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2009年1月15日 (木)

感覚の基本とか

<p><p><p><p><p><p><p><p><p>■感覚の基本とゆーと・・・   2000/10/1</p></p></p></p></p></p></p></p></p>


  視覚が無い生き物はいるが、
  触覚が無い生き物はいない。

                    (『羊書』テーゼ?)




  視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ

                    (『エクリ』から『構造と力』に引用)

 
 
 
 
 
 

聴覚は触覚が外延空間を対象として拡張したもの。人間の心身の統御にいちばんの影響をあたえる知覚であり、死に際して最後まで機能している感覚でしょう。




(2000/10/1,2009/4/7)
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2009年1月13日 (火)

享受・受容・感覚の位相?

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>■感覚の位相つーかなあ・・・   2000/10/11</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>


代謝レベル      体内感覚     内臓性 ↓  体内感覚

分子レベル      味覚、嗅覚    浸潤性 
  味覚
                             ↓  嗅覚
物理レベル(ロー)  触覚と運動   接触性 ↓  触覚
物理レベル(ハイ)  聴覚       共振性 ↓  聴覚
物理レベル(超)   視覚         化学性 ↓  視覚
  
情報レベル      脳、神経      情報性  ↓  頭脳感覚




 人間の認識を言語のレベルでだけ考えても限界があります。
 それぞれのレベル間での情報の交換や照応の中で特定レベルからの認識の志向性がどのような具合に遠隔化されたり近隔化されたりするのかを考えます。下層レベル(より身体寄り)の鍛練をすると上層レベル(より観念寄り)の認識力が強化されることはアメリカをはじめとして乳幼児教育から健康増進の現場で確認されつつあります。

 もちろんスタートでありゴールである原意識・原志向性生成する“場” を把握理解できなければどのような認識論もソーカルごっこの相手をしなければいけいことになるワケです。

2000/10/11
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2007年2月15日 (木)

ハイ・イメージ論の可能性

現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』

●<組み込み>というマジック

 ホント?にマルクスを読んだ人間ならばワカルコトに「組み込み」とか「埋め込み」という概念があります。ヘタな例えをすれば、免疫の仕組みやオートポイエーシスのシステム論のようなもの。体内に入った異物は白血球によって捕捉されてはじめて<異物>つまり自分とは違うものとして認識されます。つまり異物は白血球の内部に<組み込>まれてはじめて<異物>として認知されるワケです。免疫機構は<異物>を<組み込>むコトで<対象化>するという仕組みになっています。

 マルクスは同じように<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく....と考えました。マルクスのいちばん難解?な<人間的>とか<有機的自然><非有機的>だの<自然的>とか<人間的自然>とかいう概念の定義や相互関係は、この<組み込>の論理によってトーナリティを持ち、それがマルクスの世界観の基礎を形成しています。また唯物論そのものがこの<組み込>みを通してマルクスの思想に内化されているともいえます。

●マルクスの<組み込み>への批判

 <自然>を<組み込>むことで構成される<人間的>世界は、それがひとつの時空間の系として<入れ子>となり単独の世界を構成しています。

 これに対しての批判的な検討というものを見たことはありませんが、吉本さんが『ハイ・イメージ論Ⅱ』の「自然論」でライプニッツの神から必然性を導き出し、ヘーゲルから自然の人間への組み込みを考察し、そこからマルクスの<組み込み><埋め込み>概念の検討へという仕事をしています。その論考そのものが貴重なものですが、驚くべきは、そこで吉本さんがマルクス批判をしていることです。
 この<組み込>まれるものを<精神>に置き換えた論議は吉本さんとフーコーの対談でのテーマでしたが、両者が相手に可能性を見出そうとするところで終わっており、残念であるのは吉本さんの読者共通の思いかもしれません。

 『ハイ・イメージ論Ⅱ』収録の「自然論」におけるマルクス批判は以下のようなもの。

       -       -       -

 P180)
 本来的にいえば摂動(ゆらぎ)として、余裕、反響、戯れ、遊び
 として存在した交換作用を、ぬきさしならない「組みこみ」の概
 念に転化してしまった・・・

 P180.181)
 ほんとうは人間という自然の一階程は、そのなかに非有機的な
 階程と、植物的な階程と動物的な階程をぜんぶふくんでいて、
 これが余裕、反響、戯れ、遊びとしての摂動(揺らぎ)を人間に
 あたえているにちがいないのだ。これは本質的にだけいえば人
 間の不変の条件としてあるはずなのに、マルクスの人間という
 自然からは消えてしまった。

       -       -       -

●<考えられらたもの>の限界

 科学的な認識だの論理的な孝察が概念の均一性を前提としたある蓋然性に依拠したものであるという思考の限界の中で、たとえばフーコーは中国の分類方法に何らかの可能性を見出そうとし、最期には、それもある蓋然性でしかないことに気がつき『言葉と物』における自身の方法論に懐疑を持ちます。

 フランス革命を準備した百科全書だろうが、世界を革命できると説いた唯物論弁証法だの史的唯物論だろうが、自然と人間の入れ子構造のトーナリティである関係をマテリアルの基本に据えつけたマルクスだろうが、それが思念されたもの、考えられたものでしかない....という限界に、吉本さんは気がついてしまいます。
 奇書とさえいわれる『アフリカ的段階について』のベースにある問題意識はそういうものです。そして、そういうスタンスこそがフーコーが可能性を見出そうとした博物学民俗学からの成果を現実のものとして探究のなかに取り込んでいける唯一の可能性でしょう。

           
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●<身体>の<階程>へ

 A.スミスの論考に労働から哲学が生じるポイントを見出したり、価値の差異を身体の内臓の差異にまで還元する論理を探し当てたりした吉本さんは、ついにマルクスの<組みこみ>の概念にも限界を見つけてしまったわけです。
 しかもこれは三木成夫の解剖学をはじめとするあくまでマテリアルな基礎を前提とするもの。身体内に植物的階程動物的階程を峻別することによってはじめて可能となる孝察であり、それぞれの階程とその環界に対するそれぞれのレスポンスを統合的に内化していくシステムとしての身体にあらたな人間主体を見出したともいえるでしょう。もちろんそのような概要なり前提が理解できないものには「奇書」という評価が限界かもしれないのが、現在のレベルであることも確かかもしれません。

 コジェーヴがアメリカに見出した「動物化」はマルクスが資本主義に見出した「動物」そのもの。しかし吉本さんはそのマルクスの「動物」的概念を、個々人に内在する動物的階程への還元という....A.スミスが労働する身体に哲学や価値を見出したのと同じ手つきで....ベクトルで探究していきます。

 『ハイ・イメージ論Ⅲ』の「消費論」では現在の消費資本主義の日本をテーマに「動物」概念が考察され、その後の展開は広く開かれたまま終わります。
 『ハイ・イメージ論』は批判学ですが、『アフリカ的段階について』他いくつかの言説ではまったくちがったベクトルを見出せるものもあり、人間の肯定としてのそれらの論は文芸をはじめとしたあらゆる表現への賛辞としての趣をもっています。そのスタンスで書かれたのがコム・デ・ギャルソンへの評価であり、J.ケージ論です。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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       -       -       -

読書と映画をめぐるプロムナード「音と言葉の交流、「音楽機械論─ELECTRONIC DIONYSOS」(吉本隆明、坂本龍一著)」にポストモダンに突入(超高度経済成長をはじめた)した日本を、音楽の面から語った教授(坂本)と思想家(吉本)の対談本が紹介されています。引用されている小沼純一さんの「実はそういうところから音っていうのは作られるんだよ」という言葉がデジタルへのラディカルなクリティークになっていたり、今こそ新鮮で必要なテキストかもしれません。

           
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       -       -       -

「哲学の科学」では「哲学は、なぜいつも間違うのか?」などほか科学をベースにさまざまなアプローチで人間、言葉、思考、感覚といったものへの思索がめぐらされています。その根源的な問いは現代社会だからこそ新鮮。必読のWEBです。

(2004/12/7,2010/10/17,2011/12/31)

2007年2月10日 (土)

感覚に志向性

●人混みでオシャベリできるワケは?

 騒音の中で意識した音だけが聴こえるのがカクテル効果。
 街の雑踏の中で友だちや彼女とオシャベリできたりするのもこのおかげです。景色でも同じ。視覚のすごい情報量の中から探してるものを見つけだすことができます。森林の中で鳥を見つけたり、道路に落したコンタクトレンズを探すことができます。

 これは意識が感覚に志向性を与えてるコトを示してるわけです。
 そして単なるフィルター効果とはチョット違う、もっと積極的なもので、対象だけに対して鋭敏になるということでしょう。
 感覚が鋭敏になるというよりも、対象(だけ)への志向性を持つということ。

       -       -       -

 ポイントは志向性。

 問題は、この志向性を生み出しているものは何か? ということですね。

 感覚が鋭敏になるだけなら、その感覚が対象としてる情報すべてが増大するでしょう。視力がよくなればすべての視覚情報がよく見えるようになる....。そうではなくて、探してるものが見つかるという時の感覚の敏感さとはどういうことなのか。
 特定の対象に対する感覚の鋭敏さ。
 なぜ探してるものに対してだけ敏感になるかということですね。
 静態的なクオリアではなくて、対象への志向性が感覚を鋭敏にしてる、そのことそのものが問題です。

       -       -       -

 それから別の問題として、対象への志向性が強過ぎて感覚レベルでの時空認識構造のグレードを超えるとか変成させてしまうと、幻覚や幻聴が生じると考えられます。幻覚された感覚の指示決定によって通常の自己確定ができなくなる、ということ。これが妄想や幻覚、幻聴。もちろん逆に自己確定できない情報が幻覚や妄想を生成する可能性にもなります。

       -       -       -

 感覚器が関与しない外部認識はあり得ない。
 もちろん内部認識=観念≧思考には感覚器が関与しない。
 それでも外部認識用の外胚細胞から脳や神経や眼球が形成されるのは、全ての認識は外部との関連によっていることの発生的な証し。外部への認識は感覚を通じた構造を経由してのやり取りで、感覚構造への内部からの変数や係数をバイアスにしたマテリアルだということです。
 もちろん<物自体>にアクセスできません。
 その分だけ観念(性)が発達しています。
 自分の感覚構造を経由した情報を認識するシステムは生物全般にわたって共通です。


●イメージを超えるもの

 ところで幻覚ではなくても何らかの像を想像することができるのも人間の特徴です。
 これは外部認識とは関係しない、内部認識=観念≧思考だけによる、その分だけ観念性が高まった認識で、斎藤さんが『戦闘美少女の精神分析』でコアな論拠としてる「直観像資質」とかヤスパースや吉本さん『心的現象論序説』で言及してる「主観的視覚的直観像」と呼ばれる認識作用が代表でしょう。

 そして斎藤さんが鋭く「直観像は、むしろイメージを超えるものとして表象の外部に存在する」と指摘してるように、「イメージを超え」「表象の外部」のものです。つまり視覚情報という類のものではなくて、もっと動態的なもの。
 ターム的には誤解されやすいですが。これは意識が運動の観念の志向性を取りながら想像へと表出したもので、像と認識されますが、その実態は内部認識としての運動の観念の志向性そのもの。
 だから想像行為が現実的な運動行為へと発展?(変成?)するにしたがって消失していく傾向がある能力(認識力)です。

       -       -       -

     個体にとって<そこに在ること>が
     <そこに居ること>として認識された瞬間から

     関係の空間性とその了解の時間性が生じる。
     これを原関係と原了解とする。

       -       -       -

 <そこに在ること>という現存在了解は観念のスタートと自由度を示しています。それが現存在了解の意味ですね。
 この認識の次元(≧時点)から「根源的脱自態」(メルロ=ポンティ)の概念を導入しようとした『構造と力』の浅田さんの企ても理解できますが、それだと認識にとって最大のポイントになってくる「志向性」の概念による展開が不可能。<原関係>と<原了解>(セットで現存在了解!?)から<志向性>による遠隔対称化で認識が高度化・複雑化していく過程の説明ができません。

       -       -       -

 TPO=場所的限定から空間認識と時間認識の錯合した認識構造が展開していくパースぺクティヴこそ人類の観念にとっての本源的蓄積でしょう。それを解く重要なポイントが<志向性>であり、<遠隔対称性>です。

 「志向性」によるペースぺクティヴを捨象して認識論を展開しようとすると「視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ」(ラカン)という主張をアプリオリに設定しなければならないわけです。あるいは、それを全部資本主義のマテリアル(経済=モノゴトを媒介にした関係)による構造物=構成態=機械だとするのは共産主義者であったドゥルーズ=ガタリのレベルでは有効だとしても、それではアメーバの認識さえ解明できないでしょう。<志向性>のない認識というものはあり得ないからです。

(2000/12/26)

2007年2月 6日 (火)

音からわかるコト

●自然の音

 風の音や木々のざわめき、せせらぎの音、山鳴りから小鳥のさえずりに猛獣の咆哮まで、さまざまな自然音があります。全宇宙的なピンクノイズや遠い嵐のようなホワイトノイズまで、アナログとシンセサイザーのオシレーションで遊べるあらゆる音のベーシックな成分、それが自然音の原音でしょう。

 あらゆる音はここから分節化され微分されたもの。フィルターとなるのは生命システムでありマシンでありサインウエーブに対するバリアブルフィルターとレゾナンスです。

●人の声

 でも、人間にとって大切な音は基本的に一つだけ。それが人間にとっての音の原音でもあるんですね。それがです。

 そしてツノダテストで確認されているように、無意識下での母体の声への認知と脳幹のレスポンスから、それが究極の声として脳神経系全般を支配していることがわかります。

 胎児以来、人間の声に対するリーチングは変わらず、それが恋愛から病までのラジカルなファクターでもあるワケです。

●2つの音

 声が他の音と違うのは倍音構成のクラスターが複数あること。ホルマント構造といいますが、倍音構成に複数のピークがあり、そのピークを中心にしたクラスターが複数あるワケです。基音が最大音でピークとなりそれに整数倍音が乗ってる通常の楽器音などとの大きな違いですね。ホルマント構造は基音が複数あるようなもので、これは言語でも母音の特徴となってます。子音にはこのホルマント構造はありません。通常クラシックのオーケストラの演奏はどんなに壮大に響いてもホルマント構造にはなりません。

●ホルマント構造の意味

 どんなに人混みの中でもこのホルマント構造にフォーカスする聴覚の知覚によって特定の人間の声を聴き取ることができます。特に自国語の母音には鋭敏になっています。また聴き取りを意識していなくても母体の声には脳の認知システムは10000分の1秒というスピードでレスポンスすることが確認されてます。脳梁では聴覚認知システムのシフトが起こり、声や母体の声へのフォーカスが瞬時にはじまるワケです。しかも無意識にです。

 ホルマント構造の典型的な音声?を出すのがホーミーで、ユーミンもそうです。ダウンタウンの松本さんなど印象に残る声、心理学的に説得力があるとされる声の多く、ヒトラーの声も典型例とされています。高調波倍音が多いためにオシロスコープでいえば典型的な矩形波になるでしょう。

           
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●12音階の意味

 ホルマント構造の必要条件はピークやクラスターが2つ以上あることです。12音階の範囲内でいえば等価に近い音が2つ同時に鳴っていればホルマント構造と近似といえます。1度と4度の関係がそうです。

 4度音を不協和音とするクラシックには、そもそもホルマント構造はありません。逆にいえば脱ホルマント構造という志向こそが西欧12音階音楽なのでしょう。
 これが12音階形成の歴史であり、モダン化です。
 問題は、なぜ4度音を排除するようになってきたかということです。

●音楽の意味

 クラシックや西欧音楽そして12音階をはじめとする大部分の音楽の効用といえば、大脳の右半球を刺激することでしょう。言語認識が左半球によって行なわれ、これが過剰に続く日常生活の中でバランスをとるとすれば、右半球を刺激する音楽を聴くのがベスト。これは右半球が優れているということではなくて、左半球とバランスをとることが大切だということ。一般的に右半球がすぐれているという説は間違いです。大切なのは左右のバランスです。

●TK音楽の意味

 人の声を原音として、あるいは心理的な原風景として数1000曲を作ってきた人間。小室哲哉とはそういう人間であり音楽表現者です。

 小室の音楽をめぐる考察が世界トップレベルの音楽理論をも超えてラジカルな文化論として読める『楕円とガイコツ―「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」』という本があります。それはエスノを敗北ととらえ結局はインド・ヨーロッパ語の範疇から一歩も外へ出られない“悲しき熱帯”的な認識や“場”を勘案できないデリダ、高級?言語を評価するエンゲルスやレーニンなどと比較にならない深い思考と、ウエーバーの音楽社会学に指摘される3度音の採用と4度音の排除というクラシックの支配権正統化手順まで見破っていくスルドイ認識論的切断を示してくれます。ホンモノのサブカル研究でもあるでしょう。

           
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●インテグレートの意味

 言葉だけの民族はいるが、文字だけの民族はいない。
 口承伝承は今に続くが、文字による記録は断絶しがち。

 アーカイブがバグれば“ハイ、オシマイ!”程度の文化に未来の可能性はないでしょう。遺伝子に獲得形質としてインテグレートされ続けてきた能力の基本こそ感覚なんですね。
 たとえば、マルクスってそんなコトまで言及してたりします。

 それから、湯川秀樹博士しか評価していないらしいツノダテストだけど、その認識の根本として聴覚と脳のメカニズムに対するラジカルな考察と実験は貴重なもんだと思います。

(2001/3/20,2009/4/7)

2007年2月 3日 (土)

「音楽は郷愁だから」という原点

 

 音楽....いろいろあるけど、郷愁だから。

       -       -       -

 2時間のドキュメント番組「ユーミンの遥かなる音と魂の旅」でユーミンが何気で真理を語ってました。フィンランドの民俗音楽を聴いて「なんだかすごく懐かしい気がして」涙を流したり、鳥肌を立てたり。TKがはじめて華原の朋ちゃんの歌声を聴いた時に泣いたのも同じ理由なんでしょう、きっと。音楽を聴くとか何かの音を聴くという行為に共通するのは主体の受動性です。
 聴覚は受動性の感覚。受胎した瞬間から胎児は母体の音を聴いています。聴覚が生成する以前どころか、受精卵の細胞の段階から母体である環界のさまざまな影響は受けているわけです。(人間の脳幹は意識しなくても実母の声だけに反応し、ツノダテストによればそのスピードは1/10000秒。これは細胞内外のイオン反応の応答スピードのレベルであり、神経伝達のスピードの数倍から10数倍の速さです。細胞の代謝レベルの反応です。)
 一方、視覚は能動性(運動性)の感覚。映画やアニメを見るとか何かをコレクションするのは視覚による対象の享受ですが、対象へ働きかける(見る)という行為と、そもそも対象そのものへ近づいたり手に入れたりという行動や、そうしようとする観念がともないます。

       -       -       -

 音楽がどうして哀愁をおび、受動性の感覚なのか?
 幻聴は患者にとってどういう意味をもつのか?

       -       -       -

 幻聴や幻覚はあっても幻触?や幻味?はほとんどありません。これはそれぞれの感覚と共同性(均質空間による認識≧思考の前提条件)との対応関係に大きな違いがあるからで、指示決定は共同性の最たるものであり、均質空間を媒介とした認識を仮構するものと考えられます。逆に、空間の均質性だけが共同性を仮構する認識を可能にすると考えられます。均質性を前提とした観念が概念(性)であり、思考と認識の前提です。視覚と聴覚を可能にしている可視光線と空気振動は感覚器の対象としてはいちばん空間的な均質性が高いものでしょう。

 統合失調症が現存在分析の大きな手がかりとなるのは、基本的な意識が受動性として発現、自覚されているからです。妄想が受け身であることは象徴的。それは常に被害者意識として自覚されますが、本質的にこれは逆で、受動性として発現するから被害者意識になるワケです。受身であることは同時に原点であることと同じだと考えられます。
 たとえば、この原点の状態に戻って認識したときのイメージの代表的なものがデジャヴそこではすべてが懐かしく感じられます。音楽が郷愁である理由は、たぶんデジャヴと同じであるか共通点があるでしょう。人間の原点に戻っての認識だということです。無意識下に1/10000秒でレスポンスしてしまう音こそがその原点かもしれません。

       -       -       -

 デジャブは個体が<そこに在ること>の
 自己関係自体と自己了解自体の心的な表出である。

       -       -       -

 <そこに在ること>という現存在認識からはじまる人間。

 すべては....
 <ココはドコ?>
 <ワタシはダレ?>
 ....という原点からはじまり、原点へ戻っていくワケです。

(2003/3/15)

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動物とペットの違いは?

 心の発生に関してはゾウリムシから人間までたぶん同じではないでしょうか。人間が他の生物と違うのは認識の仕方そのものとそこへ致る心の発展の仕方とその内容。現実に生活しているリアルな環境での空間認識と心理はアナロジカルにも人間と動物で共通するところは少なくはないかもしれません。そんなワケでアバウトですが、ペットの動物と野生の動物の違いが、ある面ではヒントになるかもしれないですね。

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 ペットの動物と野生の動物の違いは空間(性)の認識の違い。

 野生の動物の空間認識の基本は対象との距離(感)で、それは認識上の空間性と物理的な空間とが比例?するような空間認識です。

 認識とマテリアルが一致しているワケです。簡単にいうと対象との距離が遠ざかれば認識上も遠ざかるようなものです。
 便宜的に3段階の距離(感)が想定できます。
 内(空間)・中(空間)・外(空間)の3段階です。

       -       -       -

・内空間は即自的空間。
 自分の身体であり、いつも触れ合ってる子供やパートナーも含む空間。

・中空間はナワバリの空間。
 自分たちの活動の範囲であり、いつも把握できている空間。

・外空間はナワバリの外の空間。
 敵も獲物も存在する、アプローチするまで把握できていない空間。

       -       -       -

 野生の動物はこの空間認識がほぼ物理的な空間性によって規定されるワケです。野生の場合、外空間に何かが現われれば情報としてキャッチし、それが中空間に侵入してくれば敵として闘争するでしょう。

 ペットだと外空間がなく中空間と内空間の差もあるかないか程度で、認識は変容してます。ペットの変容した空間性(距離感)では物理的な空間性としての内・中・外の区別がありません。飼主は認識上は内空間の存在なのでペットを触ってもいいワケです。
 また本来飼主以外の人間は外空間の存在ですが、ペットは飼主以外の人間に対しても闘争的ではないです。理想的なペットというのはすべてを内空間として捉えてるような状態の存在でしょう。

       -       -       -

 ここで大切なのはペットがすべてを内空間としてしか捉えていないように見えても、実際には物理的な3段階の差異をすべて内化してしまっているだけで、認識上は3段階の差異があり、各段階に基づいた反応もあるということですね。
 つまり物理的な3段階の差異をすべて内化して内空間性だけになっているように見えますが、現実には3段階のレスポンスを示すということです。
 たとえばすべてが内空間性だけに見えるペットですが、近づいたり触れたりしたら突然鳴いたり、噛みついてきたりしたことがあるでしょう。この場合、通常ならば人間に対して内空間認識しかないハズのペットが外空間の対象として人間を認識し、近づいたり触ったりしたコトで警戒や闘争の反応を示したワケです。

―――――――――――――――――――――――――――――
 視覚的なニュアンスで近景・中景・遠景といった捉え方もできますが、その場合は視覚情報以外が捨象されてしまいます。感覚や認識においていちばん大切なのは対象との関係や対象(から)の享受におけるマテリアルな過程なので、視認情報だけで分析するのは一面的でしかありません。問題は認識とマテリアルの差異にあります。

 斎藤環さんが「メディアと想像界の相互作用」(『戦闘美少女の精神分析』)などで提起している問題や社会システム論などの大きな問題がこれらに含まれるでしょう。

(2000/11/2,2003/3/10)

2007年1月28日 (日)

感情の生成するとこ

<感情>とは
<時間>として了解すべき判断を
<空間>として作動させている状態である。

 
あるいは
了解作用の<時間>性が
<空間>性として疎外されている状態である。

 
空間化された了解作用が、
対象を受容するための本来の空間化作用と二重に錯合して対象を措定するのが
感情である。

 
<感情>は消滅するのではなく、
心的な時間性の<空間>化という本質的な作用の強度に転化する。

 
対象に対する知覚の空間化度と
対象への了解の時間性が空間化した感情がシンクロした場合、
これを<純粋感情>とする。

       -       -       -

ハイデガーだと....

世界・内・存在の仕方とし、この存在そのものから立ち昇ってくる

 

............ですが。

(2001/7/29)

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