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2018年12月25日 (火)

熱くても冷たく、冷たくても熱い、その理由

「38℃の日は暑いのに38℃の風呂に入ると熱くないのはなぜか」というシゼコン(自然科学観察コンクール)入賞の中学生の研究があります。とても大事な疑問で、人間が生きていくための最もラジカルで重要な問題がここにあります。専門家?にとっても、それは最大のテーマでありムズカシイもの。いままでちゃんと解明されたことがないような大きく深いテーマです…。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<脳−身体−環境>の<来歴>が認識を左右している…錯誤というものはない…!

 

モノクロがカラーに見える現象があります。その理由を丁寧に解説している本は、自分が探した範囲内では『心的現象論本論』(他に概念装置を解説した『…序説』があります)という本だけでした。そこではモノクロがカラーに見えるのは錯覚ではなく、そう見えるようになっている…その仕組がクールに説明されています。

心的現象論は膨大な量の精神疾患やLSDの服用実験などのエグザンプルを取り上げ、それを解説しています。思想や哲学の文脈で読まれることが多いようですが、うつ病や統合失調症への分析など、緻密な考察と一貫した観点が圧倒的な印象の本です。数学者野口宏のトポロジカルなニューロンによる頭脳モデルやデビッド・ボームによる量子力学的なホログラフィック仮説など、具体的な症例から理論物理学的なものまでノンジャンルで心理=心的現象についての解析が2段組500ページ以上も続きます。

本書『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』は、その心的現象論のエビデンスとして読みました。ナゼなら、まったく同じことが書かれているからです。フロイトやビンスワンガー、ヤスペルスといった精神病医学の古典的巨匠からMポンティやサルトル、ベルグソンといった知覚や感覚についての深い考察、フッサールなど言語への関係やヘーゲルやレヴィ=ストロースなど社会との関係、フランス現代思想のドゥルーズ=ガタリなどのスキゾ分析、そしてジャック・ラカンなど…以上の他にも多数の言説と実験論文なども参照しながらノンジャンルでとにかく心的現象への深い探究がされている心的現象論。それと本書はまったく同じことが指摘され同じことが主張されていたのです。異なっているのはタームだけといってもいいかもしれません。この発見は驚きでしたが、新たな可能性や期待をもつことができウレシクなりました。なんといっても心的現象論の思想的哲学的なタームで難しく記述されているものが、『「意識」とは何だろうか』では簡明に説明されているからです。

本書『「意識」とは何だろうか』では、「意識」を可能とする「地」として「無意識」をはじめとするさまざまなものがフォーカスされています。そしてその「地」を知ることで「意識」が拡大され、コントロールの可能性が向上することが示唆されています。それこそが本書の目標であり目的であるのかもしれませんが…。だとすれば、それはますます心的現象論と同じ主旨であることにもなりそうです。個人の「自由」といった認識(この逆が障害観など)も、これまで哲学的なアプローチはありましたが、心理学的なものは本書や心的現象論でしか読んだことがありません。逆に自由を抑制する社会や宗教、国家といったものについての言説は哲学から思想までたくさんあるようですが、どれも人間の心理については言及できていないものばかり。そこには社会科学や人文分野が説得力を失ってきた原因そのものがあるのではとも思われます。ようやく最近では行動経済学のようなダイレクトに人間の心理を起因とする社会科学的なアプローチもでてきましたが…。

心的現象論が思想的哲学的なアプローチをスタートとしているとすれば、本書は心理学からはじまり、両書は同じ結論にたどりついた…ということが言えるかもしれません。たとえば本書の最大のキーワードであるであろう「来歴」という言葉は、<本源的蓄積>や<「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」>というマルクスや資本論の認識ともイコールになります。

本書はプロザックのような向精神薬も含めて、人間の意識との関係をマクロに考察するとともにミクロや分子レベル(代謝など)での因果をもエビデンスとして取り上げています。そのスタンスは一見心理学の分野に見えますが、社会科学全体を見わたせるもので、古代ギリシャの哲学フィロソフィアが本来心理学であったことを思い出させるようなトーナリティのあるものです。

最終章では人工と自然の対立といったものから還流する意識までが取り上げられ、もっともリアルで現在的なものとしてベイトソン的な自己言及を社会全般へのものとしてフォーカスしています。…なのでやはり本書は心理学を超えた社会全般についての本なのでしょう。少なくとも著者のスタンスはそういったものであるようです。

「錯誤」を含めて「イリュージョン」が本書のポイントであり、そのイリュージョンは「来歴」によって生成する…という認識は心的現象論そのものなので、興味のある人は両書を読み比べてみると面白いかもしれません。

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『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』(下條信輔:講談社現代新書)のレビューから(2014年5月14日

2018年7月28日 (土)

S字曲線と呼ばれるグラフで示されるもの…

     ある生存に適した有限の生態系の中に放たれた生命種が
     その環境内で増殖を続けた場合にたどる変異を示すグラフに、
     生物学でロジスティック曲線と呼ぶS字型生命曲線がある。

     (『人類が永遠に続くのではないとしたら』(加藤典洋・新潮社)P190)

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋 , 他
参考価格:¥2,484
価格:¥888
OFF : ¥1,596 (64%)
   

ある生物種と、その種が生きていく環境とのもっとも基本的な関係を現したS字曲線(シグモイド曲線)。一定環境での個体群の増加などに見られる典型的な関数の形…そこから何を読み取り、何を発想できるのでしょうか…?

S字曲線と呼ばれるグラフで示される、とは…Sという文字の上辺?と下辺?に当たる部分が水平に近いわずかな傾斜で右上がり、上下を結ぶ真ん中の線が垂直に立ち上がある形を示しているもの。上下の辺は両方ともわずかな傾斜で右上がりになっているが、トレンドがまったく異なり、下辺はだんだん立ち上がっていき、上辺はだんだん立ち上がりの傾斜がフラットになっていくもの。

自らの生きる環境が有限であり、その閉鎖系内で生産と消費を繰り返す…というシンプルな事実。それを認識しているかいないか…。自らの生きる環境の状態を知るには、あるいは自らの環界の限界=有限であることを知るには、環境からの情報のフィードバックとその情報を理解できる認識能力が必要です。


 世界を東西に二分した冷戦よりもよりリアルに資本主義国を直撃した石油ショック。
 重要であるとともに有限なエネルギー源である石油を利用したすさまじいコンフリクト…。しかしそれより以前に、この地球が有限なマテリアルであるという当然で自然な、そしてラジカルな研究をしたのがマサチューセッツ工科大学でした。
 その成果は『成長の限界』として公表され、東西陣営を問わず全世界に衝撃を与えました。特に西側=資本主義世界では重化学工業の急成長から一般消費へのシフトがはじまりつつあり、『成長の限界』は想定外あるいは論外といった反応をも招きました。誰も<限界>など感じてはいなかったし、そんなものは<あり得ない>はずのことでした…。

 この<あり得ない>ことが、次から次へと起こってしまう事実を直視したのが、「リスク社会」のウルリヒ・ベックです。
 ベックが指摘するリスク社会とは、リスクテイクすることが生産コストより大きくなるような事象に満ちた社会です。たとえば原子力発電…原子力発電所の建設費より、その寿命が来て安全に解体処理する費用のほうがはるかに大きくなってしまいます。もちろん運行途中の事故はマネーゲームのバブル崩壊のように、常に想定外という言い訳がされてきました…。


           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
参考価格:¥778
価格:¥778

   

 加藤典洋氏は見田宗介氏に「リスク社会」のウルリヒ・ベックには無い可能性を見出していきます。それは<世界視線>の有無ともいえるもの。リスクを解決すべき課題として捉えるベックは再帰性をベースにしながらもリスクを解決すべき問題として対象化しています。見田は世界の有限性への認識から、内在する関係性へと旋回することによってリスクをヘッジする経路を見出そうとします。これは科学と宗教ともいえる面をも内包したものといえるもの…。

 吉本隆明的に言えば、先験的理性であるかのように見えるものへの絶え間ない問いかけ…。科学が蓋然性でしか無く、数理概念さえ自然認知に従うことをベースにした、終わりのない思索…。

 そんな思索に、とりあえず設定された目標?について吉本隆明は語っています。



     「日本人とは何か」という問題意識と、
     「現代社会はどこへ行くか」という問題意識を
     同じ方法でやらなければいけないとも思っています。

     さもなければ、進歩と保守とか、
     歴史学と未来学というような対立になってしまいますから…

     そのとき、見田さんの社会論なんかを
     取っ掛かりにできればと思っているんです。

     (『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』
          「吉本隆明+見田宗介 世紀末を解く」P77)

2017年6月30日 (金)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?(再掲)

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

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みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
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現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎や村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

    ハイ・イメージ論〈3〉

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,677
価格:¥ 1,677

   

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2016年7月15日 (金)

<世界視線>…可能性の視線として

 可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だ。
 たとえば景色の中に白い○があるとする。この景色に関する周辺知識や予備知識がなければ、この白い○が何であるかはわからない。白い○の不可知さゆえに、それはUFOに見えるかもしれないし、遠方のガスタンクか何かかもしれない。あるいは気象観測器かもしれないし、制作途中の変わった広告看板なのかもしれない。この対象を眼前にしながら判然としない状態が純粋疎外なのだ。
 認識する対象の形態や、あるいは認識にともなう知見が予めには何もない状態…このような状態での認識は、予めの形態も知見もないために、そこに連合し得るあらゆる観念が錯綜してしまう可能性をもっている。別のいい方をすれば、逆に、そこではあらゆる認識が可能な状態なのだ、ともいえる。その可能性の視線として、吉本隆明が示してみせたのが<世界視線>だった。それは共同幻想を見る、その視線のことだ。

 人が空を飛べない時代に描かれたナスカの地上絵を可能にした眼差しも、世界視線だ。臨死体験にデジャブ、予兆予見…あらゆるものを見てしまう視線としての可能性。人間はあらゆるものを解決するとしたマルクスのように、あらゆるものを見ることができるという確信がここにはありそうだ。全面肯定の思想ともいわれる吉本隆明は、そこに人間の、世界の可能性を見出していた。その<世界視線>は<純粋疎外>を前提にあるいは契機に生成するものだ、ということを吉本は膨大なエグザンプルを取り上げながら繰り返し書き続けている。

 

 世界視線という問題は、視覚の対象とそれ以外が視覚認識の過程でどのように峻別され、あるいは統合されているのか?という問題であり、これこそ<純粋疎外>が援用されるべき典型的な問題になるだろう。つまり、視覚でいえば<純粋視覚>が指し示すとともに解となるものであり、それは視覚に関連するあらゆる対象を包含する可能性になるのだ。だからこそ、そこを起点にする認識のあらゆる問題をカバーすることができる。あたかも、数理におけるゼロやアスタリスク、トランプのジョーカーに、あらゆるものが代入できるように、だ。(直裁には認識不可能な領域に代入されるあらゆるものは、そのまま共同性となりうるもので、これが共同幻想のシーズだ。ラカンの象徴界もこれに相同といえる)

 こういった問題に<純粋疎外>概念は明確な根拠を与えることができる。それは<わからないモノゴト>を{<わからないモノゴト>そのもの}として定義できるダイナミクスなのだ。数理哲学では<無いコト>を現すために、自然数にゼロという概念が導入された。そうした<無いコト>の明白化(あるいは可視化といってもいい)が、<有るコト>だけで成り立っていた自然数だけの思准を飛躍的な発展させた。<純粋疎外>も同様に、定義できないこと、把握できないことを可視化あるいは有化し、対象化したのだ。純粋疎外はあらゆるものを思索の対象にすることを可能にした。

 そして世界視線はあらゆるものを視ることを可能にした。国家も、ゴーストも、クオリアも自在に視ることができる。その機序は共同幻想論であきらかだが、最大の特長は自分を視ることができること。自己客体視であり、それは、ある意味で、自分を外から視ているのであり、デジャブや臨死体験としても知られている。

 あらゆる可能性を数理において約束したのが<ゼロ>という概念だったように、吉本は<ゼロ>を認識の基本に据えているといえる。

2016年4月22日 (金)

ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明

 ノイズキャンセラーとしての人間にはワカラナイということがありません。
 ワカラナイところには、すべてが代入されるからです。
 ワカラナイところに代入される空間性があるワケです。


 たとえば、それは心理学でいう錯覚というものの原因?でもあり、両眼視野闘争の見え方の変化です。
 人間が何かを認識するときに欠落した情報を無意識に補っているのは、両眼視野闘争に現れるような基本的なシステムです。脳幹網様体のスイッチにより身体機能から意識までもがコントロールされていると考えられます。

 見えてない方の目でも「見ている」というウソの認識をします。
 ただし「ウソ」という自覚はありません。ポイントはここです。自覚なしで自然にそういう認識をしてしまうことです。左右の視野を区切り、片目それぞれでしか見えないようにして、一方の視野に対象を置き、他方の視野には何も置きません。でも目の認識としてはどちらの目でも「見える」と認識するのが脳の仕組みであり、ノイズキャンセラー的なものだと考えられます。ある意味で想像(力)の基本的なものがここにあるのかもしれません。


 この「見える」という可視化はフレームアップであり幻想です。
 しかし、問題は幻想にあるのではなく可視化しようとする志向性の強さでしょう。とにかく可視化すればいいのであり、対象がなくても可視化?してしまいます。過視化ともいえるもの…

 つまり対象がなくても「見える」ようになります。
 この時に見えるものがゴーストであり、この見え方が幻想なのです。そうすることによって認識の安定性を維持していると考えられます。認識における動的平衡ともいえるかもしれません。
 ただモノがハッとするようなものに見えたり(思えたり)することもあります。対象を「見ている」ところに判断や感動が加わってしまっているのです。これがクオリアです。

 乳胎児期から人には認識(力)があります。認識の対象があってもなくても、感覚が未熟でも未発達でも、そこには認識しようとする志向性があります。原認識ともいうべきもので、そこでは原了解が反復されていると考えられます。あえて言葉にすればワタシはダレ?ココはドコ?的なもの。すべての生物に共通するレベルで考えれば重力に抗して直立しているか?というような常時はたらいているセルフチェックのようなものかもしれません。
 この原認識の原了解は常同反復していて、そのベースの上に通常の認識や了解が行なわれています。原了解のレベルから通常の認識をみれば、それは2度目の認識になります。これがデジャブです。



 共同幻想、対幻想、自己幻想、の幻想の3つの位相が幻想論ですが、これらは個体の認識の過程では<原関係><固有関係><一般関係>といった位相あるいはレイヤーともいうべきものが設定されていてとても理解しやすいものになっています。もっとも難解な書という評価で有名な心的現象論ですが、システマチックに理路整然と書かれていて、幻想論の基礎であることがわかります。

2016年4月 2日 (土)

<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 911の後に安堵した人がいます。それは、胎児が致死量に相当するアドレナリンによる陣痛で生まれてくるように911から産出されたもの…ともいえそうなもの。カタストロフィではあるが、その荒波に放り出された、文芸評論家の加藤典洋氏は、その心情を吐露しています。それは、間違いなく<大洋>でまどろむかのように荒波に身を任せ、回帰したとも再生したともいえるもの。この「安堵」は911で唯一の肯定できる転回かもしれません

 そして加藤氏はポスモダに向き合うことにし移入思想を受け入れるようになります。
 それは、リスキーな現在を超えるスタンスに立った、ということ。リスクを了解してこそ得られる視線をもった立場についた…ということです。
 ポスモダの仕上げのような近代への全否定である911…。ここから得られるものはグランドリセットでありラジカルな更新…

 ポスモダな世界観では「憐れみ」が最期の人間性のようでしたが…。
 東浩紀氏から「吉本派」と呼ばれる加藤氏は、最期の人間性を動物由来の「憐れみ」に見出そうとするポスモダな世界観…に比して、どういう解をだしたのか…。それが<世界心情>です。911の後に安堵したという加藤氏が、それととともに自覚した心情が<世界心情>だったのです。

 <世界心情>とは、ホントは誰もが持っている<心>のハズ。
 すくなくとも人類としての人間には前提になるもの。

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋
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 加藤氏は<世界心情>をコンティンジェンシーの文脈で説明しようとしますが、911という圧倒的な抑圧(とその後の安堵)から<世界心情>を感受したのであれば、その過程をそのままトレースしてはどうでしょうか? 個人の心情が生まれるのは<公>や<他>による軋轢であることが共同幻想論で解析されているからです。

           
改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥778
価格:¥637
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 共同幻想によって対幻想が抑圧されることが自己幻想が生まれるキッカケである(「共同幻想論」)ならば、すべての自己幻想の前提に「対幻想への抑圧」に対する反発・反動・反作用があるはず。

 アリストテレスやライプニッツに由来する偶有性やコンティンジェンシー(あるいはWコンティンジェンシー)を吉本隆明的に、そして弁証法的に縮減すれば…

   対幻想が否定されることへの否定

…となるかもしれません。すくなくとも科学が抽象であるならば、こう表せるハズです。
もちろん冗長性にしか自己発現を見いだせいないような哲学や思想は相変わらず、その屈折語に由来するせいか婉曲な迂回路を必要とするのでしょうが、ここではそれは無関係。

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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 ヒントはハイイメージ論のプロローグである「映像の終わりから」にあります。そして、共同体の終わりが告げられるハイイメージ論のエピローグである「消費論」とともに、そこには、現代を見切った<世界視線>があります。

   自己言及の不可能性

   過剰に対応する倫理の不在

 現実には資本主義の商品という指示表出の環界のなかで、<人工の視線>に紛れ溶融してしまう<世界視線>の純粋疎外状態と、過剰に対する倫理の不可能性という状況をクリアする方法が必要だということでしょう。


 金融と民主主義と軍事というグローバリズムによる世界の一体化のなかで、南の主導によってしか世界心情が現われないのはナゼか?

 グローバリズムという規範と化した共同幻想に抑圧されていくもの探れば解はあるハズです。史観として拡張されたアフリカ的段階を逆立して読むこと…別のいい方をすれば、レヴィ=ストロースが敗北者たちの群れと呼んだ、その敗北者から世界を観ること

           
アフリカ的段階について―史観の拡張

著:吉本 隆明
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悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

原著:Claude L´evi‐Strauss
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 フーコーとの対談前後に現象学的歴史観が可能だと考えていた吉本隆明。その後、見田宗介の社会理論に可能性を見いだしていった経緯は、ここに明らかです。
 ポスモダを正面から受けとめた見田宗介のスタンスは、現在を超えるヒントを可視化し、吉本隆明はそれに期待し、加藤典洋はそれを世界心情として了解した…といえるのではないでしょうか…。

           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
参考価格:¥778
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2015年9月30日 (水)

ベックのリスク理論を超える…『人類が永遠に続くのではないとしたら』

   村上春樹のイエローブックで有名な…といえば知ってる人も多い加藤典洋氏の著作。
   タイトルとは関係ないようですが、ズバリ吉本隆明の本です。(笑)

 ここにあるのは、マルクスにも吉本隆明にも距離を置いていたために可能になったクールな認識。あるいは日本と距離を置いていたことが<現在>への思索に余裕をもってアプローチできることにもなった、そのスタンスは、太平洋戦争中に戦争に全く影響されなかった太宰治にも通じるものかもしれません。しかし、思索はシステマチックであり、ジャンルを超えて普遍的、時代の感性をつかんでセンシティブです。また多くの論者を世代を超えて捉えており同時代のリアリティに満ちています。

 311以降やリーマンショック以降の現代資本主義あるいはグローバル経済とそれにともなうコンフリクトといった、大多数の論者が批判はできてもその後は語れず、近未来へのオルタネイティブも示せないなかで稀有な一冊…というイメージがします。数少ない思想家や思索者だけがもっている、常に方法そのものを問う、そのスタンスが深い探究となり、まったく新しい認識を生んでいます。それも思念的なものではなく、援用されている三木解剖学に代表されるようにラジカルな、生物的な説得力をもった、あるいはマテリアルでありエンジニアリングである多くの産業的な成果を引導として展開されています。導者にはビル・ゲイツやザッカーバーグといったITの立役者をはじめ、見田宗介星野芳郎ルーマンらのラジカルな問題提起を受けつつ、新進気鋭の國分功一郎東浩紀の名もあり、アリストテレスからバタイユ、ローティ、吉本隆明らが縦横無尽に援用されています。

           
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アフリカ的段階について―史観の拡張

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,728
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 吉本隆明の「アフリカ的段階」の援用にみられるように大きく人類と歴史を捉えながら、古代ギリシャ哲学以来の問題あるいはアウシュビッツでこそ提起されたものが、フーコーやアガンベン、アーレントの思索とともに考察されていきます。
 ヘーゲル=マルクス的なアプローチから否定の否定の弁証法として一刀両断にされてしまうものを、それらからフリーハンドである著者は、コンティンジェントとして丹念に考察しています。弁証法は錯誤ではないのですが抽象あるいは科学に必然な捨象の成果であって、具体そのもの、あるいはリアルの臨界そのものとは乖離する可能性があることを著者は巧みに回避できています。この回避そのものが本書の主題であるリスクのヘッジの一例でもあり、導入から語られているウルリヒ・ベックリスク理論を超えうるリスク理論の深化としての思索だともいえます。

 最後の結語を保障する世界観=人間観として心的現象論序説の有名な一説、原生的疎外についての一文が紹介されています。
 著者が控えめながら提示している<世界心情>という概念は、マルクス、コジェーヴ以来の<動物的>あるいはゾーエーとしての<動物生>に対しての大きな意味づけであり、<世界視線>への経路としての最重要な概念装置でしょう。

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 最初に「ズバリ吉本隆明の本です。」と書きましたが、いわゆる吉本隆明本ではありません。吉本隆明の援用とその可能性の中に現代のリスクを超え人類の明日を見出していくもので、吉本隆明を語ることが目的ではないということです。より具体的にいえば吉本自身が現代社会のオワリを宣告したハイイメージ論の結語に対する解答になりうる内容の本だ、ということになると思 います。
 論を開くのに援用されるのは見田宗介であり、それを受けて吉本の言葉が引かれるという展開です。見田宗介に関しては吉本隆明自身が見田 さんの社会理論から解きあかしたいと語っていることもあり、意外?なマッチングと、それを視野に収めている著者の冷静で広い思索が要になっています。
 いずれにせよ稀有で貴重な本であるということに変わりはありません。現代思想を超えていく先端の思索が楽しめる読書ができます。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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2015年8月26日 (水)

イメージをつくる概念と規範

たとえば、時空間概念で抽象すると
単位時間性A単位空間性Aとのカップリング=統合で、認識Aが生成されます。

認識Aの表出をイメージAと仮定するとします。
イメージAを可能にしている(構成している)ファクターとして、
イメージAの構成を別の位相から考えて、そこに概念と規範を想定できます。
イメージAには概念規範の位相がある、ということです。

概念は意味を含み、規範は形態を表象しています。
意味は意識による認識であり、形態は知覚の認知によるもの。

イメージは概念(意味)と規範(形態)にまたがって構成されています。
イメージAも、その別のいい方である認識Aも、入れ子構造として安定しています。
入れ子構造であることで動的平衡を維持しているワケです。

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この入れ子構造はある条件をキッカケに流動化し構造変換します。
あるいは、他の入れ子と接触することで影響され(あるいは影響をあたえ)ます。
そのキッカケとなるのが純粋疎外の状態です。
時間性からすれば<時点ゼロ>です。
空間性からすれば空間化度ゼロの状態が仮定されます。
この状態は冪乗化や自己言及性を前提にしたものです。

ポイントは<入れ子構造>の臨界と接触。
臨界と接触は、いずれも反復と同定(固定)により発現するもの。
入れ子構造内のエントロピー的なものは、臨界に達すれば構造変換を促します。
また入れ子構造は、他の入れ子構造と接触することで内容の伝達や変成がなされます。

入れ子構造の範囲内ではシステム論(オートポイエーシス)的な属性がメインであり、
構造の変換や内容の変成、あるいは他の構造との接触などにおいて、
時点ゼロとしての純粋疎外状態が発現します。臨界で発現するワケですが、
従来は境界やカオスあるいはノイズとされ(不問にされ)てきたものになります。
それは純粋疎外という特異点です。

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入れ子構造は自己言及を一つの単位として成り立っている、と考えられ、
分子生物学的には入れ子構造の最小単位を遺伝子に求めることができます。

遺伝子というものは、まず、自己の再生産=自己言及を目的としたもの。
自らが目的であり、自らが単位そのものである存在といえます。
遺伝子は自己を複製するために自己を記憶します。これを心の起源だとする論考が、
科学へのスタンスをポアンカレーのものと同じだと評される木下清一郎氏
『心の起源』です。

           
心の起源 生物学からの挑戦 (中公新書)

著:木下清一郎
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       -       -       -

「自己を複製するために自己を記憶し」「これを心の起源だとする」ならば、
自己を記憶するということが心的現象の初源(スタート)になります。

それは空間的には自己言及であり、時間的にはゼロ(時点ゼロです。
これは時空間=場としては<いま/ここ>であり、TPOとして規定できるもの。

吉本隆明は遡行できるその極限として、受胎の瞬間と、その場までを想定しています。

それは固有時が生成する場であり、個別的現存が発生し、環界である母体との構造化した関係は自他不可分です。それは同時に自他分離の始まりでもあり、原生的疎外が新しい現実との臨界と受容を常同反復していきます。この時の受容とその反作用の錯合が固有時を特徴づけ、個別的現存は個体として成立していきます。

           
ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ

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2015年4月14日 (火)

言語とイメージが探究される理由は? 2

 呼気が発した音が音声として機能し、言葉になっていく過程。そこで必然的に生物学的なアプローチが、解剖学、発生生物学者である三木成夫の知見を手掛かりに展開されていきます。三木が一般人向けに「人間だけが息が乱れる…」と講義するとき、息が乱れない動物が類推され、あるいは息のあり方が発声を左右し、それは何らかの表出であるということが分かってきます…。

 生命とその呼吸をトレースしながらたどりつくのが、『母型論』<大洋>という概念。羊水に育まれる器官なき身体が大洋の波動とシンクロしながら分節化を繰り返し、個体として分離し、次に観念的な自他分離を繰り込んでいく過程そのものが生として把握されていきます…。繰り込み過程の抵抗値こそ不安の度合いであり、根源としての不安がここにあるワケで、フロイト(派)らのいう分離不安とは異なります。分離不安を根源とするような認識は、それ自体が母子不可分(自他不可分)がアプリオリに前提にされてしまっている証左かもしれません。

 思索と実証の純粋状態のようなこのような過程から、吉本は自らの思想を再検証するかのように構成していくともいえるでしょう。

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 発声がリズムをもっているというより、リズムが発声させるという吉本の認識には、この<大洋>のイメージがあります。リズムとは大洋の波動のことだからです。

 自他不可分のままに漂いながら育まれる生命にとって、突然おとずれる異和としての波動…

 大きく強い波動であれば、世界との関係において自他不可分な認識にき裂が走り、それは対象化され、可分な領域として受容されていきます。この繰り返しが器官なき身体の器官化であり成長であることは分りやすい事実。時とともに臨んでいく、こういった現実との接触こそ、波動の原因であり、現実そのものとなります。

 マテリアルなチューブ構造の生命体が未知の現実に接してキュッと締まってみせる時に生じるのが波動の原点。締まってみせるのは危険かもしれない現実をそのまま受容することがないようにです。それは、閉鎖系であることを基本とする生命の本来的な作動でもあるもの。あるは心臓や循環系のように波動(クロック)そのものがエネルギーの伝搬であり環界とのシンクロを志向するものとして絶えず律動し、波うっているものとして(も)あるのでしょう。

       -       -       -

 締まってみせるという閉口動作に、沈黙というもっとも根源的な意味を見出していく吉本の思想は、自己表出を問い続ける思索にとっては当然のスタンスになります。

 閉口動作としての発声、<|N|>への退縮を反復する日本語という環界が、指示表出させるものは何なのか? 沈黙のうちに秘められた自己表出を全面肯定しつつ、それは何なのか? 個体にとっての美なのか? 価値なのか? どういったものなのか…? それに基づく社会や共同といったものは可能なのか?

 吉本は未帰還者として、それをわたしたちに問い続けているのかもしれません。

   ふつうの平穏な生活のなかでは出てこなくても、
   何かひどい目に遭ったり…ひどい事件にぶつかったときに、
   内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する
   一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくる…

    『詩人・評論家・作家のための言語論』P50(吉本隆明・メタローグ)


           
詩人・評論家・作家のための言語論

著:吉本 隆明
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 現実を繰り込んでいく過程で、心身のシステムの安定の確保が不確実になると、現実の繰り込み以前の状態へ戻り、仮想の安定を確保しようとし…以前の<大洋>の状態(=自他不可分)へ遡行する…ことが想定できます。「<|N|>への退縮を反復する日本語という環界」とは、この遡行が日常的にありうる現象として日本語を捉えることの可能性になります。

 沈黙の表出を表現だとすれば、それは、表現だけで成り立ってきたような世界観からは壊れた、理解できない、異様なものかもしれません。その視点から見れば日本は壊れているように見えるだろうと想像した吉本隆明の慧眼?は、稀にみる思索者のものであることは明らかです。
 表現された言語による環界を超えて、非表現でさえある非言語的な世界はイメージとしてしか捉えることができません。それをイメージさせ、あるいは可視化させる可能性としての世界視線が問われることになります。

2015年1月28日 (水)

言葉を生むもの…とは?

   …言語の陰画の特徴は、まず言語そのもののように<意味>をつくらない。
   つぎにそこから由来するともいえるし、逆にこちらの方が源泉だともいえるが、
   像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を
   同一「概念」のようにみなすといった特徴をもっている。

                                (『母型論』「病気論Ⅱ」P87)

 とても重要な事が2つ示されています。1つは、言語の陰画は意味をつくらないのですが言語を支えている(だから陰画と表現されている)ということ。これは錯覚などをテーマとする心理学でいう「地」「図」のような関係に例えると、以前のエントリー*「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」で書いたような説明が参考になります。

   「ルビンの壷」でいえば、
   「壺」(である)の認識を支えているもの、アフォードしているのは顔と見なせる空間で、
   逆に「顔」の認識を可能にしているのは壺の空間となります。
   このように対象認識を可能にしているものは非対象となっている領域です。
   これは<意識>を支えているのは<無意識>ということでもあり、
   知覚を可能にしているのは非知覚領域だ…ということを示唆してもいます。
                    *「見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド」


 2つ目は認識力一般としてはこちらの方が重要ですが、像の多様さとか重複、違ったディメンションにある像を同一「概念」のようにみなすといった特徴」です。異なるものを同じものとみなす志向(性)ともいうべき構成同一性は、このblogでも当初からフォーカスしてきました。構成同一性ベイトソンでいえば学習Ⅱレベル(松岡正剛の千夜一冊・「精神の生態学」)に関係するものですが、この構成同一性そのものの根拠やその初源がどこにあるかについてダイレクトに示してみせたのは、この吉本隆明が初めてになります。この認識能力の混乱がたとえば分裂症であることはいうまでもないでしょう。違ったディメンションにある像を同一視したりすれば、その理由が他者にとって理解不能である限り、それはビョーキとされてしまいます。


           
精神の生態学

原著:Gregory Bateson
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 キチンとした概念規定による言葉と確固たる文法による言語があり、その言語世界が構築する世界観があるとします。それはキチンとした世界観であり認識であり、ゆるぎない価値判断を提供するものでしょう。他方、アバウトな概念といい加減な文法の言語があり、世界観があるとします。
 このキチンとした世界観はアバウトな世界観を理解できるでしょうか?
 概念規定がキチンとしていればしているほど、その規定からハミ出すものやカバーできないものは間違っていると認識されるはずです。あるいは狂ったものだと判断されるかもしれません。キチンとした概念や文法から乖離すればするほど異常で、狂っているとされるでしょう。これが前エントリーの「「日本は壊れている」…とは?」でフォーカスされた壊れているとされることの根本的な理由だと考えられます。

 もちろん「日本は壊れている」という吉本隆明のもっともラジカルな問題意識とモチーフは、吉本隆明自身によって解答が用意されており、それこそが彼の長い思索の魅力や意義として多くの読者を惹きつけてきたのではないでしょうか?

           
カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

翻訳:宇波 彰
参考価格:¥2,916
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 結論をいってしまえば、壊れて見えるところに可能性を見出していくのが吉本隆明の思索だということになります。33年もかかった未完の大著『心的現象論本論』の最後は重畳語の自由な造語の可能性に注目しています。それは文法などなくとも新しい言語が可能であることを示しており、これはF・ガタリが指摘するようなヨーロッパのジャーゴンには文法がなく言葉を付け足していくだけだが言語や文は成り立っている…ことなどと同じもの。

 また音声的には日本語の基層を成す琉球語の三母音のように、絶えず<|N|音>に向けて縮退しようとする発声の特徴があります。これは自然音をも含めて考えると人間の自然音としての自己表出だけの音声への回帰の志向が常にあるとも考えられるもの。当然その志向のなかでは人声と自然音は同定も同致もしやすく、自然と人為の意味変換や価値変換が自在であることが想像できます。吉本式にいえば、日本語は自然音との純粋疎外状態が常同的であり、それに応じて環界への意味(あるいは価値)付与もなされるだろうということです。これが世界観や自然観であることはいうまでもありません。

   この初期神話に記載された自然の景物や天然現象を、聴覚にうったえる言葉の
   音声を発するものとみなし、また天然の景物や天然現象の端々を擬人(神)化して
   みせる世界認識の特徴は、マラヨ・ポリネシア語族のひとつの系統の言語を基層に
   もつ日本語の特質、いいかえれば景物を擬人とみ天然音を語音となる特質を生み
   だすことになったとかんがえられる。

                                 (『母型論』「語母論」P100)

 この言語の歴史的変遷を、個体の発達の段階と同定して、あわわ言葉をはじめとする概念を設定し探究していくのが吉本隆明の言語理解であり、それは同時に共同性への、社会への、現在へのアプローチとなります。

 ボキャブラリの数がそのまま社会階層を反映するような欧米社会ではアッパーな階層ほど語彙が多いのが当然でしょう。分節化し、どこまでも微分されていく言語世界。この分節化の進展こそが社会(階層)の進展や進歩と同一視されています。では逆に語彙が融溶し、発声や発話が縮退し短縮化する社会はどうでしょう。かつて「チョベリバ」が注目されたギャル語の世界。自分たちだけで共有することを目的としたような、極小共同態のための言葉…。島ごとに村ごとに違う琉球の島言葉…。沈黙の発声である<|N|>へ向かって絶えず縮退しようとする、五母音から三母音へ収斂しようとする日本語の基層…。

 分節化と差異化を繰り返し増大する子音のディラックに埋まっていく欧米言語と、沈黙へ向かって縮退し自然音と同致していくかのような日本語。
 スキゾフレニックなデッドロックへの道と、あわわ言葉とバブバブと反復する幼童的世界。この2極を自在に行き来する思索こそ吉本隆明が体現してきたものなのでしょう。

     すべての童話の特性、
     いいかえれば幼童性と等価な形式的な特性は、
     反復の構造だといえよう。

           (『ハイイメージ論Ⅲ』「幼童論」P197)

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