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2016年7月15日 (金)

<世界視線>…可能性の視線として

 可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だ。
 たとえば景色の中に白い○があるとする。この景色に関する周辺知識や予備知識がなければ、この白い○が何であるかはわからない。白い○の不可知さゆえに、それはUFOに見えるかもしれないし、遠方のガスタンクか何かかもしれない。あるいは気象観測器かもしれないし、制作途中の変わった広告看板なのかもしれない。この対象を眼前にしながら判然としない状態が純粋疎外なのだ。
 認識する対象の形態や、あるいは認識にともなう知見が予めには何もない状態…このような状態での認識は、予めの形態も知見もないために、そこに連合し得るあらゆる観念が錯綜してしまう可能性をもっている。別のいい方をすれば、逆に、そこではあらゆる認識が可能な状態なのだ、ともいえる。その可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だった。それは共同幻想を見る、その視線のことだ。

 人が空を飛べない時代に描かれたナスカの地上絵を可能にした眼差しも、世界視線だ。臨死体験にデジャブ、予兆予見…あらゆるものを見てしまう視線としての可能性。人間はあらゆるものを解決するとしたマルクスのように、あらゆるものを見ることができるという確信がここにはありそうだ。全面肯定の思想ともいわれる吉本隆明は、そこに人間の、世界の可能性を見出していた。その<世界視線>は<純粋疎外>を前提にあるいは契機に生成するものだ、ということを吉本は膨大なエグザンプルを取り上げながら繰り返し書き続けている。

 

 世界視線という問題は、視覚の対象とそれ以外が視覚認識の過程でどのように峻別され、あるいは統合されているのか?という問題であり、これこそ<純粋疎外>が援用されるべき典型的な問題になるだろう。つまり、視覚でいえば<純粋視覚>が指し示すとともに解となるものであり、それは視覚に関連するあらゆる対象を包含する可能性になるのだ。だからこそ、そこを起点にする認識のあらゆる問題をカバーすることができる。あたかも、数理におけるゼロやアスタリスク、トランプのジョーカーに、あらゆるものが代入できるように、だ。(直裁には認識不可能な領域に代入されるあらゆるものは、そのまま共同性となりうるもので、これが共同幻想のシーズだ。ラカンの象徴界もこれに相同といえる)

 こういった問題に<純粋疎外>概念は明確な根拠を与えることができる。それは<わからないモノゴト>を{<わからないモノゴト>そのもの}として定義できるダイナミクスなのだ。数理哲学では<無いコト>を現すために、自然数にゼロという概念が導入された。そうした<無いコト>の明白化(あるいは可視化といってもいい)が、<有るコト>だけで成り立っていた自然数だけの思准を飛躍的な発展させた。<純粋疎外>も同様に、定義できないこと、把握できないことを可視化あるいは有化し、対象化したのだ。純粋疎外はあらゆるものを思索の対象にすることを可能にした。

 そして世界視線はあらゆるものを視ることを可能にした。国家も、ゴーストも、クオリアも自在に視ることができる。その機序は共同幻想論であきらかだが、最大の特長は自分を視ることができること。自己客体視であり、それは、ある意味で、自分を外から視ているのであり、デジャブや臨死体験としても知られている。

 あらゆる可能性を数理において約束したのが<ゼロ>という概念だったように、吉本は<ゼロ>を認識の基本に据えているといえる。

2016年4月22日 (金)

ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明

 ノイズキャンセラーとしての人間にはワカラナイということがありません。
 ワカラナイところには、すべてが代入されるからです。
 ワカラナイところに代入される空間性があるワケです。


 たとえば、それは心理学でいう錯覚というものの原因?でもあり、両眼視野闘争の見え方の変化です。
 人間が何かを認識するときに欠落した情報を無意識に補っているのは、両眼視野闘争に現れるような基本的なシステムです。脳幹網様体のスイッチにより身体機能から意識までもがコントロールされていると考えられます。

 見えてない方の目でも「見ている」というウソの認識をします。
 ただし「ウソ」という自覚はありません。ポイントはここです。自覚なしで自然にそういう認識をしてしまうことです。左右の視野を区切り、片目それぞれでしか見えないようにして、一方の視野に対象を置き、他方の視野には何も置きません。でも目の認識としてはどちらの目でも「見える」と認識するのが脳の仕組みであり、ノイズキャンセラー的なものだと考えられます。ある意味で想像(力)の基本的なものがここにあるのかもしれません。


 この「見える」という可視化はフレームアップであり幻想です。
 しかし、問題は幻想にあるのではなく可視化しようとする志向性の強さでしょう。とにかく可視化すればいいのであり、対象がなくても可視化?してしまいます。過視化ともいえるもの…

 つまり対象がなくても「見える」ようになります。
 この時に見えるものがゴーストであり、この見え方が幻想なのです。そうすることによって認識の安定性を維持していると考えられます。認識における動的平衡ともいえるかもしれません。
 ただモノがハッとするようなものに見えたり(思えたり)することもあります。対象を「見ている」ところに判断や感動が加わってしまっているのです。これがクオリアです。

 乳胎児期から人には認識(力)があります。認識の対象があってもなくても、感覚が未熟でも未発達でも、そこには認識しようとする志向性があります。原認識ともいうべきもので、そこでは原了解が反復されていると考えられます。あえて言葉にすればワタシはダレ?ココはドコ?的なもの。すべての生物に共通するレベルで考えれば重力に抗して直立しているか?というような常時はたらいているセルフチェックのようなものかもしれません。
 この原認識の原了解は常同反復していて、そのベースの上に通常の認識や了解が行なわれています。原了解のレベルから通常の認識をみれば、それは2度目の認識になります。これがデジャブです。



 共同幻想、対幻想、自己幻想、の幻想の3つの位相が幻想論ですが、これらは個体の認識の過程では<原関係><固有関係><一般関係>といった位相あるいはレイヤーともいうべきものが設定されていてとても理解しやすいものになっています。もっとも難解な書という評価で有名な心的現象論ですが、システマチックに理路整然と書かれていて、幻想論の基礎であることがわかります。

2016年4月 2日 (土)

<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 911の後に安堵した人がいます。それは、胎児が致死量に相当するアドレナリンによる陣痛で生まれてくるように911から産出されたもの…ともいえそうなもの。カタストロフィではあるが、その荒波に放り出された、文芸評論家の加藤典洋氏は、その心情を吐露しています。それは、間違いなく<大洋>でまどろむかのように荒波に身を任せ、回帰したとも再生したともいえるもの。この「安堵」は911で唯一の肯定できる転回かもしれません

 そして加藤氏はポスモダに向き合うことにし移入思想を受け入れるようになります。
 それは、リスキーな現在を超えるスタンスに立った、ということ。リスクを了解してこそ得られる視線をもった立場についた…ということです。
 ポスモダの仕上げのような近代への全否定である911…。ここから得られるものはグランドリセットでありラジカルな更新…

 ポスモダな世界観では「憐れみ」が最期の人間性のようでしたが…。
 東浩紀氏から「吉本派」と呼ばれる加藤氏は、最期の人間性を動物由来の「憐れみ」に見出そうとするポスモダな世界観…に比して、どういう解をだしたのか…。それが<世界心情>です。911の後に安堵したという加藤氏が、それととともに自覚した心情が<世界心情>だったのです。

 <世界心情>とは、ホントは誰もが持っている<心>のハズ。
 すくなくとも人類としての人間には前提になるもの。

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

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 加藤氏は<世界心情>をコンティンジェンシーの文脈で説明しようとしますが、911という圧倒的な抑圧(とその後の安堵)から<世界心情>を感受したのであれば、その過程をそのままトレースしてはどうでしょうか? 個人の心情が生まれるのは<公>や<他>による軋轢であることが共同幻想論で解析されているからです。

           
改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

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 共同幻想によって対幻想が抑圧されることが自己幻想が生まれるキッカケである(「共同幻想論」)ならば、すべての自己幻想の前提に「対幻想への抑圧」に対する反発・反動・反作用があるはず。

 アリストテレスやライプニッツに由来する偶有性やコンティンジェンシー(あるいはWコンティンジェンシー)を吉本隆明的に、そして弁証法的に縮減すれば…

   対幻想が否定されることへの否定

…となるかもしれません。すくなくとも科学が抽象であるならば、こう表せるハズです。
もちろん冗長性にしか自己発現を見いだせいないような哲学や思想は相変わらず、その屈折語に由来するせいか婉曲な迂回路を必要とするのでしょうが、ここではそれは無関係。

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?

           
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 ヒントはハイイメージ論のプロローグである「映像の終わりから」にあります。そして、共同体の終わりが告げられるハイイメージ論のエピローグである「消費論」とともに、そこには、現代を見切った<世界視線>があります。

   自己言及の不可能性

   過剰に対応する倫理の不在

 現実には資本主義の商品という指示表出の環界のなかで、<人工の視線>に紛れ溶融してしまう<世界視線>の純粋疎外状態と、過剰に対する倫理の不可能性という状況をクリアする方法が必要だということでしょう。


 金融と民主主義と軍事というグローバリズムによる世界の一体化のなかで、南の主導によってしか世界心情が現われないのはナゼか?

 グローバリズムという規範と化した共同幻想に抑圧されていくもの探れば解はあるハズです。史観として拡張されたアフリカ的段階を逆立して読むこと…別のいい方をすれば、レヴィ=ストロースが敗北者たちの群れと呼んだ、その敗北者から世界を観ること

           
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 フーコーとの対談前後に現象学的歴史観が可能だと考えていた吉本隆明。その後、見田宗介の社会理論に可能性を見いだしていった経緯は、ここに明らかです。
 ポスモダを正面から受けとめた見田宗介のスタンスは、現在を超えるヒントを可視化し、吉本隆明はそれに期待し、加藤典洋はそれを世界心情として了解した…といえるのではないでしょうか…。

           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

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2015年9月30日 (水)

ベックのリスク理論を超える…『人類が永遠に続くのではないとしたら』

   村上春樹のイエローブックで有名な…といえば知ってる人も多い加藤典洋氏の著作。
   タイトルとは関係ないようですが、ズバリ吉本隆明の本です。(笑)

 ここにあるのは、マルクスにも吉本隆明にも距離を置いていたために可能になったクールな認識。あるいは日本と距離を置いていたことが<現在>への思索に余裕をもってアプローチできることにもなった、そのスタンスは、太平洋戦争中に戦争に全く影響されなかった太宰治にも通じるものかもしれません。しかし、思索はシステマチックであり、ジャンルを超えて普遍的、時代の感性をつかんでセンシティブです。また多くの論者を世代を超えて捉えており同時代のリアリティに満ちています。

 311以降やリーマンショック以降の現代資本主義あるいはグローバル経済とそれにともなうコンフリクトといった、大多数の論者が批判はできてもその後は語れず、近未来へのオルタネイティブも示せないなかで稀有な一冊…というイメージがします。数少ない思想家や思索者だけがもっている、常に方法そのものを問う、そのスタンスが深い探究となり、まったく新しい認識を生んでいます。それも思念的なものではなく、援用されている三木解剖学に代表されるようにラジカルな、生物的な説得力をもった、あるいはマテリアルでありエンジニアリングである多くの産業的な成果を引導として展開されています。導者にはビル・ゲイツやザッカーバーグといったITの立役者をはじめ、見田宗介星野芳郎ルーマンらのラジカルな問題提起を受けつつ、新進気鋭の國分功一郎東浩紀の名もあり、アリストテレスからバタイユ、ローティ、吉本隆明らが縦横無尽に援用されています。

           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

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アフリカ的段階について―史観の拡張

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 吉本隆明の「アフリカ的段階」の援用にみられるように大きく人類と歴史を捉えながら、古代ギリシャ哲学以来の問題あるいはアウシュビッツでこそ提起されたものが、フーコーやアガンベン、アーレントの思索とともに考察されていきます。
 ヘーゲル=マルクス的なアプローチから否定の否定の弁証法として一刀両断にされてしまうものを、それらからフリーハンドである著者は、コンティンジェントとして丹念に考察しています。弁証法は錯誤ではないのですが抽象あるいは科学に必然な捨象の成果であって、具体そのもの、あるいはリアルの臨界そのものとは乖離する可能性があることを著者は巧みに回避できています。この回避そのものが本書の主題であるリスクのヘッジの一例でもあり、導入から語られているウルリヒ・ベックリスク理論を超えうるリスク理論の深化としての思索だともいえます。

 最後の結語を保障する世界観=人間観として心的現象論序説の有名な一説、原生的疎外についての一文が紹介されています。
 著者が控えめながら提示している<世界心情>という概念は、マルクス、コジェーヴ以来の<動物的>あるいはゾーエーとしての<動物生>に対しての大きな意味づけであり、<世界視線>への経路としての最重要な概念装置でしょう。

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 最初に「ズバリ吉本隆明の本です。」と書きましたが、いわゆる吉本隆明本ではありません。吉本隆明の援用とその可能性の中に現代のリスクを超え人類の明日を見出していくもので、吉本隆明を語ることが目的ではないということです。より具体的にいえば吉本自身が現代社会のオワリを宣告したハイイメージ論の結語に対する解答になりうる内容の本だ、ということになると思 います。
 論を開くのに援用されるのは見田宗介であり、それを受けて吉本の言葉が引かれるという展開です。見田宗介に関しては吉本隆明自身が見田 さんの社会理論から解きあかしたいと語っていることもあり、意外?なマッチングと、それを視野に収めている著者の冷静で広い思索が要になっています。
 いずれにせよ稀有で貴重な本であるということに変わりはありません。現代思想を超えていく先端の思索が楽しめる読書ができます。

           
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2015年8月26日 (水)

イメージをつくる概念と規範

たとえば、時空間概念で抽象すると
単位時間性A単位空間性Aとのカップリング=統合で、認識Aが生成されます。

認識Aの表出をイメージAと仮定するとします。
イメージAを可能にしている(構成している)ファクターとして、
イメージAの構成を別の位相から考えて、そこに概念と規範を想定できます。
イメージAには概念規範の位相がある、ということです。

概念は意味を含み、規範は形態を表象しています。
意味は意識による認識であり、形態は知覚の認知によるもの。

イメージは概念(意味)と規範(形態)にまたがって構成されています。
イメージAも、その別のいい方である認識Aも、入れ子構造として安定しています。
入れ子構造であることで動的平衡を維持しているワケです。

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この入れ子構造はある条件をキッカケに流動化し構造変換します。
あるいは、他の入れ子と接触することで影響され(あるいは影響をあたえ)ます。
そのキッカケとなるのが純粋疎外の状態です。
時間性からすれば<時点ゼロ>です。
空間性からすれば空間化度ゼロの状態が仮定されます。
この状態は冪乗化や自己言及性を前提にしたものです。

ポイントは<入れ子構造>の臨界と接触。
臨界と接触は、いずれも反復と同定(固定)により発現するもの。
入れ子構造内のエントロピー的なものは、臨界に達すれば構造変換を促します。
また入れ子構造は、他の入れ子構造と接触することで内容の伝達や変成がなされます。

入れ子構造の範囲内ではシステム論(オートポイエーシス)的な属性がメインであり、
構造の変換や内容の変成、あるいは他の構造との接触などにおいて、
時点ゼロとしての純粋疎外状態が発現します。臨界で発現するワケですが、
従来は境界やカオスあるいはノイズとされ(不問にされ)てきたものになります。
それは純粋疎外という特異点です。

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入れ子構造は自己言及を一つの単位として成り立っている、と考えられ、
分子生物学的には入れ子構造の最小単位を遺伝子に求めることができます。

遺伝子というものは、まず、自己の再生産=自己言及を目的としたもの。
自らが目的であり、自らが単位そのものである存在といえます。
遺伝子は自己を複製するために自己を記憶します。これを心の起源だとする論考が、
科学へのスタンスをポアンカレーのものと同じだと評される木下清一郎氏
『心の起源』です。

           
心の起源 生物学からの挑戦 (中公新書)

著:木下清一郎
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「自己を複製するために自己を記憶し」「これを心の起源だとする」ならば、
自己を記憶するということが心的現象の初源(スタート)になります。

それは空間的には自己言及であり、時間的にはゼロ(時点ゼロです。
これは時空間=場としては<いま/ここ>であり、TPOとして規定できるもの。

吉本隆明は遡行できるその極限として、受胎の瞬間と、その場までを想定しています。

それは固有時が生成する場であり、個別的現存が発生し、環界である母体との構造化した関係は自他不可分です。それは同時に自他分離の始まりでもあり、原生的疎外が新しい現実との臨界と受容を常同反復していきます。この時の受容とその反作用の錯合が固有時を特徴づけ、個別的現存は個体として成立していきます。

           
ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ

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2015年4月14日 (火)

言語とイメージが探究される理由は? 2

 呼気が発した音が音声として機能し、言葉になっていく過程。そこで必然的に生物学的なアプローチが、解剖学、発生生物学者である三木成夫の知見を手掛かりに展開されていきます。三木が一般人向けに「人間だけが息が乱れる…」と講義するとき、息が乱れない動物が類推され、あるいは息のあり方が発声を左右し、それは何らかの表出であるということが分かってきます…。

 生命とその呼吸をトレースしながらたどりつくのが、『母型論』<大洋>という概念。羊水に育まれる器官なき身体が大洋の波動とシンクロしながら分節化を繰り返し、個体として分離し、次に観念的な自他分離を繰り込んでいく過程そのものが生として把握されていきます…。繰り込み過程の抵抗値こそ不安の度合いであり、根源としての不安がここにあるワケで、フロイト(派)らのいう分離不安とは異なります。分離不安を根源とするような認識は、それ自体が母子不可分(自他不可分)がアプリオリに前提にされてしまっている証左かもしれません。

 思索と実証の純粋状態のようなこのような過程から、吉本は自らの思想を再検証するかのように構成していくともいえるでしょう。

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 発声がリズムをもっているというより、リズムが発声させるという吉本の認識には、この<大洋>のイメージがあります。リズムとは大洋の波動のことだからです。

 自他不可分のままに漂いながら育まれる生命にとって、突然おとずれる異和としての波動…

 大きく強い波動であれば、世界との関係において自他不可分な認識にき裂が走り、それは対象化され、可分な領域として受容されていきます。この繰り返しが器官なき身体の器官化であり成長であることは分りやすい事実。時とともに臨んでいく、こういった現実との接触こそ、波動の原因であり、現実そのものとなります。

 マテリアルなチューブ構造の生命体が未知の現実に接してキュッと締まってみせる時に生じるのが波動の原点。締まってみせるのは危険かもしれない現実をそのまま受容することがないようにです。それは、閉鎖系であることを基本とする生命の本来的な作動でもあるもの。あるは心臓や循環系のように波動(クロック)そのものがエネルギーの伝搬であり環界とのシンクロを志向するものとして絶えず律動し、波うっているものとして(も)あるのでしょう。

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 締まってみせるという閉口動作に、沈黙というもっとも根源的な意味を見出していく吉本の思想は、自己表出を問い続ける思索にとっては当然のスタンスになります。

 閉口動作としての発声、<|N|>への退縮を反復する日本語という環界が、指示表出させるものは何なのか? 沈黙のうちに秘められた自己表出を全面肯定しつつ、それは何なのか? 個体にとっての美なのか? 価値なのか? どういったものなのか…? それに基づく社会や共同といったものは可能なのか?

 吉本は未帰還者として、それをわたしたちに問い続けているのかもしれません。

   ふつうの平穏な生活のなかでは出てこなくても、
   何かひどい目に遭ったり…ひどい事件にぶつかったときに、
   内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する
   一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくる…

    『詩人・評論家・作家のための言語論』P50(吉本隆明・メタローグ)


           
詩人・評論家・作家のための言語論

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 現実を繰り込んでいく過程で、心身のシステムの安定の確保が不確実になると、現実の繰り込み以前の状態へ戻り、仮想の安定を確保しようとし…以前の<大洋>の状態(=自他不可分)へ遡行する…ことが想定できます。「<|N|>への退縮を反復する日本語という環界」とは、この遡行が日常的にありうる現象として日本語を捉えることの可能性になります。

 沈黙の表出を表現だとすれば、それは、表現だけで成り立ってきたような世界観からは壊れた、理解できない、異様なものかもしれません。その視点から見れば日本は壊れているように見えるだろうと想像した吉本隆明の慧眼?は、稀にみる思索者のものであることは明らかです。
 表現された言語による環界を超えて、非表現でさえある非言語的な世界はイメージとしてしか捉えることができません。それをイメージさせ、あるいは可視化させる可能性としての世界視線が問われることになります。

2015年1月28日 (水)

言葉を生むもの…とは?

   …言語の陰画の特徴は、まず言語そのもののように<意味>をつくらない。
   つぎにそこから由来するともいえるし、逆にこちらの方が源泉だともいえるが、
   像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を
   同一「概念」のようにみなすといった特徴をもっている。

                                (『母型論』「病気論Ⅱ」P87)

 とても重要な事が2つ示されています。1つは、言語の陰画は意味をつくらないのですが言語を支えている(だから陰画と表現されている)ということ。これは錯覚などをテーマとする心理学でいう「地」「図」のような関係に例えると、以前のエントリー*「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」で書いたような説明が参考になります。

   「ルビンの壷」でいえば、
   「壺」(である)の認識を支えているもの、アフォードしているのは顔と見なせる空間で、
   逆に「顔」の認識を可能にしているのは壺の空間となります。
   このように対象認識を可能にしているものは非対象となっている領域です。
   これは<意識>を支えているのは<無意識>ということでもあり、
   知覚を可能にしているのは非知覚領域だ…ということを示唆してもいます。
                    *「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」


 2つ目は認識力一般としてはこちらの方が重要ですが、像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を同一「概念」のようにみなすといった特徴」です。異なるものを同じものとみなす志向(性)ともいうべき構成同一性は、このblogでも当初からフォーカスしてきました。構成同一性ベイトソンでいえば学習Ⅱレベル(松岡正剛の千夜一冊・「精神の生態学」)に関係するものですが、この構成同一性そのものの根拠やその初源がどこにあるかについてダイレクトに示してみせたのは、この吉本隆明が初めてになります。この認識能力の混乱がたとえば分裂症であることはいうまでもないでしょう。違ったディメンションにある像を同一視したりすれば、その理由が他者にとって理解不能である限り、それはビョーキとされてしまいます。


           
精神の生態学

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 キチンとした概念規定による言葉と確固たる文法による言語があり、その言語世界が構築する世界観があるとします。それはキチンとした世界観であり認識であり、ゆるぎない価値判断を提供するものでしょう。他方、アバウトな概念といい加減な文法の言語があり、世界観があるとします。
 このキチンとした世界観はアバウトな世界観を理解できるでしょうか?
 概念規定がキチンとしていればしているほど、その規定からハミ出すものやカバーできないものは間違っていると認識されるはずです。あるいは狂ったものだと判断されるかもしれません。キチンとした概念や文法から乖離すればするほど異常で、狂っているとされるでしょう。これが前エントリーの「「日本は壊れている」…とは?」でフォーカスされた壊れているとされることの根本的な理由だと考えられます。

 もちろん「日本は壊れている」という吉本隆明のもっともラジカルな問題意識とモチーフは、吉本隆明自身によって解答が用意されており、それこそが彼の長い思索の魅力や意義として多くの読者を惹きつけてきたのではないでしょうか?

           
カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

翻訳:宇波 彰
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 結論をいってしまえば、壊れて見えるところに可能性を見出していくのが吉本隆明の思索だということになります。33年もかかった未完の大著『心的現象論本論』の最後は重畳語の自由な造語の可能性に注目しています。それは文法などなくとも新しい言語が可能であることを示しており、これはF・ガタリが指摘するようなヨーロッパのジャーゴンには文法がなく言葉を付け足していくだけだが言語や文は成り立っている…ことなどと同じもの。

 また音声的には日本語の基層を成す琉球語の三母音のように、絶えず<|N|音>に向けて縮退しようとする発声の特徴があります。これは自然音をも含めて考えると人間の自然音としての自己表出だけの音声への回帰の志向が常にあるとも考えられるもの。当然その志向のなかでは人声と自然音は同定も同致もしやすく、自然と人為の意味変換や価値変換が自在であることが想像できます。吉本式にいえば、日本語は自然音との純粋疎外状態が常同的であり、それに応じて環界への意味(あるいは価値)付与もなされるだろうということです。これが世界観や自然観であることはいうまでもありません。

   この初期神話に記載された自然の景物や天然現象を、聴覚にうったえる言葉の
   音声を発するものとみなし、また天然の景物や天然現象の端々を擬人(神)化して
   みせる世界認識の特徴は、マラヨ・ポリネシア語族のひとつの系統の言語を基層に
   もつ日本語の特質、いいかえれば景物を擬人とみ天然音を語音となる特質を生み
   だすことになったとかんがえられる。

                                 (『母型論』「語母論」P100)

 この言語の歴史的変遷を、個体の発達の段階と同定して、あわわ言葉をはじめとする概念を設定し探究していくのが吉本隆明の言語理解であり、それは同時に共同性への、社会への、現在へのアプローチとなります。

 ボキャブラリの数がそのまま社会階層を反映するような欧米社会ではアッパーな階層ほど語彙が多いのが当然でしょう。分節化し、どこまでも微分されていく言語世界。この分節化の進展こそが社会(階層)の進展や進歩と同一視されています。では逆に語彙が融溶し、発声や発話が縮退し短縮化する社会はどうでしょう。かつて「チョベリバ」が注目されたギャル語の世界。自分たちだけで共有することを目的としたような、極小共同態のための言葉…。島ごとに村ごとに違う琉球の島言葉…。沈黙の発声である<|N|>へ向かって絶えず縮退しようとする、五母音から三母音へ収斂しようとする日本語の基層…。

 分節化と差異化を繰り返し増大する子音のディラックに埋まっていく欧米言語と、沈黙へ向かって縮退し自然音と同致していくかのような日本語。
 スキゾフレニックなデッドロックへの道と、あわわ言葉とバブバブと反復する幼童的世界。この2極を自在に行き来する思索こそ吉本隆明が体現してきたものなのでしょう。

     すべての童話の特性、
     いいかえれば幼童性と等価な形式的な特性は、
     反復の構造だといえよう。

           (『ハイイメージ論Ⅲ』「幼童論」P197)

2014年12月31日 (水)

「日本は壊れている」…とは?

自らの思想を包括的に語るときに、吉本隆明は、日本は壊れている…といく度か述べています。このラジカルな問題意識こそ、吉本の全思想を貫くもの。『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ』などで語られている「日本は壊れている」という認識…それは何を意味しているのでしょうか?

正確には<欧米言語から見れば、日本は壊れている>ということであり、そこでは、日本が壊れているようにしか見えない欧米言語=思想の限界も顕わになっていきます。これらの問題は、『母型論』心的現象論で繰り返しフォーカスされているとおり個別具体では現存在に症例として表象するもの。それゆえに、心的現象論をはじめとした、膨大な精神疾患などの症例からアプローチしていく吉本ならではの方法論をも示していることになるでしょう。

 この<壊れ方>について思索したものが、あの共同幻想論です。
 オトナが神仏を敬いながら、コドモは神仏をオモチャにして遊び、そこでコドモに下る罰と、その反対としてのコドモへの救済の物語…。
 このアンビバレントな罪なり罰なりの相反する2つの方向が、日本の壊れ方の典型的な代表例としてサンプリングされていくのが共同幻想論の醍醐味です。欧米では空間的に領域が異なる2つの方向が、日本では並列、並立しているという状況を共同幻想論は明かしていきます。時空間的に自在に変換してしまう日本の状況というもの、あるいは日常的にキメラとしてそれらが鼎立している日本の生活空間…。

    けれども自分ではあれ自体にはまだ続きがあって、
    もう少し完成に近いところにもっていかなきゃいけないのに、
    論理がそうならない。

                          (『吉本隆明の世界』P96)

 「あれ自体」とは「アフリカ的段階」のこと。「論理がそうならない」というところに深く大きな意味があるのではないでしょうか? ここには、言葉から見れば壊れているというものを、今度は論理としてどうなのか?という位相まで追い、やはり論理から見てみてもそうならない、となる…。壊れているという空間的規定からの逸脱を、そうならないという時間的な位相のものとして追い込んだ、ある対象を限界あるいは臨界まで探究し、おそらくは反復という残余しか残らないところまで追いつめる…吉本隆明ならではの思索の破壊力が顕になった瞬間だといえそうです。残余としての反復が幼童性であり純粋であり、可能性であることはいうまでもありません。赤ちゃんはバブバブするだけですが、イナイイナイバアだけでも、それが豊穣であることは誰もが認めるところでしょう。あらゆる可能性がそこにあるからです。

 日本を<壊れやすい>ものとして捉えたものとして『フラジャイル 弱さからの出発『日本流』松岡正剛)などがあります。日本ならではのアプローチだといえますが、そこにはその壊れやすいものにこそ強さを見出す視点があり、その思索はオリジナル。これからの可能性にあふれた思想でしょう。それは大衆の生活や文化に見出だせるものでもあり、大衆の原像のイメージにもリレーするもの。たとえば童謡がある時ある意味では社会に蔓延りだした同調圧力への抵抗であり、しかも侵されることがないことを示してみるなど、松岡正剛氏ならではの優しい眼差しが、フラジャイルなものへのリスペクトともいうべき思索を巡らせていきます。

           
フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

著:松岡 正剛
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フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾 方法日本)

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日本流 (ちくま学芸文庫)

著:松岡 正剛
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2014年8月31日 (日)

世界視線=イメージの生成

イメージ=心像というと視覚像を思い起こしますが、
視覚像とは全く違うイメージでも、そこには内容と形があります。
イメージは概念と形態にまたがって生成されます。
『心的現象論序説』の最終章であるⅦ章「心像論」の最後の
パラグラフで一度だけ〝心像〟に「イメージ」とルビがふられています)

           
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,028
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Mポンティが“イメージのパルテノンは柱を数えることができない”と指摘しているのが心的現象論序説に引用されています。逆の意味でヤスパースから援用されているのが直観像。サヴァン症候群などとして知られている視覚的直観像というのは、一見してすべてを記憶してしまうような知覚の能力。音楽も一度聴いいただけですべて憶えてしまい、そっくりそのまま再演できるような能力として話題にもなりました。一瞬にして細部まで数えることがきでる能力です。このサヴァンな能力は言語関係の能力と逆立する、シーソーすることも確認されています。一般的にも、この能力は成長すると失われていきます。

ところで、これらの点から考えると、Mポンティは矛盾?した主張をしているようなところがあります。たとえば“イメージの形象は知覚から借りている”という指摘がそれ。知覚したものは数えられるので、イメージは数えられないという先の主張とは矛盾しています…。

この矛盾を解きあかしていくのが心的現象論序説の論考です。序説では、この矛盾を、逆にエビデンスとして新たな探究の成果を獲得されていきます。典型的な弁証法の展開でもあり、方法(論)そのものから思索をめぐらす達成がここにあります。

“数えられない<イメージ>”と“数えられる<知覚>”とのカップリングが成り立つのか?その内容はどういうものであるのかが、序説では考察されていきます。

       -       -       -

イメージが数えられないのは、それが知覚ではないからであり、知覚ではないならば、それは何なのか?ここでもMポンティが引用されるなどして、イメージのラジカルな定義がなされていきます。

  イメージとは、実際には意識全体の作業であって、単なる意識内容ではない…
  想像するということは、不在な対象との或る関係の様式を設定することだ…

                                (『眼と精神』メルロオ=ポンティ)

           
メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)

原著:Maurice Merleau‐Ponty
参考価格:¥1,026
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吉本理論全体のなかで、この問題は2つの具体として取り上げられており、それぞれがとてつもなくラジカルで重要なことを示唆しています。

それは<夢>と<共同幻想>です。
夢も共同幻想も知覚に依拠しない認識であり、知覚を捨象したところに共通点(共通な基盤)があります。(共同幻想論でのその典型例は<他界>とされています)

入眠中の認識である夢は、入眠中であるために知覚から遮断されています。あるいは知覚から遮断されているので<夢>なのでしょう。知覚的な確認なしでも成立する認識として、そこには幻覚や幻想あるいは妄想への経路があります。

環界とのプラグである知覚が遮断され、外界との関係がない状態。そこでこそ生成する「不在な対象との或る関係の様式を設定することだ…」という事態は何を示しているのでしょう? Mポンティの思索はここまでですが、これほどラジカルな指摘はないともいえます。ここからさらに吉本隆明氏の探究は「不在な対象」へと進み、共同幻想論の他界論へ結実していきます。

これらは<死>といったものへの経路でもあり、共同幻想論では<死>=<他界>をめぐっての思索が展開されていきます。<死>は知覚することが絶対に不可能な現象? 世界に何十億人の人間が生きていても、死を経験する人は皆無。人間は死を経験することなく死を迎えます。そのために<死>について知ることや語ることは、ある種の特権的な意味があり、おそらくは宗教や神という言葉のもとに行使されるそれらは、そういった何らかの特別な意味を帯びているのでしょう。リアルには、特権性を帯びたいがために死について語ってみせたり、死に近づく修行をする…というのが実態になっていますが。マルクスでなくてもある種マジメな宗教者であれば、このことには自覚的であり、虚偽(死の可知性)を生成する機序について客観的に語っていたりします。無いものを見えるとする両眼視野闘争とまったく同じ構造(つまり理由なし)で…(もちろん自己の利益のために)と、正直に語る僧侶や牧師に会ったことがあります。

『共同幻想論』・他界論から考える

『共同幻想論』・他界論から2

           
共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

著:吉本 隆明
参考価格:¥637
価格:¥637

   

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ところではじめに戻って、数えることができる認識であるイメージとは何なのか?
数えることができる知覚とは異なるもの…イメージでしかないもの。
たとえば、臨死体験では自己客体視し、死んでいる自分を見たりします。周囲には悲しんでいる家族や友だちがいたる光景を見るワケです。

 空を飛び地上を見下ろすことができなくても、ナスカの地上絵は描かれました。それは想像力によって可能になったもの。高いところから低いところを見下ろすなどの経験から演繹?して獲得した認識によるでしょう。想像力については経験したことしか想像できないと定義されますが、経験値から拡張することによって可能になることは小さくはないようです。そしてテクノロジーによる大きな拡張のあとでは、その可能性も飛躍的に大きくなります。それがランドサットによる視野から世界視線を説明するハイイメージ論になります。さらにはデータさえあれば想像どおりに視野は拡大深化できます。
 同じように、世界視線に、純粋に人間存在そのものからアプローチしたのが臨死体験への考察。臨死という身体統御の弱化の過程で、フリー?になった心身が獲得するイメージへの論考です。ランドサットというテクノロジーと臨死という心身の状態…この両者から、日常的な普通の知覚と想像(力)からは生成されることはないような、イメージによる疑似的な視線をフォーカスしていくのが世界視線になります。

通常の知覚に、純粋状態を媒介として、ある志向性にもとづいて生成されるイメージ(疑似視線)としての<世界視線>…。絶対に経験できない不可知な死も、マテリアルには存在しない共同幻想も、見てしまう視線=過視するものとしての世界視線 がそこにあります。(リアリティは<通常の知覚>量に担保されます)

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,404
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2014年8月 5日 (火)

トポロジカルな赤ちゃん…その意味?

赤ちゃんは生まれてしばらくの間、視力が極端に弱い。
すべてがボンヤリとしてしか見えていません。

このボンヤリのなかで赤ちゃんは自分の生命がかかっている母を探します。

母を見つけることができなければ、それは即、死を意味しているようなもの。人間の赤ちゃんはそれほど無力で弱い存在です。

それほど弱いのに、ボンヤリとしてしか見えない赤ちゃん。
その視力はほとんど無力に近いように見えます。
ところがボンヤリだからこそ的確に見えていることがわかってきています。

赤ちゃんの未発達な脳は
情報処理も弱いもの。

その処理能力の低さに合わせて視力が弱いともいえるかもしれないのです。

ディテールまで視認し読み込むのではなく、トポロジカルに全体像をとらえている…
赤ちゃんの認識はそういうものであることがわかってきています。
これはイメージで見ている…ともいえる認識に近似すると思われます。
そこには分節化し、細分化し、詳細に具体的に認識していく以前の原初的な認識が想定できます。
すべてをイメージとしてとらえる認識です。

心的現象論母型論からのアプローチを探究していくと、
このイメージとしてとらえている認識の祖型が、
知覚以前の感受性によるものであることがわかります。

知覚という外感覚によるものではなく、内感覚的なもの。
感覚器による外界らの情報刺激ではなく、
内蔵をはじめとする細胞間コミュニケーションや内分泌系的なもの。
外コミュニケーションではなく内コミュニケーション的なもの。

意味の初源となるようなもの、志向の源となるようなもの…。
イメージの祖型ともいうべきもの、が想定されそうです。
それは、世界視線の源でもあり、そのものでもある認識ではないでしょうか。


誰でもはじめは赤ちゃん
イナイイナイバア
バブバブ・リーチング

ルネ…<他人称化>によっておこなわれるコミュニケーション

<大洋>のTPOとしてのデジャブ…『母型論』

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顔を考える 生命形態学からアートまで (集英社新書)

著:大塚 信一
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