母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が
 析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を
 考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたような
 イメージもあります。

                            *「『共同幻想論』・対幻想論から考える」


       -       -       -

           
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2014年7月 1日 (火)

「イメージ論2.0」の可能性…!?

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吉本theory独解のワケ

独解、吉本隆明さん ― 心的現象論で読む世界といろいろな理論の可能性

 80年代にリアルタイムの分析をとおして現代そのものを取り上げたのが『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』。この2つの理論では吉本理論の初期三部作をベースにして、現在のテクノロジーとメディアによる特徴的な理論の拡張がはかられています。
 吉本さん自身の説明(『イメージ論』あとがき・全撰集7・大和書房)によれば以下のようなポリシーのもとに思索されたようです。

   マス・イメージ論は現在版の『共同幻想論』である。
   ハイ・イメージ論は現在版の『言語にとって美とはなにか』である。

   言語の概念をイメージの概念に変換することによって
   三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。
   そして、
   イメージの概念によって総合することで、普遍領域についての
   批評概念を目指したい。

 また、そこで生じる問題を自らハッキリと把握し、その追究に力が注がれています。

   ここでいちばん問題になったのは、言語と、
   わたしがかんがえたイメージという概念が、
   どこで結びつき、どこで分離して遠ざかるかを、
   はっきりさせることだった。

 その前提であり不可分でもあるラジカルな問題が『ハイ・イメージ論』の当初からの課題である「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」こと。これはCGへの孝察から理論が展開されて「世界視線」の概念へと到達し、大きな成果を生んでいます。
 そこでは視覚作用と想像作用によるイメージとが同致されて受容されることへの可否が問われ、哲学や心理学で問われてきた認識論への全面的で根本的な解答がなされます。

 この部分は基本的に『心的現象論序説』において詳細に孝察され、認識の障害や異常、あるいは感情や夢への分析としても既に理論づけされています。そのため『イメージ論』は全般的に『心的現象論序説』の演繹として読むことのできる内容になっています。
 逆にいえば、『心的現象論序説』の射程の長さや深さは予想以上のものであり、またジャンルや領域を超えたものであることがわかります。
 それが、ここで『心的現象論序説』をメインに吉本理論を解読していくことの大きな理由です。
(2004年11月04日)

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2014年6月10日 (火)

「これはパンだよね?」を分解すると…自己表出・指示表出

指示表出や自己表出というものを考えていくつかエントリーしていますが、単語や品詞に則したものでは「<はこれねよ?パンだ>」で以下のようなものがあります。ちょっと考え手を加えて再掲?してみました。

「<文>が先か<単語>が先か」という問題ともラジカルに関係しますが、文を単語や品詞に分解してみる分かりやすくなります…。まず、そこで分かるのは…単語に分解してしまって、文という全体像がわからなくなると、個々の単語の意味も不明になる…ということです。

たとえば<これはパンだよね?>という日常的な言葉(文)から何がわかるのでしょうか…?

     これはパンだよね?

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 たとえば、
 <は><だ><よ><ね>がどのような助詞なのか副詞なのかといったことはわかりません。

 <これ>は何かを指示していることはわかりますが、何が指示されているかはわかりません。

 <パン><?>が名詞と記号化した疑問詞だということがわかるだけです。

 すると次のことがわかります。
 <は><だ><よ><ね>といった助詞や副詞と思われるものは、文全体との関係がないと判断できないということ。
 <パン><?>という名詞と記号は単独でも意味があるということ。
 <これ>は指示代名詞で、助詞と名詞の中間のようなタイプだと考えられます。

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 助詞や副詞は単独では意味が確定できない。
 名詞や記号は単独でも意味がある。
 代名詞はそれらの中間で、何かを示しながら示されたものが何であるかは不明です。

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 基本的に言語は、この助詞から名詞までのグラデーションなかのどこかに位置づけられるというのが、吉本理論の根本にあります。

 つまり、
 この助詞から名詞までのグラデーションを主体の表出の度合いの差異と考え、そこに主体性を見出すワケです。
 別のいいかたをすれば、パフォーマティブからコンスタティブへのグラデーションということです。

 また、
 名詞のように主体の表出としての価値はゼロでありながら、他者が容易に認識でき、共同性のコードとして機能するものがあります。

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 吉本理論的には助詞や副詞が自己表出で、名詞は指示表出です。
 助詞が遠隔化したものが名詞だとも考えられます。
 主体の発声が客体化され、主体から完全に切り離されたものの典型が名詞だということです。

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 ところで現実的な問題として、
 <これはパンだよね?>の<は>の問題があります。

 <は>は単なる助詞ではありません。
 限定か主格か? <は>の指し示している属性はそのTPOや状況からしか判断できません。場所を捨象し、文脈を無視して言語や理論だけ取り出しても意味は無いワケです。

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 たとえばアートとしてすぐれた表現というのは、名詞に助詞の意味をもたせるようなもので、それは享受サイドの鋭敏さ(読解力)も要求されるものです。

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2014年5月 5日 (月)

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

絵の中央に壺があります。壺に注目すれば、壺が見えます。しかし、注意を壺の両側の空間に向けると、そこには人の横顔が見えます。向かい合った二人の横顔が見え、壺だった部分は二人の顔に挟まれた空間に見えます…。このような錯覚や錯視のサンプルとして有名な「ルビンの壷」という絵や画像に代表されるような現象?に、人々は、さまざまな場面で出会っています。現実には、そういった<現象>を自覚することは少なく、だからこそ錯覚や錯視といったイリュージョン?は自覚的には認識できないものとしてありふれているのでしょう。そもそも自覚できないからこそ錯覚であるワケですが…。その最大のものが、国家や神であることは繰り返すまでもないことかもしれません。つまり共同幻想であり、public-illusionです。

問題は、そのようなイリュージョンそのものではなく、イリュージョンを成立させているものは何か?ということ。一つ一つの個別のイリュージョンを解明?したところで、あまり意味はなく、それが絶えず再生産?されるその仕組みそのもの知ることが大切だと考えられます。誰もが壺と顔を認識できるという、その理由。そしてわかっていてもそう認識してしまうというその理由…といった認識の構造そのもの…。

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   電話では300~3400Hzの帯域しか伝送していないのです。
   300Hzくらいから下の周波数は、すべてカットされています。
   ところが、男性の声の基本周波数というのは100~150Hzくらい…
   それなのになぜ、男性の声が…アクセントや抑揚がちゃんと伝わったりするのでしょう?
   …
   これはまさに、実際に聞きとっている周波数成分から、
   聞こえない基本周波数を割り出し、音の高さを認識しているからなのです。
         (『空耳の科学』第5章「聞こえている音は、すべて空耳!?」P150)

 電話の伝送において物理(学)的には存在しえない周波数の男性の声が、どうやって「男性の声」として聴き取ることが可能なのか? 
 その理由と結論はあっけなく、「実際に聞きとっている周波数成分」から「聞こえない基本周波数を割り出し」て、音の高さなどを想像して認識している…ということになります。そして「知覚しているものは物理的な音とはちがうということです」『空耳の科学』第5章「聞こえている音は、すべて空耳!?」P185)と結論されています。


           
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   幻覚と空耳は明らかにちがうものです。
   大きなちがいの一つは、再現性にあります。
   空耳は、個人差はあるにせよ、同一の人には何度でも同じ現象が起こります。
   物理的な情報に対して、同じ知覚が起こり、対応関係があるということ。
   また、個人差はあるにしても、だいたい誰もがそう感じるような一般性がある。
         (『空耳の科学』第5章「聞こえている音は、すべて空耳!?」P186)

 『心的現象論序説』をガイドするかのようなシンプルな事実が明解に説明されています。
 また、この「一般性がある」というのは『心的現象論序説』における「一般了解」そのものともいえます…。
 恣意的で思弁的なナントカ論では未だ到達しえないような現象も、最近のすぐれた知覚心理学認知神経科学の分野では、あるレベルの結論を得つつあります。それは吉本隆明氏の、解剖学と弁証法をベースにした30年以上の思索が探りあてた心的現象の世界をめぐる論考のエビデンスともなるものです。

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 「ルビンの壷」でいえば、「壺」(である)の認識を支えているもの、アフォードしているのは顔と見なせる空間で、逆に「顔」の認識を可能にしているのは壺の空間となります。
 このように対象認識を可能にしているものは非対象となっている領域です。

   …概念の意味内容としては意識の理解が無意識の理解に先立つのに、
   知覚の構図としては無意識的な、
   あるいは意識の周辺の背景(地)なしに意識(図)は生じえない…
            「意識と無意識のありか」「無意識とは「来歴」の貯蔵庫である」P205)



           
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 この無意識や非知覚領域、非感覚領域といった人間の認識(観念)が言及できない領域こそ、認識一般を可能にしてくれるグランドであり、それそのものが「共同観念の世界の代同物」(『心的現象論序説』Ⅶ「心像論」P281)といわれる認識で…“<心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>”を生成していくもの…と考えられます。

 「概念の意味内容」と「知覚の構図」は、現存在分析まで遡行すれば『心的現象論序説』における自己抽象と自己関係という概念装置?(方法として)になります。

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 結論をいうと、自己抽象と自己関係の、この2つの系から人間の個体は構成されていきます。
 これらは自己表出と指示表出として言語(世界)を構成します。言語が主体の表出であるとともに世界そのものであるという矛盾?がここに生成してしまいます。

 『母型論』における「言語の陰画の状態」というものは、ある意味で認識一般を可能にしてくれるグランドであり、「壺」への認識を補償してくれる「顔」の領域(というもの)との経路でもあるハズです。

   言語の陰画の状態はさまざまなあらわれ方をするが、
   いちばん大切なことは、いつどうして陰画は言語の
   陽画(言語そのもの)に転化するのかということだ。
   この過程がどんなに困難でさまざまな障害を伴い、
   全うすることが稀な過程かを今も表象しているのは、
   分裂病と病者の存在そのものにほかならない。
   分裂病こそが言語の陰画が言語の陽画(言語そのもの)に
   転化する過程の病気として発生するものにほかならないからだ。
                         (『母型論』「病気論Ⅱ」P90)



           
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2014年4月26日 (土)

<文>と<単語>と自己表出、指示表出

 <文>が先か<単語>が先かという問いがあります。
 人間が発話する時に、あるいは文章を書く時に、<文>と<単語>のどちらが先立つものとして現れるのか?…ということを問うラジカルな問題です。
 吉本隆明氏の理論でいえば、<自己表出>と<指示表出>の問題になります。

 自己表出(認識)があり、それを他者にとって受容(理解や伝達)可能なものとして指示表出とする…という順からすれば<自己表出>が先であり<指示表出>が後ということになります。
 これが<文>が先で<単語>が後…といえるものでしょう。
 文にしたい認識(イメージ)があり、それを他者にとって理解可能な単語で構成していくのが文である…というシンプルな事実がそこにはあります。

 伝えたい思い(自己の認識)を、伝わる表出(指示するorされるもの)で伝えていくわけです。
 文意を伝えるために、適した単語を選んで文を構成していくわけで、日常的に誰もが自然に営んでいるものといえます。
 文法は、この時に単語を組み合わるパターンや法則性でしかなく、自然法則と同じで現象の反映以外の何物でもないでしょう。文法が先にあって、それに合わせているわけではないからです。理論や法則があって現象がそれに合わせているわけでないのと同じで、現実と理念の関係は混同されたり逆転するわけではありません。ただ人間の側からの<働きかけ>が自然過程に変化を生むことはあるということでしかなく、それはマルクスでいう<労働>の意味となります。もちろんこれが<美>(『言語にとって美とはなにか』)のもとであり創作にあたるものでしょう。正確には享受の能力?も問われますが…。

   誰も文法を顧慮して言語をつかうのではなく、
   すでにつかわれた言語の状態が、
   文法をかんがえさせるのだ。

        (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「拡張論」P71)

 以下のような疑問を持たれる方はいるようであり、表出についても文法についても、ほとんど意味はありませんが、その理由のほうが興味深いものかもしれません。

  指示表出-自己表出という概念が、
  そのまますでに十分複雑な文法構造をもつ言語における品詞の集合に適用されるのは、
  論の運びとして性急というしかない…

                                (『吉本隆明 煉獄の作法』宇野邦一


 当たり前のようですが、ソシュールを臨界まで細密に検討し、しかも、その意図にそって既存の言語論の内破までを目指したのでは?と問いかけるハイイメージ論では、自己&指示表出について以下のようにシンプルに指摘されています。

   どんな品詞的な区別も、
   指示表出と自己表出の差異系列の錯合体として、
   連続的な差異を内包している…

           (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「拡張論」P78)

 さらには歴史上の階程まで意識し、その時点での“いま”(言語のリアリティ)を指し示すクリティカルとしては以下ようなハイイメージ論らしい指摘があり、“現在”を知るための手がかりとなります。

   言語の自己表出は、通時的には増大する一方のようにみなされる。
   しかしある時代のある言語の場面をとれば、
   そこでは自己表出の通時的な絶対値が問題になるのではなく、
   それぞれの言語の共時的な相対値だけが、その言語の自己表出とみなされ、
   また言語を発したり、書記したりしているそれぞれの個人は、
   ひとりでに自己表出の差額値を言語の自己表出とみなしていることになっている。

                              (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「拡張論」P96)

 「自己表出の差額値」をもたらすものが流行であったり時代の<何か>であることは確実であり、その点でこの指摘は大変ラジカルで鋭いものになっています。前提としてマテリアルと化した、あるいは下部構造と化したものが想定され、それは共同幻想そのものやラカンの象徴界的なものをも含意していると考えられます。ここには<固有>というレベルのもの、人間の個性などといったもののヒントがあるといえるでしょう。

 自己表出と指示表出は現存在分析まで遡行?すれば、自己抽象と自己関係を初源としている表出。チュビズムな生物としては内臓系と体壁系に由来する認識三木成夫)に解剖学的に到達するもの…。
 身体というマテリアルに還元できない観念を、ギリギリまで身体に還元しつつ、言語を観念の系?として、その由来をどこまでも遡行しようとする思索が吉本隆明氏の思想そのものであるのかもしれません。

 観念や心、その表出である言語…といったものへのアプローチは個別科学を超えてある種の成果を見出すことができ、その実証の積み重ねでも心的現象論などのエビデンス?となるものはスタンス次第で見つけることが可能かもしれません。それは逆に吉本隆明読解の方法そのものが問われる問題でもあるのでしょう。

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