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2009年3月 7日 (土)

『カール・マルクス』市民社会を解き明かす方法

 〝市民社会・法・国家〟の関係を解き明かしていくマルクスから吉本理論が何を獲得したか、吉本理論によるマルクスへの評価といったものが明らかにされています。ヘーゲル/マルクスというオーソドックス?な関連から、その読解の仕方まで、吉本理論のラジカルでベーシックな原理とスタンスが明らかになります。単なるマルクスへの批評としてもシンプルで原理的ながらすべてを押さえている深さとパースペクティヴが圧倒的です。
 社会-国家あるいは宗教における<共同幻想>の展開 が明かされていて、ヘーゲルから継続する〝観念の弁証法〟の普遍性と方法論としての確実さが明らかにされます。心的現象論的なアプローチとともにある意味で吉本読解の前提として必読の書でしょう。

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 マルクス主義のガイドやマルクスの人物伝は少なくない。しかし書き手に思い入れがあるせいかヤケに熱かったり冷笑気味だったり左右両派?のポジションの滑稽さをそのまま表明したようなものが多く、ましてや理論的な真偽や価値となれば失望さえする。
 マルクス思想の研究では構造主義以降の見解でマルクスの初期と後期では認識論的切断があるという立場が目立つ。ニューアカから全共闘のノスタルジーが漂うものまでそれは共通するようだ。構造主義は弁証法を超えた、物象化論は疎外論を超えた、関係論は存在論を超えた、経済システム分析は素朴なヒューマニズムに優先する....。
 本書では『経済学・哲学草稿』 に代表される初期マルクスと後期の『資本論』 がまったく同じテーマを同じ方法で追究していることが解き明かされていく。これほど簡明でしかも根源的なマルクス論は他にないかもしれない。おそらく稀有な一冊だろう。
 それどころか共同幻想や純粋疎外などのタームに象徴される著者の思想や理論的なスタンスがまるでマルクスのように一貫したものであることもわかる。だがアインシュタインが10代で相対性理論を発見しながら、それが表現できるようになるまでに長い月日を必要とした(に過ぎない)ことを考えてみるとそれも不思議ではない。優れた哲学者はたった一つのテーマを持つという某有名哲学者の言葉はきっと真理なのだ。
 疎外がどのように再帰し、その展開がどのように共同化するのか。本書は簡単に巨大なマルクスの思想を根源から理解できる珍しいマルクス本だといえる。いまだに諸説乱れる国家論や経済学の根本、大衆論や宗教の起源までもが驚くほど簡明に解き明かされていく一冊は読者を限定することなく必読だろうと思わせるものがある。

           
カール・マルクス (光文社文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥500
価格:¥500

   

(2006/06/14)
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2009年2月 3日 (火)

<直線>という抽象をあらわすもの

 人間は具体的な自然を対象にしているのに高度な抽象である<直線>を(で)あらわすのはナゼか? 『心的現象論本論』「目の知覚論」ではその理由を<感情>であると呆気なく説明しています。ただし『本論』ではそうですが『心的現象論序説』では独立したⅣ章として「心的現象としての感情」があり、吉本理論のオリジナルティの典型的な例でもあるかのような詳細な解説がされていて、そこには時空間概念で厳密に定義された<感情>があります。吉本理論をめぐるさまざまな論議ややり取りでもこれほど取り上げられていないパートはなく、ほとんど誰もタッチしていないのではないでしょうか。

       -       -       -

 

   <眼>の知覚はこの種の線分の集合から、
   いつも<さっぱりしたい>という感情を誘引し、
   知覚にみちびき入れる。

           「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P16)

 

       -       -       -

 『本論』では以上のように{<さっぱりしたい>という感情}が{<眼>の知覚}から誘引されるのだ、と説明されています。そしてそれが知覚へ再帰するということです。

 知覚の感官のサイドから考えれば、まず、これは閾値の問題です。
 <眼>の閾値にストライクする刺激であるかどうか、ということで、刺激量の最小限/最大限が規定されており、もっとも感官にとって無理なく受容できる刺激の質や量が問われているのだと考えられます。閾値の中央に分布する刺激であれば感官は無理なく受容できます。
 そして、それは内臓感覚(植物的階程)的な自己表出として<さっぱりしたい>というオーダーに応えるもの。外刺激に対して感官が内臓感覚と体性感覚の再帰=フィードバックの結果として収斂していく過程だと考えられます。常時環界に接している感官と心身が、その接点である知覚を環界に対して最適化していく自然過程のひとつであり、アフォードとリーチングのマッチング過程ともいえます。

       -       -       -

 『心的現象論序説』から『ハイ・イメージ論』まで貫き、言語論のいちばん大きく根底的な問題でもある<純粋概念>の初源がここにあります。つまり自己表出(自己確定)と指示表出(指示決定)の初源がここにあるということです。哲学的にいえば対象と主体の峻別(が)できない<何か>がここにあるのです。M・ポンティなどが問題提起しながらも対象化しえなかった、つまり把握しきれなかった問題です。

 それが<純粋概念>です。
 <自他不可分>であった胎児からはじまる観念の根本であり初源です。
 観念が了解と対象に分離しつつ、それそのものも観念の了解の構造にビルトインされている(いく)というベキ乗の再帰構造こそが遺伝子以来生命としての特徴です。
 吉本理論は三木成夫の解剖学に依拠する部分も大きいですが、『心の起源』(木下清一郎)などによれば遺伝子レベルの自己複製構造そのもの、その再帰性や入れ子構造にすでに〝心の起源〟が見出されるということで、『序説』が再帰・自己言及の構造に観念の起源と特徴を見出しているのと同じ観点がみられます。

 <純粋概念>は再帰する際に自他不可分になる了解と対象の関係性ですが、逆にそれは再帰するから自他不可分になるともいえる逆説的な両義性のうえにあります。それらが<入れ子>構造として<恒常性>を保ちつつ継続しようとするのが個別的現存であり個体としての人間です。

       -       -       -

 自然対象を抽象的な<線>へと変換する必然性はこの<純粋概念>を<ゼロ>としてどちらか(どこか)へ了解のベクトルがシフトする<基点>として仮構され作用します。人間の観念≧認識が<自由>であることを獲得できたのは、この<純粋疎外>を<ゼロ基点>(時点ゼロの双数性)として作用するところにあると考えられるでしょう。このアフォードとリーチングの組み合わさった<入れ子>構造こそが心的現象の初源なのです。そこからの遠隔化はあらゆる人間の営為のバリエーションと高度化の原動力となってきたワケですが、同時に、この遠隔(対称)化の阻害とそのマテリアル化が病と異常の根拠として抽出しえるところが吉本理論のひとつの大きな可能性といえます。

2009年1月20日 (火)

心的システムという究極

 心的システムという究極へ向かって生成するのが心的システムそのもの。境界を自己生成するという生命の特徴そのものを論拠としたクールなオートポイエーシス理論はラカン派がシステム理論との融合?をトライするキッカケを作ったりしました。<境界>そのものは何なのか?というオーダーをすれば吉本理論からの次のステップである<境界=ゼロ>のヒントとなります。<自他不可分>の<純粋疎外>状態の定義です。

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『オートポイエーシス―第三世代システム』 (河本 英夫・青土社)

 従来のシステム論を超える第三世代のシステム論として「オートポイエーシス」が考察される。結論からいえば「オートポイエーシスは境界をみずから作り出すことによって、そのつど自己を制作する」と著者は考える。
 そこでオートポイエーシスのなかでも最も複雑で典型的な自己言及システムである心的システムが考察される。心的システムの固有の特徴として観察システムの出現が指摘され、最終的な問題提起がなされていく。観察システムの本性として「自己を世界との関係で捉え」ることが論証され、ルーマンやドウルーズへの批判的な検討とともに無意識への否定が示され、システムの基本的定義に戻る....。
 カフカの『審判』を題材にした終章は『審判』そのもののように開いたまま閉じられる。それは読者個別のそれぞれの現実に作動可能な一冊だということを示してるようだ。

 本書は理論書だが、本書から大きな影響を受けた本として斎藤環の『文脈病』があり、斎藤の現在の批評活動そのものもシステム論との反復作動が目立つ。

 またオートポイエーシスの最重要概念である「自己の境界を区切るというシステム-環境」を支える「位相学的座標軸」などは、ほとんど吉本隆明の『心的現象論序説』における基本概念の「原生的疎外」「純粋疎外」などの位相学的構成 とオーバーラップする。
 本書はさまざまな散種が期待される一冊だといえるだろう。

           
オートポイエーシス―第三世代システム

著:河本 英夫
参考価格:¥2,730
価格:¥2,730

   

(2004/3/26)
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2009年1月15日 (木)

感覚の基本とか

<p><p><p><p><p><p><p><p><p>■感覚の基本とゆーと・・・   2000/10/1</p></p></p></p></p></p></p></p></p>


  視覚が無い生き物はいるが、
  触覚が無い生き物はいない。

                    (『羊書』テーゼ?)




  視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ

                    (『エクリ』から『構造と力』に引用)

 
 
 
 
 
 

聴覚は触覚が外延空間を対象として拡張したもの。人間の心身の統御にいちばんの影響をあたえる知覚であり、死に際して最後まで機能している感覚でしょう。




(2000/10/1,2009/4/7)
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2009年1月13日 (火)

享受・受容・感覚の位相?

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>■感覚の位相つーかなあ・・・   2000/10/11</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>


代謝レベル      体内感覚     内臓性 ↓  体内感覚

分子レベル      味覚、嗅覚    浸潤性 
  味覚
                             ↓  嗅覚
物理レベル(ロー)  触覚と運動   接触性 ↓  触覚
物理レベル(ハイ)  聴覚       共振性 ↓  聴覚
物理レベル(超)   視覚         化学性 ↓  視覚
  
情報レベル      脳、神経      情報性  ↓  頭脳感覚




 人間の認識を言語のレベルでだけ考えても限界があります。
 それぞれのレベル間での情報の交換や照応の中で特定レベルからの認識の志向性がどのような具合に遠隔化されたり近隔化されたりするのかを考えます。下層レベル(より身体寄り)の鍛練をすると上層レベル(より観念寄り)の認識力が強化されることはアメリカをはじめとして乳幼児教育から健康増進の現場で確認されつつあります。

 もちろんスタートでありゴールである原意識・原志向性生成する“場” を把握理解できなければどのような認識論もソーカルごっこの相手をしなければいけいことになるワケです。

2000/10/11
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2009年1月12日 (月)

リスペクト!『心的現象論序説』

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>■宣伝『心的現象論序説』つーかねえ・・・   2004/4/7</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>

 『心的現象論序説』の宣伝・プロパガンダ?です。
 吉本理論の原理論でありながら絶版?になっている『心的現象論序説』。未刊行の心的現象論の「本論」と絶版の「序説」を合わせて豪華本『心的現象論』がでましたがオンデマンド本?&豪華本ということで大変な高価なものになってます。吉本隆明の最強資料集を構築しつつある猫々堂さんの「吉本隆明資料集」からは「本論」が分冊ででています。

  フロイトとマルクスと、オートポイエーシスの心的システム論などをも参考にすると難解で有名なこの『心的現象論序説』を理解するにはプラスですが、ソシュールもラカンも紹介されてない38年も前に、これだけの思索をした吉本さんの驚異的な能力にリスペクト!です。

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 ある意味で『心的現象論序説』はフロイトの理論をマルクスの疎外概念で再把握し、自己組織論的な位相概念を導入したものです。
 フロイトへの緻密な孝察は、フロイトを批判する各種の言説へのスルドイ検討をともなっていて、その過程で実存主義や現象学へのラジカルな批判もなされています。それ以外の理論展開でも、ベルグソン、ハイデガー、フッサール、Mポンティといった思考の原理に迫るいくつもの思想への鋭利で深い洞察がなされ、ジャンルやカテゴリーを超えた理論が展開されています。

 現存在でしかない個体への身体理論的なアプローチや、心が生成する時のフロイト的な着想心を表出させる時ソシュールやチョムスキーを先取りする視点、統御されつつ変化する個体のシステム論的な孝察、倫理や宗教の原点をフォーカスする原理的な思考の射程....。

 カテゴリーを超えた人間の原理論としてこそ評価されるべき内容が『心的現象論序説』にあります。

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心的現象論序説 改訂新版

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 479
価格:¥ 479

   

(2004/4/7~)
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2009年1月10日 (土)

『母型論』は系統発生OK

『ハイ・エディプス論 個体幻想のゆくえ』

 『母型論』はワリとわかりやすく心的現象論を理解できるのでオススメです。
 『心的現象論序説』ではその後展開される吉本理論の基本概念や理論の基礎が構築されました。この『母型論』では心的現象のプレエディパルな部分を内コミュニケーション機能から解き明かしています。三木成夫を参照した以降の吉本理論(心的現象論)の基礎が言語論まで包括されてダイジェストのように提示されます。系統発生と受胎以降の発達をターゲットにした内容は、ラカンをはじめとした人間として形成された(以後の)個体を対象とする精神分析や心理学などに不足した部分をメインに展開される理論でもあり、必読の書です。

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 本書が初期3部作の、特に『心的現象論序説』の基本タームと理論の上に構築されていることに驚き、感心してしまう。たとえば、その一つは<純粋>概念をはじめとした理論展開だ。極論すると『心的現象論序説』とその後のその他の各種の論には認識論的切断がなされているのだが、そのうえで展開されるこの『母型論』にも『ハイ・イメージ論』にも、見事なほど『心的現象論序説』の基本概念にそった理論構築がされていて、ある種驚異的なものさえ感じることが出来るのだ。

 『母型論』ではもちろん『ハイ・イメージ論』の<パラ・イメージ>や<世界視線>という概念においても、そしてウイトゲンシュタインやソシュール、ラカンなどを取り上げる場合でも、この<純粋>概念をベースにした概念が決定的な意味を持っている。オートポイエーシスにおける<境界>に相当するような意味も含んでおり、その汎用性も普遍性も高いが、これほど知られていない?と思われるタームも少ないかもしれない。

 三木成夫の発生論的な認識をベースに、生命行為があくまで無機質からの遠隔対称性的な営みであることを示差しつつ、宗教へのジャッジとアフリカ的段階への射程を披露していく吉本の歩みは、この人が世界レベルの思想家であることを示すものだと思う。ここまでトーナリティを維持してきた思索を読めることは幸福だと思わせるほどだ。

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母型論

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,890
価格:¥1,890

   

2004/8/23
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「『書 文字 アジア』という贈り物」 に『母型論』と視覚、形態、概念、規範といったものをトータライズしようとしたハイ・イメージ論のベーシックな試みに触れる『書 文字 アジア』の書評があります。シズル感あふれる「与論島クオリア」のコンテンツです。

2007年2月17日 (土)

独解=<ゼロ>の発見

 

 対幻想            時点ゼロの双数性   (2001/12/18)
                  シーソーの基点=ゼロとして 

 遠隔対称性         シーソー          (2003/8/24)
                  ゼロを基点としてのバランス

 共同幻想          代入される空間性   (2001/12/5)
                  純粋言及=ゼロの代替空間として

 純粋疎外          ゼロの発見       (2004/4/23)
                   措定不能の時空間性として 

 無意識の多重性     自己矛盾と認知不全 (2005/5/13)
                  ゲーデル的限界と不可知空間として

       -       -       -

 オートポイエーシスの<境界>概念を<純粋疎外>概念で置き換えると吉本理論がとてもよくわかるようになります。<純粋疎外>を<位相ゼロ>だとすると、これはある意味でポストモダニストが夢想した理想的な構造主義の理論化であるかもしれません。システムの内部と外部を峻別する<境界>の理論的な絶対値として<ゼロ>を措定できるからです。またここを観念(意識)が志向性をもって生成していく過程の原点とすると<時点ゼロ>と措定できます。自分ではこれを<ゼロの発見>だと思って満足してます。

       -       -       -

 共同幻想はなぜ、どこに、どのように生じるのか?
 経済の最大のファクターである市場も、政治の最強の存在である国家も、明確には解明されていません。しかしそれらは共同幻想であり、その生成の根拠や由来を問うことができると示したのが<共同幻想>でした。

       -       -       -

 人間は個別的現存でしかないのになぜ人類が成り立つか?という若きマルクスの疑問に、吉本さんは<対幻想>という根拠を示しました。ニューアカに影響された自分は、それを<時点ゼロの双数性>ニューアカ風に表現してみました。相互に全面肯定=絶対認知される(ハズ)という幻想と、非肯定性による対幻想(全面肯定性)の非対幻想化(遠隔化)が考えられます。遠隔化された結果として共同幻想や個人幻想の属性を措定する吉本理論のスゴサは驚くばかりです。アルチュセールが毛沢東の矛盾論からインスパイアされたように、フーコーなどもこういった(理論化された)論理的な機序を知りたかったのではないでしょうか。

(2007/2/11)

独解、吉本さん

▲独解です....
 考えることが大好きな吉本さんの考えを好き勝手に「独解」してみました。独解を超えて曲解もGO。そこで気がついたこと、思いついたこと、考えてみたことなどがいくつかあり、なかにはこれはイケる!と自画自賛したいこともあります。(^。^)

 もともとはWEBで公開していたものですが、最後にカキコしてから2年以上放置していました。ナゼかというと月日が過ぎて説得力が無くならないか、無効にならないか、といったことを確かめたかったからです。やがて読者を数えるカウンターもゼロになるだろうし、風化したり経年変化するような主張は自分にとっても興味も無く、ましてやそこに価値を見出したりすることはできないと考えました。いちばん最初のテキストは96年なので、なんとスタートからは10年以上も月日が経っていることになります。インターネット創成期にはいくつかの本や雑誌でも紹介され、サブカルやオタク関連では斎藤環さんが書籍上で紹介してくれています。これは東浩紀さん、斎藤環さんらによる討論本網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』で、本屋で立ち読みして見つけたときには大変な感激でしたが、同時にちゃんと読んでいてくれる人が少なくないことには責任も感じました。そういったことも含めて、なおさらしばらくは放置してみる気になったわけです。

▲受動的な消費者ための....
 吉本理論に対しては解りにくいという声が少なくないのは確かな気がします。
 何よりも自分自身が吉本さんの本を読むのに苦労しました。全集をはじめ手当たりしだいに読んでいましたが、基本を理解しようと思い初期3部作にフォーカスしてみました。同時に趣味や大学でマルクスなど思想関係にも触れていたので、いちばん気になったのが吉本理論とニューアカとの関係です。バブル経済とともに知も商品となり、消費者が社会の主人公という了解が共有されつつある中で、これは重要?なテーマだと考えられました。

 消費者が主人公だという見解はアカデミズムや思想の世界では少なく、それだけ現実とのギャップが大きいわけですが、もちろん書籍や言説の中に真理や正しい考え方があるというスタンスは、実際の社会ではこれっぽっちも通用するわけがありません。真理は現実の中にしかないからです。しかし、行政(府=国家)はハイパーマーケット(巨大SC)に吸収されると予見するボードリヤールや、受動的な消費者こそ革命主体であると主張するルフェーブルなどの言い分は小数派でした。

 そういった情況の中で、淡々と数字を示しながら超高度資本主義(高度消費社会)で消費者=大衆が決定権を握りつつあると書いていたのが吉本さんです。経済学者で同じような根拠を示していたのは野口悠紀雄さんや中谷巌さんなど少数。自分の仕事でもあるマーケティングや企画調査の世界では常識なのですが、そういった消費者や一般的な生活の中からでてくる見解がプロや専門家の世界になるほど無いようなので、それが不思議でした。そもそもハードロックに狂っていた高校生の頃から、音楽評論家=プロが良いと評価する音楽と自分や仲間内で評価の高い音楽とのギャップに納得できませんでした。しかもヒツトするかどうかの予測もプロや評論家は50%以上外れるようになってきていて、つまり、音楽の評価に関しては決定権がすでに享受者=消費者そのものにあり、プロにはヒツトの予測すらできなくなってきたわけです。

▲TKが象徴するもの....
 その典型的な例として小室哲哉の登場とTKマジックがあります。爆発的な大ヒットを連発し、数年間にわたってNHKの紅白にも小室系の歌手を複数同時に出場させるほどでした。一方でTKは激しい悪罵も浴びました。ここで興味深かったのはTKを否定するものは作曲家、ミュージシャン、評論家などプロばかりだったこと。「音楽理論を無視している」「荒唐無稽」「わけがわからない」「カラオケ向けの商品」....しかもこれらの批判は当たっていました。現実の音(楽)が優先であって理論は後付に過ぎないこと、音(楽)を楽しむのにワク組はいらないこと、オーディエンスの聴く能力が試されること、カラオケで楽しめる大衆向けの商品であること....。TKの生み出す音楽は知が商品化したように消費者向けに商品化された音楽で、しかも、従来の音楽理論でフォローできないコードとメロディであり、それらはオーディエンスにある程度の緊張をあたえつつ新しい音(楽)世界に導いてくれるものだったわけです。でも、そのTKが自らの原点にしていたのは声と詩(言葉)でした。小室哲哉のモチベーションはあまりにもオーソドックスなスタンスにこそあったわけです。TKは間違いなく世界視線を示唆していたのではないかと思いました。

 別の言い方をすると市場という実態の動向(現実の価値)が言説でしかない評価(理論的価値)を超えるようになってきたわけです。または理論は言説でしかないので現実には通用しないということがバレてきた、ということでしょう。それでも理論に価値があるとすれば、その理論を主張している人にとっての自己主張、自己発現として。そのかわりそれは他者のジャッジ=第三者の審級を受けます。これはとても大事なことですが、それは他人にとっても価値のある理論か?という審判に常時さらされるということでしょう。

クールな理論として....
 もともと科学や物理、生物などが好きだった自分は、この世界は3次元で空間と時間の組み合わせですべてを説明できるはずだから....と考えていて見つけたのが『資本論』と『心的現象論序説』でした。
 経済は好きではなかったですが<価値>や<交換>を時空間概念で説明できるマルクスには感動しました。そしてもっと驚いたのが吉本さんです。いちばん科学的ではなく変幻自在で捉えどころがない、しかも専門書を読むと流派?ごとにアバウトか解釈が自由?そうな理屈のオンパレードになっている心理学や哲学。ところが『心的現象論序説』は心理現象が時空間性の組み合わせでキチンと説明されています。

 『心的現象論序説』の<ベクトル変容><遠隔対称性>などの概念も幾何学的なアプローチでブレの無い理解ができます。そのラディカルな概念と理論の組み立ては、まるで<水>が<H2O>と説明されているような感じでした。要所でフロイトへの深い孝察をもとに説明がなされていて、精神分析や心理学の王道も理解できます。さらにそれらの孝察は現象学や現存在分析への根源的な理解と批判にもなっていて哲学にケリがつけられてもいます。

 とにかく『心的現象論序説』はスゴ過ぎる本だったのです。

▲困難なガイド....
 現在、吉本理論と消費者をつなぐことをしてるのは糸井重里さんや渋谷陽一さんなど少数です。もちろんより専門的な立場から橋爪大三郎さんや森山公夫さん芹沢俊一さんなどがいますが、吉本理論がもっと若い世代や新しい層に多く読まれるためにはもの足りない感じがします。

 そういう状況での橋爪さんの〝社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?〟という問題提起はショックでした。吉本さんをどう記述するんだろ? あの難解な理論をどう説明するんだろ? だいいち説明できるほど理解した人がいるんだろか? ファン?やアンチの人たちの持ち上げたりコケにしたり、そんな言い分は目につくけど、吉本理論へのクールな解読やガイドは少ないし、アカデミシャンになるほどヘン?....。正当な解読はないのか?と思いつつ、それなら正当とはほど遠いけど自分の独解を読んでもらうのも無しじゃないな、というのが「独解、吉本さん」の企てです。前述したように単なる過去ログの再UP(多少修正有り)なのですが、特に自分で意味があると思っているオリジナルな解釈も含めて、いくつか読んでもらいたいものもあります。

 吉本理論でも特に心的現象論はフロイトへの深い解釈とそれへの3つのレベルの幻想の導入が特徴ですが、これは必然的にラカンと比べられる気がします。ラカンの三界論が相互に不可分であり、その説明すら別個にはできないのと同じに、吉本理論の幻想論や諸概念も個別の説明はムズカシイでしょう。
 ニューアカの聖典?でもある『構造と力』はラカンを構造主義の限界として紹介したものであり、またラカンの限界をソシュール的な認識と視覚像の認識の関係に見出した『文脈病』なども現在の必須のものでしょう。そのため自然にそれらを取り上げながら吉本理論を独解することになりました。また対幻想から共同幻想への遠隔化を権力(の構造)が生成する過程として描ける可能性は宮台真司さんの権力論にも見出せます。大塚英志さんの物語論的なアプローチは共同幻想論の位相ともシンクロします。
 <死>という最大のストレスに対する反応の微分と積分が物語であり、そのシステム化がマテリアルを用意し現存在分析をも踏まえて歴史へ表出しますが、吉本理論はその全過程をフォーカスしているのではないでしょうか。

(2007/2/17)

2007年2月15日 (木)

ハイ・イメージ論の可能性

現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』

●<組み込み>というマジック

 ホント?にマルクスを読んだ人間ならばワカルコトに「組み込み」とか「埋め込み」という概念があります。ヘタな例えをすれば、免疫の仕組みやオートポイエーシスのシステム論のようなもの。体内に入った異物は白血球によって捕捉されてはじめて<異物>つまり自分とは違うものとして認識されます。つまり異物は白血球の内部に<組み込>まれてはじめて<異物>として認知されるワケです。免疫機構は<異物>を<組み込>むコトで<対象化>するという仕組みになっています。

 マルクスは同じように<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく....と考えました。マルクスのいちばん難解?な<人間的>とか<有機的自然><非有機的>だの<自然的>とか<人間的自然>とかいう概念の定義や相互関係は、この<組み込>の論理によってトーナリティを持ち、それがマルクスの世界観の基礎を形成しています。また唯物論そのものがこの<組み込>みを通してマルクスの思想に内化されているともいえます。

●マルクスの<組み込み>への批判

 <自然>を<組み込>むことで構成される<人間的>世界は、それがひとつの時空間の系として<入れ子>となり単独の世界を構成しています。

 これに対しての批判的な検討というものを見たことはありませんが、吉本さんが『ハイ・イメージ論Ⅱ』の「自然論」でライプニッツの神から必然性を導き出し、ヘーゲルから自然の人間への組み込みを考察し、そこからマルクスの<組み込み><埋め込み>概念の検討へという仕事をしています。その論考そのものが貴重なものですが、驚くべきは、そこで吉本さんがマルクス批判をしていることです。
 この<組み込>まれるものを<精神>に置き換えた論議は吉本さんとフーコーの対談でのテーマでしたが、両者が相手に可能性を見出そうとするところで終わっており、残念であるのは吉本さんの読者共通の思いかもしれません。

 『ハイ・イメージ論Ⅱ』収録の「自然論」におけるマルクス批判は以下のようなもの。

       -       -       -

 P180)
 本来的にいえば摂動(ゆらぎ)として、余裕、反響、戯れ、遊び
 として存在した交換作用を、ぬきさしならない「組みこみ」の概
 念に転化してしまった・・・

 P180.181)
 ほんとうは人間という自然の一階程は、そのなかに非有機的な
 階程と、植物的な階程と動物的な階程をぜんぶふくんでいて、
 これが余裕、反響、戯れ、遊びとしての摂動(揺らぎ)を人間に
 あたえているにちがいないのだ。これは本質的にだけいえば人
 間の不変の条件としてあるはずなのに、マルクスの人間という
 自然からは消えてしまった。

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●<考えられらたもの>の限界

 科学的な認識だの論理的な孝察が概念の均一性を前提としたある蓋然性に依拠したものであるという思考の限界の中で、たとえばフーコーは中国の分類方法に何らかの可能性を見出そうとし、最期には、それもある蓋然性でしかないことに気がつき『言葉と物』における自身の方法論に懐疑を持ちます。

 フランス革命を準備した百科全書だろうが、世界を革命できると説いた唯物論弁証法だの史的唯物論だろうが、自然と人間の入れ子構造のトーナリティである関係をマテリアルの基本に据えつけたマルクスだろうが、それが思念されたもの、考えられたものでしかない....という限界に、吉本さんは気がついてしまいます。
 奇書とさえいわれる『アフリカ的段階について』のベースにある問題意識はそういうものです。そして、そういうスタンスこそがフーコーが可能性を見出そうとした博物学民俗学からの成果を現実のものとして探究のなかに取り込んでいける唯一の可能性でしょう。

           
ハイ・イメージ論2 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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●<身体>の<階程>へ

 A.スミスの論考に労働から哲学が生じるポイントを見出したり、価値の差異を身体の内臓の差異にまで還元する論理を探し当てたりした吉本さんは、ついにマルクスの<組みこみ>の概念にも限界を見つけてしまったわけです。
 しかもこれは三木成夫の解剖学をはじめとするあくまでマテリアルな基礎を前提とするもの。身体内に植物的階程動物的階程を峻別することによってはじめて可能となる孝察であり、それぞれの階程とその環界に対するそれぞれのレスポンスを統合的に内化していくシステムとしての身体にあらたな人間主体を見出したともいえるでしょう。もちろんそのような概要なり前提が理解できないものには「奇書」という評価が限界かもしれないのが、現在のレベルであることも確かかもしれません。

 コジェーヴがアメリカに見出した「動物化」はマルクスが資本主義に見出した「動物」そのもの。しかし吉本さんはそのマルクスの「動物」的概念を、個々人に内在する動物的階程への還元という....A.スミスが労働する身体に哲学や価値を見出したのと同じ手つきで....ベクトルで探究していきます。

 『ハイ・イメージ論Ⅲ』の「消費論」では現在の消費資本主義の日本をテーマに「動物」概念が考察され、その後の展開は広く開かれたまま終わります。
 『ハイ・イメージ論』は批判学ですが、『アフリカ的段階について』他いくつかの言説ではまったくちがったベクトルを見出せるものもあり、人間の肯定としてのそれらの論は文芸をはじめとしたあらゆる表現への賛辞としての趣をもっています。そのスタンスで書かれたのがコム・デ・ギャルソンへの評価であり、J.ケージ論です。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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読書と映画をめぐるプロムナード「音と言葉の交流、「音楽機械論─ELECTRONIC DIONYSOS」(吉本隆明、坂本龍一著)」にポストモダンに突入(超高度経済成長をはじめた)した日本を、音楽の面から語った教授(坂本)と思想家(吉本)の対談本が紹介されています。引用されている小沼純一さんの「実はそういうところから音っていうのは作られるんだよ」という言葉がデジタルへのラディカルなクリティークになっていたり、今こそ新鮮で必要なテキストかもしれません。

           
音楽機械論 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明 , 他
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「哲学の科学」では「哲学は、なぜいつも間違うのか?」などほか科学をベースにさまざまなアプローチで人間、言葉、思考、感覚といったものへの思索がめぐらされています。その根源的な問いは現代社会だからこそ新鮮。必読のWEBです。

(2004/12/7,2010/10/17,2011/12/31)

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