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2018年12月25日 (火)

熱くても冷たく、冷たくても熱い、その理由

「38℃の日は暑いのに38℃の風呂に入ると熱くないのはなぜか」というシゼコン(自然科学観察コンクール)入賞の中学生の研究があります。とても大事な疑問で、人間が生きていくための最もラジカルで重要な問題がここにあります。専門家?にとっても、それは最大のテーマでありムズカシイもの。いままでちゃんと解明されたことがないような大きく深いテーマです…。

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<脳−身体−環境>の<来歴>が認識を左右している…錯誤というものはない…!

 

モノクロがカラーに見える現象があります。その理由を丁寧に解説している本は、自分が探した範囲内では『心的現象論本論』(他に概念装置を解説した『…序説』があります)という本だけでした。そこではモノクロがカラーに見えるのは錯覚ではなく、そう見えるようになっている…その仕組がクールに説明されています。

心的現象論は膨大な量の精神疾患やLSDの服用実験などのエグザンプルを取り上げ、それを解説しています。思想や哲学の文脈で読まれることが多いようですが、うつ病や統合失調症への分析など、緻密な考察と一貫した観点が圧倒的な印象の本です。数学者野口宏のトポロジカルなニューロンによる頭脳モデルやデビッド・ボームによる量子力学的なホログラフィック仮説など、具体的な症例から理論物理学的なものまでノンジャンルで心理=心的現象についての解析が2段組500ページ以上も続きます。

本書『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』は、その心的現象論のエビデンスとして読みました。ナゼなら、まったく同じことが書かれているからです。フロイトやビンスワンガー、ヤスペルスといった精神病医学の古典的巨匠からMポンティやサルトル、ベルグソンといった知覚や感覚についての深い考察、フッサールなど言語への関係やヘーゲルやレヴィ=ストロースなど社会との関係、フランス現代思想のドゥルーズ=ガタリなどのスキゾ分析、そしてジャック・ラカンなど…以上の他にも多数の言説と実験論文なども参照しながらノンジャンルでとにかく心的現象への深い探究がされている心的現象論。それと本書はまったく同じことが指摘され同じことが主張されていたのです。異なっているのはタームだけといってもいいかもしれません。この発見は驚きでしたが、新たな可能性や期待をもつことができウレシクなりました。なんといっても心的現象論の思想的哲学的なタームで難しく記述されているものが、『「意識」とは何だろうか』では簡明に説明されているからです。

本書『「意識」とは何だろうか』では、「意識」を可能とする「地」として「無意識」をはじめとするさまざまなものがフォーカスされています。そしてその「地」を知ることで「意識」が拡大され、コントロールの可能性が向上することが示唆されています。それこそが本書の目標であり目的であるのかもしれませんが…。だとすれば、それはますます心的現象論と同じ主旨であることにもなりそうです。個人の「自由」といった認識(この逆が障害観など)も、これまで哲学的なアプローチはありましたが、心理学的なものは本書や心的現象論でしか読んだことがありません。逆に自由を抑制する社会や宗教、国家といったものについての言説は哲学から思想までたくさんあるようですが、どれも人間の心理については言及できていないものばかり。そこには社会科学や人文分野が説得力を失ってきた原因そのものがあるのではとも思われます。ようやく最近では行動経済学のようなダイレクトに人間の心理を起因とする社会科学的なアプローチもでてきましたが…。

心的現象論が思想的哲学的なアプローチをスタートとしているとすれば、本書は心理学からはじまり、両書は同じ結論にたどりついた…ということが言えるかもしれません。たとえば本書の最大のキーワードであるであろう「来歴」という言葉は、<本源的蓄積>や<「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」>というマルクスや資本論の認識ともイコールになります。

本書はプロザックのような向精神薬も含めて、人間の意識との関係をマクロに考察するとともにミクロや分子レベル(代謝など)での因果をもエビデンスとして取り上げています。そのスタンスは一見心理学の分野に見えますが、社会科学全体を見わたせるもので、古代ギリシャの哲学フィロソフィアが本来心理学であったことを思い出させるようなトーナリティのあるものです。

最終章では人工と自然の対立といったものから還流する意識までが取り上げられ、もっともリアルで現在的なものとしてベイトソン的な自己言及を社会全般へのものとしてフォーカスしています。…なのでやはり本書は心理学を超えた社会全般についての本なのでしょう。少なくとも著者のスタンスはそういったものであるようです。

「錯誤」を含めて「イリュージョン」が本書のポイントであり、そのイリュージョンは「来歴」によって生成する…という認識は心的現象論そのものなので、興味のある人は両書を読み比べてみると面白いかもしれません。

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『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』(下條信輔:講談社現代新書)のレビューから(2014年5月14日

2018年7月28日 (土)

S字曲線と呼ばれるグラフで示されるもの…

     ある生存に適した有限の生態系の中に放たれた生命種が
     その環境内で増殖を続けた場合にたどる変異を示すグラフに、
     生物学でロジスティック曲線と呼ぶS字型生命曲線がある。

     (『人類が永遠に続くのではないとしたら』(加藤典洋・新潮社)P190)

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋 , 他
参考価格:¥2,484
価格:¥888
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ある生物種と、その種が生きていく環境とのもっとも基本的な関係を現したS字曲線(シグモイド曲線)。一定環境での個体群の増加などに見られる典型的な関数の形…そこから何を読み取り、何を発想できるのでしょうか…?

S字曲線と呼ばれるグラフで示される、とは…Sという文字の上辺?と下辺?に当たる部分が水平に近いわずかな傾斜で右上がり、上下を結ぶ真ん中の線が垂直に立ち上がある形を示しているもの。上下の辺は両方ともわずかな傾斜で右上がりになっているが、トレンドがまったく異なり、下辺はだんだん立ち上がっていき、上辺はだんだん立ち上がりの傾斜がフラットになっていくもの。

自らの生きる環境が有限であり、その閉鎖系内で生産と消費を繰り返す…というシンプルな事実。それを認識しているかいないか…。自らの生きる環境の状態を知るには、あるいは自らの環界の限界=有限であることを知るには、環境からの情報のフィードバックとその情報を理解できる認識能力が必要です。


 世界を東西に二分した冷戦よりもよりリアルに資本主義国を直撃した石油ショック。
 重要であるとともに有限なエネルギー源である石油を利用したすさまじいコンフリクト…。しかしそれより以前に、この地球が有限なマテリアルであるという当然で自然な、そしてラジカルな研究をしたのがマサチューセッツ工科大学でした。
 その成果は『成長の限界』として公表され、東西陣営を問わず全世界に衝撃を与えました。特に西側=資本主義世界では重化学工業の急成長から一般消費へのシフトがはじまりつつあり、『成長の限界』は想定外あるいは論外といった反応をも招きました。誰も<限界>など感じてはいなかったし、そんなものは<あり得ない>はずのことでした…。

 この<あり得ない>ことが、次から次へと起こってしまう事実を直視したのが、「リスク社会」のウルリヒ・ベックです。
 ベックが指摘するリスク社会とは、リスクテイクすることが生産コストより大きくなるような事象に満ちた社会です。たとえば原子力発電…原子力発電所の建設費より、その寿命が来て安全に解体処理する費用のほうがはるかに大きくなってしまいます。もちろん運行途中の事故はマネーゲームのバブル崩壊のように、常に想定外という言い訳がされてきました…。


           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
参考価格:¥778
価格:¥778

   

 加藤典洋氏は見田宗介氏に「リスク社会」のウルリヒ・ベックには無い可能性を見出していきます。それは<世界視線>の有無ともいえるもの。リスクを解決すべき課題として捉えるベックは再帰性をベースにしながらもリスクを解決すべき問題として対象化しています。見田は世界の有限性への認識から、内在する関係性へと旋回することによってリスクをヘッジする経路を見出そうとします。これは科学と宗教ともいえる面をも内包したものといえるもの…。

 吉本隆明的に言えば、先験的理性であるかのように見えるものへの絶え間ない問いかけ…。科学が蓋然性でしか無く、数理概念さえ自然認知に従うことをベースにした、終わりのない思索…。

 そんな思索に、とりあえず設定された目標?について吉本隆明は語っています。



     「日本人とは何か」という問題意識と、
     「現代社会はどこへ行くか」という問題意識を
     同じ方法でやらなければいけないとも思っています。

     さもなければ、進歩と保守とか、
     歴史学と未来学というような対立になってしまいますから…

     そのとき、見田さんの社会論なんかを
     取っ掛かりにできればと思っているんです。

     (『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』
          「吉本隆明+見田宗介 世紀末を解く」P77)

2016年5月 6日 (金)

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

   認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と
   意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。
   これがいま、認知哲学の最先端の一つの問題です。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P219~220)

   自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し、
   それ故また逆に徹頭徹尾自分と対時する存在として立ち現れる、
   そういう他者。これが多層的で多角的な「意識」の定義の一翼を担うことは、
   まちがいなさそうです。

   多くの哲学者が賛成しているように、他者の心の存在は、それ自体イリューヅョン、
   といって悪ければ、少なくとも直接証拠のない信念にほかならないともいえます。

   しかし、この信念は、私たちが世の中に適応して生きていくうえで適切な信念、
   つまり生態学的には意味のあるイリユージョンです。この意味で、
   知覚・認知のイリュージョンとまったく同じように、
   他者の心は「適正なイリューヅョン」なのです。
   「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、
   意識の成立に決定的に関与することを、
   最近の発達心理学の研究が示しています。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P159)


 この「イリュージョン」は、まったく吉本隆明の「幻想」と同じ意味で使われています。
 少なくとも、自分にはそう解釈できるので、そのために、これら最新の認知神経学や知覚心理を心的現象論のエビデンスとして読むことができます。そして、そのように読むことで、心的現象論のこれからを切り開いていく可能性がひろがると考えています。そこには徹頭徹尾に科学でもあった吉本隆明の思索の可能性があるはずです。

 

 自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』


 「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>

2016年4月22日 (金)

ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明

 ノイズキャンセラーとしての人間にはワカラナイということがありません。
 ワカラナイところには、すべてが代入されるからです。
 ワカラナイところに代入される空間性があるワケです。


 たとえば、それは心理学でいう錯覚というものの原因?でもあり、両眼視野闘争の見え方の変化です。
 人間が何かを認識するときに欠落した情報を無意識に補っているのは、両眼視野闘争に現れるような基本的なシステムです。脳幹網様体のスイッチにより身体機能から意識までもがコントロールされていると考えられます。

 見えてない方の目でも「見ている」というウソの認識をします。
 ただし「ウソ」という自覚はありません。ポイントはここです。自覚なしで自然にそういう認識をしてしまうことです。左右の視野を区切り、片目それぞれでしか見えないようにして、一方の視野に対象を置き、他方の視野には何も置きません。でも目の認識としてはどちらの目でも「見える」と認識するのが脳の仕組みであり、ノイズキャンセラー的なものだと考えられます。ある意味で想像(力)の基本的なものがここにあるのかもしれません。


 この「見える」という可視化はフレームアップであり幻想です。
 しかし、問題は幻想にあるのではなく可視化しようとする志向性の強さでしょう。とにかく可視化すればいいのであり、対象がなくても可視化?してしまいます。過視化ともいえるもの…

 つまり対象がなくても「見える」ようになります。
 この時に見えるものがゴーストであり、この見え方が幻想なのです。そうすることによって認識の安定性を維持していると考えられます。認識における動的平衡ともいえるかもしれません。
 ただモノがハッとするようなものに見えたり(思えたり)することもあります。対象を「見ている」ところに判断や感動が加わってしまっているのです。これがクオリアです。

 乳胎児期から人には認識(力)があります。認識の対象があってもなくても、感覚が未熟でも未発達でも、そこには認識しようとする志向性があります。原認識ともいうべきもので、そこでは原了解が反復されていると考えられます。あえて言葉にすればワタシはダレ?ココはドコ?的なもの。すべての生物に共通するレベルで考えれば重力に抗して直立しているか?というような常時はたらいているセルフチェックのようなものかもしれません。
 この原認識の原了解は常同反復していて、そのベースの上に通常の認識や了解が行なわれています。原了解のレベルから通常の認識をみれば、それは2度目の認識になります。これがデジャブです。



 共同幻想、対幻想、自己幻想、の幻想の3つの位相が幻想論ですが、これらは個体の認識の過程では<原関係><固有関係><一般関係>といった位相あるいはレイヤーともいうべきものが設定されていてとても理解しやすいものになっています。もっとも難解な書という評価で有名な心的現象論ですが、システマチックに理路整然と書かれていて、幻想論の基礎であることがわかります。

2015年12月31日 (木)

言語論をベースにした批評のガイド―『詩人・評論家・作家のための言語論』

戦後最大の思想家が「自信作」だと自賛する、批評するための、あるいは批評家になるためにも役に立つガイドが本書。言語論だが表層の言語表現ではなく、その表現を導き出したものすべてがターゲットにされている吉本隆明らしい言語論。『言語にとって美とはなにか』より深いというか、そもそもの目的が違うので『心的現象論序説』寄りに見え、非言語コミュニケーション=「内コミュニケーション」へのアプローチなど『母型論』との関連が深い。

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戦後最大の思想家によるマニフェスト

 この本は基本的に言語論をベースにした言語批評(文芸批評)のガイドを目指している。しかし、それは通常の言語論ではない。言語論そのものの前提として非言語コミュニケーション=「内コミュニケーション」の分析に重点を置き、言語取得以前の人間=胎児~幼児の心的現象にフォーカスしている。その目的は心的な発展段階に応じた表出のレベルを同定することによって、言語による作品の表現から遡行的に主体の内面=心的世界を解明しようという試みである。
 つまり、本書は吉本隆明の基本的理論である『心的現象論序説』や『言語にとって美とはなにか』の成果を踏まえたマニフェストだといえるだろう。吉本自らが自信作だと自賛しているだけある内容と可能性に満ちた本でもある。
 それは同時に、!再び注目を集めつつある〝戦後最大の思想家〟としての吉本隆明の理論から我々読者が何をどのように展開できるのか?と問われていることにもなるだろうか。思想家の自信作を前に我々はどうするのか?...である。今、吉本隆明の読解が〝可能性の中心〟を可能せしめるかどうかが問われつつある。

2003/7/24

           
詩人・評論家・作家のための言語論

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母型論

著:吉本 隆明
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定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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2015年12月21日 (月)

<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの

 『母型論』の理念型の大胆な展開を支えるのが<大洋>という概念。
 羊水ともいえる<大洋>でまどろむ個体=胎児に次々とやってくる現実。その現実との<関係>こそがすべての要因として、その後を決定していく…胎児と環界とのさまざまな関係を空間とし、期間としては約10ヶ月の決定的な時間…。

 この<大洋>がメタフォアとなる現実の空間の1つとして胎内環境があります。
 もう一つ、<内コミュニケーション>に対応するともいえる生命としてとても重要な環境が、生理的な環境で、リン脂質に満たされたもの。リン脂質の大洋に浮かぶ生命のリアルな姿が多細胞生物としての細胞。そこでの細胞間コミュニケーションは<内コミュニケーション>を支えるものでもあり、そのものでもあるもの、です。

 <外コミュニケーション>を具体的にいえば概念によるコミュニケーション。概念(言語)を媒介にしたものであるために言語を記憶したり伝搬できれば、さまざまな形態でのコミュニケーションが可能なので、空間的な距離や時間的なズレを超えることができます。これが外コミュニケーションの特徴であり可能性として、この拡張がメディアとともに文化の拡張そのものだともいえます。

 <内コミュニケーション>は<外コミュニケーション>以前のコミュニケーションといえ、そのすべてが自己の心身に依拠するもの。ミクロでは細胞壁のイオンチャネルのレスポンスであり、レセプターの応答、神経の反応など。生物の生理としてその機構が明らかになりつつあるもです。<内コミュニケーション>をはじめとするこれらは、<外コミュニケーション>やあらゆる心的現象のグランドとなるもので、それらをアフォードするものでもあると考えられます。これらに依拠しながら、しかし、そこには還元できないものをターゲットにするのが心的現象論です。

           
母型論

著:吉本 隆明
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       -       -       -

 人間の認識を言語のレベルでだけ考えても限界があります…

 <内コミュニケーション>は非言語によるコミュニケーションですが、それには2つの次元があります。一つは言葉によらない身振りや態度などの非言語コミュニケーション。もう一つは胎盤を通じた母体との関係に代表される生理的な反応でもある関係。これには母体内で感受する振動や音響など物理的な刺激、母体からの影響である生理化学物質を媒介とする関係まで、さまざまなものが考えられます。陣痛が胎児のアドレナリンで始まるように、この<内コミュケーション>とその究極でもある細胞レベルの関係は人間の生涯に影響を残していると考えられます。

 母の声(だけ)に10000分の1秒で脳幹が反応するのは内コミュニケーションの応答として典型的なものかもしれません。これは、もっとも無意識下でおこなわれているイオンチャネルのスピードでの応答です。心身ともに、その根本から人間存在に影響を与えているのが、この内コミュニケーションとその応答。雰囲気や気分や情動…これら感情として、概念規定できない、表現できない状態によって表象され象徴されているものこそ、そのTPOにおける全体像であり、価値や意味のベースになるもの。それは人間存在の根本にある状態そのものを現わしています。

 リン脂質に満たされた液状環境からはじまる生命の心はいかにあるか? 受胎の瞬間からのスタートする心。原生的疎外としてアメーバにさえある心、あるいはその起源。多細胞の細胞間コミュニケーションとして、内コミュニケーションそのもでさえある代謝レベルの応答。

 確認できるのは、既に形成されてしまった規範としての言語やそのコミュニケーションに、自己確定(表出)そのものは充足的に反映されているか?という問題がクローズアップされてくるということ。

       -       -       -

 むしろ表層でしかない言語レベルの認識をどう再把握するか…

 あらゆるビョーキが言語に表出とするラカンのような指摘は、既成の指示表出(規範)では充足できないしカバーできなかった場合の自己表出との関係を示しているといえます。規範に引き寄せられるほど自己表出から乖離していくものがあるならば、それは異常事態として発現するでしょう。規範=指示表出と自己表出との差異とその拡大こそ異常の発現でありビョーキです。

 規範寄りにしか作動できないことがビョーキの根源であり、異常そのものであることは心的現象論序説で列挙されるエビデンスのとおり。コミュニケーションする以上は規範(指示表出)が必然であっても、個体は規範どおりには発現できません。規範どおりに作動するための学習や訓練が前提であり、それが赤ちゃんから成人するまで、あるいは一生涯の多くの時間を占める営みそのものになっているのが人間という存在です。

 ドルゥーズなどが薬の効果やレセプターの受容の意味について何かの興味を持ったとしても、それが何であるか…明確な提起には至らなかった諸々は<内コミュニケーション>が照らし出す問題の一端であり、包括的には心的現象論が思索し探究するなか、並走するように行われてきたいくつかのジャンルでの日本の研究者や思索者の成果に見出すことができる可能性にも包含される問題です。

             
細胞のコミュニケーション―情報とシグナルからみた細胞 (生命科学シリーズ)

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細胞間コミュニケーションから個体と個体のコミュニケーションに至るまでの過程は、それぞれの段階における入れ子構造を基本にしてカスケード理論の階梯のように上昇していきます。このとき、各過程の入れ子構造の中心点(特異点)に純粋疎外が想定できます。

       -       -       -

 “想像できるのは経験したことだけだ”という心的現象論序説の指摘は、「すべての体験を再体験せしめるものとして作用する」「母子関係(直接母子交通)」つまり<内コミュニケーション>による根源的な規定そのものを示しています。細胞間コミュニケーションにフォーカスすれば、リン脂質に浮かぶ平衡状態(純粋疎外)から、カスケードとしての上位のレイヤーに対して「すべての体験を再体験せしめるもの」として作用している可能性です。日本のポアンカレーとも評される木下清一郎の研究と思索を、吉本隆明の母型論から再把握し検討すると生命系すべてにわたる主体と環界との関係性の基本的な姿が顕になってきます。レイヤーごとに内化される情報は、上位のレイヤーにとっては再体験として受容されることを一つの目標としていると考えられる からです。

 天才的な解剖学者、三木成夫に多大な影響を受けた吉本隆明の思索。これを木下清一郎のラジカルな探究から再アプローチすると、言語と観念で世界を形成している人間を根本から左右し、そしてその基礎そのものでもある生命としての遠大な本源的蓄積が明らかになってきます。
 来歴に左右されるということ…不可知なまま10000分の1秒で反応してしまう母子関係から始まって、神や国家を幻想してしまう人間の心的現象というものの真実の一端が解き明かされていくワケです。

 「極論すれば一次体験である内コミュニケーション=直接母子交通は、その後のすべての体験を再体験せしめるものとして作用する」ということの重大な意味と意義がクローズアップされます。

           
心は遺伝子をこえるか

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2015年11月30日 (月)

2つの表出…指示と自己

 「指示表出」と「自己表出」の2つは「共同幻想」という言葉とともに有名?な吉本ターム。

 沈黙は幹だ…この『「芸術言語論」への覚書』やその講演である『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~』で話題になった言葉「沈黙は幹だ」は自己表出を指したもので、幹に対して枝葉である指示表出との関係を示しています。詩人である吉本さんらしい文学的な換喩ですが、思索者あるいは理論家としては『言語にとって美とはなにか』『心的現象論序説』で緻密な考察がされています。特に心的現象論における言語への考察は、『序説』でも『心的現象論本論』でも人間の根源を解く鋭いものになっています。そこでは<自己>と<指示>という2つの概念へのアプローチも用法もより細分化されています。

 それは<自己確定>と<指示決定>という言葉に再定義できる内容となっています。

 自己表出というものは自らの価値判断を前提とするもので、いわゆる自分そのものの表出。そのために{<自己>が(自己を)<確定>するもの}という根源的な定義があります。自らの意志による価値判断に基づく表出ということです。その初源を抽象すれば(自己による)<自己抽象(性)>になり、これはあらゆる認識の<概念>形成のベースとなるものです。
 指示表出というものは自らの価値判断とは無関係に他からやってくるもので、他者によって{<指示>され<決定>されているもの}であり、初源の定義は他からやってくるという(自己による)<関係(性)>だけです。これはラジカルには<自己関係(性)>であり、あらゆる認識の<規範>形成のベースとなるものです。

 意志、価値、関係などのタームは最重要なものでありながら思想や哲学をはじめ一般的にも明確な定義をされていることがあまりありません。『言語にとって美とはなにか』では『心的現象論序説』の言語論などと照応しながら根本的な定義がされています。


     言語の意味とは意識の指示表出からみれば言語構造の全体の関係である。
            (『言語にとって美とはなにか』 第Ⅱ章 言語の属性 「1 意味」P73)

     意識の自己表出からみられた言語構造の全体の関係を価値とよぶ。
            (『言語にとって美とはなにか』 第Ⅱ章 言語の属性 「1 意味」P85)


 自己(身体と場)に対する認識があらゆる認識の原点にあることは発生学的にも遡行できますが、何より三木成夫氏の解剖学によるマテリアルな基礎づけのもとにフロイトやヘーゲルなどを参照しながら思索を深めた吉本理論のオリジンがここにあるといえるでしょう。

 吉本隆明さんの言語論であまりにも有名な指示表出と自己表出という2つのターム、。マルクスで有名になった上部構造/下部構造のように分析や思索するときの機能的なツールとしても便利なものなのではないでしょうか。それらを駆使した分析やクリティークの登場が待たれます。


           
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2015年9月30日 (水)

ベックのリスク理論を超える…『人類が永遠に続くのではないとしたら』

   村上春樹のイエローブックで有名な…といえば知ってる人も多い加藤典洋氏の著作。
   タイトルとは関係ないようですが、ズバリ吉本隆明の本です。(笑)

 ここにあるのは、マルクスにも吉本隆明にも距離を置いていたために可能になったクールな認識。あるいは日本と距離を置いていたことが<現在>への思索に余裕をもってアプローチできることにもなった、そのスタンスは、太平洋戦争中に戦争に全く影響されなかった太宰治にも通じるものかもしれません。しかし、思索はシステマチックであり、ジャンルを超えて普遍的、時代の感性をつかんでセンシティブです。また多くの論者を世代を超えて捉えており同時代のリアリティに満ちています。

 311以降やリーマンショック以降の現代資本主義あるいはグローバル経済とそれにともなうコンフリクトといった、大多数の論者が批判はできてもその後は語れず、近未来へのオルタネイティブも示せないなかで稀有な一冊…というイメージがします。数少ない思想家や思索者だけがもっている、常に方法そのものを問う、そのスタンスが深い探究となり、まったく新しい認識を生んでいます。それも思念的なものではなく、援用されている三木解剖学に代表されるようにラジカルな、生物的な説得力をもった、あるいはマテリアルでありエンジニアリングである多くの産業的な成果を引導として展開されています。導者にはビル・ゲイツやザッカーバーグといったITの立役者をはじめ、見田宗介星野芳郎ルーマンらのラジカルな問題提起を受けつつ、新進気鋭の國分功一郎東浩紀の名もあり、アリストテレスからバタイユ、ローティ、吉本隆明らが縦横無尽に援用されています。

           
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アフリカ的段階について―史観の拡張

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 吉本隆明の「アフリカ的段階」の援用にみられるように大きく人類と歴史を捉えながら、古代ギリシャ哲学以来の問題あるいはアウシュビッツでこそ提起されたものが、フーコーやアガンベン、アーレントの思索とともに考察されていきます。
 ヘーゲル=マルクス的なアプローチから否定の否定の弁証法として一刀両断にされてしまうものを、それらからフリーハンドである著者は、コンティンジェントとして丹念に考察しています。弁証法は錯誤ではないのですが抽象あるいは科学に必然な捨象の成果であって、具体そのもの、あるいはリアルの臨界そのものとは乖離する可能性があることを著者は巧みに回避できています。この回避そのものが本書の主題であるリスクのヘッジの一例でもあり、導入から語られているウルリヒ・ベックリスク理論を超えうるリスク理論の深化としての思索だともいえます。

 最後の結語を保障する世界観=人間観として心的現象論序説の有名な一説、原生的疎外についての一文が紹介されています。
 著者が控えめながら提示している<世界心情>という概念は、マルクス、コジェーヴ以来の<動物的>あるいはゾーエーとしての<動物生>に対しての大きな意味づけであり、<世界視線>への経路としての最重要な概念装置でしょう。

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 最初に「ズバリ吉本隆明の本です。」と書きましたが、いわゆる吉本隆明本ではありません。吉本隆明の援用とその可能性の中に現代のリスクを超え人類の明日を見出していくもので、吉本隆明を語ることが目的ではないということです。より具体的にいえば吉本自身が現代社会のオワリを宣告したハイイメージ論の結語に対する解答になりうる内容の本だ、ということになると思 います。
 論を開くのに援用されるのは見田宗介であり、それを受けて吉本の言葉が引かれるという展開です。見田宗介に関しては吉本隆明自身が見田 さんの社会理論から解きあかしたいと語っていることもあり、意外?なマッチングと、それを視野に収めている著者の冷静で広い思索が要になっています。
 いずれにせよ稀有で貴重な本であるということに変わりはありません。現代思想を超えていく先端の思索が楽しめる読書ができます。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』を読む

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2015年8月26日 (水)

イメージをつくる概念と規範

たとえば、時空間概念で抽象すると
単位時間性A単位空間性Aとのカップリング=統合で、認識Aが生成されます。

認識Aの表出をイメージAと仮定するとします。
イメージAを可能にしている(構成している)ファクターとして、
イメージAの構成を別の位相から考えて、そこに概念と規範を想定できます。
イメージAには概念規範の位相がある、ということです。

概念は意味を含み、規範は形態を表象しています。
意味は意識による認識であり、形態は知覚の認知によるもの。

イメージは概念(意味)と規範(形態)にまたがって構成されています。
イメージAも、その別のいい方である認識Aも、入れ子構造として安定しています。
入れ子構造であることで動的平衡を維持しているワケです。

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この入れ子構造はある条件をキッカケに流動化し構造変換します。
あるいは、他の入れ子と接触することで影響され(あるいは影響をあたえ)ます。
そのキッカケとなるのが純粋疎外の状態です。
時間性からすれば<時点ゼロ>です。
空間性からすれば空間化度ゼロの状態が仮定されます。
この状態は冪乗化や自己言及性を前提にしたものです。

ポイントは<入れ子構造>の臨界と接触。
臨界と接触は、いずれも反復と同定(固定)により発現するもの。
入れ子構造内のエントロピー的なものは、臨界に達すれば構造変換を促します。
また入れ子構造は、他の入れ子構造と接触することで内容の伝達や変成がなされます。

入れ子構造の範囲内ではシステム論(オートポイエーシス)的な属性がメインであり、
構造の変換や内容の変成、あるいは他の構造との接触などにおいて、
時点ゼロとしての純粋疎外状態が発現します。臨界で発現するワケですが、
従来は境界やカオスあるいはノイズとされ(不問にされ)てきたものになります。
それは純粋疎外という特異点です。

       -       -       -

入れ子構造は自己言及を一つの単位として成り立っている、と考えられ、
分子生物学的には入れ子構造の最小単位を遺伝子に求めることができます。

遺伝子というものは、まず、自己の再生産=自己言及を目的としたもの。
自らが目的であり、自らが単位そのものである存在といえます。
遺伝子は自己を複製するために自己を記憶します。これを心の起源だとする論考が、
科学へのスタンスをポアンカレーのものと同じだと評される木下清一郎氏
『心の起源』です。

           
心の起源 生物学からの挑戦 (中公新書)

著:木下清一郎
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       -       -       -

「自己を複製するために自己を記憶し」「これを心の起源だとする」ならば、
自己を記憶するということが心的現象の初源(スタート)になります。

それは空間的には自己言及であり、時間的にはゼロ(時点ゼロです。
これは時空間=場としては<いま/ここ>であり、TPOとして規定できるもの。

吉本隆明は遡行できるその極限として、受胎の瞬間と、その場までを想定しています。

それは固有時が生成する場であり、個別的現存が発生し、環界である母体との構造化した関係は自他不可分です。それは同時に自他分離の始まりでもあり、原生的疎外が新しい現実との臨界と受容を常同反復していきます。この時の受容とその反作用の錯合が固有時を特徴づけ、個別的現存は個体として成立していきます。

           
ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ

著:吉本 隆明
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2015年7月28日 (火)

指示表出と自己表出の可能性

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。しかし、思想としての本質はその先にあり、竹田青嗣氏はドゥルーズ系そのものをズバリと見切ってもいます。

   じつは、言語の問題に関しても
   吉本の一見古い考えの方がドゥルーズ流より進んでいるのである。

   『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」P197

           
世界という背理―小林秀雄と吉本隆明 (講談社学術文庫)

著:竹田 青嗣
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情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

著:東 浩紀
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『構造と力』『逃走論』などで紹介され、「脱コード」などの先端思想を示してもくれたドゥルーズ=ガダリ…ですが、ゼロ年代思想(具体的には東浩紀氏の「情報自由論」の段階)では既に超えられてもいました。「大きな物語」の代わりに、<社会>や<世界>のワクが意識されてきたからです。ゼロ年代思想でメインターゲットにもなってくる<公共(性)>などの意味合いも、「自意識を極限化する」小林秀雄的な思想からすれば類似点があるのですが、吉本隆明では、そこに位相の違いと各位相ごとのレイヤーが用意されています。しかも、この位相同士の連環は未分化なまま重層性としてはマルクスの「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」などで明らかにされてもいます。

           
ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)

翻訳:城塚 登
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また、情報(の経路)としては外部から来るものとしての指示表出、内部からの認知である自己表出は、それぞれ外感覚と内感覚(内臓感覚)でもあり、この外部からの感覚認識による情報の在り方に依拠する「日本の言説」を「生物学的」「システム論的」と評した柄谷行人の、常に<外部>を意識してきたゆえの指摘というものもあります。

これらを踏まえて、指示表出と自己表出という言語論でのタームに志向性などを加味すれば、指示決定と自己確定という「心的現象論序説」での先進性と普遍性も、まだ有用には駆使されていないのが現実なのでしょう。

心的現象論に即していえば、以下の<受容>と<了解>には、それぞれ指示表出と自己表出が対応しています。

   一般的に感官による対象物の<受容>とその<了解>とは、
   別の異質の過程とかんがえることができる。
   ある対象物がそのように<視える>ということと、
   視えるということを<了解>することとは別のことである。

                         (『心的現象論本論』P10)
入力が無い時の<受容>と<了解>

           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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『言語にとって美とはなにか』で有名になった指示表出と自己表出ですが、吉本(理論)の中では言語論に特定されるタームではありません。『心的現象論序説』の指示決定や自己確定といった概念装置のように認識(了解)の基礎として志向性(対象性)も含むもの。東浩紀氏が「吉本派」と呼ぶ文芸評論家の加藤典洋氏は以下のようにチャート化?した説明をしています。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。

           
さよなら吉本隆明 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

発行:河出書房新社
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   音声反応が有節化され…自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば音韻となる…
   現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の概念をみちびくことができる…

   言語の音韻はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、
   言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。

   リズムが言語の意味とかかわりを直接もたないのに、
   指示の抽出された共通性とかんがえられることは、
   言語がその条件の底辺に、非言語時代の感覚的母斑をもっていることを意味している。
   これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれるようにみえる。

                  『言語にとって美とはなにか Ⅰ』「第Ⅰ章 言語の本質」P47

           
【合本版】定本 言語にとって美とはなにか (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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<美>をミメーシスしようとする五七調?

「心的現象論序説でみた<自己表出>と<指示表出>」

かつて万能のようにあるいは汎用性、普遍性の高さを評価されたはずの上部構造と下部構造という着想も、マルクス自らが本気ではなかったと述べるのを吉本隆明が引用しています。上部構造とか下部構造とかいう峻別は、観念と身体のような関係であり、そのようなカップリングとして考察されるべきもの。そのもっとも最適化した概念装置として指示表出と自己表出は考えられそうです。自己表出は指示表出に依拠しますが還元はできません。また指示表出も主体の志向(性)を離れてあるものではなく、たとえ物象化された(と表現される)ものであっても個別的現存に関係します。指示表出と自己表出を駆使した探究は、いろいろなところでこれから始まるのでしょう。

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