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2016年3月18日 (金)

<指示表出>と<自己表出>…文学系に気になる言葉

 <指示表出>と<自己表出>…共同幻想とともに知られているタームですが、これもまた定義をめぐって混沌としたものがあるかもしれません。プロの論者でも初歩の段階で理解に至っていないケースが多く、そもそも吉本用語はまったく理解できないと正直に嘆いてしまったアンファンテリブルがいるほどです。一方で、吉本の用語は理解しやすく現代思想を先駆けているという評価もあり、この両極は何を示しているのでしょうか…。

 言語にはさまざまなアプローチができますが、品詞に分けるのがカンタンです。
 品詞でいえば<指示表出>は名詞、<自己表出>は助詞。前者は<何か>を示していて、後者は<主体の意識>を示しています。前者はそれだけで完結しますが、後者は何(について)の意識なのかは<何か>をいっしょに示さなければわかりません。助詞だけで成り立つ文章や助詞だけで交わされるコミュニケーションはありえないでしょう。意識は絶えず何かについての意識であり、何かとの関係においてはじめて意味をもつもの。助詞が示すのは意識の、何かへ向かっての志向性であって、何かそのものではないからです。意識そのものは志向する対象である何かとともにでなければ具現化=概念化しません。この具現化されるものそのものを指し示すのが指示表出です。

           
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 名詞という指示表出は、名詞を指すことによって示すことができる自己表出とともにひとつにカップリングされたもの。あらゆる言葉は指示表出と自己表出の両価であり例外はありません。吉本は沈黙という指示表出ゼロであるかのような状態さえ、それは自己表出だとして大いなる価値を与えました。これにJケージの「4分33秒」を想起する方も少なくないでしょう。(ハイイメージ論収録の「像としての音階」のJケージ論は、聴覚の受容コードそのものの生成が解かれていて、該当ジャンルの専門家を圧倒するものになっています)。

 言語論として取り上げられることが多い<指示表出>と<自己表出>。文芸批評のツールとして考えられた概念装置なので当然かもしれません。名詞を指示表出、助詞を自己表出のそれそれ両極として解説した図表のせいか、品詞分類のひとつだと誤解されていることもあるようです。

 吉本が大きな影響を受けた三木成夫の最初の著作「解剖生理」にはアリストテレスとビシャの影響で人体を構成する諸器官が植物性器官=内臓系と動物性器官=体壁系の2つに色分けされて記述されている…ということを、文芸評論家の加藤典洋氏が指摘しています。
 この内臓系と体壁系の表出がそれぞれ自己表出と指示表出になるものです。

 ハイイメージ論では内臓へ由来する価値の経路を示した思想家としてA.スミスも取り上げられています。経済学でも限界効用は内臓に規定され、労働価値は体壁に規定されているワケで、考えてもみると興味深いものがあります。

           
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 加藤典洋氏が<自己表出><指示表出>についてとてもわかりやすい紹介をしていました。

 吉本は、1960年代に著した言語論の中で、
 言語を書き手の思いを負荷として担っている部分と、
 書き手の意図を負荷として担っている部分との「共存」として考えればいいと考え、
 そのそれぞれの部分を自己表出、指示表出と名づけた(『言語にとって美とは何か』)。

                                                   (「人類が永遠につづくのではないとしたら」P390)

           
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『言語にとって美とはなにか』…「自己表出」「指示表出」「共同幻想」

心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>

指示表出と自己表出の可能性

2つの表出…指示と自己

<内コミュニケーション>という無意識

イメージを生むもの…とは?

言語とイメージが探究される理由は? 2

2015年12月21日 (月)

<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの

 『母型論』の理念型の大胆な展開を支えるのが<大洋>という概念。
 羊水ともいえる<大洋>でまどろむ個体=胎児に次々とやってくる現実。その現実との<関係>こそがすべての要因として、その後を決定していく…胎児と環界とのさまざまな関係を空間とし、期間としては約10ヶ月の決定的な時間…。

 この<大洋>がメタフォアとなる現実の空間の1つとして胎内環境があります。
 もう一つ、<内コミュニケーション>に対応するともいえる生命としてとても重要な環境が、生理的な環境で、リン脂質に満たされたもの。リン脂質の大洋に浮かぶ生命のリアルな姿が多細胞生物としての細胞。そこでの細胞間コミュニケーションは<内コミュニケーション>を支えるものでもあり、そのものでもあるもの、です。

 <外コミュニケーション>を具体的にいえば概念によるコミュニケーション。概念(言語)を媒介にしたものであるために言語を記憶したり伝搬できれば、さまざまな形態でのコミュニケーションが可能なので、空間的な距離や時間的なズレを超えることができます。これが外コミュニケーションの特徴であり可能性として、この拡張がメディアとともに文化の拡張そのものだともいえます。

 <内コミュニケーション>は<外コミュニケーション>以前のコミュニケーションといえ、そのすべてが自己の心身に依拠するもの。ミクロでは細胞壁のイオンチャネルのレスポンスであり、レセプターの応答、神経の反応など。生物の生理としてその機構が明らかになりつつあるもです。<内コミュニケーション>をはじめとするこれらは、<外コミュニケーション>やあらゆる心的現象のグランドとなるもので、それらをアフォードするものでもあると考えられます。これらに依拠しながら、しかし、そこには還元できないものをターゲットにするのが心的現象論です。

           
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       -       -       -

 人間の認識を言語のレベルでだけ考えても限界があります…

 <内コミュニケーション>は非言語によるコミュニケーションですが、それには2つの次元があります。一つは言葉によらない身振りや態度などの非言語コミュニケーション。もう一つは胎盤を通じた母体との関係に代表される生理的な反応でもある関係。これには母体内で感受する振動や音響など物理的な刺激、母体からの影響である生理化学物質を媒介とする関係まで、さまざまなものが考えられます。陣痛が胎児のアドレナリンで始まるように、この<内コミュケーション>とその究極でもある細胞レベルの関係は人間の生涯に影響を残していると考えられます。

 母の声(だけ)に10000分の1秒で脳幹が反応するのは内コミュニケーションの応答として典型的なものかもしれません。これは、もっとも無意識下でおこなわれているイオンチャネルのスピードでの応答です。心身ともに、その根本から人間存在に影響を与えているのが、この内コミュニケーションとその応答。雰囲気や気分や情動…これら感情として、概念規定できない、表現できない状態によって表象され象徴されているものこそ、そのTPOにおける全体像であり、価値や意味のベースになるもの。それは人間存在の根本にある状態そのものを現わしています。

 リン脂質に満たされた液状環境からはじまる生命の心はいかにあるか? 受胎の瞬間からのスタートする心。原生的疎外としてアメーバにさえある心、あるいはその起源。多細胞の細胞間コミュニケーションとして、内コミュニケーションそのもでさえある代謝レベルの応答。

 確認できるのは、既に形成されてしまった規範としての言語やそのコミュニケーションに、自己確定(表出)そのものは充足的に反映されているか?という問題がクローズアップされてくるということ。

       -       -       -

 むしろ表層でしかない言語レベルの認識をどう再把握するか…

 あらゆるビョーキが言語に表出とするラカンのような指摘は、既成の指示表出(規範)では充足できないしカバーできなかった場合の自己表出との関係を示しているといえます。規範に引き寄せられるほど自己表出から乖離していくものがあるならば、それは異常事態として発現するでしょう。規範=指示表出と自己表出との差異とその拡大こそ異常の発現でありビョーキです。

 規範寄りにしか作動できないことがビョーキの根源であり、異常そのものであることは心的現象論序説で列挙されるエビデンスのとおり。コミュニケーションする以上は規範(指示表出)が必然であっても、個体は規範どおりには発現できません。規範どおりに作動するための学習や訓練が前提であり、それが赤ちゃんから成人するまで、あるいは一生涯の多くの時間を占める営みそのものになっているのが人間という存在です。

 ドルゥーズなどが薬の効果やレセプターの受容の意味について何かの興味を持ったとしても、それが何であるか…明確な提起には至らなかった諸々は<内コミュニケーション>が照らし出す問題の一端であり、包括的には心的現象論が思索し探究するなか、並走するように行われてきたいくつかのジャンルでの日本の研究者や思索者の成果に見出すことができる可能性にも包含される問題です。

             
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細胞間コミュニケーションから個体と個体のコミュニケーションに至るまでの過程は、それぞれの段階における入れ子構造を基本にしてカスケード理論の階梯のように上昇していきます。このとき、各過程の入れ子構造の中心点(特異点)に純粋疎外が想定できます。

       -       -       -

 “想像できるのは経験したことだけだ”という心的現象論序説の指摘は、「すべての体験を再体験せしめるものとして作用する」「母子関係(直接母子交通)」つまり<内コミュニケーション>による根源的な規定そのものを示しています。細胞間コミュニケーションにフォーカスすれば、リン脂質に浮かぶ平衡状態(純粋疎外)から、カスケードとしての上位のレイヤーに対して「すべての体験を再体験せしめるもの」として作用している可能性です。日本のポアンカレーとも評される木下清一郎の研究と思索を、吉本隆明の母型論から再把握し検討すると生命系すべてにわたる主体と環界との関係性の基本的な姿が顕になってきます。レイヤーごとに内化される情報は、上位のレイヤーにとっては再体験として受容されることを一つの目標としていると考えられる からです。

 天才的な解剖学者、三木成夫に多大な影響を受けた吉本隆明の思索。これを木下清一郎のラジカルな探究から再アプローチすると、言語と観念で世界を形成している人間を根本から左右し、そしてその基礎そのものでもある生命としての遠大な本源的蓄積が明らかになってきます。
 来歴に左右されるということ…不可知なまま10000分の1秒で反応してしまう母子関係から始まって、神や国家を幻想してしまう人間の心的現象というものの真実の一端が解き明かされていくワケです。

 「極論すれば一次体験である内コミュニケーション=直接母子交通は、その後のすべての体験を再体験せしめるものとして作用する」ということの重大な意味と意義がクローズアップされます。

           
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2015年7月28日 (火)

指示表出と自己表出の可能性

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。しかし、思想としての本質はその先にあり、竹田青嗣氏はドゥルーズ系そのものをズバリと見切ってもいます。

   じつは、言語の問題に関しても
   吉本の一見古い考えの方がドゥルーズ流より進んでいるのである。

   『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」P197

           
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『構造と力』『逃走論』などで紹介され、「脱コード」などの先端思想を示してもくれたドゥルーズ=ガダリ…ですが、ゼロ年代思想(具体的には東浩紀氏の「情報自由論」の段階)では既に超えられてもいました。「大きな物語」の代わりに、<社会>や<世界>のワクが意識されてきたからです。ゼロ年代思想でメインターゲットにもなってくる<公共(性)>などの意味合いも、「自意識を極限化する」小林秀雄的な思想からすれば類似点があるのですが、吉本隆明では、そこに位相の違いと各位相ごとのレイヤーが用意されています。しかも、この位相同士の連環は未分化なまま重層性としてはマルクスの「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」などで明らかにされてもいます。

           
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また、情報(の経路)としては外部から来るものとしての指示表出、内部からの認知である自己表出は、それぞれ外感覚と内感覚(内臓感覚)でもあり、この外部からの感覚認識による情報の在り方に依拠する「日本の言説」を「生物学的」「システム論的」と評した柄谷行人の、常に<外部>を意識してきたゆえの指摘というものもあります。

これらを踏まえて、指示表出と自己表出という言語論でのタームに志向性などを加味すれば、指示決定と自己確定という「心的現象論序説」での先進性と普遍性も、まだ有用には駆使されていないのが現実なのでしょう。

心的現象論に即していえば、以下の<受容>と<了解>には、それぞれ指示表出と自己表出が対応しています。

   一般的に感官による対象物の<受容>とその<了解>とは、
   別の異質の過程とかんがえることができる。
   ある対象物がそのように<視える>ということと、
   視えるということを<了解>することとは別のことである。

                         (『心的現象論本論』P10)
入力が無い時の<受容>と<了解>

           
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『言語にとって美とはなにか』で有名になった指示表出と自己表出ですが、吉本(理論)の中では言語論に特定されるタームではありません。『心的現象論序説』の指示決定や自己確定といった概念装置のように認識(了解)の基礎として志向性(対象性)も含むもの。東浩紀氏が「吉本派」と呼ぶ文芸評論家の加藤典洋氏は以下のようにチャート化?した説明をしています。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。

           
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   音声反応が有節化され…自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば音韻となる…
   現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の概念をみちびくことができる…

   言語の音韻はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、
   言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。

   リズムが言語の意味とかかわりを直接もたないのに、
   指示の抽出された共通性とかんがえられることは、
   言語がその条件の底辺に、非言語時代の感覚的母斑をもっていることを意味している。
   これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれるようにみえる。

                  『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅰ章 言語の本質」P47

           
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<美>をミメーシスしようとする五七調?

「心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>」

かつて万能のようにあるいは汎用性、普遍性の高さを評価されたはずの上部構造と下部構造という着想も、マルクス自らが本気ではなかったと述べるのを吉本隆明が引用しています。上部構造とか下部構造とかいう峻別は、観念と身体のような関係であり、そのようなカップリングとして考察されるべきもの。そのもっとも最適化した概念装置として指示表出と自己表出は考えられそうです。自己表出は指示表出に依拠しますが還元はできません。また指示表出も主体の志向(性)を離れてあるものではなく、たとえ物象化された(と表現される)ものであっても個別的現存に関係します。指示表出と自己表出を駆使した探究は、いろいろなところでこれから始まるのでしょう。

2015年6月25日 (木)

無意識の指示表出=<夢>

<夢>のイメージは<視覚像>と関係なく、<記憶>とも関係ない…というのが『心的現象論序説』における夢の定義への導入になります。そこではフロイト式の、あるいは夢判断的な、そしてもっとも世界に流布されてきたような夢への理解が全面否定されています。そこにあるのは共同幻想論をはじめ言語論までを包括する、もっとも吉本理論らしい心的現象論ならではのアプローチです。3部作ほか吉本隆明の全仕事を貫く方法(論)による認識が展開され、ここに“観念の運動”としてヘーゲルから引き継がれてきた方法が際立っています。

     夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とは
     まったく関係がない…
     記憶残像が再現されるのでもない。

       (『心的現象論序説』【Ⅵ心的現象としての夢】P189)


           
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 <夢>という認識(意識)には外部の対象がありません。当然ですが睡眠中であるために(構造的に)自己の外部に認識対象がありません。感覚器とそれをコントロールする脳の部分は睡眠中なので、外界に対する対象認識をしていません。あるいはそれらへの統御が機能していないか、低下した状態です。つまり、感覚が機能していないために、感覚に関する時空間性が捨象されている認識(意識)が<夢>だともいえます。

     対象が<身体>の外部に実在しないことから、
     心的な受容の空間化度は、
     それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、
     無定形な空間化度にすぎなくなる…

      (『心的現象論序説』【Ⅵ心的現象としての夢】P188)


 <夢>では外部への認識の志向性がストップしているワケです。覚醒時であれば感覚器が受容し、意識(無意識を含む)が了解して確定する、というのが認識の過程ですが、<夢>ではこの前段の感覚による受容がありません。
 <夢>は、いきなり<了解>の過程だけが対象となっている認識なのです。そこでは感覚器の受容における時空間性がないために、対象の形像も確定もありません。

 対象として形のないものを、しかも確定(概念化)できないものとして、認識し続けている…という状態だと考えられます。
 これは了解の時間性が空間化し、それが確定せずに継続する<感情>の定義と近似するものがあります。

 また、リソースとして外部情報も認識のフレームも与えられていない夢の状態は<指示表出なしの自己表出>ともいえます。正確には自己確定しようとし続ける状態、自己表出にカタチを与えようとする状態といえるでしょう。

 

概念、形態、論理といったフレームを前提として行使される意識とは異なり、流動する自(己)意識そのものである夢は、<夢を見る>という自己言及性そのものだけを指示表出とした無意識 だともいえます。


       -       -       -

「夢に関してはたいていフロイトによる夢判断のように夢に出てきた形象で夢の意味を問うものや、夢の内容を現実の(心理の)隠喩や換喩として捉えれるものが大部分です。それ以外はないといってもいいかもしれません。しかし、吉本理論における<夢>への考察はまったく違います。変幻自在で不定形でもあるような<夢>を厳密な認識の時空間構造として把握しています。そこでは<原関係><固有関係><一般関係><原了解>などの基礎概念が幻想論と対応しながら展開されています。」

ベーシックな『序説』 その4

2015年6月13日 (土)

<内コミュニケーション>という無意識

意識的な応答(媒介による間接的な母子交通)である言語による<外コミュニケーション>。
意識では把握できない、無意識下の代謝(直接的な母子交通)ともいうべき<内コミュニケーション>。さらには、<内コミュニケーション>は、無意識を生成し、それに影響を与えるものだともいえます。つまり「現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドとして、内コミュニケーションを考える」ことができるワケです。


<内コミュニケーション>は無意識そのものを生成し、左右する機能であり作動ですが、同時に<内コミュニケーション>の表出はイメージであり、ある時間の経過後に言語化される可能性があるもの…ということもいえます。

外コミュニケーションとしての言語化は指示表出(や文法などの規範)を前提とします。では、内コミュニケーションという無意識(の作動)はどのようなものなのでしょうか?


   <大洋>の分節化が言語化への経路であるように、
   内コミュニケーションのデフォルトは、
   器官なき身体としての人間(受精細胞から胎児まで)の存在のデフォルト=全面肯定であり、
   ある時間経過後に<価値>と(認識)されるものではないでしょうか。

 

自己の(存在の)全面肯定というデフォルトの価値=原価値へ向かう志向性を初源のものとする作動…。
この志向(性)や作動を<価値(あるもの)>とするのが初源の志向性そのもの。
これが価値化のパースペクティヴとして、その作動そのものが自己表出(自己確定)だと考えられます。
共同幻想をも射程に入れれば「2者関係(≦対幻想性)における充足をゴールとするのが価値化である」ともいえます。


 無意識そのものが何に制約され、どう規定されていくか…は不可視に見えますが、無意識も意識も身体に依拠しているという限定が、そこにはあります。また、この限定こそが時間(性)が発生するところであり、<固有時>として現存在と心的現象における基礎 となります。

 空間的には、身体は観念や意識(無意識も)という心的現象が依拠するところであり、しかもそこには還元できない、という矛盾としてそれらはあります。また、この矛盾の解消そのものとして観念や意識・無意識があるというラジカルな矛盾こそ<生>そのもの。身体に依拠するが還元できないという関連は、それが既に時間(性)であることそのもの を示してもいます。


       -       -       -

既出の2つのエントリーからカンタンにまとめると以下のようになります。

<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>

 <外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>は個体の発達段階に対応し、究極的には<応答>と<代謝>で属性が異なる。
<外コミュニケーション>は音や動作を媒介にし、主に乳児段階のもの。<内コミュニケーション>はホルモンなどの代謝をもベースとし、胎児段階のもの。

 胎児では内コミュニケーション=直接母子交通が全般化していますが、成人しても内コミュニケーション的な位相に絶えず影響されている。その影響は直接的にはイメージとしてしか表出しないものでもあり、不可視といえる。

 内コミュニケーションは身体内のもので、外コミュニケーションは身体外のもの。内コミュニケーションが細胞レセプターなどにより、外コミュニケーションは感覚器による。両者をつなぐのは神経反応と知覚であり、感情と思考がそれらに依拠しつつ発現している。<内コミュニケーション>と<外コミュニケーション>はそれぞれ三木成夫による植物的階程と動物的階程の作動に対応している。

 現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドが、内コミュニケーション。
 内コミュニケーションは不可視な来歴でもあり、共同幻想の生成を左右するものでもある。また自己表出を満たすものでもあり、内コミュニケーションによるイメージを外化し、規範化したものとして指示表出を考えることができる。


<内コミュニケーション>のトレードオフ

   <内コミュニケーション>による影響は
   個体の基本的な来歴として
   外コミュニケーション(言語使用)以降を左右する。

乳胎児期の影響が、言語獲得以降を左右していく…という“三つ子の魂百まで”的な認識は、日本では大衆の原像とともにあったありふれたもの。

   リアル体験は、母子関係を前提に、確定する。
   なぜなら<再体験>だからだ。

 “想像できるのは経験したことだけだ”という心的現象論序説における指摘は、母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束している関係性を指している。極論すれば一次体験である内コミュニケーション=直接母子交通は、その後のすべての体験を再体験せしめるものとして作用する、ということ。

 リアル体験は内コミュニケーション=母子関係(の経験・記憶)に照らして確定される。これが自己表出(自己確定)の初源。

2015年5月17日 (日)

<内コミュニケーション>のトレードオフ

「わたしたち人だけが精神分裂病になりうるとすれば」という吉本隆明の言葉には、人間の可能性と、そこでトレードオフされたものが何なのか…が可視化されようとしています。それが<言語>と<病>です。固有名が引き寄せる病…という類やその程度のファンクショナルな認識はポスモダ以降めずらしくはないですが、同時に原理に届く探究がないという情況も珍しくはないのかもしれません…。

   <内コミュニケーション>による影響は
   個体の基本的な来歴として
   外コミュニケーション(言語使用)以降を左右する。

乳胎児期の影響が、言語獲得以降を左右していく…という“三つ子の魂百まで”的な、日本ではありふれていた認識が、そこにはあります。大衆の原像とともにあったような、そういった優れた民の知見は民俗学や文化人類学的なサンプルとしてしか残っていないのかもしれませんが。

       -       -       -

吉本隆明はオソロシク困難な、フロイトさえ迷った経路を、粘り強く探究し、ある結論にたどりついてもしまっています。

ここでも、それをあっけなく書いてしまえば…

   リアル体験は、母子関係を前提に、確定する。
   なぜなら<再体験>だからだ。

…ということ。

 体験の確定の意味を求めれば、スピードがひとつの理由になるでしょう。
 なぜなら危機に対処するには早い対応が必要だからです。そこで母子関係(直接母子交通=内コミュニケーション)で感得していた、自らへの否定性の類の経験(記憶)に照応してリアル体験は即座に確定され、その後回避すべき案件として取り扱われていきます。これが不安や恐怖を動因にしたものであり、それによる神経症的な反応であり、その固定化が精神の病であることは分りやすい機序かもしれません。

 “想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。

 リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。

       -       -       -

 あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?

 さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。

 ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。

   相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
   一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

   {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
   母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。

       -       -       -

 <大洋>という全面肯定されるデフォルトの場所。
 この大洋に漂う「器官なき身体」にやってくる波は、<全面肯定>の一部を侵す<部分否定>に他なりません。
 この<部分否定>を受容し、経験値を上げていくことを心的現象論序説では<成長>の定義としています。
 問題は、この<部分否定>に圧倒されてしまう場合。<大洋>は荒れ、「器官なき身体」が危機に瀕する…。
 これが、病気なのです。

 吉本隆明のオリジナルの一つには、この否定の波に耐えられるかどうかという耐性に閾値を設定したことがあります。時空間理論を駆使する心的現象論序説では他にも「Grade」(グレード)の概念の導入により、心的現象の把握に数理的なアプローチがされています。
 このオリジナルな方法は、圧倒的な論理展開の可能性を準備したものともいえるでしょう。

           
時代の病理

著:吉本 隆明 , 他
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2015年4月28日 (火)

<外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>

 一般的に言語は吉本理論の枠組でいえば<外コミュニケーション>(で使われるもの)の範疇になります。
 <外コミュニケーション>は言語の生成(獲得)の原理について深い考察をしている『母型論』のターム。<内コミュニケーション>とともに発達(発生)心理学的なアプローチにともなう重要なタームでしょう。

 これらは乳胎児が母親(母体)を対象としたコミュニケーションの定義に対応しています。
 <外コミュニケーション>と<内コミュニケーション>は、個体の発達段階に対応し、その媒介となるものからすれば究極的には応答代謝という属性が異なるものともいえます。典型的には、<外コミュニケーション>は音や動作を媒介にした主に乳児段階のもの、<内コミュニケーション>はホルモンなどの代謝をもベースとしたもので胎児段階のものともいえます。

 応答=外コミュニケーション、代謝=内コミュニケーションとして、さらに考察すると…。
 <応答=外コミュニケーション>は間接的な母子交通であり、<代謝=内コミュニケーション>は直接的な母子交通ということになります。前者は交通の媒介となる空間性(物理的な)が介在し、後者は介在しない(正確には日常レベルでは不可視ということ)という違いがあります。またファンクショナルには前者は均衡を目指すものであり、後者は均衡を維持するものといえるかもしれません。前者は情報の非対称性を解消するもの(通常のコミュニケーション)であり、後者は需要=供給の恒常的なリバランス(を目標とするもの)です。

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 さらに別の位相から見れば外コミュニケーション=間接母子交通は個体としての子と母の交通ですが、内コミュニケーション=直接母子交通は細胞レベルの交通でありレセプターやイオンのレスポンスが介在するものです。たとえば脳幹は実母の声に1/10000秒で反応しますが、これはまったく意識されません。この実母の声を録音して人間の声と認識できないまで断片化して再生しても、それに脳幹は反応します。そしてそのスピードは細胞のイオンチャネルのスピードに等しいものです。

 胎児では内コミュニケーション=直接母子交通が全般化していますが、成人しても内コミュニケーション的な位相に絶えず影響されていることが類推できます。またそれらは直接的にはイメージとしてしか表出しないものでもあり、不可視といえるものとも考えられます。

 解剖学的にいえば内コミュニケーションは身体内のもので、外コミュニケーションは身体外のものです。内コミュニケーションが細胞レセプターなどによるとすれば、外コミュニケーションは感覚器によります。両者をつなぐのは神経反応と知覚であり、感情と思考がそれらに依拠しつつ発現していると考えられます。あるいは植物的階程と動物的階程ともいえます。

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 通常、一般的には外コミュニケーションは心理学や言語学あるいは社会学の対象となるものでしょう。それに対して内コミュニケーションは神経生理学だったり内分泌系、あるいはレセプターを介したリレーションとして把握されるものです。

 時系列的には当然ですが、内コミュニケーションによる個体形成の後に外コミュニケーションによる展開からさまざまに個体は構成がされていきます。

 現存在の認識をアフォードするもっともラジカルなグランドとして、内コミュニケーションを考えることができます。
 内コミュニケーションは不可視な来歴でもあり、共同幻想を生成させるものでもあるもの。また自己表出を満たすものでもありそうです。また内コミュニケーションによるイメージを外化し、規範化したものとして指示表出を考えることもできそうです。

2015年4月14日 (火)

言語とイメージが探究される理由は? 2

 呼気が発した音が音声として機能し、言葉になっていく過程。そこで必然的に生物学的なアプローチが、解剖学、発生生物学者である三木成夫の知見を手掛かりに展開されていきます。三木が一般人向けに「人間だけが息が乱れる…」と講義するとき、息が乱れない動物が類推され、あるいは息のあり方が発声を左右し、それは何らかの表出であるということが分かってきます…。

 生命とその呼吸をトレースしながらたどりつくのが、『母型論』<大洋>という概念。羊水に育まれる器官なき身体が大洋の波動とシンクロしながら分節化を繰り返し、個体として分離し、次に観念的な自他分離を繰り込んでいく過程そのものが生として把握されていきます…。繰り込み過程の抵抗値こそ不安の度合いであり、根源としての不安がここにあるワケで、フロイト(派)らのいう分離不安とは異なります。分離不安を根源とするような認識は、それ自体が母子不可分(自他不可分)がアプリオリに前提にされてしまっている証左かもしれません。

 思索と実証の純粋状態のようなこのような過程から、吉本は自らの思想を再検証するかのように構成していくともいえるでしょう。

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 発声がリズムをもっているというより、リズムが発声させるという吉本の認識には、この<大洋>のイメージがあります。リズムとは大洋の波動のことだからです。

 自他不可分のままに漂いながら育まれる生命にとって、突然おとずれる異和としての波動…

 大きく強い波動であれば、世界との関係において自他不可分な認識にき裂が走り、それは対象化され、可分な領域として受容されていきます。この繰り返しが器官なき身体の器官化であり成長であることは分りやすい事実。時とともに臨んでいく、こういった現実との接触こそ、波動の原因であり、現実そのものとなります。

 マテリアルなチューブ構造の生命体が未知の現実に接してキュッと締まってみせる時に生じるのが波動の原点。締まってみせるのは危険かもしれない現実をそのまま受容することがないようにです。それは、閉鎖系であることを基本とする生命の本来的な作動でもあるもの。あるは心臓や循環系のように波動(クロック)そのものがエネルギーの伝搬であり環界とのシンクロを志向するものとして絶えず律動し、波うっているものとして(も)あるのでしょう。

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 締まってみせるという閉口動作に、沈黙というもっとも根源的な意味を見出していく吉本の思想は、自己表出を問い続ける思索にとっては当然のスタンスになります。

 閉口動作としての発声、<|N|>への退縮を反復する日本語という環界が、指示表出させるものは何なのか? 沈黙のうちに秘められた自己表出を全面肯定しつつ、それは何なのか? 個体にとっての美なのか? 価値なのか? どういったものなのか…? それに基づく社会や共同といったものは可能なのか?

 吉本は未帰還者として、それをわたしたちに問い続けているのかもしれません。

   ふつうの平穏な生活のなかでは出てこなくても、
   何かひどい目に遭ったり…ひどい事件にぶつかったときに、
   内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する
   一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくる…

    『詩人・評論家・作家のための言語論』P50(吉本隆明・メタローグ)


           
詩人・評論家・作家のための言語論

著:吉本 隆明
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 現実を繰り込んでいく過程で、心身のシステムの安定の確保が不確実になると、現実の繰り込み以前の状態へ戻り、仮想の安定を確保しようとし…以前の<大洋>の状態(=自他不可分)へ遡行する…ことが想定できます。「<|N|>への退縮を反復する日本語という環界」とは、この遡行が日常的にありうる現象として日本語を捉えることの可能性になります。

 沈黙の表出を表現だとすれば、それは、表現だけで成り立ってきたような世界観からは壊れた、理解できない、異様なものかもしれません。その視点から見れば日本は壊れているように見えるだろうと想像した吉本隆明の慧眼?は、稀にみる思索者のものであることは明らかです。
 表現された言語による環界を超えて、非表現でさえある非言語的な世界はイメージとしてしか捉えることができません。それをイメージさせ、あるいは可視化させる可能性としての世界視線が問われることになります。

2015年3月20日 (金)

言語とイメージが探究される理由は?

 言語が自己表出と指示表出の二面をもつものだとして、その生成から探究していく論考は他にはないのではないでしょうか…。なぜその生成そのものが問われたのか? 誤解を招く可能性も承知のうえでいえば、それはイメージを探究するためだと考えられます。

  言語にイメージを与えているものは何か?
  あるいは
  言語がイメージさせるものは何か?
  といった問題を
  言語にとって美とはなにか?…と吉本隆明は問い続けています。

 端的にいえば「言語にとって美とはなにか」言語とイメージの関係を探究したもの。そしてそのために言語の生成からトレースしていったもの…になります。別の言い方をすれば、結果として優れた言語論なのであっても、それが目的ではなく、ましてや言語を追究すればイメージが解明できる…という安易な認識によるものではありません。

 イメージを追究するためには言語について考察するしかなかった…ともいえるものであり、言語(だけ)を追究しても平凡な哲学の域をでないことは予め確認されたうえでの言語論としての「言語にとって美とはなにか」になります。
 言語における指示表出を、資本主義のプロダクト全般=作品にまで拡張したイメージ論では、当然ですが、特定ジャンルでしかない言語論のままではフォローできません。「言語の概念をイメージの概念に変換する」…という吉本隆明の企てがどれほど多くの論者を振り切ったのか。マス&ハイのイメージ論に至って大部分の論者が吉本に言及しなくなったのは、その一つの証拠かもしれません。正確には言及できなくなった、ということでしょう…。


           
マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)

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ハイ・イメージ論〈2〉 (福武文庫)

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 ラジカルな問題として<イメージ>とは何でしょう?
 イメージとは?…と、漠然と思索する前に、吉本の論考はきわめてシステマチックに構成されていることがわかります。

   言語の概念をイメージの概念に変換することによって
   三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。

大和書房の全撰集7・『イメージ論』には以上のような説明があります。「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」ことを目指し、哲学や現象学が定義しきれないできた<イメージ>について問い、それを根拠に現在を把握していこうとする作業です。

 

           
イメージ論 (吉本隆明全集撰)

著:吉本 隆明
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 言語分析だけで人間が探究できるならば、精神分析も分子生物学も必要ありませんが、事実はむしろ逆で、吉本の思索はイメージを探究するために言語からバイオリズムまで、生命に関わるほとんどずべての知見が求められているという認識にもとづく展開になっています。

           
【合本版】定本 言語にとって美とはなにか (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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 もっとも基本的なところでは三木成夫の発生生物学(「胎児の世界」)、解剖学的(「ヒトのからだ―生物史的考察」)見地から、呼吸によるリズムや発声という延長に言語についての思索がめぐらされていきます。その延長では言語外の母子関係である内コミュニケーション が考察されています。外コミュニケーションは言語による関係であり言語論や社会学的な対象となるものですが、内コミュニケーションはそもそも無意識的なものであり、内分泌系や生理反応的なもの、レセプターやイオンチャネルなども関係する分子生物学や細胞学的なものです。

           
胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))

著:三木 成夫
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母型論

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心とは何か―心的現象論入門

著:吉本 隆明
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 さらに「母型論」「心的現象論入門」では人間の睡眠・覚醒と月や潮汐の25時間周期のリズムと地球と太陽の関係である24時間周期のリズムを取り上げ、この2つの周期のリズムのズレが人間の睡眠や覚醒の障害の原因であると指摘されています。共同幻想論などで取り上げられてきた幻想の生じる契機である夢幻様や入眠状態というのは、睡眠と覚醒の純粋状態であることを考えると、リズム(時間性)を基礎とした最もラジカルな環界といういうものが可視化されてきます。身体の時間性が心的現象を統括しているとする心的現象論のいちばんの基本的な認識の基礎になるものがここにあります。

 社会的な環界としての言語の第一義的な意味とは別に、個別的現存たる個体の環界の基礎は自然のマテリアルであることが明白です。水をH2Oと表現したいという吉本の願望は、その理論全体によってはじめて顕在化するのかもしれません。固有時に普遍的なものを求めた、あるいは探そうとしたスタンスが、そこにはあります。マルクスが類の根拠を個体に求めたのと同じようなもの…。

           
海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想

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経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)

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2015年2月28日 (土)

イメージを生むもの…とは?

  言語における像がなぜ可能となるか、を社会的な要因へまで潜在的にくぐってゆけば、
  意識に自己表出をうながした社会的幻想の関係と、
  指示表出をうながした生産諸関係とが矛盾を来たした、
  楽園喪失のさいしょまでかいくぐることができる。

          (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅱ章 言語の属性」「3 文字・像」)

 「意識に自己表出をうながした社会的幻想の関係」というのは、『共同幻想論』によれば共同幻想と共同幻想(あるいは対幻想)の軋轢などから自己幻想=自意識を析出させられるような事態のことになります。こういった認識、何かをブレークスルーしなければならないようなアプローチは、「ソシュールのプログラムには自己表出としての言語は存在していない」(『言語にとって美とはなにか』「第Ⅱ章 言語の属性」「1 意味」)という鮮やかな見切りをはじめ、自己表出=価値(論)を追究していく吉本理論の凄みと破壊力によるところが大きいものかもしれません。


           
共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

著:吉本 隆明
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  原始人の叫びごえが特定の律動をもち…
  特定の音の組み合わせが、特定の対象にむすびつき、
  その象徴としてあらわれたことは、たれも否定することができない。
  この過程は…
  そのなかから個別的な音の響きをききわけて個別的なちがいをみとめるとともに、
  抽出された音声の共通性を認知できるようになったことを意味している。

  (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』第Ⅰ章 言語の本質 3 音韻・韻律・品詞)

 音声の「特定の律動」と「特定の音」が「特定の対象」に結びつき、音声そのものが「その象徴」として現わされ、それへの感受性が知覚から解釈へと展開していく過程がシンプルに説明されます。「音の響きをききわけて」「個別的なちがい」を知り、そこから逆に「抽出された音声の共通性を認知できる」ようになっていくことが示されています。感覚よる受容から共同性までのステップはこの程度にシンプルなもの。


  自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、
  もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、
  これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、
  ある時代の言語の水準をしめす尺度となることができる。

  言語はこのように対象にたいする指示と
  対象にたいする意識の自動的水準の表出という
  二重性として言語本質をなしている。

  (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅰ章 言語の本質」「1 発生の機構」)

 言語が対象を指示していることと、その対象への認識のレベルという2つの位相が、言語の二重性としてあることが示されています。指示表出と自己表出の二重性です。指示表出と自己表出は言語にとって不可分であり、その不可分さだけをフォーカスすれば、理念的にはそのカップリングは純粋言語として言語の本質をなしていることになります。現実にはTPOによりあらゆる言語は個別的現存において何らかの機能や意味を帯びており、その固有時間における一回性のものであることが第一義的な事実でしょう。


           
アフリカ的段階について―史観の拡張

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 人間がなぜ像=イメージというものをもつのか? このもっとも人間らしいナゾは、それこそナゾそのものとしてあります。もちろん、このナゾにもさまざまな位相があります。眠っていて、あらゆる感覚が現実を感受する能力を失っている時でも人間は夢=イメージを見ますが、吉本理論やここでの思索では、夢は「現実を感受する能力を失っている時」だからこそ見るものであり、それは実験心理学でも明らかな、まったく刺激がなければ覚醒していても幻覚を見るというような実験をエビデンスとすることができるものです。神はいないからこそ、国家もないからこそ、これらは「ある」ものとして認識され、事実その連続が歴史として、その関係が世界として、人間の生きている環界をつくってきました。クオリアに象徴されるような認識のリアリティも、そのミニマムなもの。あらゆる錯覚も同じ理由によるでしょう。

  音声は、現実界を視覚的に反映したときの反射的な音声であったとき、
  あきらかに知覚的な次元にあり、指示表出は現実界への直接の指示であった。
  しかし、音声が意識の自己表出として発せられるようになって、
  指示性は現実にたいするたんなる反射ではなく、対象性としての指示にかわった。

           (『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅱ章 言語の属性」「3 文字・像」)

 『言語にとって美とはなにか』という吉本隆明の代表作は、言語が像=イメージをもつことへの探究です。言葉については哲学から言語学まで、宗教も含めて、さまざまな考察や思想が古今東西あるのでしょうが、いずれも大きな陥穽やヌケがある可能性があります。それは考察するときの対象としての言語の形態の把握からしてアバウトなため。表音文字と表意文字では全く異なる位相があるし、発声されている言葉か、書かれた文字かでも大きな違いがあります。吉本隆明は、そういった属性の違いをていねいに整理しながら論を進めています。ラカン派の精神分析医が漢字は別物だ…とその著書で指摘していますが、形態や属性への考察、基本的な峻別がなくては説得力のある探究は困難。逆に、たとえば書くもの書かれたものとしての現場からは、白川静 のように書くという行為(の常同反復)から何かを感得しようとするアプローチにカントの思索のような可能性があるかもしれません。


           
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