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2017年1月31日 (火)

マテリアルとしての<共同幻想>

‘対象に投影された自己像の不可知性’つまり自己言及による決定不能性はゲーデルの定理やチューリングマシンの問題としても有名ですが、人間の心理現象としては強力な防衛機制?としてこれらの問題はクリアされています。不可知な部分に何かが代入されて処理されていくからです。代入されたものはマテリアルな属性をともなって意識に影響をあたえます。これが共同幻想です。
「すべては<代入される空間性>」

共同幻想は意識がおよばないという意味ではマテリアルであり、ラカンの象徴界(「三界論と<力>と」)オーバーラップするもの。また論理的にその因果を探せば(自己言及の限界として)自己言及できない領域として抽出できます。ポスモダ的な論議の可能性はそこにありましたが、どこからも誰からも解が指し示されることはありませんでした。タームのブリコラージュだけの衒学では言及することさえ不可能だったのでしょう。構成同一性(「<思考>のはじまるところ」)が行使されない認識は思索にはなりえないという(ベイトソン的な)エビデンスそのもののようですが…。
「言葉を生むもの…とは?」

このマテリアルとしての属性は哲学的には先験的理性のようと表現されるものです。この先験的理性のようなものを<純粋疎外>とした説明が「心的現象論序説」による基礎的な定義になります。このことから理論的にあるいは論理的な帰結として共同幻想が純粋疎外に由来あるいは依拠するものであることが分かります。あるいは純粋疎外状態から生成するのが共同幻想だということになります。「共同幻想論」そのものでは入眠状態あるいは夢幻様と説明される心理状態です。「共同幻想論」での入眠時の状態あるいは夢幻様とよばれる心理状態は、別のいい方をすれば全般的な<純粋疎外>の状態であることを指しています。
「世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ」


入眠時あるいは夢幻様とよばれる、この睡眠と覚醒の混融した状態は、脳科学的には脳幹網様体がコントロールしているもの。脳幹網様体は機構的には感覚、意識、内分泌系の情報が相互にフィードバックする領域で意識の覚醒のレベルを決定しています。個体の心理を探究した心的現象論から、個体を母体との関係で解いていく「母型論」では大洋の概念をモチーフに思索されていくものが、これに対応するところがあると考えられます。この<大洋>でイメージされるものがフロイトにおいては羊水であることはある程度オーバーラップします。
「<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの」
「時間性・リズムという科学」

脳幹網様体の機構が感覚からの情報、皮質からのフィードバック情報といった神経系の情報とともに、内分泌系からの情報が加わっていることに大きな意味があります。細胞膜やレセプターを通じた内分泌系の情報は神経のパルスより一桁も二桁も速いスピードで作用します。たとえば角田テストによると実母の声に脳幹が反応するのは10000分の1秒というスピードであり、これは細胞膜でのイオンのやり取りの速度に相当します。しかもそれは意識という自覚なしに行使され、事後的にも意識化されることはありません。
「ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明」

脳神経学的にいえば、胎児は羊水に浸かっていますが、脳幹網様体(そしてすべての細胞)は内分泌系の液性環境に浸かっています。そしてこの液性環境での情報のやり取りがラジカルに個体の活動をコントロールしています。神経反応どころか精神活動さえもその完全な影響下(コントロール下)にあります。これは地上の全生物とその全生命が液性環境に依拠しているという普遍的な事実そのものの象徴的なエビデンスでしょう。液性環境の均衡を気分として探究する木下清一郎の考察は斬新で大きな可能性がありそうです。液性環境での情報のやり取りにリン脂質を利用していることを人間の(脳と心の)大きな特徴として研究した木下清一郎の指摘のように、各種リン脂質であるホルモンやサイトカイン、痛み物質であるプラスタグランジン、痒み物質であるヒスタミン…の液性環境に浸かって10000分の一秒で代謝する細胞を心の原点とした論考はラジカルなもの。もちろんその対極に観念の運動としての人間活動を探究し続けた吉本隆明がいます。
「言語とイメージが探究される理由は? 2」

2016年12月31日 (土)

先験的理性のようにみえる<純粋疎外>≧共同幻想

 先験的理性のようにみえると説明されている<純粋疎外>。
 先験的であり理性的であるとしたら…そこに思考が介在することは可能でしょうか?
 あらかじめ思念することが不可能であるような印象があります。
 そして、それこそが共同幻想(が成立する)の基本的な根拠になるもの。

 逆の説明も可能です。思考できない領域だからこそ先験的理性のように感受されてしまう…ということです。
 いずれにせよ、ここに共同幻想の根拠があります。(思念や想像がおよばないものだとすれば、それはラカンの象徴界にも似ているかもしれません…)


 マルクスはこの思索しづらい領域をいっきょに把握しようとしました。それが経済分析でした。いわゆる下部構造へのアプローチです。下部構造のマテリアルとテクノロジカルな解析ができれば、その上部構造である宗教や文化や国家は把握できると考えたワケです。
 マテリアルな関係を分析できれば、それを基礎にしている関係(社会や文化、国家や宗教)は理解できる…ということ。

 ところが現実には、そうカンタンには社会や文化のさまざまな現象は理解できません。物質的基盤が同じであれば、同じような社会や文化になるか…現実にはなりません。同じ環境でも宗教や国家は異なるものになるし、習慣や風習も違っていたりします。
 そもそも人間にとっていちばん基本的な言語や家族の形態も場所が異なれば異なっている方が普通です。

 この異なっているものをサンプルの数だけ、現実の数だけ蒐集しアプローチする社会学、人類学や民俗学、あるいは歴史学のようなものがあります。ブルデュートッド阿部謹也のようなアプローチが結果として、科学や法則として社会にアプローチしたマルクスのものと近似したものでもあることは、大切なことだと考えられます。アプローチの方法論ではなく結果を考えるとき、さまざまな方法を試してみることは価値があることでしょう。開かれているスタンスでなければ、どんな問題も根源へ至ることはムズカシイでしょうから。


 マルクスがモノゴトを媒介とする関係(下部構造)に思索をめぐらせたように、関係そのものに思索をめぐらせ探究したものが心的現象論です。
 先験的理性のようにみえる…ということの原理から思索し直したのが心的現象論のアプローチです。

 <先験的>というように経験を超え、<理性のように>という思考を制する規範であるかのようなイメージ。

 これらの超越性とイメージが生成する根拠を探究すること…
 それが心的現象論のモチーフになります。



『心的現象論序説』から…


   <精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…
   この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、
   あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)

   人間の<関係>の総体としてのこの世界は、
   フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、
   異なった位相の世界として存在している。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)


   生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、
   時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、
   現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域は、
   空間性(空間化の度合)によって抽出することができる…

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P50)


   人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は…
   生活史と精神史との歴史的な累積を、
   心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、
   この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P70)


2016年6月28日 (火)

<共同幻想>…第一章「禁制論」での柳田国男

ポトラッチ族の贈与のシステムから「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念を駆使して「信用」まで関連づけ、未開社会の贈与のシステムから現代に続くまでの資本(主義)の変遷や関係を語れるかのようなスタンスと可能性が、モースやマリウノスキーにはあるのかもしれない。

そうやって世界のすべてを観察するかのような西欧のスタンスと概念からは、世界のすべてがそう観えるだろう。ただし西欧式に…。そこでは既存の知識と概念を基礎に置いた思索が巡らされ、「初めに言葉あり」に代表され象徴される世界観が展開される…。もちろんそれではホントの世界や社会や国家を把握しきることが出来ないことを、吉本隆明はさり気なく、しかし執拗に繰り返し指摘する…<日本は壊れている>という指摘はアイロニカルでしかもダイレクトな、そういった事実への表現として貴重な指摘になるのだろう。正確には西欧的なスタンスからは日本は壊れて観える…というイロニーなのだ。

「強制」や「義務」「権利」といった概念装置で未開の部族や民族を明瞭に分析することが出来るだろう。問題は簡単で、そうやって明晰に思索されるとき、明晰でないにものはどう扱われ、どう処理されるのだろうか?…ということだ。 

あっさり語れることによって語れないものが抜け落ちてしまうことを指摘する。たとえばそれは<神威>について。母系社会の特徴である<父>を崇敬する理由は、欧米概念で贈与を微分したところで見出すことはできない。「権利」「義務」「強制」という概念でポトラッチを語ってしまうモースに欧米知の限界を指摘するのが吉本隆明の『母型論』だ。そこでは母系社会の成立と(その現代への)継続の意味が問われていく…。

もちろん、この語れないものというモチーフこそ共同幻想論から始まり、その思索の全段そのものであったのが吉本隆明の思想だろう。


           
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現代的にはモースらが指摘する「強制」や「義務」「権利」といった近代的な概念で現在の金融資本主義の「信用」までは説明できる。だが「バブル」にはタッチさえできない。100年に一度といわれるバブルとその崩壊が数年ごとに起こっているその事実だけで、ほとんどの経済言説が無効だということはシロウトの方がよく分かっているのだろう。

<父>を崇敬し、母系の全勢力をかたむけて贈与される、その理由は何か?  この問いは、心的現象論的には<父>のイメージを拡散増大(異常の拡散)させればとりあえずの直接的な答えに近づくことが可能だ。<バブル>とは何かへ向 かっての無限の贈与でもあり、現代ではその崩壊は凸した分だけ凹む現象にすぎないことがコメンテーターレベルでの指摘でも明らかだ(たとえばホリエモ ン)。真面目な吉本隆明は、それを『母型論』の「定義論Ⅱ」で説明してみせた。そこからは、すでに大衆がすべてを握った、何も心配しなくていい遠くはない未来が見渡されている。すくなくとも楽観することは禁じられていない。

ホントは4分の3あるいは半分まで縮小しても生活水準を落とす必要がない日本の経済


           
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 …現実にありうべくもない語り伝えから成り立っているとすれば、

 それを伝承する語り手も空想癖のつよい人物でなければ、語りのリアリティは保存されな い。
 
 語り手の空想癖が民話の根源にある共同的な幻想にもどっていくとき、
 伝承という心的な転移が成就される。

 語り手の夢が、語られた山人譚とパターンをおなじくしているとき、
 このパターンのなかに共同的な幻想の本質がよこたわっている。

 入眠幻覚のなかで『遠野物語』の語り手が娘の死をかなしんでたどろうとしたのは、
 村落共同体を支配する禁制の幻想であった。しかし柳田国男はそうかんがえなかった。
 かれは、むしろタイラーやフレーザーがはっきりと分類した高地崇拝や呪術の原始的な心性これに結びつけたのである。(『共同幻想論』「禁制論」P62)


モースやマリウノスキーが「強制」「義務」「権利」といった概念装置から贈与の社会システムを語ろうとしたように、柳田国男はタイラーやフレーザーの用意した知見から語り、禁制の幻想を観ようとしなかった。その、観ようとしない・観ることができないという禁制そのものがターゲットであることが不可視にされてしまう…そこにホントの意味での禁制があることを『共同幻想論』は第一章から繰り返し指摘し続けている。そしてそれは、吉本隆明の思想的営為のスタートから未帰還までをつらぬいている。

2016年6月 1日 (水)

<共同幻想>という有名な言葉…増幅・過視化

 不可視なものは<増幅>されて伝わります。
 実際に見たり触れたりして確かめることができないものは想像だけでどこまでも増幅できるので、最終的には怪物やお化けになってしまうものも少なくありません。たとえばリヴァイアサンやゴーストとはそういもの。ミクロではクオリアも同じ…。聖書において、地上最強の怪物=リヴァイアサンが国家を表したものであるのは示唆的といえ、もっともワケのわからないものがもっとも増幅されることがわかります。

 そして、それはもっとも根拠の希薄なもので、「想像だけでどこまでも増幅できる」ということそのもの以外には確実な理由を見つけられない、バタフライ効果というべきほど、根拠の希薄それ自体が根拠となり、その再帰性が現代という幻想=上部構造をつくっています。ベキ乗化する観念を人間の本質とみた吉本の主張において、自己言及そのものがある大きな意義をもっているのは、心的現象論序説であきらかにされたところのものです。


 ただ増幅され、伝えられていく…。
 そこからわかるのは<増幅される>ことと<伝えられる>ことの方法やバリエーションです。「共同幻想論」はこの<増幅する(される)>こと<伝えられる>ことから国家を探究したもの。

 そこでは小さなエピソードが増強されて伝えられていくさまざまな物語が分析されています。
 サンプリングされるのは「遠野物語」と「日本書紀」「古事記」のエピソードであり、それらが心的現象論の方法で分析されています。

 つまり観念のベキ乗化から<増幅>していくその理由と、その<伝わり>方の特徴が明らかにされ、<増幅>の理由や要因、<伝達>の仕方や方法が考察される。それが共同幻想を成立させる仕組みだからです。

 基本となるのは人間で、人間がどのように他者に情報を伝達するか?ということと、どのように他者から情報を得ようとするか?ということがメインになっています。そこでは壮大な神話や美しい物語…といったものではなく、日常の、反復されるエピソードが数多くフォーカスされています。現代でいえば、それらは都市伝説でもあるでしょう。


 ゼロというものは見ることができません。しかし、逆に、見ることができないものをゼロとしてしまえばどうでしょうか? 把握できないものを、とりあえず<ゼロ>としてしまう…。
 そのように虚を実としてしまう方法を、吉本は観念の運動と述べています。マルクスがヘーゲルから継承したのは、そのような方法であって唯物論的転倒などと呼ばれるものではない…マルクスがいまだに有効だとすれば、それはその方法だという吉本の哲学が、ここにあるのではないでしょうか。

 根拠の希薄さにはニーチェやフーコーがいう偶然も含意されているのでしょう。
 それらも踏まえて、既に実体と化した現実を俯瞰するのが、あの<世界視線>です。

2016年5月20日 (金)

<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 <共同幻想>という言葉は知らない者がいないほど有名です。
 そして不思議なことに、その理解者はその言葉の有名さに反比例して、あるいは吉本式にいえば逆立して少ないのかもしれません。その理由が<ゼロ>にあります…。1から9までの自然数をいくら駆使しても、0(ゼロ)が導入された数理の考察に及ぶことはありません。吉本隆明はその<ゼロ>を思索の中心に据えて、ほぼ全理論を構築しています。初期3部作といわれる「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論序説」から超高度消費社会を資本論の援用で締めくくったハイイメージ論まで、駆使されている概念装置は<ゼロ>なのです。

 もちろん<ゼロ>と表記された概念が行使されているのではありません。あらゆるものに共同幻想がまとわりつくように、<ゼロ>の概念はさまざまな言い方をされています。たとえば共同幻想の代表的なものとして国家があり、社会も会社も、村落も、町内会も知人友人の仲間内の関係にも共同幻想は発現しています。直裁には吉本自らが共同幻想とはマルクスの「上部構造」のことだと説明しているほど、その対象は広く普遍的であり、それだからこそ共同幻想は問われる価値があるのでしょう。共同幻想はあらゆる事象で問われる普遍性そのものといえるほどのもの。同じように<ゼロ>もあまねく存在する事象であり、想定される状態を指しています。それは数理における<ゼロ>そのもののようにであり、ある意味でそのものなのです。


 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。


 吉本隆明の幻想論は幻想の3つの位相に関する考察ですが、逆に社会的事象も個人的な何事かも、この3つの位相に微分?して解析すれば、それなりの解を見つけることができるでしょう。マルクスが欧米の国家をそれぞれの政治と社会の発展成長の度合いの違いから考察した視点は、この吉本の幻想論とパラレルな印象があります。ユダヤ人がそれぞれの国家でどのような問題となっているかというマルクスの論考がそれ。国家と宗教の分離の度合いによってユダヤ人の扱われ方が異なり、つまり機能(政治)と心理(信仰)の分離の度合によって、ユダヤ人がどう見えるか、どう感じられるかが異なってくるということを論証したもの。いわゆる「ユダヤ人問題」です。この時、機能と心理が不可分になり、ひとつのイメージとしてしか感じられない段階や瞬間が想定できます。それが純粋疎外の状態、つまり<ゼロ>です。後で説明しますが個体の認識でいえば「環境と認知の問題」であり、それが不可分になる瞬間のこと。そこには<時点ゼロの双数性>が想定できるでしょう。

2016年5月 6日 (金)

認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

   認知プロセスの意味のある要素(エレメント、ユニット)と
   意味のない要素の区別の基準はどこにあるのか。
   これがいま、認知哲学の最先端の一つの問題です。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P219~220)

   自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し、
   それ故また逆に徹頭徹尾自分と対時する存在として立ち現れる、
   そういう他者。これが多層的で多角的な「意識」の定義の一翼を担うことは、
   まちがいなさそうです。

   多くの哲学者が賛成しているように、他者の心の存在は、それ自体イリューヅョン、
   といって悪ければ、少なくとも直接証拠のない信念にほかならないともいえます。

   しかし、この信念は、私たちが世の中に適応して生きていくうえで適切な信念、
   つまり生態学的には意味のあるイリユージョンです。この意味で、
   知覚・認知のイリュージョンとまったく同じように、
   他者の心は「適正なイリューヅョン」なのです。
   「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、
   意識の成立に決定的に関与することを、
   最近の発達心理学の研究が示しています。

              (『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
                       (下條信輔・講談社現代新書)P159)


 この「イリュージョン」は、まったく吉本隆明の「幻想」と同じ意味で使われています。
 少なくとも、自分にはそう解釈できるので、そのために、これら最新の認知神経学や知覚心理を心的現象論のエビデンスとして読むことができます。そして、そのように読むことで、心的現象論のこれからを切り開いていく可能性がひろがると考えています。そこには徹頭徹尾に科学でもあった吉本隆明の思索の可能性があるはずです。

 

 自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』


 「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>

2016年4月22日 (金)

ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明

 ノイズキャンセラーとしての人間にはワカラナイということがありません。
 ワカラナイところには、すべてが代入されるからです。
 ワカラナイところに代入される空間性があるワケです。


 たとえば、それは心理学でいう錯覚というものの原因?でもあり、両眼視野闘争の見え方の変化です。
 人間が何かを認識するときに欠落した情報を無意識に補っているのは、両眼視野闘争に現れるような基本的なシステムです。脳幹網様体のスイッチにより身体機能から意識までもがコントロールされていると考えられます。

 見えてない方の目でも「見ている」というウソの認識をします。
 ただし「ウソ」という自覚はありません。ポイントはここです。自覚なしで自然にそういう認識をしてしまうことです。左右の視野を区切り、片目それぞれでしか見えないようにして、一方の視野に対象を置き、他方の視野には何も置きません。でも目の認識としてはどちらの目でも「見える」と認識するのが脳の仕組みであり、ノイズキャンセラー的なものだと考えられます。ある意味で想像(力)の基本的なものがここにあるのかもしれません。


 この「見える」という可視化はフレームアップであり幻想です。
 しかし、問題は幻想にあるのではなく可視化しようとする志向性の強さでしょう。とにかく可視化すればいいのであり、対象がなくても可視化?してしまいます。過視化ともいえるもの…

 つまり対象がなくても「見える」ようになります。
 この時に見えるものがゴーストであり、この見え方が幻想なのです。そうすることによって認識の安定性を維持していると考えられます。認識における動的平衡ともいえるかもしれません。
 ただモノがハッとするようなものに見えたり(思えたり)することもあります。対象を「見ている」ところに判断や感動が加わってしまっているのです。これがクオリアです。

 乳胎児期から人には認識(力)があります。認識の対象があってもなくても、感覚が未熟でも未発達でも、そこには認識しようとする志向性があります。原認識ともいうべきもので、そこでは原了解が反復されていると考えられます。あえて言葉にすればワタシはダレ?ココはドコ?的なもの。すべての生物に共通するレベルで考えれば重力に抗して直立しているか?というような常時はたらいているセルフチェックのようなものかもしれません。
 この原認識の原了解は常同反復していて、そのベースの上に通常の認識や了解が行なわれています。原了解のレベルから通常の認識をみれば、それは2度目の認識になります。これがデジャブです。



 共同幻想、対幻想、自己幻想、の幻想の3つの位相が幻想論ですが、これらは個体の認識の過程では<原関係><固有関係><一般関係>といった位相あるいはレイヤーともいうべきものが設定されていてとても理解しやすいものになっています。もっとも難解な書という評価で有名な心的現象論ですが、システマチックに理路整然と書かれていて、幻想論の基礎であることがわかります。

2015年10月31日 (土)

スタートでありゴールでもある…2つの心的現象論

 『心的現象論序説』は知の巨人が書いた最も難解な本…本書の宣伝コピーを書くなら、こんな風になるかもしれません。共同幻想などの言葉で有名な詩人吉本隆明氏の、原理論三部作のうちの一冊。個人の認識=心的現象からすべてを解き明かしていくもの。『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』とともに原理論を構成しています。

 原理論三部作はある意味で同じテーマをそれぞれ3つの位相から探究したもので、メインのテーマは<関係>。あらゆる意味で人間関係というものが究極のターゲットになっているといえます。マルクスでいう上部構造です。下部構造が生産緒関係という事物の関係=経済そのものであり、上部構造はその事物を媒介項とした人間関係(社会関係)であり、そこには文明や文化、そして商品としてのあらゆる生産物(との意味)が入るでしょう。心的現象論序説はそれらを人間の認識=観念の運動から解き明かしていきます。

 心的現象論序説の用語には原生的疎外純粋疎外などの哲学系のもの、ベクトル変容遠隔対称性などの位相幾何学系のものなど独特の概念が登場します。しかしソーカル事件で問題になったようなアバウトな趣きはなく、東工大出身というバリバリの理系の知見であることがわかります。著者は詩人ですが理論に関しては<水>を<H2O>(エイチツーオー)と表現したいと述べるほど徹底した科学者のスタンスが貫かれています。

 そのために数学や論理学といった理系的なクール?な概念の本質と由来が自然の過程として説明されています。たとえば非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学との認識論的切断があるとしても、それより本質的な同一性があることを自然過程として把握する吉本の思想があります。ライプニッツの神も自然が転換する契機となる変数だ…というのが吉本の認識(ハイイメージ論)であり思想なのです…。

   <概念>としてもっとも高度な整序された系とみなされる数論的な系でも
   <概念>は自然認知の程度にしたがう。

 数学や形式論理は指示表出だけの論理ですが、自然史的な過程を超えた認識はあり得ないことを前提に、数理概念も自然の一部でしかないという当たり前のことが当たり前に認識されています。…吉本の思索がある種無色透明に感じられることがあるのは、こんなところに理由があるのかもしれません。

           
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 吉本隆明の思索は<関係>とういうものをターゲットに、その一点にフォーカスしていきます。初期のマタイ伝をエグザンプルとした探究で<関係の絶対性>という言葉が評判になりましたが、このスタート時点で、ほぼラストまでを見切っていたともいえるのも、吉本隆明の思想家としての大きな特徴なのかもしれません。

           
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 原理論である三部作それぞれから<関係>へのアプローチがされています。
 <共同幻想>は吉本理論で有名になった言葉ですが、これには3つの呼び方があります。『心的現象論序説』では<幻想的共同性>、『言語にとって美とはなにか』では<社会的幻想>と呼ばれ、<共同幻想>というのは『共同幻想論』での呼称です。それぞれのスタンスで同じ<関係>への呼び名が異なるようになっています。<公的幻想=Public Illusion>(マルクス)から(の)演繹?あるいは意識したものとしての、概念装置としてディテールまで考慮された用語でもあるといえるでしょう。

           
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 『心的現象論本論』は30年以上かかり未完に終わったとされていますが、吉本自身が想定どおりに終わったとも語っています。この本論はエグザンプルが豊富で、領域もノンジャンル。縄文の土偶からLSD投与実験、錯覚心理学やニューエイジの生命論のようなものまで詳細に思索されていて、同じように資本主義の商品すべてを扱ったハイイメージ論を思わせるものがあります。
 ハイイメージ論は共同幻想論の現代版として、現在に共同性の倫理が不在であることを結語としています。現在はある意味で共同性としては“終わっている”…という認識。しかし固有時をかかえた人間は過剰ななかを生きている…。そこで心的現象論本論はあらゆる症例を、あるいはすべてを症例と捉え、人間の可能性を探究しつつ展開されていきます。最期には心的現象のもっとも共同性をまとったものとして言葉の可能性が示され、日本語の自由な造語の可能性に期待を寄せているという印象のラストになります。

           
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著:吉本 隆明
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価格:¥300
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 国家や社会という大きな共同性の倫理の不在を結論として示した『ハイイメージ論Ⅲ』。
 そういった情況のなかで、大きな共同性への最期の論考でもある『第二の敗戦期 これからの日本をどうよむか』では、「そういうことでしか可能性はない」という強力なプッシュで「三人ぐらいでつくる集団」に期待すると宣言されています。吉本さんの若い世代へ向けた言葉が印象的です。シェアハウスという言葉は出てきませんが、ネットや小さな共同性への期待は<大衆の原像>とオーバーラップさせることも出来るものではないでしょうか。まったく新しい世代に読まれているのも、吉本隆明の思想らしく、その可能性への探究もまだまだこれからだと思われます。そのスタートにもゴールにもあるのが2つの心的現象論ではないでしょうか。そこには、固有時をめぐる無限の思索がありそうです。

           
第二の敗戦期: これからの日本をどうよむか

著:吉本 隆明
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2014年9月 5日 (金)

フーコーと吉本が補完し合った思想のパフォーマンス…『世界認識の方法』

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

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抽象と具体として補完し合う二人の思想巨人?吉本隆明の著作への理解度が評価を分ける対談。

2014/9/5       
       

        レビュー対象商品: 世界認識の方法 (中公文庫) (文庫)       

この本の冒頭50ページのミッシェル・フーコーと吉本隆明の対談「世界認識の方法」は、スレ違っている とか噛み合っていないという評価が多いものです。しかし、フーコーの以下の言葉ひとつでも、対談の内容は把握できるのではないでしょうか? 互いに相手に 可能性を見出そうとするスタンスと、それとともに自らの立ち位置も振り返ってみるという思索の醍醐味にもあふれた対談だともいえそうです。

   基本的な点で、
   私は吉本さんのお考えに賛成です。
   お考えに賛成というより、
   とりわけてその留保の部分に賛成したいと思います。
(P36)
   (注:「留保」の部分というのは吉本隆明がフーコーに同意できないと伝えた部分のこと)

対談の基本的な構図は、たとえば共産党をめぐる評価に端的に現れています。
“ヨー ロッパでキリスト教会以来の特別な存在である共産党”というフーコーの指摘と論考は鋭く、個人の意志が党の意志に収斂あるいは拘束されていく過程が、フー コーならではの手つきと認識で把握されていきます。そこでフーコーはマルクスやマルクス主義を否定しているのではなく、党や官僚という権力機構との結びつ きを問題にします。そして“マルクスの言葉と結びついた権力の発現形態をシステマティックに検討する必要がある…”というのが吉本の問いに対するフーコー の解答であり主張になっています。しかし考えてみれば、この権力の発現形態への分析こそ吉本における共同幻想論であり、その全体を貫く思想であることは吉 本の読者なら知るところでしょう。吉本がマルクスとマルクス主義を峻別したように、フーコーはマルクスとその政治的権力との結合を分けています。吉本は理 念において、フーコーは現実においてという相異はありますが、両者ともマルクスそのものを否定しているのではなく、むしろ逆に何らかの可能性を見出そうと してることが確認できます。

           
世界認識の方法 (中公文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥823
価格:¥823

   
対談中フーコーは自らの代表作である『言葉と物』への吉本による読解の深さに感謝すると同時に、吉本の指摘に 応じてこの著書への「ある種の後悔」を表明し、いまは「具体的な問題から出発」し「新たなる政治的イマジネーションを生じさせる」ことを目指したいと語っ ています。これはそのまま吉本の仕事(思索と著作)が目指しているものそのものと同じでもあるでしょう。

フーコーは吉本にとってのエグザンプルを語っており、吉本はフーコーの問題意識そのものを思索した…ともいえるスリリングが関係が対談に結実しているという見方さえできます。

フー コーのパラグラフでは確かに読みにくいおもむきがありますが、これは編集に負うところが多いものでは?とも思われます。対談の流れに実直であることは必要 かもしれませんが、読者の理解を得るための工夫はもっとできたのではないでしょうか。いずれにせよ、吉本への理解度が、この対談そのものへの理解に比例す るのは間違いなさそうで、そういった意味では読者そのものが試される本であり対談であるのかもしれません。そしてまた、この対談で提出された問題は、いま も糸口すら見つかっていないようなものである気がします。

吉本が共同幻想についての最後の思索をした、『ハイイメージ論Ⅲ』資本論を援用した 消費論では、現代社会の不安について「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」ことが根源にあるとしています。これはフーコーが 欧州では教会以来の特別な存在である共産党が問われていない…と指摘したこととパラレルな面がありそうです。

フーコーのスタンスをニー チェ風にいうと…神は死んだが、新しい言葉がない…というのがニーチェから授かりさらに思索したフーコーの認識ではないでしょうか。ディスクールの死、新 しいイマジネーションの貧困…フーコーは根源的な問題を吉本と共有できているという確信のもとに対談に臨んでいるように思えます。

異なる のは理念的か現実的か、日本か欧州か…という問題であり、そこには方法の問題がクローズアップされている…ということではないでしょうか? いずれにせよ 世界認識という俯瞰からしか理解できない問題であるとしても、それこそ2名の思想の巨人の対談として、もっともマッチしたパフォーマンスだったと思いまし た。


はじめに書きましたが、この対談を「スレ違い、成り立っていない」という指摘があり、なかには「吉本隆明はフーコーに相手にされていない」というものもあ ります。これらの指摘が何かの参考になるとすれば、そういう指摘をする人自身が実は本書を読んでいなかったり、単に理解力・認識力が無い場合が少なくな い…ということのようです。学問や思想の世界では、いまだに西欧コンプレックスがあるのかもしれませんが、本書を否定するようなタイプの人の言説では参考 になるものもなく、単語の逐次変換と文法だけで文意が解ると考えているような人ばかりなので、そういった人を振り分けるリトマス試験紙として本書を巡る評価を観察するのも面白いかもしれません。

対談での通訳(蓮實重彦)による幻想の間違った翻訳(幻想をfantasmeと誤訳。文脈からillusionが適正)を批判した中田平氏は、その後共同幻想論を仏語に訳しパリまで届けました。また竹田青嗣氏のように、この対談の他フランス現代思想を代表するガタリやリオタール、ボードリヤールらとの討論などをみても、現代思想をはるかに凌駕する吉本隆明の可能性を指摘した人もいます。何よりもフーコー自身が吉本の指摘をすべて受け入れており、「言葉と物」のラジカルな再考を表明していて、フーコー研究の最大のポイントとなる対談でもあるハズです。

*吉本の共同幻想はマルクスの公的幻想(上部構造の別称)に由来することを勁草書房の吉本隆明全集での吉本自身の説明からいちばんはじめにネットに紹介したのは羊通信の2003/5/15版です。

     ↓

「K,Marxの「public-illusion」つータームが共同幻想と意訳されたらとたんに混乱してるワケ?」

(2014/9/5,2015/8/6,2016/2/23)

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フーコー・コレクション〈3〉言説・表象 (ちくま学芸文庫)

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追悼吉本隆明 ミシェル・フーコーと『共同幻想論』

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2014年1月18日 (土)

ご近所から社会や国家、宗教まで シームレスに読める…『共同幻想論』

吉本隆明関連でいちばん有名なコトバだと思われるのが<共同幻想>で、いちばん有名な著作といえば『共同幻想論』でしょう。個人的には距離をおいて読んできたもので、通読も3回ほどです。<共同幻想>の生成する機序は『心的現象論序説』にたった一箇所記述されているだけですが、この共同幻想とは無関係には存立しえないのが吉本さんのあらゆる主張だったと思われます。別のいい方をすれば、あらゆる言辞から共同幻想を明かそうとしてきたのがその思想や思索のすべてだったのかとも思われます。原点であり目的でもあったと思われる<関係の思想>がそこにあるのではないでしょうか。

<精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。(『心的現象論序説』「Ⅰ.心的世界の叙述」P45)

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共同幻想とは<関係>である…物語から神話、国家の解明まで。今読むと面白い一冊。

有名な<共同幻想>はマルクスの<上部構造>のこと。それを特に観念上の問題だけを抽出して<共同幻想>としています。観念上の問題に限定したのは、<関係>というものが観念上のものだから。人間の一対一の関係は性をはじめとして身体的関係でもあるけれど複数者の関係、公的な関係は観念上のもの。もちろん <関係>を構成したり保障するものは法律的なものや交通的なものなどさまざまなものがありますが、それらを認識しているのはほかならない人間の観念。<関係>というのもは観念上でしか成立しない。観念から生成し、観念によって形成され、観念によって認識されるのが<関係>の本質だ…。丸山真男が指摘し、宮台真司が問題視する<作為の契機の不在>とは、この関係を意識することそのものの不可能を示しています。より正確には“関係の主体を意識することそのものの不可能性”でしょうか…。

なおマルクスは<関係>の基盤を物質的な連関構造(下部構造)に見出しましたが、吉本は<関係>の基礎を<関係>そのものの中に見出したといえます。その始源としての母子関係、胎児・幼児の自他不可分な認識から次第に観念が分化して他者や社会を認識をするまでを考察しているのが、本書とともに原理論を構成する「心的現象論」系の論考で、認識・観念の展開の過程を観念の弁証法とし、人間の成長の自然過程として探究されています。そのために心的現象(個人の心理)がベースなのですが、それを規定(抑圧)する共同幻想との関連で全体像が把握されていきます。並行して、 ダイレクトに個人の心的現象と共同幻想を媒介(規定)するものとして機能する言語も分析され、こちらは「言語美」系の言語論として展開されていきます…。

関係そのものである「共同幻想」はアプローチする位相によって呼称も変わります。(共同幻想はクールに言い換えれば公的関係公的オーダー)ともいえるものですが)。共同幻想は『心的現象論序説』では「幻想的共同性」とされ、『言語にとって美とはなにか』では「社会的幻想」とされています。

壮大ながら真にシステマティックに構築されている吉本隆明氏の代表作として、今読み直すことは、時代に対する新たな解答を見つけるにも等しいことではないで しょうか。かつてのように国家論として読まれるのではなく、今こそ本来の読み方…あらゆる関係の解としての、人間関係やご近所から社会や国家、宗教までを シームレスに読ませてくれる稀有な著作だと思います。

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日本という複雑な幻想を解き明かした物語論…『共同幻想論』



共同幻想論 (角川文庫ソフィア)

著:吉本 隆明
参考価格:¥620
価格:¥620

   

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