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2017年5月28日 (日)

<貧弱な共同社会>が生む共同幻想

   共同的な幻想もまた入眠とおなじように、
   現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、
   たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。
   そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。

                      (『共同幻想論』禁制論P64)


 共同幻想の「ほんとうの生み手は、貧弱な社会そのものだとすれば、探究すべきは「貧弱な社会そのもの」になります。
 マルクスは資本論で下部構造=モノを媒介とした関係を思索しましたが、下部構造の上部構造への影響を絶対とはしていません。ある頃からは上下の構造のカップリングとしてみることも一案にすぎないとしているようです。(「共同幻想論」では共同幻想はマルクスの上部構造のことだと説明されていますが・・・)


  では、この<貧弱な社会>とはどのようなものなのでしょう。
  何が<貧弱>なのでしょうか?
  この<社会>は上部構造なのでしょうか?
  それともモノを媒介とした社会として下部構造的なものなのでしょうか?


 社会はモノを媒介とした関係ですが、モノを認知するのも関係を認識するのも個人の心であることには変わりありません。そして認識において規範となるものや反復されるものはモノと同じように感受されます。簡単にいえば、人間が働きかけて変化させない限りは不変のものとして感受される(モノは規範であり反復されるものであり)ということであり、現実には感受している実感さえない(象徴界のように)ものです。
 <モノ>にはそういった意味合いが込められています。人間はそれらを意識することなくそれらに支配されている…といえるものです。



 <モノ>が意味するのは<不変>の関係になります。
 逆にいえば不変の関係=変わらない関係はモノであり、モノとの関係と同じだといえます。その都度認識する必要のない、いつも変わらない関係です。

 感覚は絶えず機能していて、時間の経過とともに変化する環界を感受しています。環界の急激な変化に個体が気がつかない場合、大きな危険にさらされる可能性があるからです。
 逆に変化のない関係であれば、いつも同じような関係に対して同じような対応をすればいいコトになます。この同じような対応の仕方を固定させたものが<規範>です。

 さまざまな経験による認識は<概念>としてストックされ、反復する認識は<規範>として認識のフレームを形成します。
 この概念と規範が同致したものにつけられたタグが<言語>になります。

 規範が優位なままに生成する認識のクラスターやレイヤーは共同性といえるかもしれません。あるいは規範に無意識のまま組み込まれるものに共同性としてのニュアンスがあるのかもしれません。 意識できないもの、あるいは意識を規定してしまうものとしての共同性や象徴界的なもの…。

2017年4月24日 (月)

<共同幻想>を生む禁制と自己言及

 共同幻想は何らかの禁制(Tabu)を前提としますが、禁制の対象は個体の意識のなかで措定されているハズです。
 この措定する意識も自己の意識なので、対象化するということそれ自体で意識×意識(自己言及性)が前提となっています。心的現象論序説で示唆されているように<観念のべき乗化>です。共同幻想は自己言及や再帰性を前提として生成するものです。


   ある事象が、事物であっても、思想であっても、
   人格であっても禁制の対象であるためには、
   対象を対象として措定する意識が個体のなかになければならない。
   そして対象はかれの意識からはっきりと分離されているはずである。
   かれにとって対象は、怖れでも崇拝でも、そのふたつでもいいが、
   かれの意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている。

                      (『共同幻想論』禁制論P46)


 個体のあらゆる認識が統覚からみて自己言及である(orでしかない)ということは、入れ子構造を仮構することで安定が担保されています(この自己言及をひとつの単位とし、そのアトラクタブルな領域をひとつの入れ子構造と想定できます)。
 自己言及による不確定領域は仮に空間性を代入することで安定しますが、それは仮定(or過程)であり絶えず更新され続けています。
 この更新をせまるものが「身体組織としての生理的な自然そのもの」であり心的現象論序説でいう<身体の時間性>です。

         
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   じぶんにとって、じぶんが禁制の対象であったとすれば、
   対象であるじぶんは酵母のように歪んでいるはずである。
   そしてこの状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、
   かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。

              (『共同幻想論』禁制論P46~47)


           
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 吉本式にいえば原生的疎外純粋疎外に絶えず是正を迫っているともいえるもの。
 「意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている」ために、その歪みを是正する必要がある…のであり、同時にその是正への抵抗としても生は意味づけられていくものだと考えられます。

2017年3月31日 (金)

利他的な行為の停止からはじまる共同性

 共同性の前提とは、ある意味で、自他を分けることです。
 自分サイドの人とそうでない人を分けるのがもっとも重要なポイントで、このことそのものが自分の所属する共同体と共同体外とのボーダーにもなります。

 具体的には、利他的な行為の停止が共同性の前提となります。

 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けていたのに、それが3才くらいからケースバイケースになるのです。この時、自分にプラスのものとマイナスのものを峻別することが基本になっています。

   生後六~八か月の赤ん坊も、
   社会的行動で相手を評価している…

   (『<わたし>はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』 第5章 ソーシャルマインド P183)

   幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制することを覚える。
   過去に何か分けあってくれた者を優先するなど、
   手助けする相手を選別するようになるのだ。

   (同上 P182)

           
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 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けるものを選ぶことがテストで確認されています。
また、他者が何かを探していると、それを指さしして教えてあげるという利他的な行為もします。

 生後6~8ヶ月の乳児が利他的だということは、人間のデフォルトが利他的であることのエビデンスになりうるもの。

 人間は元来から社会的な生き物だということでしょう。

   他者を肯定するものを肯定する…ということ。
   他者が何か求めていたら助けてあげる…ということ。

 この2つが人間の基本にあるということ、すくなくとも3才までは、利他的な行為が基本にある…。いいかえると、この2つは他者どうしが肯定しあうこと、とまとめることができるでしょう。

 これはつまり<相互に全面肯定である>という対幻想そのもの

 母子一体、自他不可分、世界=自分であるというスタート時の心の原形(時点ゼロの観念=)がそこにあるといえるでしょう。

 そして「幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制する」ようになり、ここから他者とともに生きていく現実に対応した社会性を身につけ、それは具体的には共同性そのものの発現として生成されるものだと考えられます。

2017年1月31日 (火)

マテリアルとしての<共同幻想>

‘対象に投影された自己像の不可知性’つまり自己言及による決定不能性はゲーデルの定理やチューリングマシンの問題としても有名ですが、人間の心理現象としては強力な防衛機制?としてこれらの問題はクリアされています。不可知な部分に何かが代入されて処理されていくからです。代入されたものはマテリアルな属性をともなって意識に影響をあたえます。これが共同幻想です。
「すべては<代入される空間性>」

共同幻想は意識がおよばないという意味ではマテリアルであり、ラカンの象徴界(「三界論と<力>と」)オーバーラップするもの。また論理的にその因果を探せば(自己言及の限界として)自己言及できない領域として抽出できます。ポスモダ的な論議の可能性はそこにありましたが、どこからも誰からも解が指し示されることはありませんでした。タームのブリコラージュだけの衒学では言及することさえ不可能だったのでしょう。構成同一性(「<思考>のはじまるところ」)が行使されない認識は思索にはなりえないという(ベイトソン的な)エビデンスそのもののようですが…。
「言葉を生むもの…とは?」

このマテリアルとしての属性は哲学的には先験的理性のようと表現されるものです。この先験的理性のようなものを<純粋疎外>とした説明が「心的現象論序説」による基礎的な定義になります。このことから理論的にあるいは論理的な帰結として共同幻想が純粋疎外に由来あるいは依拠するものであることが分かります。あるいは純粋疎外状態から生成するのが共同幻想だということになります。「共同幻想論」そのものでは入眠状態あるいは夢幻様と説明される心理状態です。「共同幻想論」での入眠時の状態あるいは夢幻様とよばれる心理状態は、別のいい方をすれば全般的な<純粋疎外>の状態であることを指しています。
「世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ」



           
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入眠時あるいは夢幻様とよばれる、この睡眠と覚醒の混融した状態は、脳科学的には脳幹網様体がコントロールしているもの。脳幹網様体は機構的には感覚、意識、内分泌系の情報が相互にフィードバックする領域で意識の覚醒のレベルを決定しています。個体の心理を探究した心的現象論から、個体を母体との関係で解いていく「母型論」では大洋の概念をモチーフに思索されていくものが、これに対応するところがあると考えられます。この<大洋>でイメージされるものがフロイトにおいては羊水であることはある程度オーバーラップします。
「<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの」
「時間性・リズムという科学」

脳幹網様体の機構が感覚からの情報、皮質からのフィードバック情報といった神経系の情報とともに、内分泌系からの情報が加わっていることに大きな意味があります。細胞膜やレセプターを通じた内分泌系の情報は神経のパルスより一桁も二桁も速いスピードで作用します。たとえば角田テストによると実母の声に脳幹が反応するのは10000分の1秒というスピードであり、これは細胞膜でのイオンのやり取りの速度に相当します。しかもそれは意識という自覚なしに行使され、事後的にも意識化されることはありません。
「ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明」

脳神経学的にいえば、胎児は羊水に浸かっていますが、脳幹網様体(そしてすべての細胞)は内分泌系の液性環境に浸かっています。そしてこの液性環境での情報のやり取りがラジカルに個体の活動をコントロールしています。神経反応どころか精神活動さえもその完全な影響下(コントロール下)にあります。これは地上の全生物とその全生命が液性環境に依拠しているという普遍的な事実そのものの象徴的なエビデンスでしょう。液性環境の均衡を気分として探究する木下清一郎の考察は斬新で大きな可能性がありそうです。液性環境での情報のやり取りにリン脂質を利用していることを人間の(脳と心の)大きな特徴として研究した木下清一郎の指摘のように、各種リン脂質であるホルモンやサイトカイン、痛み物質であるプラスタグランジン、痒み物質であるヒスタミン…の液性環境に浸かって10000分の一秒で代謝する細胞を心の原点とした論考はラジカルなもの。もちろんその対極に観念の運動としての人間活動を探究し続けた吉本隆明がいます。
「言語とイメージが探究される理由は? 2」

2016年12月31日 (土)

先験的理性のようにみえる<純粋疎外>≧共同幻想

 先験的理性のようにみえると説明されている<純粋疎外>。
 先験的であり理性的であるとしたら…そこに思考が介在することは可能でしょうか?
 あらかじめ思念することが不可能であるような印象があります。
 そして、それこそが共同幻想(が成立する)の基本的な根拠になるもの。

 逆の説明も可能です。思考できない領域だからこそ先験的理性のように感受されてしまう…ということです。
 いずれにせよ、ここに共同幻想の根拠があります。(思念や想像がおよばないものだとすれば、それはラカンの象徴界にも似ているかもしれません…)


 マルクスはこの思索しづらい領域をいっきょに把握しようとしました。それが経済分析でした。いわゆる下部構造へのアプローチです。下部構造のマテリアルとテクノロジカルな解析ができれば、その上部構造である宗教や文化や国家は把握できると考えたワケです。
 マテリアルな関係を分析できれば、それを基礎にしている関係(社会や文化、国家や宗教)は理解できる…ということ。

 ところが現実には、そうカンタンには社会や文化のさまざまな現象は理解できません。物質的基盤が同じであれば、同じような社会や文化になるか…現実にはなりません。同じ環境でも宗教や国家は異なるものになるし、習慣や風習も違っていたりします。
 そもそも人間にとっていちばん基本的な言語や家族の形態も場所が異なれば異なっている方が普通です。

 この異なっているものをサンプルの数だけ、現実の数だけ蒐集しアプローチする社会学、人類学や民俗学、あるいは歴史学のようなものがあります。ブルデュートッド阿部謹也のようなアプローチが結果として、科学や法則として社会にアプローチしたマルクスのものと近似したものでもあることは、大切なことだと考えられます。アプローチの方法論ではなく結果を考えるとき、さまざまな方法を試してみることは価値があることでしょう。開かれているスタンスでなければ、どんな問題も根源へ至ることはムズカシイでしょうから。


 マルクスがモノゴトを媒介とする関係(下部構造)に思索をめぐらせたように、関係そのものに思索をめぐらせ探究したものが心的現象論です。
 先験的理性のようにみえる…ということの原理から思索し直したのが心的現象論のアプローチです。

 <先験的>というように経験を超え、<理性のように>という思考を制する規範であるかのようなイメージ。

 これらの超越性とイメージが生成する根拠を探究すること…
 それが心的現象論のモチーフになります。



『心的現象論序説』から…


   <精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…
   この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、
   あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)

   人間の<関係>の総体としてのこの世界は、
   フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、
   異なった位相の世界として存在している。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)


   生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、
   時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、
   現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域は、
   空間性(空間化の度合)によって抽出することができる…

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P50)


   人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は…
   生活史と精神史との歴史的な累積を、
   心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、
   この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P70)



           
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2016年6月28日 (火)

<共同幻想>…第一章「禁制論」での柳田国男

ポトラッチ族の贈与のシステムから「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念を駆使して「信用」まで関連づけ、未開社会の贈与のシステムから現代に続くまでの資本(主義)の変遷や関係を語れるかのようなスタンスと可能性が、モースやマリウノスキーにはあるのかもしれない。

そうやって世界のすべてを観察するかのような西欧のスタンスと概念からは、世界のすべてがそう観えるだろう。ただし西欧式に…。そこでは既存の知識と概念を基礎に置いた思索が巡らされ、「初めに言葉あり」に代表され象徴される世界観が展開される…。もちろんそれではホントの世界や社会や国家を把握しきることが出来ないことを、吉本隆明はさり気なく、しかし執拗に繰り返し指摘する…<日本は壊れている>という指摘はアイロニカルでしかもダイレクトな、そういった事実への表現として貴重な指摘になるのだろう。正確には西欧的なスタンスからは日本は壊れて観える…というイロニーなのだ。

「強制」や「義務」「権利」といった概念装置で未開の部族や民族を明瞭に分析することが出来るだろう。問題は簡単で、そうやって明晰に思索されるとき、明晰でないにものはどう扱われ、どう処理されるのだろうか?…ということだ。 

あっさり語れることによって語れないものが抜け落ちてしまうことを指摘する。たとえばそれは<神威>について。母系社会の特徴である<父>を崇敬する理由は、欧米概念で贈与を微分したところで見出すことはできない。「権利」「義務」「強制」という概念でポトラッチを語ってしまうモースに欧米知の限界を指摘するのが吉本隆明の『母型論』だ。そこでは母系社会の成立と(その現代への)継続の意味が問われていく…。

もちろん、この語れないものというモチーフこそ共同幻想論から始まり、その思索の全段そのものであったのが吉本隆明の思想だろう。


           
母型論

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現代的にはモースらが指摘する「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念で現在の金融資本主義の「信用」までは説明できる。だが「バブル」にはタッチさえできない。100年に一度といわれるバブルとその崩壊が数年ごとに起こっているその事実だけで、ほとんどの経済言説が無効だということはシロウトの方がよく分かっているのだろう。

<父>を崇敬し、母系の全勢力をかたむけて贈与される、その理由は何か?  この問いは、心的現象論的には<父>のイメージを拡散増大(異常の拡散)させればとりあえずの直接的な答えに近づくことが可能だ。<バブル>とは何かへ向 かっての無限の贈与でもあり、現代ではその崩壊は凸した分だけ凹む現象にすぎないことがコメンテーターレベルでの指摘でも明らかだ(たとえばホリエモ ン)。真面目な吉本隆明は、それを『母型論』の「定義論Ⅱ」で説明してみせた。そこからは、すでに大衆がすべてを握った、何も心配しなくていい遠くはない未来が見渡されている。すくなくとも楽観することは禁じられていない。

ホントは4分の3あるいは半分まで縮小しても生活水準を落とす必要がない日本の経済


           
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 …現実にありうべくもない語り伝えから成り立っているとすれば、

 それを伝承する語り手も空想癖のつよい人物でなければ、語りのリアリティは保存されな い。
 
 語り手の空想癖が民話の根源にある共同的な幻想にもどっていくとき、
 伝承という心的な転移が成就される。

 語り手の夢が、語られた山人譚とパターンをおなじくしているとき、
 このパターンのなかに共同的な幻想の本質がよこたわっている。

 入眠幻覚のなかで『遠野物語』の語り手が娘の死をかなしんでたどろうとしたのは、
 村落共同体を支配する禁制の幻想であった。しかし柳田国男はそうかんがえなかった。
 かれは、むしろタイラーやフレーザーがはっきりと分類した高地崇拝や呪術の原始的な心性これに結びつけたのである。(『共同幻想論』「禁制論」P62)


モースやマリウノスキーが「強制」「義務」「権利」といった概念装置から贈与の社会システムを語ろうとしたように、柳田国男はタイラーやフレーザーの用意した知見から語り、禁制の幻想を観ようとしなかった。その、観ようとしない・観ることができないという禁制そのものがターゲットであることが不可視にされてしまう…そこにホントの意味での禁制があることを『共同幻想論』は第一章から繰り返し指摘し続けている。そしてそれは、吉本隆明の思想的営為のスタートから未帰還までをつらぬいている。

2016年6月 1日 (水)

<共同幻想>という有名な言葉…増幅・過視化

 不可視なものは<増幅>されて伝わります。
 実際に見たり触れたりして確かめることができないものは想像だけでどこまでも増幅できるので、最終的には怪物やお化けになってしまうものも少なくありません。たとえばリヴァイアサンやゴーストとはそういもの。ミクロではクオリアも同じ…。聖書において、地上最強の怪物=リヴァイアサンが国家を表したものであるのは示唆的といえ、もっともワケのわからないものがもっとも増幅されることがわかります。

 そして、それはもっとも根拠の希薄なもので、「想像だけでどこまでも増幅できる」ということそのもの以外には確実な理由を見つけられない、バタフライ効果というべきほど、根拠の希薄それ自体が根拠となり、その再帰性が現代という幻想=上部構造をつくっています。ベキ乗化する観念を人間の本質とみた吉本の主張において、自己言及そのものがある大きな意義をもっているのは、心的現象論序説であきらかにされたところのものです。


 ただ増幅され、伝えられていく…。
 そこからわかるのは<増幅される>ことと<伝えられる>ことの方法やバリエーションです。「共同幻想論」はこの<増幅する(される)>こと<伝えられる>ことから国家を探究したもの。

 そこでは小さなエピソードが増強されて伝えられていくさまざまな物語が分析されています。
 サンプリングされるのは「遠野物語」と「日本書紀」「古事記」のエピソードであり、それらが心的現象論の方法で分析されています。

 つまり観念のベキ乗化から<増幅>していくその理由と、その<伝わり>方の特徴が明らかにされ、<増幅>の理由や要因、<伝達>の仕方や方法が考察される。それが共同幻想を成立させる仕組みだからです。

 基本となるのは人間で、人間がどのように他者に情報を伝達するか?ということと、どのように他者から情報を得ようとするか?ということがメインになっています。そこでは壮大な神話や美しい物語…といったものではなく、日常の、反復されるエピソードが数多くフォーカスされています。現代でいえば、それらは都市伝説でもあるでしょう。


 ゼロというものは見ることができません。しかし、逆に、見ることができないものをゼロとしてしまえばどうでしょうか? 把握できないものを、とりあえず<ゼロ>としてしまう…。
 そのように虚を実としてしまう方法を、吉本は観念の運動と述べています。マルクスがヘーゲルから継承したのは、そのような方法であって唯物論的転倒などと呼ばれるものではない…マルクスがいまだに有効だとすれば、それはその方法だという吉本の哲学が、ここにあるのではないでしょうか。

 根拠の希薄さにはニーチェやフーコーがいう偶然も含意されているのでしょう。
 それらも踏まえて、既に実体と化した現実を俯瞰するのが、あの<世界視線>です。

2016年5月20日 (金)

<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 <共同幻想>という言葉は知らない者がいないほど有名です。
 そして不思議なことに、その理解者はその言葉の有名さに反比例して、あるいは吉本式にいえば逆立して少ないのかもしれません。その理由が<ゼロ>にあります…。1から9までの自然数をいくら駆使しても、0(ゼロ)が導入された数理の考察に及ぶことはありません。吉本隆明はその<ゼロ>を思索の中心に据えて、ほぼ全理論を構築しています。初期3部作といわれる「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論序説」から超高度消費社会を資本論の援用で締めくくったハイイメージ論まで、駆使されている概念装置は<ゼロ>なのです。

 もちろん<ゼロ>と表記された概念が行使されているのではありません。あらゆるものに共同幻想がまとわりつくように、<ゼロ>の概念はさまざまな言い方をされています。たとえば共同幻想の代表的なものとして国家があり、社会も会社も、村落も、町内会も知人友人の仲間内の関係にも共同幻想は発現しています。直裁には吉本自らが共同幻想とはマルクスの「上部構造」のことだと説明しているほど、その対象は広く普遍的であり、それだからこそ共同幻想は問われる価値があるのでしょう。共同幻想はあらゆる事象で問われる普遍性そのものといえるほどのもの。同じように<ゼロ>もあまねく存在する事象であり、想定される状態を指しています。それは数理における<ゼロ>そのもののようにであり、ある意味でそのものなのです。


 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。


 吉本隆明の幻想論は幻想の3つの位相に関する考察ですが、逆に社会的事象も個人的な何事かも、この3つの位相に微分?して解析すれば、それなりの解を見つけることができるでしょう。マルクスが欧米の国家をそれぞれの政治と社会の発展成長の度合いの違いから考察した視点は、この吉本の幻想論とパラレルな印象があります。ユダヤ人がそれぞれの国家でどのような問題となっているかというマルクスの論考がそれ。国家と宗教の分離の度合いによってユダヤ人の扱われ方が異なり、つまり機能(政治)と心理(信仰)の分離の度合によって、ユダヤ人がどう見えるか、どう感じられるかが異なってくるということを論証したもの。いわゆる「ユダヤ人問題」です。この時、機能と心理が不可分になり、ひとつのイメージとしてしか感じられない段階や瞬間が想定できます。それが純粋疎外の状態、つまり<ゼロ>です。後で説明しますが個体の認識でいえば「環境と認知の問題」であり、それが不可分になる瞬間のこと。そこには<時点ゼロの双数性>が想定できるでしょう。

2016年5月 6日 (金)

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

   認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と
   意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。
   これがいま、認知哲学の最先端の一つの問題です。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P219~220)

   自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し、
   それ故また逆に徹頭徹尾自分と対時する存在として立ち現れる、
   そういう他者。これが多層的で多角的な「意識」の定義の一翼を担うことは、
   まちがいなさそうです。

   多くの哲学者が賛成しているように、他者の心の存在は、それ自体イリューヅョン、
   といって悪ければ、少なくとも直接証拠のない信念にほかならないともいえます。

   しかし、この信念は、私たちが世の中に適応して生きていくうえで適切な信念、
   つまり生態学的には意味のあるイリユージョンです。この意味で、
   知覚・認知のイリュージョンとまったく同じように、
   他者の心は「適正なイリューヅョン」なのです。
   「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、
   意識の成立に決定的に関与することを、
   最近の発達心理学の研究が示しています。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P159)


 この「イリュージョン」は、まったく吉本隆明の「幻想」と同じ意味で使われています。
 少なくとも、自分にはそう解釈できるので、そのために、これら最新の認知神経学や知覚心理を心的現象論のエビデンスとして読むことができます。そして、そのように読むことで、心的現象論のこれからを切り開いていく可能性がひろがると考えています。そこには徹頭徹尾に科学でもあった吉本隆明の思索の可能性があるはずです。

 

 自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』


 「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>

2016年4月22日 (金)

ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明

 ノイズキャンセラーとしての人間にはワカラナイということがありません。
 ワカラナイところには、すべてが代入されるからです。
 ワカラナイところに代入される空間性があるワケです。


 たとえば、それは心理学でいう錯覚というものの原因?でもあり、両眼視野闘争の見え方の変化です。
 人間が何かを認識するときに欠落した情報を無意識に補っているのは、両眼視野闘争に現れるような基本的なシステムです。脳幹網様体のスイッチにより身体機能から意識までもがコントロールされていると考えられます。

 見えてない方の目でも「見ている」というウソの認識をします。
 ただし「ウソ」という自覚はありません。ポイントはここです。自覚なしで自然にそういう認識をしてしまうことです。左右の視野を区切り、片目それぞれでしか見えないようにして、一方の視野に対象を置き、他方の視野には何も置きません。でも目の認識としてはどちらの目でも「見える」と認識するのが脳の仕組みであり、ノイズキャンセラー的なものだと考えられます。ある意味で想像(力)の基本的なものがここにあるのかもしれません。


 この「見える」という可視化はフレームアップであり幻想です。
 しかし、問題は幻想にあるのではなく可視化しようとする志向性の強さでしょう。とにかく可視化すればいいのであり、対象がなくても可視化?してしまいます。過視化ともいえるもの…

 つまり対象がなくても「見える」ようになります。
 この時に見えるものがゴーストであり、この見え方が幻想なのです。そうすることによって認識の安定性を維持していると考えられます。認識における動的平衡ともいえるかもしれません。
 ただモノがハッとするようなものに見えたり(思えたり)することもあります。対象を「見ている」ところに判断や感動が加わってしまっているのです。これがクオリアです。

 乳胎児期から人には認識(力)があります。認識の対象があってもなくても、感覚が未熟でも未発達でも、そこには認識しようとする志向性があります。原認識ともいうべきもので、そこでは原了解が反復されていると考えられます。あえて言葉にすればワタシはダレ?ココはドコ?的なもの。すべての生物に共通するレベルで考えれば重力に抗して直立しているか?というような常時はたらいているセルフチェックのようなものかもしれません。
 この原認識の原了解は常同反復していて、そのベースの上に通常の認識や了解が行なわれています。原了解のレベルから通常の認識をみれば、それは2度目の認識になります。これがデジャブです。



 共同幻想、対幻想、自己幻想、の幻想の3つの位相が幻想論ですが、これらは個体の認識の過程では<原関係><固有関係><一般関係>といった位相あるいはレイヤーともいうべきものが設定されていてとても理解しやすいものになっています。もっとも難解な書という評価で有名な心的現象論ですが、システマチックに理路整然と書かれていて、幻想論の基礎であることがわかります。

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