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2014年10月27日 (月)

入力が無い時の<受容>と<了解>

 知覚が受容するものは感覚器官の対象ごとにそれぞれですが、いずれも時空間=マテリアルな制約の範囲内です。閾値としての最低刺激量以上であれば感覚が破損するほどの刺激量を上限として、それらは計量可能なマテリアルな現象ですが…。
 逆に、知覚するものがない場合、感覚や知覚はどのように対応するのでしょう?


   一般的に感官による対象物の<受容>とその<了解>とは、
   別の異質の過程とかんがえることができる。
   ある対象物がそのように<視える>ということと、
   視えるということを<了解>することとは別のことである。

                         (『心的現象論本論』P10)

           
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 感覚による<受容>とトータルな認識による<了解>を峻別したうえで、<受容>する対象が無い場合の<了解>(認識)に何が生起するのか…という問題が心的現象の多くを占めているのかもしれません。

 いちばん大きな問題は、入力が無い場合に対する応答や反応はどういうものなのか?ということ。基本的に物質として摂取するエネルギーはともかく、情報が入力されない場合あるいは入力される情報が無い場合、生命システムはどうするのでしょうか?

 個別の実験では明らかになりつつある問題にミッシング・ファンダメンタルがあります。入力されない状態ではどうするかという問題、無入力の問題ですね。何も入力されない場合、生命システムはどう対応しているのか?…

 答えとしては…

   脳は、情報が抜けているところを、その周辺の情報、前後の文脈から補う…
                                    (『空耳の科学』P141)

           
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 情報については、以上のような実験心理学や神経生理学やで明らかになっている事実があります。デジタル機器でいえばエラーキャンセラーのようなもの…というよりそのものかもしれません。

   情報の空白が生じたとき、埋めるものを「空間的な周辺」からもってくる場合と、
   そうではなくて「時間的な周辺」から持ってくる場合の二通りがある。

                                    (『脳を知りたい!』P204)

           
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 人間にとっての無入力や情報がないという状態では、結果は複雑なアウトプットとなります。情報がフレームアップされるだけではなく、それを正当化(最適化)する論理そのものも生成してしまいます。この論理を生成してしまうことそのものが、文化や宗教、道徳といったものに典型的に現れているといえるでしょう。

 

 左右の視覚を分断して優位な方の目だけに物を見せても、見えなかったほうの目でも「見えた」と認識するのが脳であり、常に欠落した情報を補っているという事実があります。この「見えた」は嘘なのですが、合理的な自覚のない嘘であり幻覚や幻想に近似し、相当するもの。心身の合理性と物理的な合理性はイコールではなく、それを媒介する論理的な合理性そのものにも?がつきまといます。可能性としては、そのことによってシステムの安定を確保することや均衡を維持することが目的なのだ…ということが推定できます。

   …それぞれの生存に適したように世界を捉えている。
   それぞれの知覚システムが、世界の現れ方を決めている…

                          (『空耳の科学』P145)

 人間の個体はそれぞれの個体に特有のTPO(場所的限定)から規定を受け、そのなかで認識し行為し生きています。そのために、そこで発現するエラーキャンセラーもさまざまであり、個性的でしょう。それは共同性でいえば文化の多様性となります。

       -       -       -

 これが人間関係だとどうなるのか? このような問いにダイレクトの答えたのが心的現象論や共同幻想論だともいえます。

 そこには人間{関係がなければ<関係がある>と認識する}という基本的な認識構造があるといえるでしょう。社会や共同体が存立する前提には関係のエラーキャンセラーともいうべきものがあるわけです。

 そもそも社会という不特定多数との人間関係は物理的につまり感覚的に認知し確認できるものではありません。毎日いっしょである家族以外では、友だちを知っている、バイト先の知っている人、いつも通る場所にいるいつも見かける人…など<知る>ことを通してそれこそ認知しているだけです。家族のように感覚的に恒常的に感知しているわけではなく、多くの場合ほとんどの他者は記憶との照合によって認識されているのが実態でしょう。他者に向けて日常的に行使されている感覚は視覚と聴覚。そのイメージと記憶が他者認知のベースになっています。それは幻想や幻覚あるは幻聴などの現象も病も、視聴覚によるものが多いという事実に現れています。

 人間のあらゆる認識を支えているのは、このエラーキャンセラーなのだといえます。部分的には錯覚などともいわれていますが、それは錯誤ではなく<そう認知できる何か…>だといえるもの。この問題にむかって探究をすすめたひとつの思索として吉本隆明の壮大な仕事があるような気がします。

 エラーキャンセラーとしての認識は、エラーに代替するものを代入することで完成します。

 「すべては<代入される空間性>」とは、そういうことです。

       -       -       -

 自然界の音、あるいは音の自然状態に近似するのがホワイトノイズ心身そのものをフィルターとしてパスする人間は、このホワイトノイズから(でも)いくらでも有意な、つまり価値の対象としての音を生成し創作しています。ここに、音階を見出す契機を発見し、論考をすすめているのが『ハイ・イメージ論Ⅰ』の「像としての音階」です。*J・ケージはあらゆるものから音階をつくる?

 身体をフィルターにしてホワイトノイズを価値化するのは、わかりやすい見解ですが、ハイ・イメージ論は心的現象、典型的な精神疾患としても、これを抽出しています。フリーハンドの創作された楽譜?と、グラフィカルな図解だけでも、専門家を圧倒する何かがそこにあり、この時期にコラボした坂本龍一でさえ、何かコンプレックスを感じるほどのものではなかったのか…と思いたくなるような、圧倒的なものが、ハイ・イメージ論にあります。
 クラフトワークのモフモフした音でさえ、ハイイメージ論で採譜されている姿には、GoogleEarthをはじめてのぞいた時のような、ウワッと思うような、しかしクールな何かが、そこにあります。それは、人間にとってはじめての<人工のもの>に挑むような迫力がそこにあることかもしれない…といってみたくなるようなものです。

           
アウトバーン

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  この日常的で、かつ恐ろしくラジカル?な思索(者)の、その価値は、誰がどうやって確認し、伝達するのだろう…という平凡な疑問な、やがて大きく問われる時があるだろうと思うことがあります。

2014年8月 5日 (火)

トポロジカルな赤ちゃん…その意味?

赤ちゃんは生まれてしばらくの間、視力が極端に弱い。
すべてがボンヤリとしてしか見えていません。

このボンヤリのなかで赤ちゃんは自分の生命がかかっている母を探します。

母を見つけることができなければ、それは即、死を意味しているようなもの。人間の赤ちゃんはそれほど無力で弱い存在です。

それほど弱いのに、ボンヤリとしてしか見えない赤ちゃん。
その視力はほとんど無力に近いように見えます。
ところがボンヤリだからこそ的確に見えていることがわかってきています。

赤ちゃんの未発達な脳は
情報処理も弱いもの。

その処理能力の低さに合わせて視力が弱いともいえるかもしれないのです。

ディテールまで視認し読み込むのではなく、トポロジカルに全体像をとらえている…
赤ちゃんの認識はそういうものであることがわかってきています。
これはイメージで見ている…ともいえる認識に近似すると思われます。
そこには分節化し、細分化し、詳細に具体的に認識していく以前の原初的な認識が想定できます。
すべてをイメージとしてとらえる認識です。

心的現象論母型論からのアプローチを探究していくと、
このイメージとしてとらえている認識の祖型が、
知覚以前の感受性によるものであることがわかります。

知覚という外感覚によるものではなく、内感覚的なもの。
感覚器による外界らの情報刺激ではなく、
内蔵をはじめとする細胞間コミュニケーションや内分泌系的なもの。
外コミュニケーションではなく内コミュニケーション的なもの。

意味の初源となるようなもの、志向の源となるようなもの…。
イメージの祖型ともいうべきもの、が想定されそうです。
それは、世界視線の源でもあり、そのものでもある認識ではないでしょうか。


誰でもはじめは赤ちゃん
イナイイナイバア
バブバブ・リーチング

ルネ…<他人称化>によっておこなわれるコミュニケーション

<大洋>のTPOとしてのデジャブ…『母型論』

       -       -       -


           
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2009年4月26日 (日)

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

フーコーと吉本が補完し合った思想のパフォーマンス…『世界認識の方法』

 3つのある種エポックメークな(大きな)問題?があるのが本書。
 1つは本書をキッカケに対幻想や共同幻想という言葉とともに吉本理論が注目をあびたこと。理由は簡単で<対幻想><共同幻想>といったある種キャッチなタームがシンプルに説明されたことです。
 2つめはそのタームの紹介が簡明過ぎたこと。ヘーゲル-マルクスという王道をベースとした質疑応答による説明のために〝序説的なもの〟は捨象されています。逆にいえば『心的現象論本論』が刊行されるまで『心的現象論序説』で示された原理論は顕在化せず、ハイイメージ論などの個別具体的な批評においてバックボーンとなる概念として作動するのみでした。
 3つめがフーコーとの対話です。賛否両論あるものの対談のテープの紛失などの事故?は別としても実りは大きかったと思います。フーコー自身は『言葉と物』など自らの方法についての懐疑ももちはじめていて非常にスリリングで価値のある内容になっています。

 サルトルメルロポンティとともに吉本さんがよく参照し検討する思想家ですが、『方法の問題』という非常にラジカルなテーマの本を出しています。科学というものはその方法(論)によってはじめから規定されてしまうワケですが、サルトルのマルクス主義批判はそういった科学批判そのものであり、あらゆる認識が免れない批判でもあったワケです。それはポパーの反証可能性よりも徹底した批判です。
 本書ももっともラジカルな意味で方法を問う内容になっています。吉本理論の全体像を俯瞰しながらの総括的な説明と、フーコーへの根源的な問いは、それぞれに大きな問題提起ともなっていてスリリングなのです。

 

  吉本さんのお話は、私にとって本当に有益なものでした。
  というのは、一つには、
  自分のいままでの仕事の限界だとか、
  それから

  まだ充分に考えがまとまらずに欠けている部分などを、
  吉本さんが、問題の提起のしかたそのものによって、
  はっきりと示して下さったからです。

  そして特に吉本さんの意志論という形での問題ですね、
  それが私にとっては、ことのほか興味深く、
  多くの問題を進展させる有意義な契機となると

  確信致しました。(P47)

 

 最後にフーコーは以上のように述べ、国家に対する経済や制度や文化などへの分析では「どうしても考えられないような、ある謎の部分につきあたってしまいました」とまとめています。だから「吉本さんの書物が、フランス語なり、あるいは英語なりに紹介されますよう」「強く希望いたします…」となったのでしょう。

 フーコーに併せる形で中心的な課題が<意志論>となっていますが、問題の根源は〝人が共同性を求めてしまうのはナゼか?〟ということに収斂しており、むしろフーコーの言葉どおりの問いとして考えた方がダイレクトなルートが見いだせるハズです。

 

     国家の成立に関しては、
     …
     どうにもわからない大きな愛というか
     意志みたいなものがあったとしか
     いいようがないのです。
(P48)

 

本書は自らの指示表出をできる限り忠実に伝えようとする吉本隆明と、自らの思想を明白な自己表出として衒いなく語るフーコーの、互いに相手の方法論に乗っ取ったかのようなやり取りで構成されています。吉本理論の解説においても同様で、この製序された吉本理論(の解説)には賛否両論があるのではないでしょうか。ただ間違いなく吉本理論の全体像が自身によってほぼ初めて俯瞰されており、その方法に自覚的である限りとても有用でコンパクトな一冊です。フーコー研究の分野の周辺では本書は除外されているようなので、まさしくその可能性の中心はドーナツの穴のようにカラッぽなのかもしれません…。



           
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2009年2月 5日 (木)

<世界視線>という指示表出-人工の視線

 共同幻想や対幻想という有名になったタームがありますが、〝現在〟をめぐる論考『ハイ・イメージ論』などで提出されたのが<世界視線>でした。この<世界視線>には2つあります。2つの由来があるのです。

 人工的なものと、人間の感覚によるものの2つです。

 人工的なものはCGに代表されるテクノロジーによる視線で、ランドサットのようなものも含みます。プログラムとそれが産出する予期データによる視線です。予期データによる描画では対象の裏も表も見ることができます。リソースがあれば理論的には無限大無限遠に拡張できるものです。

 人間のものとしては想像力によるイメージがあります。名辞としての概念ではなく、視覚像に類似するイメージです。また想像力によるものとは別にサルトルやメルロポンティが取り上げていた直観像なども含まれ、臨死体験などによる疑似視覚像もあります。これも認識にいたる知覚などの統御力の低下によって発現するイメージあるいは擬似視覚像です。いずれにせよ過去に経験したものごとをデータとした範囲内のイメージだと考えられます。

 これらの<世界視線>による対象の描画は、人工のものである<線>が立体化あるいは動態化したものだと(も)いえます。そうした意味では指示表出そのものであり、だからこそ個体の意思(自己表出)とは関係なく詳細に記憶できてしまう(サバン症候群など)、あるいは見えないはずの向こう側や裏側まで見えてしまう(臨死体験やCGなど)という特徴があります。

 それは<世界視線>が立体化し動態化した視線であるということです。
 『心的現象論本論』の「目の知覚論」の次の章である「身体論」にそのヒントが示されています。

       -       -       -

 

    <手>に帰せられる知覚作用は
    ただ触覚作用だけであるといっていい。

                「身体論」(『心的現象論本論』P46)

    <手>の作用からすぐに連想されることは、
    <足>が<身体>に則した<空間>の限度を
    意味するということである。

    …<足>が<空間>の拡大と構築の働きに
    特異性をもっている…

                「身体論」(『心的現象論本論』P47)

 

       -       -       -

 頭部と(限界のある)姿勢によって固定されている<眼>は足で移動することによって<視線>を変え、対象を自由な視点から見ることができるようになります。これが<世界視線>です。移動するという行為は意志があってするものであり、そこには<志向性>があります。

 <足>による移動で視線は立体化し、対象認識は記憶(データ化)されて次の移動や視線(を準備する)のために使われます。つまり<世界視線>は運動とデータによってアフォードされているワケです。そして<志向>することによって<視る>という身体の運動(性)によってアフォードされているという点では、観念(性)ではなく身体の運動(性)として知覚の能力を発揮している直観像やサバン症候群などの特異な知覚の説明ともなります。健常的に成長して観念性が高まると直観像能力が消失するのはそのためです。胎児において観念性と運動性は同質であり等価ですが、それは成長とともに観念性の増大と運動性の縮減あるいは消失として発現します。

 (運動性の完全なる消滅は<死>ですが、中上健次が吉本理論における視線を死者の視線といったのはハズれではないかもしれません。)

2009年2月 3日 (火)

<直線>という抽象をあらわすもの

 人間は具体的な自然を対象にしているのに高度な抽象である<直線>を(で)あらわすのはナゼか? 『心的現象論本論』「目の知覚論」ではその理由を<感情>であると呆気なく説明しています。ただし『本論』ではそうですが『心的現象論序説』では独立したⅣ章として「心的現象としての感情」があり、吉本理論のオリジナルティの典型的な例でもあるかのような詳細な解説がされていて、そこには時空間概念で厳密に定義された<感情>があります。吉本理論をめぐるさまざまな論議ややり取りでもこれほど取り上げられていないパートはなく、ほとんど誰もタッチしていないのではないでしょうか。

       -       -       -

 

   <眼>の知覚はこの種の線分の集合から、
   いつも<さっぱりしたい>という感情を誘引し、
   知覚にみちびき入れる。

           「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P16)

 

       -       -       -

 『本論』では以上のように{<さっぱりしたい>という感情}が{<眼>の知覚}から誘引されるのだ、と説明されています。そしてそれが知覚へ再帰するということです。

 知覚の感官のサイドから考えれば、まず、これは閾値の問題です。
 <眼>の閾値にストライクする刺激であるかどうか、ということで、刺激量の最小限/最大限が規定されており、もっとも感官にとって無理なく受容できる刺激の質や量が問われているのだと考えられます。閾値の中央に分布する刺激であれば感官は無理なく受容できます。
 そして、それは内臓感覚(植物的階程)的な自己表出として<さっぱりしたい>というオーダーに応えるもの。外刺激に対して感官が内臓感覚と体性感覚の再帰=フィードバックの結果として収斂していく過程だと考えられます。常時環界に接している感官と心身が、その接点である知覚を環界に対して最適化していく自然過程のひとつであり、アフォードとリーチングのマッチング過程ともいえます。

       -       -       -

 『心的現象論序説』から『ハイ・イメージ論』まで貫き、言語論のいちばん大きく根底的な問題でもある<純粋概念>の初源がここにあります。つまり自己表出(自己確定)と指示表出(指示決定)の初源がここにあるということです。哲学的にいえば対象と主体の峻別(が)できない<何か>がここにあるのです。M・ポンティなどが問題提起しながらも対象化しえなかった、つまり把握しきれなかった問題です。

 それが<純粋概念>です。
 <自他不可分>であった胎児からはじまる観念の根本であり初源です。
 観念が了解と対象に分離しつつ、それそのものも観念の了解の構造にビルトインされている(いく)というベキ乗の再帰構造こそが遺伝子以来生命としての特徴です。
 吉本理論は三木成夫の解剖学に依拠する部分も大きいですが、『心の起源』(木下清一郎)などによれば遺伝子レベルの自己複製構造そのもの、その再帰性や入れ子構造にすでに〝心の起源〟が見出されるということで、『序説』が再帰・自己言及の構造に観念の起源と特徴を見出しているのと同じ観点がみられます。

 <純粋概念>は再帰する際に自他不可分になる了解と対象の関係性ですが、逆にそれは再帰するから自他不可分になるともいえる逆説的な両義性のうえにあります。それらが<入れ子>構造として<恒常性>を保ちつつ継続しようとするのが個別的現存であり個体としての人間です。

       -       -       -

 自然対象を抽象的な<線>へと変換する必然性はこの<純粋概念>を<ゼロ>としてどちらか(どこか)へ了解のベクトルがシフトする<基点>として仮構され作用します。人間の観念≧認識が<自由>であることを獲得できたのは、この<純粋疎外>を<ゼロ基点>(時点ゼロの双数性)として作用するところにあると考えられるでしょう。このアフォードとリーチングの組み合わさった<入れ子>構造こそが心的現象の初源なのです。そこからの遠隔化はあらゆる人間の営為のバリエーションと高度化の原動力となってきたワケですが、同時に、この遠隔(対称)化の阻害とそのマテリアル化が病と異常の根拠として抽出しえるところが吉本理論のひとつの大きな可能性といえます。

2009年1月25日 (日)

<線>という指示表出-はじめての<人工のもの>

 『心的現象論本論』「目の知覚論」<眼>についての論考ですが、すべての知覚についての理論として読むことができます。明晰な理論と分析を特徴とし、あらゆる現象から人間を解いていく機能を備えた西欧の哲学も、ここでは明晰に哲学そのものの限界を示すものとしてフォーカスされています。次の「身体論」では「現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と宣言される心的現象論序説』以来『本論』まで継続してきた「思想的に貴重な課題」を『眼と精神』(M・ポンティ)に見出しながら展開される本書は圧倒的な一冊です。

       -       -       -

 

    …描くという作業のなかで

    <変形>はなぜ必然化されうるのか?

             「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P12)

 

       -       -       -

 人間は精密描写が得意ではありません。視たものを視たままにそのまま描き写せばいいのですが、それができません。鍛錬しないと精密描写はできないのです。ところがサヴァン症候群の人たちのようにロンドンの街並みを一度眺めただけで精密描写できたり、一度聴いただけで楽曲を覚えてしまう人もいます。

 人間はなぜ<そのまま>描けないのでしょうか。これは逆に考えれば<そのまま・でない>ものを描いているともいえます。この<そのまま・でない>ものとは何でしょうか?

 <そのまま・でない>つまり<対象そのもの・でない>ものとは何か? ここに大きなヒントがありそうです。
 描こうとする<対象>とは景色であったり物であったりマテリアルです。すると<対象そのもの・でない>というのは<マテリアル・でない>ものだというコトになります。

 そして{<そのまま・でない>ものを描いている}ワケですから、この<対象そのもの>とは違う部分や、<対象そのもの><そのまま・でない>ものとの違い=差異に具体的なヒントがあるワケです。

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 たとえば対象を自然にありふれた草原や森林の風景だとします。それを描き写すとすると、その絵は線の集積になるでしょう。その<線>は自然にはありえない抽象的な幾何の基本の形態であり<点>とともに単位になるものです。

 描かれる<線>の単位は直線(<点>の連続)なのですが、自然には完全な直線というものはほとんど存在ません。自然界にあるのは1/fゆらぎと呼ばれる波形の集積やフラクタルな自己相似な形状で、川のせせらぎや樹の枝、海岸線の複雑な凹凸に代表されるもの。それらは波状であり曲線であり複雑です。

 人間はこれらを<線>を単位としたものの集合集積として描き現します。
 ここに人間の特徴が現われているワケです。曲線の直線化、波状の単純化といった認識の変換(認識対象の変換)といったところに<人間性>というものが顕在化します。

       -       -       -

 人間が自ら創出し生成した<指示表出>がココにあります。
 それは<指示表出>というものの原初の形だといえるのではないでしょうか。
 はじめての<人工のもの>の登場といえるかもしれません。

 自然の形状を人工の形状に変換してしまう人間。この変換の仕組みや認識に<人間性>というものの原点があると考えられます。

       -       -       -

 認識上の要因として心的現象が、作業として労働が、表現として芸術が、ココに登場します。人間の歴史が始まるところがココにあるといえるのではないでしょうか。

           
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2009年1月20日 (火)

心的システムという究極

 心的システムという究極へ向かって生成するのが心的システムそのもの。境界を自己生成するという生命の特徴そのものを論拠としたクールなオートポイエーシス理論はラカン派がシステム理論との融合?をトライするキッカケを作ったりしました。<境界>そのものは何なのか?というオーダーをすれば吉本理論からの次のステップである<境界=ゼロ>のヒントとなります。<自他不可分>の<純粋疎外>状態の定義です。

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『オートポイエーシス―第三世代システム』 (河本 英夫・青土社)

 従来のシステム論を超える第三世代のシステム論として「オートポイエーシス」が考察される。結論からいえば「オートポイエーシスは境界をみずから作り出すことによって、そのつど自己を制作する」と著者は考える。
 そこでオートポイエーシスのなかでも最も複雑で典型的な自己言及システムである心的システムが考察される。心的システムの固有の特徴として観察システムの出現が指摘され、最終的な問題提起がなされていく。観察システムの本性として「自己を世界との関係で捉え」ることが論証され、ルーマンやドウルーズへの批判的な検討とともに無意識への否定が示され、システムの基本的定義に戻る....。
 カフカの『審判』を題材にした終章は『審判』そのもののように開いたまま閉じられる。それは読者個別のそれぞれの現実に作動可能な一冊だということを示してるようだ。

 本書は理論書だが、本書から大きな影響を受けた本として斎藤環の『文脈病』があり、斎藤の現在の批評活動そのものもシステム論との反復作動が目立つ。

 またオートポイエーシスの最重要概念である「自己の境界を区切るというシステム-環境」を支える「位相学的座標軸」などは、ほとんど吉本隆明の『心的現象論序説』における基本概念の「原生的疎外」「純粋疎外」などの位相学的構成 とオーバーラップする。
 本書はさまざまな散種が期待される一冊だといえるだろう。

           
オートポイエーシス―第三世代システム

著:河本 英夫
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(2004/3/26)
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2009年1月19日 (月)

バブバブ・リーチング

赤ちゃんはリーチングする。
手を伸ばしてブンブン、足をバタバタ。手足を伸ばしたりちぢめたり。
バタバタ、ブンブンの目的はただ一つ。自分をアフォードしてくれるものを手さぐり足さぐりして探してるワケです。

そして、このリーチングは胎盤にくっついてる時からシワシワのジーちゃんバーちゃんになるまで続きます。しかも、このリーチングは物理的な身体の運動としてだけではなく、観念の運動としても働きます。人間が人間になっていくのは、この観念のリーチングのおかげ。

それが、心ですね。その動きが心的現象です。

観念の運動として自己意識が起動しはじめた頃から活発化するのは象徴界のリーチング。つまり指示決定を探すこと。 親は子にリーチングの対象となるものを与えます。食事から躾、教育、社会経験…。

人がリーチングしていく、この姿が物語の典型例です。
そのメガトレンドは、歴史?

       -       -       -

ところで、指示決定や象徴界を消失したらどうするか。
リーチングしても何の手がかりも無かったら?
あるいは物語が消失していたら…。
答えはカンタン。どうもせず代替機能とその運動が即座に起動すると考えられます。(<病>は代替機能の結果の一つです)

想像界だけでリーチングするワケです。

想像力と思考能力を駆使した想像界でのリーチングとファイト? そのぼう大な結果は、世界そのものの情報(量)としてアーカイブされてきた、K,Marxが本源的蓄積と呼ぶような全人類の全世界史的な<データ>…個にとっての環界です。

それを自分のものにする=内化するには、まず、環界=世界にアプローチしていくという<関係>が前提にあります。<関係>のポイントはいくつかあって、ひとつはデータを感受するための感性のシステムである<知覚>。 ひとつはアプローチする<力>としての<労働>。

<データ>に感覚器の<知覚>でプラグインして、想像力と思考で<力>をコントロールしながらアプローチする。ポイントは<コントロール>。自己をコントロールするワケです。
想像界の最重要ポイントは自己コントロール....つまり自己言及することなのです。

自己コントロールされてない知覚のプラグインは、単に陶酔や薬で飛んでるだけの世界であり、これらが何のカルチャーも生めない理由もそこにあります。それは自己コントロールゆえの認識ではないから。抑圧・去勢されていないから、です。単なるジャンクであり、たいていは何の強度もなくフラットでしかないもの。

そして自己コントロールされてない(できない)もうひとつの状態が<病>。
自己コントロールできないゆえのオカシサさと、
自己コントロール外で指示決定されてしまうというハズれ方。

このハズれ方を社会的に制御したものや個人的に認知したものはあり、祭りや神事として、あるいはサブカル的なものとして社会や個人の範囲内という限定付で認知を与えられコントロールされていきます。

すべてをビルトインしていく資本主義とその階程ごとの認識と表出が必要となり、また生成します。

           
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(2001/9/15)
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2009年1月18日 (日)

イナイイナイバア

<p><p><p><p><p><p><p>■イナイイナイバア・・・   97/8/30</p></p></p></p></p></p></p>

赤ちゃんをあやして、笑顔や可笑しい顔をします。

でも、笑顔だけ可笑しい顔だけといった単調な表情では、

赤ちゃんは笑わなくなります。

表情の変化がなければ赤ちゃんは笑いません。


そこでするのが、イナイイナイ・バア。


イナイイナイ・バアは何度くり返しても、赤ちゃんは笑います。

イナイイナイとバアの簡単な組み合せ。
くり返す、くり返し。



顔の見えないイナイイナイは

赤ちゃんがひとりぼっちになる瞬間です。
赤ちゃんの瞳は、いっしょうけんめいに誰かを探します。


 バア

 ここだよ バア



赤ちゃんは誰かの顔を見つけたとたん笑いだします。


 イナイイナイバア


赤ちゃんの時から知っている、出会いと別れ、ですね。


大人になっていろいろなことを知るわけでもなく、
赤ちゃんだから何も知らないわけでもありません。


出会いと別れのワンセットになった感覚と感情は、

すべての人間の感性の源。

大人の文化は、

この出会いと別れの微分にすぎないのではないでしょうか。

このゼロ(出会い)と無限大(別れ)を行き来する距離感こそ、

認識のパースペクティブ。

それは、たった一つの、認識の原点。思想の源のハズです。



97/8/30
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2009年1月13日 (火)

享受・受容・感覚の位相?

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代謝レベル      体内感覚     内臓性 ↓  体内感覚

分子レベル      味覚、嗅覚    浸潤性 
  味覚
                             ↓  嗅覚
物理レベル(ロー)  触覚と運動   接触性 ↓  触覚
物理レベル(ハイ)  聴覚       共振性 ↓  聴覚
物理レベル(超)   視覚         化学性 ↓  視覚
  
情報レベル      脳、神経      情報性  ↓  頭脳感覚




 人間の認識を言語のレベルでだけ考えても限界があります。
 それぞれのレベル間での情報の交換や照応の中で特定レベルからの認識の志向性がどのような具合に遠隔化されたり近隔化されたりするのかを考えます。下層レベル(より身体寄り)の鍛練をすると上層レベル(より観念寄り)の認識力が強化されることはアメリカをはじめとして乳幼児教育から健康増進の現場で確認されつつあります。

 もちろんスタートでありゴールである原意識・原志向性生成する“場” を把握理解できなければどのような認識論もソーカルごっこの相手をしなければいけいことになるワケです。

2000/10/11
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